98話 告白
おまたせしました。
なかなか思うようにいかなくて汗
少し長めです。
「あ"ぁ~~生き返るっ!」
そう言って体を伸ばしたのは、奏と同じクラスの田中だった。
田中は湯船の縁に腕を置き、その上からうつ伏せに頭を置く。力を抜けば体は徐々に浮いていき、だらしなく尻が湯から半分ほど顔を出していた。
「で、どうなんだよ。まだ高江と喧嘩してんのか?」
うつ伏せのまま同じ湯船に使っている根元に進捗を聞くと、根元は首を振ってそれを否定した。根元が首を振ったのを田中は見えないわけであるが、雰囲気で察したようで軽く息を吐いた。
「いつもならすぐに仲直りするんだけどねー」
「お前が高江の彼氏を取ったりするからだろ」
「とってないし」
天井から溜まった水滴が一雫根元の前を通り過ぎ、湯に当たる衝撃で、反射する雫が根元の胸元へ当たる。そのなんとも言えないような冷たさが、熱く火照った体に違和感を残して、根元は深く体を湯船に浸からせる。
「だいたい何回も言ったのに聞かなかった相馬くんが悪い」
「そりゃそうだ」
根元は内風呂のジェットバスにいる奏へと目を向ける。
仰向けで締まりなく口を開いている奏は、どこか虚空を見つめ、放心状態のまま噴出する気泡に身を任せていた。前触れもなく自らの白翼を掴み……そのまま羽を引き抜いた。
「……なにやってんの?」
当然根元の呟きは奏に聞こえない。
引き千切った羽根を照明にかざすように上へ持っていく。魔力付与を施すと羽根は青く光り、暫くしてそれは粉々に砕け散った。
「そういえば天族の翼とか現実ではどうなってるんだろ」
遠目で見ていた根元はそんな奏の奇行にふと疑問がよぎる。砕けた羽根の行方や、湯に浸かってる翼から毛が抜けてる様子はないことに根元は首を傾げたのだった。よく見れば湯船に羽根や抜け毛が見当たらない、あれだけ大きな翼なら迷惑になるくらいの抜け毛があってもおかしくはないのだが。
「相馬くん、それ実態あるよね」
「ん?」
奏のいるジェットバスへと移り、根元はおもむろに奏の翼へと手を伸ばした。軽く返事しただけで抵抗しない奏に根元はそのまま翼を触り、好奇心のまま手を滑らした。
「こそばゆいんだけど」
「感覚はあるんだ」
奏の苦言も意に返さず根元は翼の先から付け根まで触りたくる。そうしていると一本羽根が抜けて、暫くすると消えていった。
それを根元は眺めながら面白そうに考察する。
「感触があるし、確かに本物の翼が生えてるといっても過言じゃない。けど羽根は時間経過で消える……かぁ」
「満足したか?」
「んーもうちょい」
熱心に観察する根元だが、観察される側の奏はため息をつく。どうせなら女の状態になってからして欲しかったものだ、なんて男ならそう思わずにいられないだろう。とはいっても奏の脳裏を過るのは今もなお美唯菜の事なのだが。
「こんなところまできて温泉に入っているのに、まだ気分が晴れないの?」
奏の翼を観察しながら、根元は不意にそう言った。抑揚のないような声色でその瞳はどこか遠くを見ている。
「昔、VRで会ってた時、同じようなことあったよね?」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。君はいつも僕や彼女のことを考えてくれているのに……肝心な所が思い至らないんだ」
目を細めて少し笑う。翼を触る手が止まり、根元は奏の正面へ移動する。ジェットバスの噴射が勢いを無くす頃、根元は徐ろに自分の首元へと手を伸ばした。
「──なにを」
首元に付けている"脳にリンクする"がテーマの通信機器、コネッキングを流れるように取り外す。奏の静止の声をかき消すように湯船の噴出口から気泡が漏れ出した。
勢いに乗った気泡が根元を後ろから押して少しよろけるが、体制を大きく崩すことはなく、近くの手すりに体重を預け事なきを得る。
「深く考え過ぎなんだよ。奏が考えてるよりずっと、ボクたちは上手くやってる」
「────」
「人の心配ばかりしてないで、もうちょっと自分の思いに正直になってもいいんじゃない?」
根元はコネッキングを付け直すと、軽く息を吐いて湯船の縁に腰を掛ける。身体に湯を掛けて若干流れていた汗を紛らすと、困惑する奏へと目を向けた。
「ボクが言うと説得力あるでしょ?」
「あ、あぁ。少し心配した」
「あははっ。君らしいや」
「でも……言うとおりかも、知れないなぁ」
奏は深くため息をついた後、天井を見ながらそう言った。
最近は常に誰かを何かを心配していたのかもしれない。それが悪いわけじゃない、だけど今回はそれがアダとなった……のかもしれない。
曖昧で漠然としないものが奏の思考を埋めていく。根元の言うとおり凝り固まった考えだと、普段なら分かるはずのものまで分からなくなっていた。今だってどうして美唯菜が怒っているのか、その心の奥底は覗けないでいる。
「よし! わかった!」
「おっ、高江さんが怒ってた理由分かったの?」
「それは全然っ!」
奏の返事に間抜けな顔をする根元。一体何が分かったのか、根元には奏の考えが全く分からない。
「僕の今すべきことが分かったんだ。あれこれ考えても仕方ない、分からないものは分からないから、直接みぃに聞いてくる」
「……へ?」
「自分に正直に、だろ? あれこれ悩むのはやめて、今の自分ができる事をするよ」
奏はそう言って虚空に手を動かし、コネッキングの操作を始める。
メッセージを開いて宛先を美唯菜に、内容は分かりやすく要件だけを伝えて。
「そーですか。まぁ、頑張りたまえ」
「ああ、行ってくる」
本当に根元の言ったことが伝わっているのか怪しいところである。しかし、ついさっきまで虚ろな顔をしていた奏が生き生きとしているのを見れば、それでも良いかと息を付いたのだった。
見ればもう湯船から出ていて、更衣室に早足で向かっていた。足取りも軽く、さながら水を得た魚のよう。
そんな奏は更衣室に続く扉に手をかけるところで、思い出したかのように振り向いた。
「ミズキ。ありがとな!」
そう笑いながら言うと、今度こそ奏は更衣室へと入っていった。
噴出口から出てきていた気泡が次第に弱まっていき、少し間をおいてまた勢いを取り戻す。
「──まったく……熱いったらありゃしない」
根元は肩まで湯に浸かると、小さくそう呟いたのだった。
★
メッセージが届いたのは美唯菜の母親、美蓮がその場から去って暫らく経ってからだった。
視界端でコネッキングから知らされるメッセージ受信に、美唯菜は気付いていながらも、それを開くことはなかった。別に嫌で開かなかったわけではない、それよりも重要な事態が美唯菜の前で起こっていたのだ。
「そこよっ! ミーナ!」
「高江さん、カットだよ! カット!」
「そこスマッシュ! おっしゃぁーー!」
沸き起こる観客に向かって親指を立てる美唯菜は、対面で苦笑いしている佐鳥真紀に同じく苦笑いで返す。真ん中にネットを挟んだ長方形の台の前で、佐鳥はピンポン玉を上に投げ左手に持ったラケットで打つ。
横においてある点数台は4:8、美唯菜が劣勢である。
風呂から上がった美唯菜たち三人は、入る前に美唯菜が佐鳥と話していた卓球勝負に熱を上げていた。始めは軽いノリでピンポン玉を弾いていたのだが、ボランティアに参加していたクラスの女子に囲まれてからは、次第にヒートアップしてほぼ真剣勝負となっていた。
「頑張るのよ! ミーナ! 根性よ、根性!」
「真紀も元卓球部の意地を見せな!」
そして1番盛り上がっているのが、トリアを含む応援組である。まるで自分達のように一喜一憂するさまは、どっちが勝つか賭けてるようにさえ思える。
「三ヶ月だけ、だっ、てっ!」
田中の鼓舞に反論しながら佐鳥がピンポンを返す。力強く打たれたピンポンに美唯菜は間に合わず4:9。思わず悔しそうにラケットを握りしめる美唯菜に応援組からもつい落胆の声が出た。
「真紀、ちょっとは手加減しなさいよ!」
「卓球は常に真剣勝負! 手加減なんて許されない!」
トリアが佐鳥に抗議するが、代わりに田中が反論する。ちなみに田中は卓球などしたことがない。
トリアが「ほぉ? いい度胸ね」と言っているが、田中も腕を組んで負けじと振る舞う。
「ま、まけた」
「勝った!」
しかし勝負はいつだって実力がものを言う。
膝をつく美唯菜に両手を腰に置いて胸を張る佐鳥。5:11で佐鳥が勝利を収めたのだった。そしてトリアから野次が飛ぶ。
「酷いわ! 経験者なら少しは手加減しなさいよ!」
「ふっふっー。トリアさん、悔しいなら仇をとっても構わないんですよ?」
「なっ、言ったわね~! 望むところよ!」
トリアの野次にも負けず佐鳥がトリアを煽ると、トリアは上手く乗せられて美唯菜と入れ替わりで台の上に立った。
ラケットを佐鳥に向けて威嚇するトリアに、佐鳥が不敵な笑みを浮かべる。
こうして勝ち抜き戦卓球大会が開催されたのだった。
「残念だったね、高江さん」
「うん。ま、きちゃ、つよか、た」
卓球台から離れた美唯菜に同じクラスの鈴木が声をかける。目を見て話す癖がある美唯菜は、少し上向きに答えてそれに頷いた。
美唯菜が佐鳥とトリアの方を見ると、トリアが相手にも関わらず点を一つ取っていた。
「ゲーム情報インプット完了。さあ行くわよ!」
「負けないよー」
トリアはさっきよりも格段に良い動きでピンポンを打つ。それに加え何やら秘策があるようでずっと笑顔である。
そして佐鳥が打ち返して、トリアがまた打ち返したその時。
「『そよ風』」
「なっ! ずっこー!」
トリアが打ち返したピンポン、それはトリアの起こしたそよ風によって軌道が変わった。
不規則な軌道のするピンポンは見事に佐鳥を出し抜き、地面に落ちる。それを見た観客は大いに盛り上がる、主にトリアへのブーイングで。
「な、なによっ! ルールにはカードを使ってはいけないなんて書いてないわよ!」
「とりあ、ずるい」
「み、み~なぁ!」
ふんぞり返るトリアだったが、美唯菜の言葉に撃沈、大げさに膝をついた。そしてトリアは涙目で『そよ風』のカードを破り捨てると、勢いよく立ち上がりラケットをまた佐鳥に向けた。震える手で。
「や、やってやろうじゃないの! カードがなくたって私が勝つに決まっているわ!」
奮い立つトリアに美唯菜が「おぉ」と手を叩く。
銃弾すらも槍で弾くトリアにとってはピンポンなど止まって見えるに違いない、美唯菜が取れないような玉もトリアなら余裕である!
「ま、負けたわ」
「いぇい」
8:11。やや善戦したが膝をついたのはトリアだった。トリアは強かった、強かったが、一歩及ばなかった。
トリアは悔しそうにトボトボと美唯菜の元へ歩いていったのだった。
「がんば、た、ね」
「ええ、ありがとうミーナ」
苦笑いで答えるとトリアはちゃっかり美唯菜の横に立つ。しかし落ち込んでいるのは変わりなく、美唯菜にはその姿がいつもより小さく見えた。
「よしよし」
「み、ミーナっ?」
始めは困惑するトリアだったが、美唯菜に撫でられ続けるうちに大人しくなって、気持ちが戻っていく。周りに花が咲いたようなエフェクトと共にトリアは本調子へと戻っていった。
「そういえば恵美は太郎と兄妹なのかしら? 名字が一緒よね?」
「あー、あいつとは名字が一緒なだけで只のクラスメイトだよ」
思い出したようにトリアは佐鳥を応援する田中に問うと、田中は応援を中断して微妙な顔を作りながらそう答えた。
田中太郎と田中恵美、名字が同じならトリアがそう思っても仕方ない。兄妹でボランティアに参加したのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。トリアは「そうなの?」と呟くと、興味深そうに田中を見つめる。
「名字が同じでも家族にはなれないのね」
尖った耳に緑色の髪。男の方の田中も同じエルフを選択していた。
ここまで同じでも家族ではないらしい、家族というのは難しいものである。
「血も繋がってないし、名字が同じってだけじゃあ」
「結婚でもしないとねっ」
「ちょっと美穂っ!」
横から割り込んできた鈴木に田中が顔を赤くして怒る。そんな田中に鈴木が笑顔でラケットを手渡すと、そのまま卓球台へと押したのだった。地味に3連勝を飾って勝利のポーズを取る佐鳥の対戦相手が決まり、田中は文句を言いながらも乗る気な模様。
「私とやるなら真紀の連勝記録はここまでだよ!」
その自信はどこから来るのだろうか。今日初めてラケットを握る田中は、卓球歴三ヶ月の佐鳥に勝つつもりだ。
鈴木は当然のように佐鳥を応援して、田中がそれに声を荒らげる。
「恵美は美穂と仲が悪いのかしら?」
その様子を見ていたトリアは、田中と入れ替わりで横に並んだ鈴木にそう聞いた。さっきから鈴木が田中をからかって、田中がそれに反応していたのを、トリアが喧嘩してるかのように受け取ったのだ。
直球で聞いてくるトリアに鈴木は少し苦笑い気味で否定する。
「私たちのスキンシップみたいなものかな? トリアさんも高江さんとそんなことない?」
「ないわね」
「そ、そっか」
即答である。トリアが美唯菜以外を応援するところなんて想像もつかない。だからこそトリアは疑問に思ったわけだが。
鈴木はトリアの返事に若干押されつつも、なんとか返事を返した。そしてトリアの隣を見てふと疑問に思う。
「そういえば高江さんの姿がないけど」
「ミーナならメッセージを開いた途端に走って行ったわよ」
「えっ! どうしたのかな? 追いかけないで大丈夫?」
「問題ないわ、むしろ追いかけないであげて」
トリアの横にずっといた美唯菜がいつの間にか居なくなっていたことで少し心配をする鈴木だが、トリアの何でもないような振る舞いから、鈴木もそれ以上は口を噤んだ。行き先も知ってる様子である。
トリアは美唯菜が走って行った先を横目で追うと、すぐに佐鳥へ目を向けた。
「マキ! 私に勝ったのだから全勝は当然よ!」
胸を張ってビシッと指を差すトリアに、佐鳥は若干引き攣りつつもラケットを振る。ピンポンが弧を描いて田中の方へ返されると、負けじと田中も打ち返す。
美唯菜と佐鳥の卓球勝負は、いつの間にか佐鳥の勝ち抜き戦へと変わり、佐鳥が田中に負けて二位へ転落することで幕が閉じたのであった。
★
このホテルには各階ごとにリラクゼーションスペースが設置されている。とはいっても言うほど広いわけではなく、部屋一つ分ほどの大きさであった。
自動販売機を横に海を一望できるその場所では、基本的に一定数の人が寛ぎに来ている。しかし、日が落ちた今となっては、そこに人影は見当たらない。
ホテル備え付けのエレベーターが《ピンポーン》っと小気味のいい音を響かせると、階層を示す4が薄く光った。
エレベーターの先には正面すぐにリラクゼーションスペースが見える。
海は煌めきだした星を反射して、僅かに残った太陽の明かりが周囲を淡く照らす。
そんなガラス張りの窓から見える景色を背景に、美唯菜はソファに座る奏の元へ歩いた。そしてある程度の距離まで行くと、美唯菜はそこで奏を責め立てる。
「かって、すぎるよ」
両手を握りしめ、俯きながら言う美唯菜に、奏は一言「ごめん」とだけ謝った。
「こんかいも、うみの、ときも」
「……うん」
[4階のリラクゼーションスペースで待ってる]
美唯菜は視界に表示されたままだったメッセージを閉じると、一時間も待っていた奏にやり場のない気持ちをぶつけた。
「わたし、おこってるんだ、よ」
ソファが窓の方を向いているから、美唯菜は奏がどんな顔をして聞いているか分からない。
それは奏も同じで、美唯菜の心情は声色でしか伝わらない。奏は振り向いて美唯菜を見ようとしたが、途中で思いとどまり窓の外へ視線を戻した。目を見て話す自信がない。意気揚々とうず巻いていた割には、奏は美唯菜を見ることすらできなかったのだ。
「……ごめん」
奏の口から出たのは二度目の謝罪。
それ以外の言葉を張り巡らせても、それは口から出ることがなく、結局意味の持たない謝罪だけが美唯菜へ送られた。
「どーして……どうして、あやまる、の?」
「分からない……分からなく、なったんだ…………みいちゃんが怒ってるのかどうかも」
奏には、その声色がどうしても怒っているようには思えなかった。口頭で美唯菜が怒っていると主張していたのにも関わらず。
しかし、美唯菜は奏のその言葉に思わず口を噤んでしまう。
「みいちゃん?」
奏が困惑したのは美唯菜が黙ったからではなく、突然奏の横に座りだしたからだ。それまでの距離は一瞬で詰められ、二人の間は僅か10cmほどとなっていた。
太陽の残滓は夜に消え、星が輝き流れ落ちる。
しかしそれに気づかぬほど奏の心は激しく動いていた。
横目で見た美唯菜に奏はつい目を奪われたのだ。まるで夜を纏ったかのような、キラキラと艶めく黒髪に、マリーゴールドを彩った浴衣。若干火照った体の熱が、こんな状況にも関わらず奏に伝播していく。
「『こねくと』」
美唯菜が自分の首元に触れると、コネッキングから指先に糸のような光が生まれた。指先を動かせばその分だけ光は伸びていき、奏の手前でそれは止まる。
美唯菜は無言で奏を見ると、動きを止めた。何かを待っているようにジッと見つめる美唯菜に奏は思わず生唾を飲んだ。
「『コネクト』」
美唯菜と同じように自分の首筋に指先を乗せる。そうしてシステムの起動キーを口にした。
光はコネッキングから指先に伝わり、指先は美唯菜の差し出した指先に触れる。
「モード『オーバーリンク』」
「もーど『おーばーりんく』」
その言葉を口にした瞬間、奏と美唯菜に自分のもの以外の感情が流れてきた。怒り、悲しみ、戸惑い、はたまた欲情さえもお互いの心が垂れ流される。
お互いの胸の内が手に取るように伝わり、二人は指先に繋がった糸を絡めるように手を繋ぐ。
美唯菜が促し、奏が受け入れたのは思考の共有化。お互いがお互いの胸の内を全て曝け出す究極の意思疎通法。
『私ね、友達と初めて海に行ったんだ』
奏の脳内に響くのは美唯菜の声色。柔らかくて暖かな、いつもと変わらない優しさがあった。
奏は黙ってそれに応えると、美唯菜は返事を聞かずに続きを話す。
『ビーチボールで遊んだり、田中さんが……クラスの友達、田中恵美ちゃん。がね、浮き輪用意してくれてね、一緒に浮き輪に乗ってプカプカ浮いたり』
知ってる。ずっと見ていたから。
そんな思いが美唯菜に伝わっていても、美唯菜は今日起きた事を一から数えるように教えた。同時にその時撮った写真も奏に見せながら。
真紀ちゃんの所のバンパイニャが海を凍らせて葉名先生に怒られたこと。
そのあとなし崩し的に葉名先生も一緒に海で遊んでくれたこと。
トリアがスイカ割りで百発百中だったこと。
田中恵美ちゃんが田中太郎くんのこと、実は好きなんじゃないかって気づくと、鈴木さんがシーッと唇に人差し指を乗せたこと。そのあとは鈴木さんと一緒に二人をくっつけようとして画策したり、そこにトリアと真紀ちゃんが混じって──。
『楽しかった』
美唯菜からは嬉しくて楽しくて、そんな感情が流れてくる。本当に混じりけなく本心から言っているのだと、奏もそれを理解した。
それはたとえコネッキングの機能に頼らなくても、今日の出来事を話す美唯菜を見ていれば一目瞭然というものだ。
だけど、モード『オーバーリンク』は、その感情の奥底までも奏に伝えた。
楽しくて楽しくて、だけど素直に喜べない、もどかしいような苦いような、そんな感覚。
そんな思いに言葉をつけるならきっと──
『私ね、悲しかったんだ。奏はどうして来てくれないんだろう……って、ずっと思ってた』
笑っているような、泣いているような、星を宿したその瞳はどうしてか酷く光を失っているように見えた。
『奏が私の為を思って、わざと海へ入らなかったのは気づいていたよ。奏が来ちゃうと皆遠慮するから』
『……でもね、奏ずっと笑ってた。私が知らないような、私といる時よりもずっと楽しそうに』
それは奏も美唯菜を見ながら感じていた。自分といるときよりもずっと笑っている美唯菜に、奏も寂しさを抱えていたのだ。
それでも美唯菜にはクラスの友達と笑い合えるようになってほしくて。
『そしたら、もしかしたら奏は私といるのが負担だったんじゃないかって。気付いたらそんな事を思ってた』
『そんなことないっ』
『わかってるよ。繋がってるんだもん。奏の気持ちは伝わってる』
美唯菜が自動販売機にリンクして缶ジュースを二本買うと、奏が磁力を操る魔法でそれを引き寄せた。
口頭で「ありがと」とお互い伝えると、奏は片手で美唯菜の缶ジュースを開ける。手は繋いだままで、二人は缶ジュースに口を付けた。
『でもね、私がみんなと遊んでいるところを見て、少しでも奏は肩の荷が下りたんじゃないかな? ずっと私の心配ばかりしてくれていたから』
『それは……』
間違いとは、言えなかった。確かにそう思った自分がいたのだ。美唯菜に笑い合える友達ができて、今まで奏にだけだったのが、いつの間にか奏よりも多くの友達ができた。
心に余裕が出来たことは紛れもなく事実だった。ごめん、と謝る奏に美唯菜は優しく首を振る。
『ううん。私のせいで奏に重荷を背負わせたんだよ』
『重荷なんて思ってない』
『それでも、だよ。だから私がみんなと仲良くなれば、そのぶん奏が離れていくんじゃないかって、だから来てくれないんだって』
胸を締め付けるような思いが奏に伝わってくる。
美唯菜が海で奏を見たときを思い出せば、奏もその光景が共有される。砂浜で笑う自分は奏からみても随分と楽しそうで。
『それで奏が楽になるなら、そっちの方が絶対良いんだって。でも、もしこのまま奏が私から離れてしまったらと思うと、不安で……怖くて』
だから、どうしたらいいか分からなくて、奏にあんな態度をとってしまった。
正直怒っていたりもしていた、けれどその怒りも長くは続かなくて、残ったのは不安と焦燥と……恐怖だけだった。
『ごめんね、めんどくさかったよね』
……ここまで美唯菜に言わせて、奏はようやく理解した。どうして美唯菜が怒りの感情を全面に押し出していたのか、口を膨らませていたその表情に、どうして陰りがあるように感じたのか。
『……みいちゃん。僕はね、みいちゃんが今まで味わえなかった高校生活を取り戻してほしいって考えていたんだ』
奏は零しかけた美唯菜の涙を掬いながらそう言った。
下を向きそうになる美唯菜に奏は優しく微笑んだ。
『きっと今よりもずっと楽しい高校になっていたはずだから。沢山の友達がいて、沢山笑って、そんな高校生活をみいちゃんに送ってほしい。それは今でも変わらないよ』
美唯菜の声が戻ってきている。現実世界でも喋れるようになってきている。それは奏だけの力じゃなくトリアや佐鳥、他にも美唯菜を取り巻く人達がいたからだ。
穏やかな感情が美唯菜に送られていくのにも関わらず、美唯菜の瞳は涙に溢れていく。だってそれは奏が離れていくようにさえ感じられるから。
『でもそこに……そこに奏がいなきゃ意味がない!!』
たとえ我儘だと言われたって、奏に距離を置かれるのは耐えられない。それならいっそ前に戻ったほうが──
『離れないっ! 離れないよ』
奏は美唯菜の肩を掴み、力強く抱きしめた。
指先を伝っていた光の糸が二人の間を絡めるように包み込む。
『僕だってみいちゃんと離れるのは嫌なんだ! みいちゃんが望むなら、僕はいつだって傍にいる!』
手に持っていた缶ジュースが音を立てて床に落ちた。
しかしそれも気づかないほど美唯菜に奏の感情が溢れ込んでくる。美唯菜も持っているこの想いが、奏から。
『みいちゃんがそれを我儘だというなら、僕の方こそ勝手が過ぎてる。みいちゃんにはもっと皆と笑い合って、僕以外の人とも沢山交流を持ってほしい。それなのに僕は……みいちゃんの特別であり続けたい』
美唯菜に信じられる人がいなくなった時、ずっと隣りにいたのは奏だった。美唯菜にとって家族を除けば奏しかいなかったのだ、それこそ依存してしまう程に。
きっと奏が自分の気持ちを言葉にして伝えたなら、美唯菜は二つ返事で頷くだろう。受け入れてくれるだろう。しかしそれは許されない。美唯菜の奏に向ける想いは、その依存性故のものだから。
だから、美唯菜の周りに人が集まっていけば、次第に奏への想いは依存と共に無くなっていくのだと……そう思わずにはいられなかった。それでも美唯菜が元気になってくれるなら、そのほうが良くて。
『奏。これ見て?』
言葉とともに奏の思いが美唯菜へと伝われば、美唯菜は徐に右手の薬指を奏に見せた。
そこには銀色をした一つの指輪が嵌められてあった。
その指輪の名は"約束の指輪"。奏が自分の持てる全てのMPを注いで『守護』を施したあと、美唯菜の右薬指に嵌めたものである。
『これを渡してくれた時も、そんな気持ちだったの?』
『……違う。それは』
《今は頼りない僕だけど、いつか君に見合う男になるから》
《その時は僕からの指輪を左側に贈らせてほしい》
それは美唯菜の依存に甘んじたわけでも、いつか忘れられるものだと思いながら言ったのではない。決して中途半端な気持ちで言ってなどなかった。
依存だとかそういったものは全て置き去りにして、自分の心の向くまま美唯菜に誓いを立てたのだ。
『嬉しかった。とっても嬉しかった。その日の晩、嬉しくて泣いちゃうくらい嬉しかった』
そう言うと美唯菜は、とても愛おしそうに、薬指に嵌めた指輪に口付けをする。目を細めて指輪を眺めたあと、奏を見上げてジッと見据えた。
呼吸を整えて、大きく息を吸うと、美唯菜は大きく口を開く。
「みくびらないでほしい」
透き通った声が奏へと届く。力強くも凛とした美唯菜の声が奏の心に強く迫る。
息をつまらせる奏に美唯菜は湧き上がる感情をぶつけた。
『優しいところ。辛いとき一緒に悲しんでくれるところ。落ち込みやすいところ。無駄にカッコつけようとするところ。想いに応えようとしてくれるところ。笑うと胸が温かくなって、私まで一緒に笑ってしまうところ。そばにいるだけで私の心は弾んで……それだけで私は幸せだと感じるんだよ』
溢れる想いは全て奏への気持ち。
温かくて柔らかで、それでいて胸を締め付けるような。だけど……それがとても愛おしい。
切なさも、ほろ苦さもその全てが美唯菜にとってはかけがえないもので。
『この想いは偽物なんかじゃない。絶対に、依存なんかじゃない!』
どれだけ友達が出来ようが、どれだけ違う時間を過ごすことになったとしても、それでこの気持ちが消えることなんてありえない。そんなもので消えるほどの想いなら──
『だから、ずっといるよ。これまでも、これからも、奏は私の特別だから』
──こんなに悲しくなんてなるはずがない。
自分の気持ちが依存によるものだと言われて、こんなにも胸が苦しくなるわけがない。
大好きだから。
この想いをそんな風に受け取ってほしくなくて。
この気持ちは本物だと、心の底からそう思えるから。
『かなと?』
呼びかけても返事がない。
奏からくる感情の波はグルグルと渦巻いて、美唯菜ですら読み取ることは出来なくて。それでも美唯菜が奏の顔を見れば「ふふっ」と笑みを零さずにはいられなかった。
『……こういう時、どう応えたらいいのか分からない』
そう言う奏の顔は熟れた林檎のように真っ赤に染まっていた。口許を片手で隠し、それでもその熱を隠し切ることはできない。
思ってもみなかったから。もしかしたら、とは思っても、心の片隅にはずっと纏わりついていたから。
『本当に僕で──』
『さっきからそう言ってる』
『ゲームオタクだし』
『私もゲーム好きだよ』
『ヘタレで』
『そのくせいつも私の前を立ってる』
『さっきだってみいちゃんを悲しませた』
『じゃあこれから沢山幸せにしてもらわないとね』
『ほかには?』
言葉に詰まる奏に美唯菜が続きを聞く。
奏はあれやこれやと言葉を探すが、美唯菜の想いを覆すほどの言葉なんて見つかるはずもなかった。もう分かっていたのだ、勘違いしようもないほどに美唯菜から伝わる想いは本物であると。
『……僕は、幸せ者だ』
『ふふっ、急にどうしたの?』
隣で微笑む美唯菜に奏は小さく深呼吸をすると、左手を美唯菜の頭の上に置いた。猫耳がピクリと動けば、奏の左手は吸い込まれるようにそこへ行く。
「みいちゃん」
「ん?」
伝えたいことが沢山ある。
今回のすれ違いだって解決したかどうか怪しいものだ。
けれど、何よりも先に伝えないといけないことが一つだけ。
「僕を外に連れ出してくれたあの日からずっと」
「うん」
「高江美唯菜さん、貴女が好きです」
ずっと言えなかった言葉。どれだけ好意を曝け出しても、その二文字だけは絶対に出さなかった。
ざわつく心は奏のものか、美唯菜のものか、どちらにせよ二人の心臓は鳴り止まない。
「わたしも、わたしもだよ。かなと。きみが好き」
二人の間に壁はもう残ってなかった。奏が離れていく寂しさも、美唯菜に対する不安も、もう心のどこにもありはしない。
二人はお互い見つめ合うと、優しく微笑み合うのだった。
それからは寄り添うようにソファに座り直し、満天の星を眺めながら、お互いの心を確認し合うように意識を澄ませた。それがとても心地よくて、二人は息をするようにお互いへの気持ちを膨らませた。
『そういえば奏、さっきから呼び方昔に戻ってるよ』
『えっ、そうだった?』
『うん、懐かしい』
他愛もない話。だけど二人の距離はいつもよりずっと近くて、肩を寄せ合えば自然と会話が弾む。会話の内容なんて何でもいい、ただ話したくて、この時間が二人にとってかけがえのないものだから。
そして話し込んだ末に、美唯菜はふと窓の外を見ながら言う。
『私ね、奏がそばにいてくれるって分かったから、だから』
『うん。みいちゃん、だけど無理は』
『大丈夫』
『うん』
奏がそれに応えると溢れんばかりの気持ちが奏へと流れ込む。もう言葉はいらなかった。握る手が熱を帯び、心臓の鼓動すらもお互いが把握するように。