桜舞う季節
どこからかバイオリンの音色が聞こえてきた。
そこに惹かれ音のある方角へとすすんでいくと、
突然、後三日の命を告げられた……
幻影なのか花弁が、桜の花弁が令の目の前を舞いだした。
ここは都心の雑踏の中、そんな桜並木があるはずも無い。
令が桜の木を探そうと顔を少し右上に上げれば、そこに脇道が続いている。
彼はその脇道を一本、二本と紆余曲折し、たどり着いた先は神田川の土手だった。
「こんな所に桜の木が?」
そんな疑問を抱きながらも令はトンットンッと土手を上っていき、
「ヒューー!」
と、自分でも感嘆符を付けたくなる光景が広がる。
彼は上った時と同じようにトンットンッと土手を駆け下り、川沿いの遊歩道の仲間入りをした。
そこにはあるはずの無い桜並木が、道行く人々を魅了している。
彼は誘われるようにこの刻を楽しんでいた。
ヒラヒラとそよ風に流される桜の花弁も、神田川のせせらぎも、西に傾いた柔らかで桜色に染まった木洩れ日も、令には幻想のように思えてならなかった。
それで彼も幻想に浸ってやろうと、その日の煩わしさを放り投げ、人と人との間を泳ぐ魚みたいに進んでいく、と、音が聞こえてきた。
「バイオリン!?」
その音色は軽やかに聞こえてくる。
軽やかに軽やかに、そして一気に甲高き空の上に連れ去ると、そこで一遊びするかのようにリフレインしてから、徐々に下がっていく。
春をもたらすような、もし幸せと言う川があったのなら、きっとこんな感じなのだろうと思わせてくれる、目には見えないが感覚で流れを感じる、まったりとした音色に、令は水面の上を飛び跳ねた鯉のように一回りして辺りを見回す。
そして見上げたその先に彼女がいた。
長い髪が風の戯れに、そこに桜の花弁も加わって、丁度ワルツを踊っているようだ。
右手の弦と左手で支えているバイオリンと、軽やかなステップで彼女自身も仕合わせという劇を演じているようだ。
まだ音色が流れている。
花弁までもが舞い上がったり横滑りする。それはまるで桜色の蝶そのものだ。
令がその花弁に手を伸ばし触れた瞬間、その時は止まり彼女の弦が止まった。
一気に花弁は消え去り、神田川のせせらぎもどこにでもある用水路に戻っていた。そして令が立っている場所も川沿いの小道。
令は何時もと同じ景色の先に少女の姿を探したが、どこにもない。
その日の令は三年の新学期用の教科書を買いに少し大きめの書店に出てきた所だった。先ほどの出来事が夢か幻かと当惑している足を、無理にでも動かし必要な用事を済ませる所まではうまくいった。が、家に帰ってくれば、やはりベッドに倒れ込んだ自分の頭が考え出している。
「あの子は誰なんだろう?」
そんな結論の出ないことに集中して頭を使った後は、明日の終業式のために淡々と時間を使い、そして眠りについた。
翌日、やはり昨日の出来事が頭から離れない。
そんな状態なのに終業式に新クラスでの自己紹介をこなし、その日の学業からは開放された。学校の門を出ると、令の決まった日課が始まった。
図書館通いだ。
その日も何時もの図書館に行き、予約を入れていた本を手に取り、カウンターまで決まり切った行動だ。
そして俯いたままテーブルの上に本とカードを置き、少しだけ前に押し出した。
すると、向かいに座っていた係員の女性が、持っていた鉛筆でテーブルを、二度ほど叩く。
コンコン!
令は本の位置が悪いのかと、まだ、俯いたまま本をもう少しだけ押し出した。
が、その女性は再び、鉛筆でテーブルをノックする。
コン!!
令はまだ足らないのかと、弱々しい指で本を押し出す。
それでも足りないという意味なのか、テーブルを連打する女性。
コンコンコンコン!
それで漸く顔を上げ女性の顔を伺った令は驚いた。
「昨日の!?」
その女性は手早くバーコードを読み取り、本の上にカードを置き、その下に紙切れを差し込んだ。
令は、何も言えずに本とカードを受け取り、ペコンとお辞儀をしてその場を去った。
『何が書いてあるのだろう?』
令の興味が紙切れに移り、危なく出口の自動ドアの所で、(出口のドアもガラス張りだし、辺りの壁もガラス張りで同じだからと思われるのだが)横のガラス面にぶつかりそうになった。
『危ない危ない』
一人で呆けと突っ込みをしている気になるほどの滑稽なことをしでかしたと、頭を掻きながら紙切れに目を落としてみる。と、そこには、
「これを見たあなたは三日後に死にます」
と、とんでもない事が書かれていた。
『三日後! 死ぬ!????』
いきなり持っていた本も鞄も地面に落とし、膝まで崩れ落ちた令だが、
『いやいや、こんな事をしている場合じゃない!』
と、奮起し、図書館に猛ダッシュで戻り、カウンターに衝突した。
そうなれば受付の司書の方に、
「お静かに!」
と、厳重に注意された。
「はぁ、すみません」
と、令は謝るのだが、そこに先ほどの女性がいない、で、
「あのすみません。先ほどの方は?」
と、聞くのだが、その後のことはとんと計画はない。
しかし、その司書の方が、
「先ほどとは? 私はさっきからいましたよ。あなたにも三分くらい前に手続きをして差し上げたではありませんか? それに何か不備でもありましたか?」
「え????」
と、令は目を丸くし本気で驚いている。が、驚いても、
『あなたではありません!』
と、主張したところで打開策が見つかるはずもなく、
「そうですよね。すみませんでした」
と、引き上げるしかなかった。
図書館を出た令だが、
『本当にどうしよう!???』
と、紙切れを取り出そうと、ポケットに本にカードに鞄を探し回ったが無い。
『無い!? 無いよ!?? どうしようか!?』
本気で泣きたくなった令だ。
その場の側にあった長椅子に腰を落とし頭を抱え込んだ。
視線は地べたに向けられ両手で頭を抱え込んでいると、耳は塞がれている。だから、音は聞こえない。
そこに、足元に小人なようなものが一列に並んで見える。
『幻か?』
すると小人たちがどんな法則なのか分からないが、前にピョッンと飛び出したかと思えば、再び元の場所へと戻る。
その動きが止まることもなく連続して、時には同時に、時には一歩半前にまで飛び出している、それは、まるで鍵盤を踏んでいるかのようだ。
と、そこに昨日聞いたバイオリンの音色が聞こえてくる。
厳かな音色だと、令は少しだけ顔を上げると、小人たちの動きが止まっている。
そこで令が耳を澄ませば、どこかで聞いたメロディーだと気が付いた。
すると小人までもが動き出す。
それは紛れもなくアメイジング・グレイスだ。
令は三日のことなどすっかり忘れ音色に聞き入っている、と、女性の声がした。
確かに歌っている。
彼はどこで、と、周りを見回せば、至るところで聴衆が出来上がっている。
そして良く見ると彼らは皆、泣いているのだ。
この歌にはそれだけの力があるとしても、これほど自然に涙を流させるのには、演奏者も歌い手も並々ならぬ心が求められる、はずだ、と令は自分の耳に頼りだした。
と、すると令の耳から音が遠ざかっていく。
『え? 何故?』
驚きと共に目を上げると、そこは何時もの遊歩道、図書館と公園との間にある小道だ。
『さっきの小人たちは? あのバイオリンは? そしてあの子は?』
と、令の頭の中は疑問符ばかりが草のように生え出てくる。
だが、その疑問に答えてくれる者はいない。
彼の耳に都心の雑踏が雪崩のように入り込んできた。
次の日、令は、
「今日こそ!」
と、意気込んだものの、実際に図書館以外の当てがある分けでもない。
『そこがダメなら、バイオリンの音色がした遊歩道か、神田川の土手?』
そして令は究極の選択、そう、それは、
『忘却!!!』
最終手段として令の脳裏に今朝方生えてきていた。