100話 覚悟と現実
最近遅れが酷くてすいません。
10章最終話です。
奏と根元は美唯菜達と別れて部屋に戻ると、風呂の用意をし終えた田中達がベットの上で寛いでいた。
各々が気の向くままに行動している中で、奏と根元に気がつけば軽く手を上げて挨拶をした。
「ただいま。もう行く用意してたんだね」
「おう。あとはお前ら待ちだな」
「待っててくれたんだ。すぐ用意するね」
そう言って瑞輝が準備を急げば奏もそれにならう。
備え付けのバスタオルを取り、ついでに荷物から歯ブラシ等を取り出そうとして……。
「どうしたの? 奏?」
「荷物みぃから貰うの忘れてた」
「ありゃ。僕達先に行ってるよ?」
「あぁ悪い」
瑞輝が奏の落とした肩を叩いて扉まで向かえば、田中たちも瑞輝に続く。一二言交わしたあと、奏を残して部屋を出ていった。
残った奏は軽くため息を付いてルームキーを手に取ったのだった。
★
「ただいま」
美唯菜は誰もいないであろう部屋に向けてそう言った。あとから続く真紀が小さく「おかえり」と言うと、恥ずかしそうに頬を赤らめたのだった。うしろで微笑むトリアからの視線が痛い。
「おかえりなさい。みんな夕食は済んだのね」
「うん。ただま」
部屋では葉名先生が奥で椅子に座っていて静かに紅茶を飲んでいた。美唯菜がベットに座ると大きく背伸びし、そのままベットに倒れ込む。トリアがその横で風呂の用意を済ませ、佐鳥は向かいのベットでコネッキングを操作する。
「それじゃ私は行くわね」
「うん」
準備をし終えたトリアが上機嫌で手を振ると軽い足取りで部屋から出ていった。
「行っちゃった」
「はや、かった」
真紀が呆然とトリアを見送ると美唯菜もそれに頷いて反応する。美唯菜もびっくりするほど早い動きで用意していた、それほど美蓮と入るのが楽しみなのか、それともただ単に温泉が予想以上に良かったのか。
「トリアさんはお風呂?」
「あーと、温泉が良かったみたいで」
「そうだったのね、そんなに良かったのなら今度行ってみようかな」
「先生まだ入ってなかったの?」
「えぇ、仕事が残っていてね」
そういう葉名の目には多少の疲れが垣間見える。葉名は開いていたコネッキングの画面を閉じると小さく息を吐いた。そんな葉名に真紀が心配そうに声をかけた。
「先生、これから田中さんたちが来るけど大丈夫?」
「……ええ、大丈夫よ。でも就寝時間にはちゃんと寝ること、いい?」
葉名の言葉に真紀が頷いて許可を得ると美唯菜とハイタッチする。暫くしてインターフォンが鳴ると、美唯菜が我先と玄関へと急いだ。
パタパタと走る美唯菜はコネッキングにリンクしたルームキーを使ってドアの鍵を開けた。
美唯菜が喜色満面を隠さずドアを開くと、そのまま扉の前を見てポカンと首を傾げる。
「……かなと?」
「いやぁ……さっきぶり」
「ぶり」
扉の前で苦笑いを浮かべる奏に美唯菜がまた首を傾げた。
「どしたの?」
「みぃに僕の荷物預けっぱなしだったろ?」
「なる」
奏の説明に美唯菜が頷くと、カードから奏の荷物を取り出すのかと思いきや奏に部屋への道を開けたのだった。
「みぃ?」
「はいって?」
「へ? あぁ、うん」
美唯菜の行動に疑問を抱きつつも言われるがままに奏は部屋へと足を踏み入れる。奏の部屋と全く同じ作りなのにも関わらず、何故か甘い匂いがする……ような気がした奏であった。
「あれ? 相馬くん?」
「ん、あぁ、荷物預けっぱなしだったのを忘れてな」
「なるほど!」
「あれ? じゃあどうしてここまで」
引っ掛かりを覚える真紀を余所に美唯菜は奏の手を引っ張ってベットに座らせる。
ニコニコと笑う美唯菜に奏は訳もわからず視線で説明を求めた。
「いっしょ、あそぼ?」
預けていた荷物を返してもらいに来ただけだというのに、そのまま遊ぼうと誘われてしまった。奏は開いた口を閉じると風呂と美唯菜の誘いを天秤にかける。
「うん、遊ぼう」
考えるまでもなかった。
二つ返事で頷く奏に美唯菜が満面の笑みで抱きつけば、奏はそれを受け止める。両手で猫耳を揉むと気持ちよさそうに美唯菜が顔を緩めた。
「……一体私は何を見せられているんだろう」
そう呟く真紀の言葉は葉名にしか聞こえる事がなかった。
──ピンポーン
「かなと」
「ん。行っておいで」
インターフォンが鳴れば美唯菜はすぐに奏から離れて玄関へと走る。イチャイチャはこれで終わりだ、奏は玄関に向かった美唯菜を目で追うと小さく眉を下げたのだった。
「「やっほー」」
美唯菜が連れてきたのはクラスメイトの田中と鈴木。緑の髪と長い耳が特徴的な森族と、周りに緑光の粒を撒き散らす森精ドリアードである。彼女らが美唯菜の案内に促されるままベットに座ると、美唯菜はカードから小さな机を召喚し、その上にお菓子を並べていった。
「あっ、私もっ」
美唯菜だけがお菓子を用意するわけにはいかないと鈴木もカードから適当なお菓子を取り出す。それに倣うように田中や真紀も机にお菓子を並べていき、すぐに机の上はお菓子でいっぱいになった。
ソワソワと落ち着きのない二人に真紀は少し前の自分を見たような気持ちになり、ふと笑みが溢れる。自分も随分と慣れたものだ。
「じゃ、始めよっか!」
真紀はそう言ってコネッキングから一つのアプリを起動する。それは周りの空間に影響を与え、青みがかった空間と泳いでいた魚達が塗り替えられた。
瞬時に再構築されたモジュールはそのどれもが桃色に染まっていて、様々な種類のぬいぐるみが乱雑に置かれていた。無論触れはしない。様変わりした空間の中で美唯菜達がホルダーからカードを取り出す。
「『こねこ』おいで」
「『バンパイニャ』」
美唯菜と真紀の呼び声に小さな子猫と同じサイズの猫耳吸血鬼が召喚された。二匹は召喚主に寄り添って二人はその二匹を優しく撫でてあげる。
田中と鈴木は顔を見合わせると二人もカードからクリーチャーを召喚する。
「『ブルーバード』」
「『フェアリー』」
田中の手にひらには小さな青い鳥が、鈴木の周りを旋回するのは拳サイズの人形妖精。
田中が指でブルーバードの頬を撫でると、ブルーバードも自ら頬を寄せていく。鈴木は片手を前に持っていき、フェアリーはそこにゆっくりと着地した。
「ブルーバード、私の幸せの青い鳥だよ」
──キュイ
「フェアリー、皆に挨拶して」
──シャララ~
田中と鈴木の言葉に二匹が各々の挨拶をする。
ブルーバードは翼を広げて鳴き、フェアリーは優雅にお辞儀した。それをみて美唯菜と真紀もお互いのパートナーに合図した。
「こねこ」
──ニャニャ
「バンパイニャ?」
──フニャ!
こねこが二足歩行で敬礼すると、それを真似てバンパイニャも空中で敬礼する。
推定30cm未満のクリーチャー達はそれで意思疎通が出来たのかお互い近寄って遊び始めた。
「ん。かわい」
「怪我したらだめだからねー」
さっそく美唯菜が小さなクリーチャー達を写真に収める中、田中がブルーバードに向けて注意を促した。ブルーバードはさっきの敬礼に感化されて田中に敬礼で返したのだった。
「しっかし真紀がこんなこと言い出すとはね~」
「そうそう驚いた」
田中の言葉に鈴木が頷いて同意する。二人の言うとおり真紀が自分から遊ぼうだとか集まろうとかを言うのは稀で、話を聞いたとき二人は揃って目を丸くしたのだった。
かく言う真紀も自分で自分の行動に驚いたのであるが。
「ん。ないす、はんだん」
「だね~。私もフェアリーが楽しそうに舞ってるのを見ると嬉しいし」
「卓球で私に負けたくせにやるね」
「ちょっ、それはいま関係ないよねっ」
真紀が声を張ると周りは自然と笑いに囲まれる。真紀は「もーっ」と怒ったように腕を組むが、すぐに機嫌を直しクスっと口を緩めた。
そして卓球大会を途中で抜け出した美唯菜は首を傾げて真紀に問う。
「まきちゃ、まけたの?」
「ほらぁ! 美唯菜ちゃんにバレたじゃんー!」
「圧勝よ!」
「惜しかったんだけどね。あっ試合撮ってたんだけど見る?」
美唯菜の容赦ない追撃に真紀が耐えきれず喚き出す。田中が胸を張る横で、鈴木が録画した映像を美唯菜に見せる。
机に置かれたお菓子を摘みながら会話に花を咲かせて四人は独特の黄色い空気を作り出していた。
「退屈そうね」
「あ、あぁ葉名先生。まあ場違いな気はしますね」
四人が楽しくしているのを少し離れた所から見ていた奏に葉名が声をかける。奏は一瞬驚いて葉名を確認すると時折笑みを零す美唯菜に目を向けながら答えた。
「高江さん、なんだか雰囲気が変わったように思うのだけど、この短期間に何かあったの?」
「どうだろう。美唯菜は美唯菜ですから」
奏はそう言うが、葉名には美唯菜が今までの美唯菜とはまた違う印象を受けて、つい頭の片隅で美唯菜を昔馴染みと重ねてしまう。葉名は紅茶を飲み干すとそっと窓の外を眺める。満点の星下には船が一隻泳いでいた。
そんな哀愁漂う様子に奏はここでも居心地の悪さを感じ始めていると、知ってか知らずか美唯菜が近寄り声をかけた。
「いっしょ、あそぼ?」
「えっ? た、高江さん?」
手を取って真紀達の元へと引っ張る美唯菜に戸惑う葉名。美唯菜はそんな葉名に構わず連れて行く。奏は特に抵抗なくなすがままである。
「あっ相馬くんと梨子ちゃん。二人もマリンカートするんだね」
鈴木がコネッキングを操作して奏と葉名にゲーム情報をリンク要請すれば、葉名は小さくため息を吐いてそれを承認した。今日は美唯菜の押しに負けてもいいかと眉を下げたのだった。
「やるからには負けないわ」
「うん。まけない」
「この私に勝てるなんて百年早いからね!」
仕方ないなんてオーラを出しながらもやる気満々な葉名と、同じく闘志をみなぎらせる美唯菜に、今日この時初めてマリンカートをやる田中が火花を散らせる。それを呑気に眺めながら奏がリンク要請を承認すればゲームが始まった。
全員のコネッキングが連動されると、コネッキングが視界を染めていき、ピンク色の部屋はいつの間にか青い海へと変わった。海の上でボートを操りゴールを目指すゲームはまるで自分が体験しているかのような錯覚を覚えさせる、コネッキングのARゲームで多人数用の人気ゲームだ。
「私このゲーム得意なんだ」
「私はちょっと苦手かもー」
真紀が少し得意気に言うと、鈴木が少し苦笑する。レース開始のカウントダウンが始まれば奏の穏やかだった表情が一転、真剣なものへと変わった。
クリーチャーたちが見守る中、カウントが0になり水上のレースゲームが室内で始められた。
「やたっ! マリンコウラだ!」
「ゴールデンマリンキノコ!」
「えっ、えっ、もしかして私が一位にっ!? ってえっ! あー!!」
「……いぇい」
マリンカートは盛り上がりを見せて1試合が終われば次のステージへと視界が変わる。
全員の上がるテンションに比例して机に並べられたお菓子は無くなっていき、ARゲームもマリンカートだけではなく色々なゲームを網羅していった。美唯菜はいつにもなく楽しそうで奏は穏やかな目でそれを見ながらゲームの手を抜いた。
「珍しい。相馬くんが最下位なんて」
「相馬くんだとしても罰ゲームは罰ゲームだよ」
「はいはいわかってるって」
今回のゲームでは最下位になった人がお菓子の補充をしにコンビニまで行くというルールで、教師である葉名も目を瞑ったのである。
ビシッと指を差す田中に奏が手をブラブラさせながら立ち上がった。
「じゃあ行ってくるな」
「ん。はやく、かえって、きてね」
美唯菜達全員に見送られながら奏は翼を広げて部屋の窓を開けた。
驚く田中と鈴木をよそに奏は開いた窓から飛び立つように窓を蹴った。
「そういえば相馬くんって天族だったっけ」
「驚いた、羽って出し入れ出来るんだ」
「ん。よき」
奏が買い出しに行ったあと、呆気にとられる田中たちに自分のことのように自慢気になる美唯菜であった。真紀は真紀でついこないだまで田中達のように驚いていたんだなと感慨深くなっていた。
「じゃあ続きやるよ。このまま負けっぱなしは嫌だかんね」
「ん。おけ、まけない」
田中と美唯菜が笑顔で闘志を燃やす中で、鈴木と真紀が目を合わせて眉を下げながらも笑い合うのだった。
それから田中と美唯菜が一位争いをしている所を葉名が掻っ攫ったり、偶然一位になり喜ぶ鈴木を皆で揉みくちゃにしたり、ARゲームを遊び尽くせるだけ遊び尽くした。そうして時刻が十時半を回った頃、鈴木がふと首を傾げた。
「相馬くん遅くない?」
「ん。つうしん、こない」
鈴木の疑問に美唯菜が頷いて同意する。これまで何度か奏に連絡を図っていたが返事は帰ってこなかった。
揃って首を傾げる中で、葉名は現在の時刻を確認すると、そのまま田中と鈴木に退室を促した。
「そろそろ時間ね。田中さん、鈴木さん。そろそろ部屋に戻りなさい?」
「えっでもまだ相馬くんが帰ってきてないよ? おやつ買い損じゃん」
「相馬くんには私から言っておくわ。一応就寝時間だからね」
こう言われては仕方ない。田中と鈴木は渋々といった具合で立ち上がり、召喚したブルーバードとフェアリーをカードに戻す。
今日の葉名は教師としてとても緩かったが、ここで駄々をこねるほど二人も子供ではなかった。
「じゃあね、高江さん。真紀も」
「また明日だね」
「うん。また、あした」
美唯菜が微笑んで二人を見送り、真紀が横で手を振る。
田中と鈴木が自分の部屋に帰っていけば、二人がいなくなった室内がやけに静かに感じる美唯菜と真紀であった。美唯菜と真紀は目を合わせると少し笑って玄関から部屋へと戻る。真紀が机の上を片づけだし、美唯菜が空中のゲーム画面を閉じようとして、動きを止めた。
美唯菜は近くで難しい顔をしていた葉名に笑いかける。
「せんせー。もっかい、やろ?」
「高江さん……あなたももう寝る時間よ」
ゲーム画面を広げて誘う美唯菜に葉名が片眉を下げて注意した。美唯菜とて田中や鈴木と同じく就寝時間は決まっている、美唯菜が考えていることは葉名には理解できなかったが、田中と鈴木を帰らせた手前それを受け入れるわけにはいかなかった。
「むー、いっかい、だけ」
「み、美唯菜ちゃん?」
粘る美唯菜に真紀が少し驚いて手が止まる。バンパイニャが代わりにゴミを片付ける近くでこねこが眠りに落ちていた。
「さいごの、いっかい……ねっ?」
美唯菜は止まらずに再度お願いをする。そんな美唯菜に葉名は眉間を指で押し、軽くため息を吐くと少し笑って根負けしたのだった。
「わかったわ。一回だけよ」
★
翼に込めた魔力を霧散させ、奏はホテルから少し離れたコンビニ前に降り立った。
その場で翼をしまい、中へ入ると一直線にお菓子コーナーへいく。
「そういえば何買うのか聞いてなかったな。まぁ、なんでもいいか」
奏は一人そう言って適当にお菓子を選べば、無人のレジにコネッキングでリンクし会計を済ました。
袋に包んだお菓子をブラブラさせながらコンビニを後にし、ホテルへと戻る為に翼を広げる。天族の種族スキル『天翔』を使い翼をはためかせれば体は自然と宙に浮かび上がっていく。
しかし奏が空を飛んである一定の高さへと至ったとき、その翼が突如として傷つきだした。
「──っ!?」
小さな、しかしいたる所に切り傷が出来始め、堪らず奏は墜落する勢いで地面へ落下した。翼を切り裂かれた痛みが奏を襲い、倒れたまま奏は翼を丸める。息は荒く意識が一瞬眩んだ。
翼は傷ついた所から魔力が漏れ出し、白い煙のようにも見える魔力の残滓が風に誘われていく。
「目標の落下を確認。油断はしないで」
女性の声が一つ。暗雲が月を隠し、街灯の隙間を縫うかのように佇むその人は、力ある刀を腰に掛けて一歩、また一歩と奏のもとへ一直線に歩みを進めた。
奏はゆっくりと状態を起こしながら、暗闇を歩く者を睨みつける。その者はどこか前に会ったことがあるような既視を感じさせ、引っ掛かりを感じる奏を知ってか知らずか、彼女は街灯の光に足を踏み入れた。
龍族特有の鱗に、腰まで伸ばした夜色の髪。凛とした佇まいが彼女の性格を物語り、何よりその顔に奏は見覚えがあった。
「高坂、さん?」
「特殊能力対応機関オルディネ支部所属、高坂桐花。これより第二種危険人物、相馬奏を連続放火の能力犯罪により制圧権を行使し、拘束、連行します」
そこに立っていたのは今日一日共に汗を流したはずの人だった。そしてオルディネという言葉に奏は高坂桐花をイベントWORLDの時、僅かだが共に戦った女性プレイヤーと重ねる。しかし奏の頭を埋め尽くすような疑問はどうやら答えてくれそうにない。
奏が口を動かすよりも先に、柄を握った彼女の姿はいつの間にか掻き消えていた。
「高坂流────『山茶花』」
チンッという小気味のいい音が奏の背後から聞こえ、同時に奏の胸からは赤色の山茶花が咲き乱れた。
★
「どういうことですか、葉名先生」
真紀は言葉を尖らせて葉名に問うた。だが葉名からの返事はなく、ただ真紀の後ろで眠るように倒れている美唯菜を見つめていた。
真紀がその視線を遮るように横へずれると、葉名はようやく真紀と目を合わせる。
「種族吸血鬼の耐性かしら、あとはアクティブカード『そよ風』ね。窓が開いていたのを失念していたわ」
この部屋全体に充満していたピンク色の煙は、真紀と美唯菜を避けるように窓の外へと向かっていく。再構築された部屋のモジュールがピンク色だったせいもあり、真紀にはソレがいつからなのかは分からない。しかし、このピンク色の煙が美唯菜の意識を奪ったことは明白であった。
そして今もなお真紀の意識を奪い去ろうとしているのも。真紀は歪む視界を気力で持ちこたえながら葉名に向かって叫ぶ。
「答えてください! 一体どうしてこんなことっ!」
「……私がそれを言ったところで佐鳥さんの行動は変わるのかしら?」
しかし葉名は真紀の叫びを意に介さず、不思議そうに首を傾げるだけだった。そんな葉名に真紀は顔を歪めながら隣に浮くバンパイニャに合図をする。それを受けてバンパイニャが待機していた魔法を唱えるが……その効果は十分に発揮されなかった。
「解呪ね、残念だけどこの煙は魔法ではないの。貴女も眠りなさい、痛い目には……遭いたくないでしょう?」
「──っ!!」
葉名はその氷のように冷たい瞳で真紀を見つめながら懐から一挺の拳銃を取り出した。
その瞬間真紀の心臓は止まり、次の瞬間には早鐘を打ち始める。体中から冷や汗が流れ出し、呼吸が次第に荒くなっていく。それは前に根倉から向けられた物と同じ形をしていた。
今真紀を支配しているのは単純に恐怖である。
当たれば、当たり場所が悪ければ助からない。引き金を引く、たったそれだけで真紀に致命傷を負わせることが出来るものを今向けられているのだ。恐怖で震えないわけがない。
もう葉名先生は何を考えているのか分かりもしない。だからこそ、その引き金はとてつもなく軽く思えてならなかった。
だけど、そんな事よりも怖い事がひとつだけ。
──パァンッ!
銃弾が真紀の頬を掠める。そこから赤い血が一直線に下へ流れ落ちた。
「分かってる? これ、本物よ?」
「……分かって、ますよ。だけど先生、私にはここを動けない理由があるんです」
脚の震えが止まらない。いや、震えているのは脚だけではない。
体全身が震えだし、涙がとめどなく溢れ出る。
それでも真紀はどうしたって心の奥底から湧き上がる恐怖には打ち勝てない。
「根倉に一度銃を突き付けられたから慣れたのかしら、今回も何とかなるなんて思っているのなら──」
「怖いですよ。怖い。本当は今すぐにでも逃げ出したい……でも、美唯菜ちゃんをまた裏切る恐怖に比べたらっ! 全然怖くないっ!! 私がここで立たなきゃ一生私に顔向け出来ないからっ!」
きっと誰も文句は言えないはずだ。逃げたっていいはずだ。
たとえ友達が危険な目に遭うとしても自分の命には変えられない。
真紀は横目で意識を失っている美唯菜を見て微笑みながら前を向く。
誰も見ていなくたって、誰も文句を言わなくたって、逃げてはいけない。だって自分が自分を許せないから。
たとえ自分の命を賭してでも、この大切な友達は守り抜かなくてはいけない。だって友達になったあの日に約束したから。
「私が美唯菜ちゃんを守るんだ!」
その身に降りかかるすべてを覚悟して、彼女は両手を広げた。
「…………そう。二度目は無いわ」
「氷柱!」
──ウニャー!
葉名が引き金を引くと同時に氷の柱が二人の間に出現する。銃声が鳴り響く中、真紀はカードを数枚手に持った。
その一拍あとに氷柱が音を立てて崩れだし、葉名は片手で弾を再装填しながら、もう片方を真紀に向けた。
「『ファイアーランス』」
「『耐熱』」
──ウニャー!
放たれた炎の槍は真紀がその身で受け止める。避けるわけにはいかない、うしろに美唯菜が寝ているから。
バンパイニャが魔法で尖った氷を飛ばすが、葉名は片手を振るだけでそれらは掻き消えた。間を置かずに再装填し終えた銃を真紀に向ける。
「氷壁!」
──ウニャ!
「……邪魔ね『フィールファイアー』」
氷柱よりも太い氷の壁が葉名との間を遮り、鬱陶しそうに葉名は火の玉を5つ宙に浮かべた。それは一つずつ氷壁の中心に当たって、確実に氷を削り出していく。
そして最後の一つが氷壁を貫いたとき、その部屋に銃声が響き渡った。
──フシャー
「バンパイニャ!」
真紀を庇うようにバンパイニャが躍り出る。真紀を狙った銃弾はバンパイニャに吸い込まれるように進み、真紀の目の前で銃弾がバンパイニャを貫いた。
氷壁が葉名を塞いでいた間に、真紀は美唯菜を抱きかかえて外に出ようとしていた。それを狙い打つかのような葉名の銃弾が襲ったのだ。
バンパイニャの衰弱に比例して氷壁は見る影もなくなっていき、瞬き一つで霧散する。
真紀はバンパイニャが倒れ伏せるのを見て足を止めるが、すぐに無理矢理前へと向いた。外にさえ行けば、誰かに知らせれば……きっと!
しかし玄関へ向かう真紀の前には轟々と燃え盛る炎の壁が行く手を遮っていた。
「『ファイアーウォール』便利ね。完全防音、能力による燃え移りが発生しない壁。流石イコジン直営ホテルかしら?」
「──っ!」
退路は立たれた。真紀は苦々しい表情を隠しもせず葉名を睨みつける。もう真紀に残された道は少ない。
銃口を向けられた真紀が苦し紛れに葉名へ突っ込もうとした時、葉名の後ろで消えかかっていたバンパイニャが吠えた。
──うにゃぁあああ!!
「なにっ!?」
バンパイニャを中心に全てが凍りだし、瞬く間に部屋の全てが氷結した。真紀の退路を遮った炎の壁も、葉名の足や持っている拳銃さえも。
バンパイニャは真紀に向けて笑うと光へと変わり、空中で霧散した。
「ぁああああ!! 『ミニ吸血鬼 デュオ』『ラミア』!」
「『セルシウス』……拳銃はもう使えないわね」
泣き叫びながら、真紀はクリーチャーを召喚する。ラミアを先頭にミニ吸血鬼が二匹即座に戦闘態勢へと移った。
対して葉名は極めて冷静に足場を溶かし、凍った拳銃を適当に投げた。
「葉名先生! もう止めてください!!」
「……もう勝った気でいるのかしら? 随分と余裕じゃない」
「っ~!! ラミア! バンちゃん!」
──クキャー!
──シャー!!
真紀の呼び声に従ってラミアと一匹のミニ吸血鬼が特攻する。残ったミニ吸血鬼が詠唱を開始し、光の粒を撒き散らした。
葉名は特攻する二匹に片手を振りながら魔法の発動キーを唱える。
「『スラッシュ』」
葉名が放った不可視の斬撃をミニ吸血鬼は避けたが、ラミアは敢えて受け止めた。このまま二匹とも避ければ後ろで詠唱しているミニ吸血鬼に直撃していたからだ。
「《並行詠唱》『1』『2』『3』『4』『5』」
しかし葉名は執拗に後ろにいるミニ吸血鬼を狙い、それを全てラミアが受け止めた。不可視の斬撃は確実にラミアを傷つけていく。
──シャー!
葉名は一歩分体をずらし、ミニ吸血鬼の突貫を避けると、その流れでミニ吸血鬼の後頭部を掴み床に叩きつけた。
片手でミニ吸血鬼を掴んだまま葉名は自分の背後にもう片方の手を向ける。
──クキャー!
「『クロスウインド』」
ピタッとラミアの肌に手がついた瞬間、その掌から十字に渦巻く風の刃がうねりを上げた。
完全に無防備だったはずの背後から首筋を狙ったラミアは逆に大ダメージを負いながら吹き飛ばされた。そして葉名は掴んでいたミニ吸血鬼に意識を向ける。
「『イグニッション』」
──シャ! シャー! シャー!
それは点火の魔法。火を着けるだけの魔法だが、葉名が手を離せば火達磨になったミニ吸血鬼が凍った床を転がりながら悲痛の声を上げた。
「バンちゃん!?」
「……もういいでしょう。おとなしく高江さんを渡しなさい」
片手に炎を纏わせて言う葉名に、それでも真紀は首を振る。
涙を流しながら震える足で恐怖に立ち向かう。
「そう。ならもう言うことはない」
葉名は下げていた手を上げて、その手に力を込める。
「『ディフュージョンファイア』」
少し前に葉名が放った魔法、『フィールファイアー』とは比べ物にならない程、部屋を埋め尽くす勢いで炎の塊がひしめき合う。
それらは葉名が上げた手を振り下すと一斉に掃射された。
──クッキャー!
「ラミアっ!!」
──クキャァア!
真紀と詠唱中のミニ吸血鬼へ向けて放たれた火球を両手を広げたラミアが一身に受ける。一点集中された火球は悲鳴を上げるラミアへと容赦なく降り注がれた。
傷だらけの体は更に火傷を負い、『クロスウインド』を受けた傷が痛々しいほどに広がり、その姿は徐々に光に包まれていく。しかしそれでもラミアは真紀が駆け寄ろうとしたのを止めた。
──クキャァアア!
言葉は分からなくても、ラミアの叫びは真紀の足を止めるには充分過ぎるほどであった。
そう、いま真紀が守ろうとしているのは、一番守らなければならないのは……後ろで倒れている世界で一番大切な──。
「消えなさい」
──クギャッ!
ラミアが完全に光へと変わり、残った火球が詠唱するミニ吸血鬼の元へと降り注ぐ。
「~っ!!」
真紀の全身に痛みが走った。ラミアと同じように両手を広げ、迫り来る火球をその身で受け止めたのだ。
奥歯を噛み締め、必死にその痛みを耐える。血反吐を吐きながらも真紀はその場から離れようとはしなかった。
「あの日、誓ったんだ! どんな事があっても、守るって!」
たとえそれでこの身が業火に焼かれようとも。
全身全霊をかけて彼女を守ると。
それは過去の償いもあったのかもしれない、己に降り掛かる罪悪感を少しでも和らげるためだったのかもしれない。
しかし、たとえそうであったとしても……この底抜けに優しい人を守りたいという気持ちだけは本物だったはずだ。
炎の一斉掃射が止まると、真紀は崩れ落ちそうになる足を必死に踏んばり、か細く消え入るような声がミニ吸血鬼に届けられた。
「ばんちゃ……。準備、いいね?」
──フシャー!!
真紀は一枚のカードを掲げる。それは大量の水が荒れ狂う厄災のカード。
ミニ吸血鬼の眼前に広がるのは幾重にも刻まれた大量の魔法陣。それは天災の如き雷を一点に集中させる極大魔法。
「『大洪水』!!」
──フシャァアア!!
大量の水が瞬時に部屋を呑み込んだ。大窓からは滝のように水が流れ落ち、その壁に罅を入れる。指向性を持った水は葉名だけではなく、真紀の目の前にある全てを巻き込んでいった。
全ての魔法陣が金色に光り、激しく轟音を響かせながら収束していく万雷の魔法。それは激流に逆らって踏ん張り続ける葉名へと狙いを定め、一筋の雷光が部屋を撃ち貫いた。
極太のレーザーにも見えるそれは確実に葉名を捉え、一直線に破壊を撒き散らす。迸る雷が闇夜を照らし、雷を纏った激流が一拍遅れて破壊された壁と共に落ちていく。
一切の遠慮を捨てた真紀の切り札はやがて終息していき、大きな風穴が空いた部屋で真紀は力なく倒れ込んだ。
もう既に真紀の限界は超えていた。全身が悲鳴を上げ、霞む意識を無理矢理奮い立たせ、真紀にはもう立ち上がる事すら出来なかったのだ。
しかしそれでもまだ悠々と立っている女性を見て、真紀は表情すらまともに作れないまま涙を流す。
届かなかった。
全身全霊を込めて、大事な仲間や自分すらも擲って、そこまでしてもなお……葉名梨子には届かなかったのだ。
「ぅ…ぁ」
葉名は無造作に真紀の髪を掴むと思いっきり持ち上げた。
力が入らず、重力に従って垂れ下がる手足。ボロボロの体からは生気が感じられない。
「……無力ね。もっとも圧倒的な力の前では全てが無意味なのよ」
「……ぁ…っ」
葉名が片手を振るえば側にいたミニ吸血鬼が光に変わる。逆転の目はもうない、真紀に葉名を止める術はもう無くなったのだ。
そのはずなのに、葉名は真紀の目を見て明らかに表情を歪ませた。
「本当に吐き気がするわ」
動くこともままならない真紀の髪を掴みながら、もう片方の手を握りしめその顔面を殴る。血が飛び散り、それでも倒れることすら許されない。
葉名はもう一度真紀の目を見ると、また同じように拳を打ち抜いた。
「どこまでも無力で、何一つ助けられなくて……ただ泣くことしか出来ない、能無しのくせに!!」
どうしたってその瞳に宿る光は消えてくれない。
何度殴られようが、何度痛めつけられようが、抗い続けるその姿が憎たらしくて堪らない。
「死力を賭してでも守り抜きたいなら! ちゃんと最後までっ、守り抜きなさいよ!!」
重ねて見えたのだ。その姿勢が、その瞳が、過去の無力な自分に。
そして真紀が昔の自分なら、今の自分は──。
「終わりよ。さよなら、もう一人の私」
今更、止まることは許されない。
葉名の手に集まるのは青色の光。それは斬撃を飛ばす魔法。勢いよく振り上げられた手が真紀に向かって振り下ろされる。
「…ぁ…め、だめ! やめてぇ!!」
魔法が発現するまであと数ミリほど。
手を止めたまま、葉名は真紀の後ろで寝ていたはずの美唯菜を見て目を丸くさせた。
「驚いた。もう意識が戻ったのね」
「ぇ、て……に…げ、て…………ゃ……く」
真紀が掠れる声で必死に言う。美唯菜さえ逃げてくれたら、美唯菜が無事ならそれでいい。それだけで真紀の心は報われるのだ。
真紀は上がらないはずの手で、小刻みに震えるその手で葉名の手を掴んだ。美唯菜に意識が戻ったのなら、美唯菜には『浮遊』のカードがあるから空からでも逃げられる。その間さえ時間が稼げれば!
「分かってる? 佐鳥さん。貴女……死ぬわよ?」
途中で止まった手を最後まで振り下ろせばいい。ただそれだけで、真紀は命を散らすことになる。
しかし、弱々しく握る真紀の手が一向に離れることはなかった。朦朧とした意識の中、ただ美唯菜を逃がすことだけを考えて。
「ゃ…く。はや……く……に…ぇ……」
「にげれ、ないよ。逃げれない」
葉名が静観する中、美唯菜は立ち上がりながらそう言った。
それが例え友達の今までの行動を無かったものにしようとも、その決意や想いを踏みにじる事になっていたとしても、美唯菜には友達を見捨てて逃げる事なんて出来はしなかったのだ。
「ど……し、て……は…ゃ…」
「高江さん。分かっているとは思うけど」
立ち上がった美唯菜に葉名が忠告する。その忠告がどういうものかは真紀の首に添えられた青く光る手が何よりも物語っていた。
「せんせー。まきちゃ、離し、て」
「……それは貴女の行動次第ね」
「……ぁ…め」
真紀の必死の言葉を、美唯菜は敢えて聞かないふりをする。眠っていた間に何があったのかは分からないが、真紀のその姿を見れば容易に想像ができた。
部屋もボロボロで、それ以上に友達の姿が痛々しくて……こんなになるまで真紀は美唯菜を守っていたのだ。文字通り命懸けで。
「どうすれば、いいの?」
美唯菜は葉名を見据えてそう言った。
真紀の行動全てを無駄にしようとも、真紀の命を救えるならそれでいい。真紀を見殺しに出来るほど、美唯菜も人が出来ていなかった。
葉名はそんな美唯菜に向かってとても満足気に笑う。
「簡単よ。抵抗しないで私と一緒に来るだけでいいわ」
「……め、みぃ…ち…ゃ……にげ……」
無論どこに連れて行かれるのか、その後はどうなるのかは想像もできない。だが、ここまでしたのだ、簡単に帰してくれるほど生易しいものではないのだろう。
「わかった」
美唯菜は二つ返事でそれを了承した。
そう。美唯菜はそうなのだ。真紀の顔色がみるみるうちに真っ青になっていき、力なくその場で藻掻く。
「それじゃあ向こうまで歩きなさい。変なこと一つでもしたら……分かっているわよね」
「うん」
美唯菜は葉名の指示に従って葉名が指差した方向、窓があった場所へと歩き始める。
だめ、ダメだ。それだけは絶対に駄目なんだ。どんな事があってもそれだけは避けないといけない。行かせてはならない、大切な友達だから、失いたくないから。
「あ…ぁ……ぁ」
美唯菜の歩みは止まらない。真紀には止めることができない。
美唯菜が連れて行かれてしまう。それは一体どうして? それは一体誰のために?
「……ぁ…ぁ」
これじゃあまるで──。
「まもって、くれて。ありがとう。今度は、わたしが、守るばん……だから」
美唯菜は言われた場所から振り向くと、笑顔で真紀にそう言った。
気付けば真紀を掴んでいた手は離されていて、葉名は美唯菜の元へと歩いていた。
「……ぁあ……」
這いずりながらも葉名を追うが、その距離は一向に縮まらない。手を伸ばしても、その手は届かない。その手は何も掴めない。
どれだけ強く否定しようとも、どれだけ強く願っても、その現実だけは変わってくれない。
葉名が美唯菜の隣に立ち、そこに一陣の風が吹き荒れる。
その風は二人を包み込むと……やがて音もなく消え去った。
「あ……ぁあ……ああ」
そこには何もなく、誰もいない。
静寂に包まれたその部屋で、
「……ぁあ、あああああああああああ!!!!」
ただ少女の叫び声だけが響いていた。
??「やぁ、こんばんわ。突然すまないね。今回はチュートリアル・ワンではなく、この私が章最後を彩らせてもらおう。なにせチュートリアル・ワンは今──おっと、これはまだ言えないのだったな。
さて。高江美唯菜が連れ去られ、相馬奏には高坂桐花が立ちふさがった。そんな中、人知れず乙成金男がある人物と会っていた?!
異変に気付いた高江美蓮を阻むのはかつての同胞だった。そして過去に苛まれる葉名梨子が高江美唯菜に出した提案とは?!
始まりの終わりはもう既に始まっている。さぁ、次章の幕を開こうじゃないか。
……だがその前にCMというやつだ、もっともそのCMが終わるのはいつになるか分からんがなっ! ハーッハハハハッ!! ではさらばだ!」