閑話 宴のあと
「桃の花が好きか」
ふらりと庭で桃の木に手を伸ばすあやにそう声をかけた。
あやには大きすぎる黒布銀糸の長衣が風に遊ぶ。
お開きになった宴のあと、途中で部屋に運んだあやの様子を見に来てみれば臥牀で寝ているはずのあやはそこには居らず、中庭に続く扉から風で散った桃の花びらが舞込んでいた。
最近、桃の花が咲いてからあやはそこにいることが多くなった。
それまでは一所に留まることなくあやの好奇心が赴くまま、色々な所を探し回らなければならなかったのが、近頃あやは決まって桃の木が見える場所にいる。
そういう時、あやは邸に着いてから人前で着る事のなくなった、南の地から離さず持ってきたあの黒布銀糸の長衣を羽織っている。
そして夏侯惇は訳のわからない不安と焦燥に襲われることが多くなった。
「惇」
いつだったか、一度だけ聞いた呼び方で夏侯惇を呼んであやが振り向いた。
桃の花は美しかったが、その下にいるあやはいつもこわかった。
だから夏侯惇は桃の花が嫌いになった。
いっそこの木を切ってしまえばこんな感情ともおさらばできるのか。
「桃の花が好きなのか?」
重ねて問う夏侯惇にしかしあやは意外にも微笑んで首を振る。
肯定の言葉が返ってくるのだとばかり思っていた夏侯惇が少しだけ眉を動かした。
先を急かす事もなく、静かに立つ夏侯惇はかつてあやが見惚れた彼と寸分の違いもなく今も凛とした立ち姿が美しい。
そのことが嬉しくてあやは口を開く。
「とても好きな花があるの」
あやは目の前に垂れた枝に手を伸ばし触れる。
桃の花とあやの白い手と銀糸の刺繍がされた黒布が美しい彩のコントラストを浮かび上がらせる。
「この花はそれにとてもよく似てる」
あやは桃の木から目を離し独り言のように言った。
「色も形も、風に舞う様も、月に映える様も、とてもよく似てる。」
見上げた月は円く、照り輝いて、やっぱり不安を煽る。
以前にあやをこの木の下で見つけたとき、あやは苦手なはずの裾の長い着物を着ていた。
その色はこの桃の花に似ていた。
そう夏侯惇が言えば、あやは違うと笑った。
「これは桜色と言うのよ。桃の花よりもっと薄くて染やかでしょう?」
南の地から持ってきた長衣に包まるあやを見るたびにかなしくなっていた。
それを羽織るあやはまるで手が届かない月のように遠い人のように思えて。
同じ事をその時の彼女にも思った。
桜色の美しい衣を着る彼女にも。
夏侯惇が贈ったその着物はあやによく似合っていたが、きっともう彼女にこの色の贈り物をすることはないだろうと、そう思う。
「故郷の花よ、桜というの。」
あやが懐かしく思い出す情景はあまりにも美しく、幸せに満ちている。
見上げた空だけは変わらない気がして、昔はほとんど見ることのなかった空を見ることが癖になった。
桃の木の合間から見る、やはり変わらない空はあやを少し寂しく、少し嬉しい気分にした。
「花王と、そう言えばそれを指すほどに沢山。とても、とても綺麗なのよ。いつか、見せてあげたいわ」
静かな声に万感の想いが籠もっていた。
夏侯惇はやっと気付いた。
彼女はずっと帰りたかったのだ。
花王と言えば迷わず牡丹を思い浮かべる夏侯惇はあやの故郷との違いを想った。
切ないほど、痛いほど、彼女は故郷を想っている。
何か胸を満たしていく感情に、夏侯惇はああと思った。
泣きたいのだ。
どこか遠くを見て、自分を映さないあやがどうしようもなくかなしかった。
どうにもできないもどかしさが感情を迫り上げる。
とうの昔に疎遠になった感情の波に押し流されそうになりながら、夏侯惇は無力感を覚えていた。
今でも、一人で寝る夜は黒布銀糸の長衣に包まって寝ているのを知っている。
時々口ずさむ歌が聴いたことのない旋律と知らない言葉で出来ていることを知っている。
さ迷う目線が無意識に誰かを探していることを知っている。
一人で空を見上げて、声もなく誰にも見えない涙を流していたことを知っている。
「帰してやろうか?」
見開いた目に一瞬輝いたのは期待の光だったと思う。
「南の地へ。お前の故郷へ」
あやの目は直ぐに苦笑に細められ、落胆は隠された。
誰にもどうすることもできないと知っているのに、希望を捨てられない自分に嘲笑が漏れる。
「南へは帰るのよ。自分の意思で、自分の足で。ちゃんと帰るわ。」
夏侯惇の力がなくとも、帰れる場所。
帰ると決めている場所。
そして帰るだろう場所。
待っている人がいる場所。
大切な人がいる場所。
守りたい場所。
第二の故郷。
それでもあやは彼の地を想う。
夏侯惇の力があっても、行き着けない場所。
帰りたい場所。
帰れない場所。
待っていないかもしれない人がいる場所。
大切な人がいる場所。
生まれ育った故郷。
心が還っていくところ。
夏侯惇の横をすり抜け、あやは部屋に消えた。
小さな齟齬と疑問を残して。
あやは帰りたいのだ。
南の地へ。
本当に?