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フレゴリの錯覚

作者: 月岡 昶

「ねえ、どこかでお会いしたことがないかしら?」女は、僕の顔をまじまじと見た。

「勘違いでしょう。『フレゴリの錯覚』って知ってます? 町中あちこちで、変装した同一人物が自分を見張っていると思う錯覚……」 

 女は、首を傾げながら店の奥まで僕を案内した。緑のベルベットの覆いを取ると、ショーケースが現れた。その中には、親指大から耳の大きさほどのガラスの破片が、いくつも、昆虫の標本のように並べられていた。

「こちらはラファイエット、隣はエリザペート……。そして、端にあるローハンは現在のコレクションにも加えられています」

 無表情なまま、女が説明した。アンティークショップなのだ。

「でも、現代のローハンとは全然違います」

 女はショーケースの蓋を押し上げた。

「アンティークのバカラの、現代のバカラとの最大の違いは、その薄さです」       

 女のあとに僕も手を伸ばし、女が指先で摘まんだ破片に触れた。

 痛かった。女が、僕がガラス片に手を触れようとしたその瞬間に、手を微かに動かした気がする。

「まあ!」同情の感じられない口調だった。

 女は、蓋を閉め、脇にあった作業机の上に破片を置くと、いきなり僕の前で跪いた。次の瞬間、両手で僕の右手を包み込み、血の流れる人差し指をその口に含んだ。口の中はネットリとして、温かかった。女は舌先で傷をゆっくりと舐めはじめると、しだいに力を強めていき、まるで、傷を押し広げでもするように舌先を動かした。見下ろすと、スカートのスリットからはみはみ出した左の太ももが見え、そこには、バツ印を描く古い傷跡があった。女は一瞬、唇を指から離し僕の顔を見上げた。「言ったでしょう? アンティークのバカラはとても薄いんです。割れた破片は、鋭利な刃物みたい……」

 女は、また僕の指を咥えようとしたが、僕は指をひっこめ、自分の唇に押し当てた。指は、血と、甘いリップグロスの味がした。口から離し目の前にかざしてみると、蒔絵のように輝いてる。目の前に立ちあがった女の唇を見ると、同じようにラメが煌めいていた。その口が開いた。

「一つ一つのシリーズで、切れ味も違います。その時代でガラスの質も違いますからね。それに模様による効果も様々」

 女は作用机の上に置かれた破片をまた手に取った、僕の目の前に突き付けた。

 思わず後ずさりした僕の足は、床に置かれた自分のカバンを踏みつけた。中の注射器と薬品のアンプルが無事か心配になった。しかし、女は今度は切りつけてこなかった。女が僕の目の前にかざした破片には、うず巻きのような彫り物の模様が全面に入っていた。

「腐食による溝が彫りこまれているでしょう? これがいいのよ」

 女は空中で何かを切る真似をした。そして、じっと破片の渦巻き模様を見つめながら、模様と同じ形のカーブを描くように破片を動かしていく。いつのまにか女の顔に恍惚とした表情が浮かんでいる。

「血が流れるとするでしょう? うまくやると、血がこの溝にそって流れて、きれいにうず巻きの形を作っていくの……」

  僕は、「限界だな」と思い、腰を屈め鞄に手を伸ばした。その瞬間だった。女の顔つきが変わった。店のドアが開く音がしたのだ。五十年配の若づくりした男が、とても若い女を連れて入ってきた。

 目の前の女の表情が、まるで、映画をスローモーションにしたように、変化した。意図がはっきりと窺えた。まずは口角を挙げて、口元に笑顔を。次に目をやや開き、首は、微かにかしげる……。女は今まで僕たちが見ていたショーケースの上にベルベットをかけ、新しい客へと歩いていった。

「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」感じのよい声だった。落ち着いていて、控えめながらも教養を感じさせる。アンティークショップのスタッフとして申し分のない声だった。

 僕は、女と二人の客に軽く会釈をすると、店の外に出た。女は僕には何も声をかけなかった。 僕は、ポケットのアイフォンを取り出すと病院にメールを打った。

「待機は解除。振る舞いは奇妙だが、新しい自傷のあとはなく、ある程度の社会性は保たれている。主治医としては、強制的入院には根拠に欠けると考える。今後も月に一度のフォローアップを継続」

 打ち終えると、僕は次の訪問患者のところへと歩き始めた。指は痛かったが。これくらいの傷などいたしかたない。せめてもの罪滅ぼしだ。自分がうまく治してあげられなかった患者を、これからもずっと、看護らなくてはならないのだろう。

 

 


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