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「と言うわけだ」
コーヒーカップを持ち上げ、中身をゆっくり飲み干す。じーんと胃の腑があったまってきて、妙に幸せな気持ちになる。それが幾分かは万里子の、おそらく最高の褒めことばのせいでもあるのは確かだった。
部屋の中には午後の日差しがやや物憂く差し込んでいる。空は拭い去ったような秋晴れで、そのせいか妙に冷え冷えとした日だった。
「それで感想は?」
俺の前に座っているのは例によってお由宇で、セミロングの髪を揺らせてコーヒーカップを傾けながら話を聞いた後の第一声だった。
「え?」
「好きだって告白されたんでしょ?」
「ま…そりゃ……男としては……非常に嬉しい…」
口ごもりながらカップの中をスプーンで掻き回す。くすっと笑ったお由宇は、モスグリーンのツーピースのスカート襞を直しながら、
「そんな所に椎我が現れているとは思わなかったわ。きっと鴨田の方も仮支店ぐらいのつもりで、連絡用においてたんでしょうけど」
「これで、春日井と鴨田の繋がりははっきりしたわけだな」
「そうもいかないわ。決定的な証拠がないもの」
「この間の無人車の方は?」
「改造した自動車修理工場までは突き止めたんだけど、そこからが動けないのよ。どうやら偽名を使っての依頼だったみたいだし、依頼を受けた男は、昨日から姿を消してるし……早急に手が打たれたみたいね」
お由宇はさらりと修理工の運命を口にした。
「家族から捜索願は出ているけど、無理でしょうね、まず」
「じゃ、手がかりなし、ってことか…」
考え込む。
「そうね……後は、例のマイクロフィルムを捜し出すか、ゼコムの方から取引現場を押さえるかぐらいしか手はないわね」
「そうか……あ、俺と万里子が証言するってのは?」
「素直に受け取ってもらえるかしらね。それに、あなたは今行方不明、死んでるのよ? 死人が証言するわけ?」
「あ…そうか」
基本的なところを忘れていたのが恥ずかしくなって、照れ隠しにコーヒーを飲もうとし、空になっているのに気づいて机に置いた。さりげなく立ち上がったお由宇がカップを持ち去り、しばらくして戻ってきた時には淹れ直したコーヒーと昼飯用に焼いていた食パンを一緒に持って戻ってきた。
「はい」
「お、サンキュー」
パンに親の仇とばかりに齧り付き(もっとも、俺の場合には育ての親と言うことになるんだろうが)口をもごもごさせながら、会話の続きを始める。
「でも、実際に俺、何もあつしから受け取ってないぜ、誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも、ついでにお年玉も」
「そこなのよね。たぶん、あつしはあなたに渡しているはずなのよ」
お由宇は俺に目を据えた。
「でなくちゃ、春日井製薬があれほどうろたえて、あなたの行方を捜したりしないでしょうし、木田史郎にも目をつけることはないでしょうしね」
「あつしが身に着けていた、と言うことは?」
「あなたはここに籠っていたから知らなかったでしょうけど、現場検証の時は凄かったのよ。あつしの父親、つまり春日井忠義がね、肉親より先に他人が息子をいじくり回すのが耐えられないと言ってね。結局、忠義が確認した後からの検証では何も出てこなかったの」
「何となく、分かるよーな気がする…」
新聞の、父親がインタビューに応えて奮った熱血大論調を思い出した。あの父親は、意外に映画解説者とかに向いているかも知れない。
「でも、俺はマジで受け取ってないぞ。あつしが受け取ってくれって言うのを、いいよってことばで受けただけだし、あの日は受け取りに行こうとして行けなかったんだからな」
「…残る可能性は1つ」
「え?」
「万里子、よ」
俺は頭の中で、万里子の茶目っ気のある笑顔と、あつしの悟りきったようなアルカイック・スマイルを並べて見た。
確かに考えられないことじゃない。あつしがそれほど妹と仲が良かったとすれば、あり得ることだろう。
だが、またもや、あつしの虚ろな優しい笑みに引っかかる。
あり得ないことじゃない、けれども、あつしがそうするだろうか。あの、温和を通り越した優しさ全てが万里子に向けられていたとすれば、マイクロフィルムを渡すことは万里子を苦しめこそすれ、彼女に何の役にも立たないとわかっていただろうし、それをわかった上で、なお万里子にそれを託すようには思えない。
お由宇に伝えると、考え深そうに頷いたが、もう1つの可能性を指摘した。
「それだと知らせずに、万里子に託していたとしたら? プレゼントは度々だったみたいだし、特に万里子を不思議がらせることはなかったはずよ。それを捜し出すのは、別の人間にキーワードか何かを教えておけばいいわけだし」
「それじゃ、あの日、あつしが俺に受け取ってくれと言ったのは…」
「マイクロフィルムか、あるいはそれを隠したものを探す手掛かり」
なるほどな。
そして、俺がマイクロフィルムを受け取っていない以上、俺達に残されているのは、地図のない宝探しか、それを付け狙う海賊達の争いに巻き込まれるかしかないと言うわけだ。
「とにかく、そっちの方は任せるわ。私が動くと、周一郎が本格的に乗り出してくるでしょうしね、因縁試合の決着をつけに」
「?」
「以前ちょっとね、マイクロフィルムの争奪戦をやらかしたことがあるのよ」
お由宇は少々悪戯っぽく微笑んだ。
「その時は引き分け(ドロー)、マイクロフィルムはどちらの手にも入らなかったけれど」
「へえ…」
そんなことがあったのか、それでお由宇は周一郎をよく知っていたんだな、と感心していた俺は我に返った。
「その周一郎だ、どうしてた?」
「そのことだけど、あなた、見舞いに行ったのよね?」
「ああ」
少し顔が熱くなる。ゴキブリキャッチホイは朝倉家でも使っていただろうか。
「一体、どんな魔法を使ったの?」
「魔法?」
「まだベッドからは離れられないみたいだったけど、半身起して応対したし、なんだかすっきりした顔だったわ。『いつまでもこんなことじゃ、滝さんが心配するでしょう?』って笑って、『これからは手加減しませんよ』なんて宣戦布告されてきたところよ」
珍しいお由宇の呆れ声が、その時の周一郎を彷彿とさせた。見舞った時に、最後に少し頭を叩いた後の、ほっとしたように眉を緩め、緊張を解いた周一郎。たぶん、手紙ももう着いている頃だろう。
俺の『死』に関して罪悪感を背負い続けることがなければ、周一郎はこの上もない切れ者で、お由宇と十分に張り合えるライバルだ。
(そうか、元気になったか)
溜息をつく。これで安心して『職務』に就ける。
「ほっとした?」
「うん」
お由宇は優しい微笑を浮かべて、唐突にぽつりと呟いた。
「そういうところって好きよ」
ズドン!
ソファから滑り落ちたのは、もちろん俺だ。
「急に過激なことを言うな! 過激なことを!」
服にコーヒーをぶちまけたまま、俺は喚いた