転生先は内乱の一歩手前!?って、俺、女帝にならなきゃだめ?
それは廣野裕樹にとって災難だった。
どこにでもいるような男子高校生の彼。
しいて言えば、少しだけ歴史科目が好きで、ちょっとだけミリオタな彼。
そして、ほんのちょっとだけ不良っぽい風貌のくせして、女装させたらとんでもなく美人になる彼。
彼はまさか、自分にそんな災いが降りかかってくるとはその直前まで考えていなかった。
「ちょっ――」
何があったのか分からなかった。
でも、人気のない学校の階段から反対向きに落下していくのは理解できていた。
夕暮れ時の高校。
部活終わりに一人で帰宅しようとしたとき。
玄関に向かうべく、階段を降りようとした彼は後ろから尋常じゃないくらいの眩しい光が差しこんでいることに気付いた。その正体を探ろうとして振り向き、階段の一番上から踏み外して、落ちた。
「はぁあ!?」
突然の出来事に、何もできない裕樹。
体を鍛えておけばよかったと後悔していた。
『おまえ、私と変わってくれまいか』
自分の筋肉のなさに後悔していたそのとき、突然その光の中から声が聞こえてきた。幻聴かと思って黙っていた裕樹。
『私と変わらぬか、と尋ねているのが聞こえぬのか』
再び問いかけたその声の正体は見えないが、声の質からすると、女性のようだった。
「誰だ、あんたは」
『私は讚良皇女だ』
裕樹の問いかけに答える声。
いくつぐらいだろうか、若いとも歳をとっているとも聞こえる声。
「讚良皇女って、誰だ?」
こんな状況になっていても、『ひめみこ』と聞けばそれが誰なのか一生懸命に考えてしまう裕樹。
『葛城皇子の第二子、遠智の第二子としてでも知らぬか』
声は裕樹の問いかけに答える。
「だれ、だ……?」
学校の階段の上から落ちているわけだから、もう衝撃が彼を襲っていてもおかしくないのに、全然痛みが襲ってこない。まるで浮遊しているような感覚だった。
葛城皇子?
遠智?
多少、歴史に自信があったが、彼女から聞く名前に一切、覚えのない裕樹はなぜか悔しかった。だから一度、彼女の世界を見てみたい、という好奇心が勝った。だからか、つい答えてしまった。
「あんたが誰か知らねえが、変われるもんなら変わってやるよ」
裕樹が答えた刹那、女の不気味な笑い声が聞こえ、裕樹の身体を光が包んだ。なんだか、暖かい。
な、んだ?
奇妙な感覚をどうすることもできない。
『私はあの男が嫌いじゃ。母親はあやつに殺された。それからあの男に勝つために今まで頑張って生きてきたが、力尽きた』
私の時代におぬしを送る。よろしく頼むぞ。
クスッと笑った女がそう言い終わった直後、光が消えた。その寸前に誰かが裕樹の両肩を前から押したような気がした。先ほどまでの浮遊感とは反対に、急速に体が落下していくように感じた。
え? 俺は助からない?
裕樹は焦ったが、落下している感覚は止まらない。
ま、いっか。俺の運命がそこまでだったのか。もしくはさっきの女の運命がそこまでだったのか。
なんだか眠くなってきたな。
おやすみ。
裕樹は目を閉じた。
「……ら様……――らら様。讚良様」
どこからか声が聞こえてきた。
そして、どこからか木のいい匂いが鼻腔をくすぐる。
裕樹はまだ閉じていたくなる目をこすりながら、手も当てずに大きくあくびをする。
「讚良様! はしたのうございます」
慌てて裕樹に近寄った女は、彼にかけてあった布を剥ぎ取った。
「さあ、朝でございますよ。今日こそ起きられますか?」
そう言いながら、女はパタパタと裕樹を起こした。
ずいぶん手荒だなぁ。
そう感じたものの、抵抗する気にならない。というか、この女がさせてくれなかった。裕樹の肩をがしりとつかみ、揺さぶるように顔を正面に持ってくる。
「仮にも讚良様は大海人様のお妃であられます。いつ、何時、誰が、どこで見ているのか分かりませんよ」
気迫が怖い女はとどまることを知らなさそうだ。
しかし、そこであることに気づく。
まず、ここがログハウスみたいに木で出来ている家であること。
そして。
「うん? 讚良様、と言ったか?」
今、自分の名前を裕樹ではなく、讚良と聞こえたような気がした。目の前の女はきょとんとした顔で何をおっしゃっておられるのですか? と逆に聞いてきた。
待て。
この女、現代の服とは全く違う服だ。洋装というわけでもない。
和装と言ってもいろいろあるが、この服は十二単よりももっと前、確か天平文化あたりに出てきそうなワンピース状の服。色も今と違う。こう、なんと言うのか、原色というのか。
裕樹自身は嫌いではないのだが、あまり現代人は好きではないんじゃ?と思ってしまった。
それに、化粧方法もなんか違う。自宅で姉や母親がしていた化粧よりもなんか、こう、厚いというか、青白いというのか、とにもかくにも現代とは全然違う。
額に花鈿がないから天平文化よりも前、か。前に資料集で見たことを頼りに時代を特定していく裕樹。
時代を遡ったのか?
次々と出てくる物証に戸惑いを隠せない裕樹だが、それ以上に重大なことに気付く。
俺、女になってる。
先ほど自分が問いかけたときの声が妙にかん高い。
それになんと言うのか、髪の毛が異様に長いような気がするのだが。
まさかと思って、心臓のあたりを触ると無いはずのものがあり、足の付け根あたりを触るとあるはずのものがない。
少し遠い目になった裕樹を見て、大丈夫ですか、讚良様? と女が尋ねてきたが、それどころではなかった彼はハイ、と少し片言になりながら答えた。
「先ほど、讚良様が質問されたことですが、讚良様で間違いありませんよ。少しお熱を出しておられたので、記憶が薄くなってしまわれたのでしょうけれど、間違いなく葛城皇子様と遠智媛様の第二子であり、大海人様のお妃様であられますよ」
どうやら裕樹は階段から落ちる直前に聞こえた女である讚良皇女という人物になったみたいだった。確かにあの女も確か葛城皇子と遠智媛の第二子って言っていたな、と思い出す。
「ん? そういえば、大海人様っておっしゃいましたよね?」
体感時間にして数十分くらい前、この女の器に入る前に聞かなかった情報に行きつく。
はい、讚良様は大海人様のお妃様ですが、と女は裕樹――讚良皇女に向かって頷く。少し小馬鹿にされているようだったが、この女がどういう立ち位置なのか分からない以上、『廣野裕樹』という人格は出せない。
だから、大人しく小馬鹿にされたのだが。
ようやく思い出した。
大海人様という人物、そして天平文化よりも前の時代、となると。
「鸕野讚良、皇女か」
小声で呟く裕樹。幸いにも目の前の女には聞こえていなかったようで、何も言われなかった。
鸕野讚良皇女。
葛城皇子――現代においては大化の改新を行った中大兄皇子か百人一首の一番目である天智天皇の方が有名か――と遠智媛との間にできた二番目の娘であり、のちの天武天皇、このときはまだ大海人皇子、のちに天武天皇とある男の妻である女性。
そして。
日本では推古天皇、皇極天皇(斉明天皇)に続いて三人目の女性天皇である、持統天皇となる女性。
って、このパターンだと俺が女性天皇になるんですか。
いや、ならなきゃいけないよね、この場合。そうしないと歴史が変わっちゃうんだから。
裕樹は現代において巷で流行っていたという異世界転生とか異世界転移という単語を聞いたことはあったが実際に本とかで読んだことはなかったから、まさか自分がこんな目に遭うとは思わなかった。
自分のおかれた環境にあやうく叫びそうになる。また、目の前の女に小馬鹿にされるところだった。
「では、朝餉を取って参りますね」
女は少し挙動不審になってる裕樹――讚良皇女に向かって一礼し、建物を出ていった。一人になった裕樹は寝っ転がってることをいいことに、頭の中だけで情報を整理しはじめる。
学校の階段から女――もとの讚良皇女は確かこう言っていたはずだ。
『私はあの男が嫌いじゃ。母親はあやつに殺された。それからあの男に勝つために今まで頑張って生きてきたが、力尽きた』
『あの男』とはいったい、誰のことだろうか。
彼女の母親はその男に殺されたというらしいが、この時代は陰謀は当たり前。あまつさえ、権力のためならば父が子を、妻が夫を、弟が兄を手にかけるということでさえあり得る時代なのだ。
あの女がいうあの男が誰のことか分からないが、母親が殺されていてもおかしくない。
それに時代を生き抜くための力が尽き果てた、と言っていた。それだけ生き抜くための技と知恵が多く必要であり、彼女はある程度はそれらを持っていたが、途中で生きるのに辛くなったのだろう。
だったら、まずは何があったのかを知らないといけないな。誰にこの時代のことを聞けば良いのだろうか。
讚良皇女の父親の葛城皇子か。
すでに彼女の夫であるの大海人皇子か。
もしくは前の彼女が信頼していた、誰か。
すでに結婚しているということみたいで、おそらくもっとも近い身内は大海人皇子だろうと踏む裕樹。多分、彼に聞けばよいのだろうが、いつ彼が訪ねてくるかわからない上、あまり下手なことを聞くわけにもいかない。いくら姪であり、のちの女帝になるからといえども、いざというときにはすり替えられる可能性もある。
「答え出ねぇや」
歴史好きとは言ってもこの時代の話は正直覚えてない裕樹。
一度本で読んだことはある程度。だから一度、このまま流れに身を任せることにしてみよう。そう判断した。
そこまで考えたとき、さっきの女が戻ってきて、裕樹に向かって遠慮がちに問いかけてきた。
「讚良様、朝餉をお持ちいたしました。食べられますか?」
そんなに鸕野讚良皇女は恐れられているのか。なぜ遠慮がちに問いかけられるのかも分からずに裕樹は答えた。
「ええ、食べるわ」
彼女の答えに驚きつつも、急に張り切り出した女。彼女は食事の載った台をこの寝台の近くに置いた。
「昨日まで全然、お食べになられなかったので、良かったです」
女はあからさまにホッとした様子だった。どうやら恐れられているから遠慮がちに声をかけられたわけではないことに裕樹自身もホッとする。
「どちらからになさいますか?」
女にどれを食べるか尋れられた裕樹は台の中を覗き込むと同時に咽せた。皿に載っている食事は色が淡白なわりに臭いがすごかったのだ。かろうじて食べられそうなものを選ぼうとしたが、現代のものとは全く違うので、選びようがない。
裕樹が迷っていると、女がどうされました?と彼の背中をさすりはじめた。
ありがたいんだけど、ちょっと一人にしておいてほしいなぁ。
いつまでたっても離れない女に嫌気がさしたが、鸕野讚良皇女がしばらくの間、なんらかの理由でここまで丁寧に接されている以上、むげにはできなかった。
「しかし、大海人様も薄情ですわねぇ」
落ち着くまで背中をさすっていた女がそうぼやいた。
うん?大海人が薄情?
この時代に限らず、明治までは一夫多妻制が主流であり、別に夫が他の女のところに通っていてもおかしくないじゃないか。
そう裕樹には思えたのだが、何か違う理由があるのだろう、と思って黙っていた。すると、女はありがたいことに喋ってくれた。
「有間皇子様がお亡くなりになられて讚良様がお体を崩されたというのに、一度たりともこちらへお越しになられておりません」
彼女の言葉にむむむ、と心の中で唸る裕樹。有間皇子の死、というのがどうやら讚良皇女の心を折った出来事なのだろう。まあ、現代であれば誰か一人でも落ち込んでいれば、駆けつけるだろう。そう言った意味で言えば、十分に薄情なのかもしれない。
『讚良様、大田皇女様のお越しでございます』
女から情報を得られたと同時に来客を告げられた。大田皇女という名前に聞き覚えがなかったが、わざわざ断るのは野暮だろう。何よりこの女の讚良に向ける視線が怖い。断りませんよね?という期待の目だ。
「どうぞ」
裕樹はとにかく誰でもいいから、もう少しこの状況の説明が欲しかったから、その大田皇女の来訪を受け入れた。
かしこまりました、と言って女は讚良皇女の髪や衣服を整え、建物の扉を開けた。
「讚良、今日は起きられたのね」
少し涼しい風とともに入って来たのは非常に柔らかそうな顔立ちの女性で、讚良が起き上がっているのをみると駆け寄ってきて、隣に座った。彼女への接し方が分からず、戸惑っていると、近くに置かれていた食事の載った台に目をつけ、あら、また食べてないのね、と困惑した顔をした。
「ねぇ、私たちはすでに大海人様の妻なのだから、有間様を忘れることは出来ないでしょうけど、生きなきゃだめよ。それにあなたがいないと私だって辛いのよ」
大田皇女は箸で皿から何か一つつまんで、讚良の口元に持っていった。差し出されたものは先ほど感じた匂いは感じられなかったものの、やはり食べる気にならなかった。
裕樹にとってみれば、有間皇子という人物が亡くなって、自分が死にたいという理由で食べないわけではなく、現代人からすれば得体のしれない何かを食べさせられるというただの生理的嫌悪なだけだが。
かたくなに食べない讚良を見てしばらくの間はじっと耐えていた大田皇女だったが、もう良いわ、今夜にでも大海人様に来てもらうしかないわね、と言って建物を出ていった。
何も彼女に言い返すことができなかった裕樹はふう、とため息をついた。
「もう少し横になってます」
大田皇女と入れ違いに入ってきた先ほどの女にそう言って、寝台に横になった。
「讚良様、さすがに噂になっておりますよ」
女はだめだとは言わなかったが、少しうんざりしたような口調でそう言った。
「どのような噂かしら?」
前の彼女の口調が分からなかったから、それっぽい口調で言ってみたが、疑われるようなことはなかった。
「讚良様が体調を崩されているのは、処刑された有間皇子様の祟りではないかと。確かに讚良様は葛城皇子様のご息女であられますし、讚良様が有間皇子様を慕われていたのは葛城皇子様もご存知でしたから、あながち間違っているとは否定できないのが実情でございますよ?」
女の話に裕樹はむせるところだった。
ツッコミどころが多いぞ。
いや、葛城皇子、天智天皇の娘というのは知っていたけど、有間皇子と讚良皇女は恋仲だったんだ。まあ、政略結婚が当たり前だから、どんなに好きであっても結ばれないことだってある。彼女もその一人だったのだろう。
そもそも男であった自分が男に恋していた、という時点でナニかの方向に進んでしまいそうになるが、今は鸕野讚良皇女である。これとそれとは別に考えなければならない。
「でも、いままで寝たきりだった私がいきなり外を出歩く、というのも考えられないわよね?」
裕樹はある程度考えたうえで尋ねると女も考え込む。
「それに先ほどみたいにいきなり誰かが来たときに起きている状態であっても寝ていなければ、それこそ不審に思われないでしょう?」
正直なところ、そこについては自分でもどうだろうとは思ったが、女の方も満更ではないようだった。
「そうですねぇ。先ほどみたいに姉皇女様がお見えになられるということもありますから、讚良様にはもう少しの間、寝ておられたほうがよろしいのかもしれませんねぇ」
女の結論は裕樹、讚良皇女に同意するものだった。
ふたたび横になって女が立ち去るまでは目を閉じ、一人になったあとに、もう一度、頭の中で整理を始めた。
うん?
さっき来たのは大田皇女。それを『姉皇女』という言い方をしたということは、あの人は自分の姉。
なんでこんな朝から姉は来れるのだろうか。
妹の自分が大海人皇子に嫁いでいるということは、すでに姉である大田皇女も結婚している可能性が高いはずだが。
そこまで考えたとき、一つ思い出した。
後年、讚良皇女の息子である草壁皇子と対立するのは確か大津皇子は姉の息子じゃなかったっけ? そして、その大津皇子の姉がいて、伊勢神宮の初代斎宮になっているはず。
ということはこの姉、大田皇女も大海人と結婚しているのか。
だからかぁ。
あんなに親しげに喋る姿って、身内でもこの時代は危険だからなぁ。同じ親から生まれた姉妹でさえ、違う人と結婚してしまえばいざというときに敵対する可能性が高いこの時代。
ビバ・陰謀、ビバ・暗殺の時代だからこそ、隙のある態度はうかつにとれない。あの姉の態度は異様なのだ。しかも、讚良皇女なしには生きていけない。そう彼女は言った。周りからするとかなり異質な姉妹に見えるだろう。
裕樹はこの先、どうすれば良いのだろうかと逡巡した。
もちろん夫である大海人皇子とはどうあがいても会わなければならないし、讚良皇女が言っていた『あの男』へ復讐もしなければならないだろう。
それに。
これは正しい日本史だ。
鸕野讃良皇女、持統天皇として生きなければならない。時代を改変することはできないし、したくない。
だったら精一杯、生きてやろうじゃないか。結末はすでに決まっているんだ。女の体で廣野裕樹が生きて何が悪いんだ。
もちろん、廣野裕樹としては讚良皇女の体なのは違和感しかないが、そのうち慣れるはずだ、多分。
裕樹はふう、と息をついた。
もし男勝りな皇女として怪しまれたら? 上等だ。売られた喧嘩は買ってやる。
じゃあ、まずは大海人皇子に会わなきゃな。明日にでもこちらから会いに行ってやろうか。
ちょっと今日はいろいろありすぎて眠ぃ。
今度こそおやすみ、だな。
今まで緊張していたのか、まだ日が高いのにもかかわらず裕樹はゆっくりと目を閉じた。
なんだか、あったけぇな。
先ほどまでとは違い、なんだか生暖かく感じた裕樹は寝返りを打つと、塊にぶつかった。
「うん?」
また女に見つかったら怒られるんだろうな、と思いながら、あくびをした彼は目を開くと信じられない光景に一気に目が覚めた。
「誰だ、あんたは」
裕樹はおもわず声を上げてしまった。
彼の隣に寝ていたのは、見知らぬ男だったのだ。裕樹に対して背を向けているから顔立ちは分からないが、かなり鍛えていることがわかる背格好だ。
「――――やっぱりか」
彼の叫び声が聞こえたのか、男はゆっくりと寝返りをうち、裕樹の方に顔を向けた。元男の裕樹でさえ、見惚れてしまうようなイケメンだ。自分がこの時代の女だったら間違いなく落ちるんじゃないかと思ってしまうくらいだった。
「俺が大海人だということすら分からずに助けを求めたのか、お前は。いったいお前は何者なんだ?」
男は振り向いたかと思うと、その格好のままいきなり彼の首元に短刀を突きつけた。突然の行動に背筋に冷や汗が流れる。彼は讚良皇女の夫、大海人皇子のようだった。言われてみれば、確かにそうだと納得できる。彼でなければ、こんな近くでの裸ーーいや、薄着の付き合いなんてできない。
「讚良はあくびも隠すし、今みたいに『おまえ』なんて言わない。それに大田が来たときも、本当のあいつだったらもっと親しい素振りを見せる」
大田は気づいていないようだったが、采女たちから聞いた様子から判断した。
やはり讚良皇女の夫であり、兄である葛城皇子を補佐する切れ者だけのことはある。
彼女の細かい仕草まできちんと見ていた。それに、と裕樹に言葉を挟ませずに続ける。
「お前は寝ている間にうなされていたが、うわ言の内容がいつもとは違っていた。こんな時代で殺されたくない、なんで俺がこの体に選ばれていたんだ、だけどもあいつのいう男だけは許せないってな」
もし、うわ言でも他の奴らに聞かれてたら反逆罪であいつの娘であっても有間と同じように殺されるぞ、と締めた。
そのときに裕樹は寝る前は開けてあった窓が閉められていることに気づく。剣を突きつけている割には意外と大海人皇子は気が利くようだ。
「あいつの顔や体とは違ってないから、そうだな。魂だけが何者かと入れ替わったという感じだな」
短刀を突きつけながら、大海人皇子は推測していく。裕樹は彼の肉体を見て、羨ましいというか元男であるはずの自分でさえ、恥ずかしくなるくらいには鍛えられている。
「何をしにあいつの体に入った? 答えによってはここで斬り殺す」
絶対零度の感情が裕樹を襲うが、ここで斬り殺されてたまるかという意気込みだけが彼を奮い立たせていた。
「俺はあなたのいう讚良皇女に頼まれたのです」
裕樹の言葉に大海人皇子は眉間をよせる。どうやらこの体に入ったのが女性だと思っていたのだろうか。
「信じてもらえないのは分かっているので、あくまでも俺が見た夢とでも聞いてください。
俺は令和という時代からここにやってきました。ある日、光に眩んだ僕は階段から足を踏み外して落ちて。
そのときに突然、鸕野讃良皇女を名乗る人物が俺にこう言いました。私と代わって欲しい。私はあの男が嫌いだ。母親はあいつに殺された。あの男に勝つために今まで頑張って生きてきたが、力尽きた、と。
俺はなんだかよく分かりませんでしたが、代わってあげてもいいかな、なんて思ったんです。
それで目覚めたらここにいて、女性になってるし、病人として扱われてたんで驚きました」
裕樹は肩を竦めながら言った。その言葉にため息をつく大海人皇子。
「少し信じがたい話だが、あり得なくはないな」
そう言って大海人皇子は短刀を鞘にしまう。
「確かにもともと母親と祖父が死んだのはあいつのせいだと言っていたし、いつかはあいつに復讐してやりたいと願ってもいた。それに俺と結婚したときにもどんなことがあっても俺についていく、とさえ言っていた」
大海人皇子は起き上がり、何か杯に液体を入れて一気飲みした後にそう続けた。そのときには先ほどの剣呑な目つきは消えていた。
彼の言葉によって自分をここに連れてきた讚良皇女の言葉が事実だと証明されたからか、先ほど世話係の女や大田皇女と話をしたときよりもこの時代になじんだような気がした。
「さすがに有間まで殺されるとはお前も思ってなかったのだろう。だから、有間が処刑されたと聞いたとき、強かったはずの彼女もとうとう倒れた」
目の前の男は寝台に座り、しみじみと続ける。
裕樹はそこである事に気づく。
「あのずっと気になっているんですけど、いったい『あいつ』とは誰のことなんですか?」
讚良皇女から最初に聞いた『あいつ』。
夫である大海人皇子ならば知っていて、いつかは聞かなければならないと思っていた裕樹だが、このタイミングだ。聞いておけるものは聞いておこう。
大海人皇子は裕樹の方を向き、真剣な眼差しで見つめる。
「聞く覚悟はあるか?」
彼の真剣な問いかけに頷く裕樹。なまじ大海人皇子の顔立ちが良いせいで凄みが違う。だが、裕樹もそんなことはとうに承知している。彼の頷きを見た大海人は切り出した。
「讚良皇女の母親である遠智媛、外祖父である蘇我倉山田石川麻呂、あいつ自身正妃である倭媛の正妃、倭媛の父親、義理の父親にあたる古人皇子、そして今回の有間皇子を殺したのはまぎれもないお前の父親、葛城皇子だ」
大海人皇子の答えにゴクリと息を飲み込むことしかできなかった裕樹。まさか本物の讚良皇女が憎んでいた相手が実の父親だとは夢にも思わなかった。
ほら見ろ、聞かんこっちゃいと、真っ青になっている裕樹を見た大海人皇子は杯に口をつける。
「今言ったのは兄が直接手をかけた者だ。あいつは手にかけるだけではない。先の天皇であり俺らから見たら叔父にあたる軽皇子や俺たちの母親である今の天皇、宝皇女の権力は無に等しい。あいつが全て握っている」
今、あいつに逆らえる者は誰もいない。
そう大海人皇子は締めくくった。
「じゃあ、俺がここに呼ばれたのって――――」
裕樹は大海人皇子に言われた言葉を脳内で反復していた。
「はたしてお前はあいつに対抗できる人間、と見なされたのだろうか」
目の前の男は裕樹をしっかりと見つめていた。
「お前がいたのはここからは遠いところのようだが、同じ女性を選ばなかったのはあいつの目にかなう人間がいなかったのか、それともお前自身に理由があるのか。まあ、それ以外の可能性として、あいつは同じ女でも気の弱い女は嫌いだったから、そういった意味でもそこそこ気の強い人間という意味でお前を選んだのかもしれんな」
大海人皇子は裕樹――といっても外見上は讚良皇女だが――を透視するかのように眺める。
「少なくとも以前と同じ強さだから、お前は俺を選ぶだろう。ただし、今まで以上に無茶なことはするな」
あいつのためにも。
大海人皇子は言葉にしなかったが、視線だけで元の讚良皇女のためにも、と言っているのが分かった。裕樹もそれに応えるように無言で頷く。
「しばらく宮中行事に参加するのは無理があるだろう。あいつにはそう伝えておくし、俺がわざわざ言わなくても周りは勝手にお前を病人扱いするだろう。信頼できるものを置くからそいつから作法を学べ」
彼はお前なら大丈夫だろうと言い切った。
「これからもよろしくな、讚良」
大海人皇子はそう言いながら手を差し出す。裕樹はその手を強く握った。
「ええ、こちらこそこれからもよろしくお願いしますね。大海人様」
讚良皇女の声で、讚良皇女の言葉で裕樹は返した。
この人ならば讚良皇女の背中を預けるのにふさわしいだろう。父親である葛城皇子に対抗できる唯一の人間だろう。
そして。
いつかこの人が天皇になるための支えとなりたい。
ある程度の知識は持っているんだから、歴史改変とならないくらいにはそれを使ってやろう。
裕樹はニンマリと笑いながらそう決意した。
お読みくださり、ありがとうございました。
今回は秋月先生の『和語り』企画を開催されるということで、一度描いてみたかった歴史物、そして時代遡行を作ってしまいました。参加ワードは、舞台が日本、と着物(いわゆる和装なら何でもよい)です(ここだけの話、着物という文字を見た瞬間、これ合致してないんですけどwってなり、括弧書きを読んで安心した次第でした)。
この作品を書いた経緯としては、すでに私は『ざまぁ』と『100年乙ゲー』としてただの転生は描いており、今回はただの転生(時代遡行)にしたくない、と思ったので、じゃあオプションとしてTS(性転換)を付けちゃえと思いたちました。
しかし、慣れないことをするのは非常に難しい。
そこで、お仕事でお世話になっている某K先生がTSものを書かれているのを思い出したので。チャットで『TSものを書くときの注意点とかってありますか?』と尋ねたところ、快く教えて頂いたんですよね。やっぱり持つべきものはコネですね(違う)。
まあ、そんなこんなで頂いた注意点を基に書いてみたんですが、ある事情で一人称使わないのはやっぱり難しい。でも、自分なりに楽しめたんじゃないのかなって思ってますし、余裕(要望)があれば続きを書きたいなと思います。