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「ん…」
ざらざらとした感触のものが頬に触れている。それは異様に生温かくねっとりしていて、そのくせ、ひどく器用に俺の頬の表面を滑っている。ぼんやり目を開けると、突然、視界にくわっと開いた、世にも恐ろしげな真っ赤な口が広がった。
「どわっ!! つっ!」
思わず喚いて跳ね起きた俺は、頭の中を駆け抜けた痛みに眉をしかめた。そろそろと右手を挙げ、こめかみ近くの側頭部に触れてみると、ざりっとした感触があった。どうやら殴られたところから、ちょっと出血したらしい。
「ここは…」
「にゃん」
「え?」
のろのろ辺りを見回しかけた俺は、猫の声にぎょっとして視線を向けた。
「ルト…か?」
「にゃあん」
どこかの建物の一室らしい殺風景なコンクリートの床に、ちょこんと座っていた青灰色の猫は、少し口を開けて鳴いて見せた。
「お前、どっから…」
「にゃ…」
こっちだよ、と言いたげに腰を上げ、主人を思わせる優美な動作でゆっくりと壁の近くに歩み寄る。部屋を照らしているぼんやりとした裸電球の光の下で、その場所に太い鉄格子の嵌まった小窓があり、ルトにとっては御誂え向きに、何かの荷物らしい木箱が何個か積み上げてあるのがわかった。ルトは、ひょい、ひょい、と箱を伝って窓へとたどり着き、思案するように鉄格子の間から外を見ていたが、不意にするりと外へ抜け出していった。
「なるほどな、猫はいいよな」
ぼやきかけた俺は、次の瞬間ぎょっとした。出ていったはずのルトが、再びぬっと顔を突き出したのだ。そればかりか、ピンと立てた耳の後ろで、上品にくねらせている尻尾まで見える。
「おい…お前、『空飛ぶ猫』(フライング・キャット)だったのか?」
「にゃあ!」
馬鹿なことを言ってるな!
そんな感じでルトは鋭い鳴き声を上げた。金目でじろりと俺を見据える。ぞくりとして、不承不承頷いた。
「わかったよ、そこへ行けってんだろ?」
「にゃん」
わかってりゃいいのさ、と言いたげに、ルトは耳を倒して『人撫で声』(と、猫の方から言うのかは知らないが)で鳴いた。
「言っとくが、俺は正直言って…」
木箱に足をかけ、バランスを取って立ち上がりながら、言いかけたことばを飲み込んだ。この上、ドジの照明を『実地』でやって見せる訳にはいかない。足の下で木箱が軋み音を立て、妙な反響音となって部屋の隅に澱んだ。よし、うまく行ったぞ。次の木箱だ。こっちへ乗ると……。
「わっ…わっ……わっ……」
ぐらあっと木箱が揺れ、俺は慌てて手近の別の木箱に手を伸ばして体を支えた。落ちかける木箱を、必死に残った左足で押し込む。どうやら中身のないものがあるらしい。
「この……厄介…だな…」
「にゃっ」
早くしろよ。
ルトが切羽詰まった声で促す。
「そう、急かすなよ…」
他人が見れば、確実に目を覆いたくなるだろう、実に危ういバランスで、俺はなんとか一番上の木箱まで這い上がった。そこに乗ると、天井まではほんの少し、体を二つ折りにして、かろうじて頭を打たなくて済む、と言う状態になる。
「あ…そうか…」
ルトの方を見やって、俺はようやく納得した。
この部屋は、どうやら地下の倉庫として使われていたらしい。ちょうど窓の下辺にあたるところが地面の高さで、ルトはそこに4本の足を開いて立っている。鉄格子越しに覗くと、外はどこかの埠頭らしい風景が広がっていた。気づいてみると、微かに鉄錆の匂いに混じった潮の香りもする。
「港…か」
呟いてはっとした。万里子はどうした? あれからどうなったんだ?




