おっさんと闇の精霊
「マスター。マスター。」
若い女の子の声がする。
俺はあの不思議な爆発を受けて壁まで吹き飛ばされたらしい。
痛みをこらえて状態を起こすと、目の前に女の子の顔があった。
「マスター。お気づきになられましたか。」
顔を見てギョッとする。
間違いない。さっき死んだと思っていた少女。
そして突然動き出し、あの人型の影を倒したと思われるあの少女。
どう考えても常人の仕業ではない。
俺は恐怖に駆られて絶叫した。
「うわぁぁぁ!? た、食べないでくださいぃ!」
「落ち着てください。食べませんよ。」
中年のおっさんが恥も外聞もなく
10代の少女に命乞いをする様はなんと無様だっただろう。
だが目の前の少女はそんな俺に何ら動じる事もなく
優しく肩を抑えてなだめすかした。
「た、食べないんですか?」
「私はマスターの僕。主を傷つけるような事は決していたしません。」
鼻水を垂らしてきょとんとする俺に少女が優しく答える。
未だに状況は掴めなかったが、かけられる声は危険を感じさせない。
少なくとも今すぐに襲いかかってくることはなさそうだと言うだけで
今すぐ誰かに頼りたいと言う心と、思考を放棄した安心感が生まれる。
「マスター。突然こんな事を言われてもすぐには理解できないとは思います。
ですがどうか信じてください。私はあなたをお守りいたします。」
真剣な眼差しで顔を近づけられる。
ふわりと良い匂いがしてドキドキしてしまう。
こんな状況でも少し嬉しいと感じてしまうのだから
まったくもって童貞ってやつはしょうがない。
「事情を聞きたいとは思いますが、今私達は危機的状況にあります。
詳しい話はあとにしてまずは場所を移動しましょう。
ですがその前にどうしてもここでマスターにお願いしたい事があります。」
さきほどの戦闘を見る限り、この子に害意があるなら
俺なんぞ騙す必要もなくどうとでも始末出来るはずである。
しかしこの自分で言うのもなんだが
なんのとりえもない中年のおっさんにお願いとはなんだろう。
「名前を。下さい。」
「名前?」
「えぇ…私の名前。
どうしてもここを離れる前に今授からねばならないのです。」
名前…名前…名前…
今一つ理解が追い付かなかったが、目の前の少女は焦っているように見えた。
とりあえずここは深く考えずに思いついた名前をそのまま口に出そう。
「ヘルメス。」
「ヘル…メス?」
「うん。ヘルメス。」
懇願するような顔から緊張した様子で確認する。
告げられた名前を確認するように息を吸い込むと、少女に幸せそうな笑顔が浮かんだ。
「ヘルメス…あぁ! マスター。ありがとうございます。」
両手を胸の前で組んで大切なものを受け取ったかのように感謝を告げてくる。
童貞には刺激の強すぎる距離に思わずドキリとしてしまった。
「それでは急ぎましょう。早くしないとこの体が持ちません。」
そう言って彼女は立ち上がった。
腹部は食い荒らされた状態のまま。
絶対安静どころかどう見ても致命傷である。
「ちょ、大丈夫なの!?」
慌てて俺は声をかけるが、彼女は表情すら変えずに言った。
「しばらくはまだ大丈夫です。
ですが私では回復魔法を使えないのでこのままではこの体が壊死します。
幸いこの体の持ち主はすぐれた光魔法の使い手だった様子。
マスターには光の精霊を召喚出来るところまで赴いてもらい、
其れを使役してください。」
「…はい?」
なんの事だろう。相変わらず理解が追い付いていかない。
ただ、今はあまり深く問いただすより、
目の前の少女に従った方が良いような気がした。
「私はこの屋敷の闇と、当主の魔力と、
彼女の異能から生み出された闇の精霊…
そしてあなたが名前をくれた。
マスター。あなたは契約を託されました」