まおうさま、目がはぁとでございます
まおうさまは今日も今日とてお城の玉座で足をブラブラさせています。でも、最近のまおうさまは以前と違って、あまりたいくつそうではありません。じつはまおうさまは今、恋をしているのです。それも、まだ会ったこともない、ゆうしゃに。
「のう、だいまどうよ」
「なんでございましょう、まおうさま」
まおうさまは玉座の隣に座布団を敷いて正座しているだいまどうに声を掛けます。だいまどうはもうずいぶんとおじいさんなので、神経もそれなりに図太いのです。
「ゆうしゃは、まだ来ぬのか」
「まだ来ませぬな」
だいまどうはそっけなくそういうと、ずずっと音を立てて煎茶をすすりました。今日のおやつはようかんです。ようかんには少し渋みを強く出した煎茶がよく似合います。
「いつ、来るのかな?」
「当分先でございましょうな」
だいまどうのつれない返事にも、まおうさまはしょげることなくソワソワしています。だいまどうはつまようじでようかんを刺すと、ひょいと一切れ口に放り込みました。
「今、どの辺りかな?」
居場所さえ分かれば自分から迎えに行く勢いで、まおうさまは玉座から身を乗り出します。だいまどうはようかんを飲み込み、煎茶をすすってはふぅと幸せのため息を吐くと、少しあきれ気味に言いました。
「急いても仕方ありますまい。もっと魔王らしく、どっしりとお構えなされ」
「そ、そうだな。そうだな。余は魔王だものな」
まおうさまは玉座に深く座りなおすと、威厳を示すようにいかめしい顔を作りました。しかしその表情は徐々にゆるみ、やがてぽあんと夢見心地にほおを染め、幸せそうに遠くを見つめました。そして時折、急に照れ始めてもじもじと身体をくねらせています。傍から見ていてかなり、
きもちわる……
おかわいらし……
……
名状しがたい雰囲気を周囲に放っています。だいまどうはようかんを一本食べつくし、煎茶を飲み干すと、半眼でまおうさまを見つめました。
「目がはぁとでございますぞ」
「そ、そんなわけがあるかっ! 余は魔王であるぞ! 断じて目がはぁとになどならぬ!」
顔を真っ赤にして、まおうさまはことさらに大きな声を上げました。だいまどうは冷めた様子で「さようですか」と答えると、急須からほうじ茶を湯飲みに注ぎます。煎茶はおいしいのですが少し強いので、気軽に飲むにはほうじ茶のほうが良いのです。
「まったく、おかしなことを言うでないわ。あり得ぬぞ、まったく」
むふーと鼻息荒く腕を組んで、まおうさまは勢いよく玉座の背もたれに身体を預けました。玉座が迷惑そうにギシッと音を立てます。
「ところで」
湯飲みのお茶にふぅっと息を吹きかけながら、だいまどうは事も無げに言いました。
「宿題はもう終わられましたかな」
まおうさまはふぃっとだいまどうのいる側の反対の方に顔を背けました。どうやら聞こえなかった振りをするようです。だいまどうは少し声を大きくして言いました。
「終わられましたかな?」
「……まだじゃ」
まおうさまは顔を背けたまま、小さな声で答えます。だいまどうはひと口お茶をすすると、妙に芝居がかった声で言いました。
「ほう。それでは、ワシの思い違いでしたかな。まおうさまは以前、『ゆうしゃにふさわしいカッコいい男になる』と宣言なされたと記憶しておりましたが」
ワシも年ですなぁ、だいまどうはそう言ってホッホっと笑いました。ばつの悪そうにまおうさまはだいまどうに顔を向けました。
「……思い違いではない」
「これは異なことを。宿題も片づけられぬ体たらくで、カッコいい男になどなれる道理もありますまい」
だいまどうの皮肉に、まおうさまはぐぬぬと奥歯を噛み締めます。しかしすぐにキッとだいまどうをにらむと、日ごろから感じていた不満をぶつけました。
「あんなものを覚えていったい何の役に立つのだ! りんご一個とみかん一個が同じ一個だなどと意味が分からぬ! りんごを割ったら二つになるのではないのか? 〇.五個とはそもそもどういう存在なのだ!」
まおうさまの怒りを平然と受け流し、だいまどうはほうじ茶を飲み干しました。そして静かにまおうさまに問いかけます。
「まおうさまは、ゆうしゃと結婚したいのでございましょう?」
「えっ?」
予想していなかった問いかけに、まおうさまはぽかんと口を開きました。そしてぽっと顔を赤くすると、もじもじとうつむいて無意味に身体を揺らします。
「け、けっこんとか、そういうのはまだはやいっていうか、ゆっくり時間をかけてお互いを知りながら、こう、大切なのはお互いの気持ちっていうか、できればご両親とも仲良く」
「ならば、ゆうしゃの立場でお考えいただきたい」
もごもごとしゃべるまおうさまの言葉をだいまどうがピシャリとさえぎりました。まおうさまは顔を上げて不思議そうな顔をしています。
「ゆうしゃの立場?」
「そう。ご自身をゆうしゃだと思ってお考えくだされ。今、ゆうしゃの前に二人の男がおるといたしましょう。一人はいつも言い訳ばかりして自らの責務を果たさず、プラプラと遊びほうけている者。もう一人は不平不満を言うことなく己の責務を果たし続ける者。もし二人の内のどちらかと結婚するとしたら、ゆうしゃはどちらを選びますかな?」
質問の意図を計りかね、まおうさまは軽く眉根を寄せました。質問を要約すると、己の責務に誠実な者と不誠実な者、どちらがゆうしゃにふさわしいか、ということでしょう。答えるのもバカバカしいほど正解は明らかです。不誠実な者がゆうしゃにふさわしいはずがありません。
「そんなもの、決まっておろう。不満を言わず責務を果たす男じゃ」
「はい残念! まおうさまは今、ゆうしゃに振られてしまわれましたな」
「な、なにぃ!? バカな! どういうことじゃ!」
びっくりと大きく目を見開いて、まおうさまはずりおちそうなほど玉座から身を乗り出しました。だいまどうは必然だとばかりにすました顔をしています。
「今のまおうさまは、自らの責務を果たしておられますかな?」
「そ、それは……」
宿題ごときを責務といういかめしい言葉で表現されることに若干の違和感を覚えつつ、まおうさまは反論の言葉を搾りだすことができずに目を伏せました。だいまどうは淡々と言葉を続けます。
「もし今、ゆうしゃが目の前に現れても、まおうさまを好きになってくれる確率はゼロでございますな。己の責務も果たせぬ者など、ゆうしゃは歯牙にもかけますまい。きっとゆうしゃはこう言うでしょう。『宿題を全部片づけられたら、その時にまた会いましょう。さようなら、ぼうや』と」
「ま、待ってくれ! これは何かの間違いなのだ!」
まおうさまは泣きそうな顔で虚空に手を伸ばします。どうやら妄想の中のゆうしゃは、待ってはくれなかったようです。まおうさまは肩を落としてがっくりとうなだれました。
「……する」
しばしの沈黙の後、まおうさまは聞こえるか聞こえないかという小さな声で言いました。
「……宿題、する」
「それはよいお心掛けですな」
だいまどうは満足そうにうなずくと、パチンと指を鳴らしました。横に置かれていたやかんの水が一瞬にして沸騰し、やかんの口から湯気が吹き出します。
「……明日から」
「今日から、お願いいたしますぞ」
次はどのお茶にしようか、茶筒を指さしながらだいまどうが冷酷な一言をまおうさまに告げました。まおうさまは深く長いため息を吐きました。
「ところで」
次の狙いを玉露に定め、茶葉を急須に入れながらだいまどうが声を上げました。まおうさまは嫌そうに顔を上げます。
「まだ何かあるのか?」
「昨日の夕食、またピーマンを残したそうですな。シェフが嘆いておりましたぞ」
まおうさまは苦虫を噛み潰したような顔でだいまどうに顔を向けます。
「……あのようなもの、食べずとも死なぬ」
「なんと薄情なお言葉。農家の皆さんが精魂込めて育てたものを、シェフが工夫を凝らして作り上げた料理ですぞ」
痛いところを突かれたと、まおうさまはだいまどうから顔をそらし、言い訳のように叫びました。
「それはすまぬと思うておる! じゃがあの臭いが苦手なのだ! 味も苦くて嫌いじゃが、あの臭いが耐えられぬ!」
だいまどうは表情を変えずにじっとやかんを見つめています。玉露を淹れるのに最適なお湯の温度は六〇度。沸かしたお湯が適温になるまで待っているのです。自らの叫びに共感を得られなかったことを察して、まおうさまは鼻にシワを寄せてだいまどうをにらみつけました。
「余は魔王ぞ! 食べたいものを食べ、食べたくないものを食べぬと言って何が悪い!」
未熟者の浅はかさを笑うように鼻を鳴らし、だいまどうは言いました。
「ゆうしゃの立場でお考えください」
「またか!」
うんざりした顔でまおうさまが叫びます。しかしだいまどうはまおうさまのいらだちを意に介さずに問いを突き付けました。
「あれこれ好き嫌いを言って食べ物を残す者と、なんでも美味しそうに残さず食べる者、ゆうしゃの好みはどちらでございましょうな?」
「ゆうしゃはその程度で誰かを嫌ったりはせぬ!」
まおうさまの声にはある種の確信がこもっています。勇者とは、強大な力を持ちながら決しておごらず、財も名誉も権力も求めず、弱きに寄り添い、強きにおもねず、理不尽を許さず、他人も自分も犠牲にせず、遍く世界の幸福を喜ぶ者。ピーマンが好きとか嫌いとか、そんなささいなことに目くじらを立てるような人間ではないのです。きっとそうです。
だいまどうはふむ、と腕組んで、一理あるというようにうなずきました。
「確かに、ピーマンが嫌いだからという理由で、ゆうしゃがまおうさまを嫌うことはありますまい。ゆうしゃはそのように狭量ではありませぬ」
「であろう!」
ここぞとばかりに勢い込んでまおうさまは身を乗り出します。しかしだいまどうは泰然として言いました。
「しかし、好きになってくれるかどうかは、別でございますぞ?」
「な、なに!? どういうことじゃ!」
まおうさまの目が戸惑い、揺らぎました。だいまどうはやれやれと首を振ります。
「ゆうしゃにとってピーマン嫌いは、嫌う理由にはなりませぬが、好きになる理由にもなりませぬ。つまり、ふつう。まおうさまがピーマンを食べられぬ限り、ゆうしゃにとってまおうさまはふつうに過ぎぬ相手なのです。その辺のスライムと同列、十把一絡げ、にぎやかし要員と同義なのです!」
だいまどうはずびしっとまおうさまを指さしました。まおうさまの顔からスッと血の気が引いていきます。
「ふ、ふつう……嫌いよりも望みが無さそうな気がする……」
脱力したまおうさまはぽふっと背もたれにもたれかかりました。だいまどうはやかんに手を触れ、温度が適温になったことを確認して、ゆっくりと急須にお湯を注ぎました。
「そのような関係がお望みなら、お好きになさいませ。きっとそのうち招待状が届きますぞ。ゆうしゃから、結婚式の」
「い、いやじゃ! 招待状が来るまで結婚を考えるような相手がいることも知らないなんて、そんな関係になりとうない!」
悪夢を振り払うように首をぶんぶんと横に振り、まおうさまが絶叫します。蒸らし時間を慎重に数えながら、だいまどうは冷徹な声音で言いました。
「ならば、どうすべきか。もうお分かりですな?」
まおうさまはだいまどうをすがるような瞳で見つめました。しかしだいまどうはまおうさまを見てもくれません。まおうさまはがっくりとうなだれると、消え入りそうな声で言いました。
「……食べる。ピーマン、食べる」
「それはよいお心掛けでございますな」
だいまどうはそっけなくそう言うと、玉露を湯飲みに注ぎました。計り知れないダメージを心に受けて、まおうさまはちょっぴり泣きそうです。だいまどうは湯飲みを手に取り、まずはその香りを楽しみました。
「ところで」
「今日はもうよいではないか! 余の心が折れてしまうぞ!」
だいまどうの三度の声を、まおうさまは悲鳴に近い声でさえぎりました。しかし今日のだいまどうは容赦がありません。
「寝る前の歯磨きを、最近していないそうですな」
「それは、ちょっと、忘れて……」
もはや反論を考える気力も無いのか、まおうさまはうつむいてもごもごと言い訳をしました。だいまどうは玉露をひと口、しっかりと味わうと、ふぅっと息を吐いて言いました。
「ゆうしゃの立場で」
「言われずとも分かっておる! きちんと歯を磨くほうがゆうしゃにはふさわしい!」
まおうさまはもはやなげやりです。しかしだいまどうはまおうさまに顔を向けると、予想外なほどに厳しい視線を投げかけました。
「そのような悠長な話ではありませぬぞ」
「な、なに? どういう、ことだ」
だいまどうの雰囲気に気圧され、まおうさまは戸惑いの視線を返します。だいまどうは恐ろしいほど真剣な瞳でまおうさまを見据えました。
「まおうさまは、ゆうしゃと結婚したいのでございましょう?」
「そ、それは、だから、お互いの気持ちが」
まおうさまがまた顔を赤くしてもじもじし始めます。しかしだいまどうは構っておれぬとばかりにズバッと叫びました。
「ならば! 必然的にいつかそのときを迎えますな!」
「そ、そのとき、とは……?」
だいまどうの意味深な物言いに、まおうさまは食い入るような視線を向けています。だいまどうは少しもったいぶって間を空けると、まおうさまにぐっと顔を近づけて言いました。
「くちづけを交わすときでございますよ」
「なっ!?」
まおうさまの顔がますます赤く、まるで完熟トマトのようになりました。その手は意味も無く虚空をさまよい、目は瞬きも忘れてまんまるに見開かれています。
「もしそのとき、まおうさまが歯磨きを忘れていたら、どうなるとお思いですかな?」
「……ど、どうなるのだ?」
鬼気迫るだいまどうの顔に、まおうさまはごくりとつばを飲み込みます。だいまどうは声のトーンを変え、催眠術師のように穏やかに語ります。
「想像してくださいませ。まおうさまの目の前にゆうしゃが立っております」
「う、うん」
まおうさまはなんとなく目をつむりました。まぶたの裏に、まだ見ぬゆうしゃの姿がぼんやりと浮かび上がります。
「ゆうしゃはほおを染め、そっと目を閉じるのです」
「う、うん!」
まおうさまの心臓が、周囲に聞こえるほどに激しく鼓動を刻みます。その顔はゆであがったように真っ赤です。
「まおうさまはゆっくりと顔を近づけ、さあ、もうすぐ、くちびるが触れ――」
「きゃー!」
緊張が最高潮に達し、まおうさまは思わず悲鳴を上げて両手で顔を覆いました。しかし次の瞬間、だいまどうが発した言葉は、信じられないほどに冷酷で残酷でした。
「くさい! 最低! さよなら! で、お終いですな」
「な、なんと!?」
甘い幻想を砕く痛恨の一撃。その顔からは一気に血の気が引き、息をするのも忘れてまおうさまは口をパクパクと動かしました。顔に当てていた手はゆっくりと下がり、何かを支えるように心臓の場所に当てられました。あえぐように大きく深呼吸をして、まおうさまは我を取り戻すと、信じられない運命に抗議するように叫びました。
「く、くちづけを交わす寸前まで到達するような親しい間柄になっても、そんな、あっという間にさよならなのか!?」
だいまどうはこの世の摂理を語るように訳知り顔で深く頷きます。
「恋の下り坂は急勾配でございますよ。垂直落下といっても過言ではありませぬ」
「そ、そうなのか……」
まおうさまはもはやグロッキー状態で、玉座のひじ掛けに生乾きのタオルよろしく身体を預けました。まさか歯磨きがこれほどまでに人生を左右するファクターだったなんて、ほんの一時間前には思いもしませんでした。甘く見ていたのです。まおうさまは、虫歯にさえならねばよい、程度の認識しかなかったのです。ぷしゅーと魂が抜けるような長いため息の後、まおうさまはかすれた声で言いました。
「歯磨き、する。毎日する」
「それはよいお心掛けでございますな」
だいまどうは満足そうにうなずき、湯飲みの玉露を飲み干しました。口に広がるさわやかな甘みに思わず笑みがこぼれます。まおうさまはしばらくひじ掛けの生乾きタオル状態で動けずにいましたが、やがてのそりと起き上がり、ぼぅっとした表情のまま玉座を降りました。
「歯磨きしてくる」
「いってらっしゃいませ」
やけに慇懃な態度で、だいまどうはまおうさまの背に深く頭を下げたのでした。
「なんだか、ゆうしゃをダシにしていいように操られておるような気がするのう」
シャコシャコと歯ブラシを動かしながら、まおうさまは鏡の中の自分の顔を見つめました。その顔はひどく疲れ、ぐったりとして生気がありません。まおうさまはコップに水を注ぐと、ガラガラと口をすすぎました。別に歯磨きが嫌いなわけではないのです。ただ、単純に面倒くさいだけで。
まおうさまは歯ブラシとコップを置き、手で水をすくって顔を洗いました。冷たい水の感触がぼんやりした頭のもやを晴らしていきます。柔らかいタオルで顔を拭き、まおうさまは気分を変えるようにつぶやきました。
「まあ、よいか。宿題はいつかやらねばならんし、ピーマンが食べられるようになって損もない。歯磨きの重要性もよく分かった」
結局は全部、いつか克服しなければならぬことです。ならば今、恋の成就の道行きのついでに片づけてしまえば一石二鳥というものでしょう。少し前向きな気分になり、まおうさまはタオルを首に掛けて叫びます。
「よぉし! 余は、ちょっとずつ、ゆうしゃにふさわしい男になっておるぞ! たぶん」
そして洗面所の鏡の前で、まおうさまは小さくガッツポーズを取りました。まおうさまの恋の道行きは、まだ始まったばかりです。