14話 紡がれる糸
馬を駆けさせる。
もはやそれしか方法はない。
黄忠は時々後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、前を行く魏延の迷いない手綱捌きに勇気付けられるように自分も馬の腹に力を入れた。
「魏延、これからどうするというのだ?」
冷静に考える暇もなく、二転三転する状況に振り回され、やっと一段落してから周りを見渡してみれば、自分の置かれた状況がたった数日前で正反対になっていた。
愕然とした感情や落胆よりも、気力を使い果たした後に来る、脳が弛緩したようなぼんやりとした思考で黄忠は同じように木に寄りかかって隣に座り込んでいる魏延に声をかける。
多分魏延も自分と同じように状況に対処するのに手一杯でそんな事考えていなかったに違いないと思うのに。
それでも黄忠は若い友人に聞いてみた。
「し、し、新野に、行く」
しかし、黄忠の予想に反して魏延は答えを持っていた。
迷いなく。
「新野?…というと劉備将軍の元に?」
魏延が答えたことにもだが、その内容にも驚いて黄忠は気が抜けていた思考がまともに働き出すのを感じる。
「…しかし、劉備将軍は現状劉表様の客将。我々を受け入れるとは到底思えぬぞ」
心の底はどうだか知らないが、劉備は自分たちの主である劉表の下についているのだ。
黄忠は胸中でそう呟いて苦笑した。
今の表現は正しくなかった。
今となっては元・主の劉表というのが正しい。
望んでそうなったわけではなかったが、今や自分たちの扱いは反逆者。
そしてその逃亡者を劉備が受け入れるとは考え難い。
もし受け入れたとしたらそれはつまり劉表に反旗を翻す行為に他ならないからだ。
それはありえない。
劉備は劉表に逆らえるほどの力をまだ持っていない。
「し、新野に行く」
しかし繰り返して言う彼の意思は固そうだった。
「…ではそうしようか」
黄忠はそこが自分たちの終焉の地かと思いながらも、魏延に従うことを決めていた。
魏延をここまで巻き込んでしまったのは自分だという自覚がある。
先日まで、刃を交えていたのは突如侵攻してきた呉軍。
次々に破れていく同僚たちの中で、黄忠と魏延の隊は何とか踏みとどまっていた。
呉は新興勢力ではあったが、その勢いははるかに自分たちより上をいく。
戦ってはっきりとわかるその違い。
呉はこれからこの乱世を駆け上がっていくだろう。
黄忠はいつか負けるだろうと感じながらも長年仕えて来た劉表に報いるために、この身が朽ちるまで戦おうと思っていた。
その最期を、このように生まれ出でようとする新たな息吹と対峙して終われる事に感謝すらして。
しかし、黄忠の人生はそう綺麗には終わらなかった。
激しい戦いの中、偶然刃を交えた若者がいた。
強く、激しい目をした、青年。
まるで止まれば死ぬといっているかのように、駆ける。
黄忠はその姿に一瞬見惚れさえした。
そして既視感。
誰かの目に似ていると思った。
こんな風に激しすぎず、こんな風に目に見えた熱でもなく、それでもその目は彼女がふと見せる強い輝きに似ている。
はっと思ったときには地面に叩きつけられていた。
力で競り負けたわけでもなく、技術に劣っていたわけでもなく、ただ運命のなせる業。
風はその若者に吹いているのだろうと、転倒した自分の馬の姿を目に入れて思う。
神が、彼を生かそうとしている。
何故か黄忠はそれを当然のように受け入れて、悔しいとも思わず来たる最期を待った。
「ふうん、この腐った地にもお前のような者がいるんだな」
感嘆のような若者の呟きが上から降ってきて、黄忠は思わず顔を上げる。
若者はあの激しさを消して、悪童のように黄忠に向かって笑った。
「老将、中々いいものを見せて貰った」
健勝でいろよ、次に会うのを楽しみにしている。
そう言って、彼は黄忠にその剣を振り下ろすことなく馬首を廻らせて駆け去っていく。
呆然として、黄忠はそれから笑った。
沸き上がる熱に任せて弓と剣を引く。
馬を失ったが、健脚は失っていない。
自らの足で戦場を駆け、敵を蹴散らしながら爽快さに声高らかに笑う。
清々しく、気持ちの良い気分だった。
あんな若者がいる国に、この軍が勝てるわけがない。
それでも、奮起する。
なんという僥倖の出会いだろう。
堂々と、一対一で戦って勝ちたい。
そう思える相手にこんな所でまた出会えるとは。
上機嫌の黄忠を嬉しそうに魏延が、不気味そうに上官である韓玄が見ていたことには気付かなかった。
彼と会ったのはその直ぐ翌日。
会ったというのは正しくないかもしれない。
やはり戦いの中で、熱風を思わせる存在感が彼にはあった。
引き寄せられるようにその姿を見つけ、黄忠は咄嗟に得意の弓を引き絞った。
今なら確実に彼を射れる自信がある。
こちらに気付いていない今なら。
黄忠は狙いをひたと定めて、しかし弓を下ろした。
黄忠がしたいのはそういう戦いではない。
死ぬはずだった自分の命を見逃して、賞賛の言葉をくれた彼にしていい行為ではない。
だから黄忠は剣を抜いて自分も戦いの中に身を躍らせた。
―思えばその判断がその後を狂わせたのだ。
だが、こんな状況になってすら弓を下ろした事に対する後悔は少しも浮かんでこない。
事態が急転したのはその戦いが終わった後。
韓玄が黄忠を呼び出したのが始まりだった。
「黄忠、私に何か弁明することはないのか」
正直、何を言われているのかわからなかった。
しかし韓玄のねちねちとした言葉は毒を含んで黄忠の眉間に皺を寄せる。
昔から折り合いの良くない相手だ。
歩み寄りは黄忠ですらとうに諦め、距離を置いて接するのが吉と結論している。
黄忠だけではなく、韓玄もまた同じ結論に至ったのだろう、それで長らく均衡は保たれていたというのに。
そんな男が今さらなんの真似かと考え込んでいるうちに彼は言った。
「呉軍と通じた罪は重い。よってここに斬首を言い渡す」
黄忠は一瞬目を見開いて、そして閉じた。
逆らうつもりはなかった。
要は、隙を見せた自分が悪いのだ。
ちらと向ける目線に返ってきたのは勝ち誇ったような笑み。
ため息を飲み込んだ。
自分が仕える韓玄の器の小ささが哀れに思えるこの心境。
あの若者ならば決して言わない台詞だと思ってしまうのは、呉の熱気に当てられたせいだろうか。
韓玄の狭量さが、このどうしようもない軍と荊州そのものを表している気がして、黄忠は確かにこの地の終焉が遠くない事を感じた。
ずっとこの地を守ってきた。
ならばここで終えるのも道理。
黄忠は今度こそ死を覚悟した。
しかし、今回も死は黄忠の横を通り過ぎる。
「魏延!!」
黄忠の声は不気味な静寂に支配された空間によく響いた。
予想外の展開は長年の友によって引き起こされた。
つかの間の静寂を破り、広間は悲鳴で溢れかえる。
魏延はまるで当事者の自覚がないかのように騒ぎを横目に黄忠の腕を掴んで外に飛び出した。
黄忠は呆然と引き摺られながらも、自分に剣を振り下ろそうとしていた韓玄が血の中に伏しているのをもう一度目に映す。
捕まれば殺される。
これは紛れもなく反逆。
呆然とした頭に一番初めに戻ってきた思考は魏延のことだった。
自分の命を助けようとした魏延。
純粋すぎる友。
彼を殺させるわけにはいかない。
忠誠や恩、長年連れ添ってきたそれらをかなぐり捨てて黄忠は魏延と城を飛び出した。
そして北上を続けて今に至る。
北に北に逃げてきたが、魏延に目的地があるとは思っていなかった。
目指すのは新野だという。
徳の将軍と言われる劉備。
魏延はその噂に賭けているのかもしれない。
だが、と黄忠は思う。
徳だけで、この乱世を生き延びることなど出来ない。
誰よりも狡猾に立ち回ったからこそ、今劉備は生きているのだろう。
その劉備が自分たちを受け入れるという不利な判断をするとは到底思えなかった。
「さて、そろそろ行こうかの」
「こ、こ、黄忠?」
「劉備将軍を訪ねるのだろう?」
こくりと魏延が頷く。
それに笑みを返して黄忠は澄んだ空気を吸い込む。
死出の旅かもしれない。
しかし悪くはなかった。
自分の命を惜しんでくれた友がいる。
その彼の意思に逆らうことなど考えもつかない。
ただ、娘とも思った彼女に伝えたかった。
知らせずに逝けばずっとあの場所で待つに違いない娘だ。
しかしその術を持たず、黄忠は心を残して馬に跨った。
新野は蜂の巣を突いた様な騒ぎになっていた。
それをあやはぼんやりと見詰める。
慌てているのは周りの連中ばかりで、当事者たちは思いのほか冷静そうに見えたからだ。
劉備と孔明はもとより、二人がどんと構えているせいか、とりあえずあやが縁を結んだ武将たちは劉備の判断を待つつもりのようだし、彼の判断に従う姿勢を見せている。
新野全体は浮き足立っていたが、ここ劉備の邸は静かなものだった。
孔明、龐統の軍師団と劉備は部屋に籠もったきりまだ出てこない。
あやがここでぼんやりとしているのはやることが他にないからだ。
「どうしてあやも話し合いに参加しなかったの?呼ばれたのでしょう?」
星蘭の声にあやは肩を竦める。
確かに呼ばれた。
意見が聞きたいからと。
でも断ってしまった。
自分が冷静な意見を言えるとは思えない。
どうしたって偏ってしまう自信がある。
今も頭を床に擦り付けてでも頼み込みたい衝動があやの体の中を行ったり来たりしていた。
彼らを助けて。
生きる道を頂戴。
だって、友人だ。
大切な、友だ。
だがあやは目元に力を込めて言葉を飲み込む。
ここにいるのは劉備軍武将響彩。
劉備の利を考え立ち回る人間でなければ意味がない。
星蘭は時々あやの目の中に瞬く、光として顕れる強い意志を見つけて目を細めた。
最近わかってきたことがある。
彼女が天女と呼ばれる意味。
星蘭は口を閉じ、それ以上の言及を避けた。
その時、目の前の扉がゆっくりと開いた。
待ちくたびれていた人々が慌てて背筋を伸ばす。
言いようのない緊張感が漂っていた。
急ぐ様子もなく席に着く劉備と孔明を待って、人々が一斉に喋り出す。
その意見はほぼ同じだ。
「彼らは反逆者です、早く劉表様に引き渡しましょう」
話し合いをする余地すらないのに長々と協議を開いた劉備に対する批判もこもっている。
煩い連中は口々に言う。
その中で、関羽や張飛、趙雲や関平、昔から劉備に付き従ってきた人々は一言も口を開かない。
劉備はじっと彼らの意見を目を瞑って聞いていた。
彼らの意見が出尽くし、息切れするまでじっと。
やっと彼らの口が止まり、興奮に息切れした荒い呼吸が聞こえるだけになる。
「もう良いかな?」
言うだけ言ったかと劉備は聞く。
「では改めて聞こうか。そうだな、まずは…関羽?」
「私は兄者の意見に従うまで」
劉備が一言も話さなかった者に声をかける。
「張飛」
「俺に意見はない」
「趙雲」
「まだ殿のご意見を拝聴しておりませんので」
「関平」
「殿に付き従う所存」
「星蘭」
「同様に」
喚いていた者たちが彼らの淡々とした態度と答えに青くなっていく。
劉備が黙って聞いていたのは自分たちの忠誠心だったと今更に気付いた。
「響彩」
最後に名を呼ばれてあやは答えずに軽く一礼した。
劉備の意見に従うとは宣言できない。
多分劉表に引き渡すと決まったら縋りついてでも止める。
劉備軍を窮地に陥れるとわかっていても、多分自分はそうしてしまう。
その後のことは考えない。
何もかもまだ答えは出ていなかったから。
出来れば受け入れて欲しい。
そうすれば自分の願いと意志に矛盾は生じない。
劉備の意志で劉備軍の窮地を選んで欲しいと思ってしまう心に弱さを見つけてあやは泣きたくなる。
傲慢で自分勝手な心は今もままならない。
劉備はあやの答えをそれ以上求めようとはせずに一同を見渡した。
「私は彼らを迎え入れるつもりだ」
ざわりと広間の空気が揺れた。
それは後から思えば劉備軍の大きなターニングポイントだった。
「それでは劉表様と戦争になります!」
「だからなんだと言うのです?」
孔明が冷え冷えとした声で言った。
「ここに居られるのは中山靖王劉勝の末裔劉備玄徳様。この国を背負って起つに相応しいお方です。劉表ごときにいつまでも膝は折っていられません」
息を飲む音が聞こえた。
趙雲や星蘭ですら口を引き結ぶ。
その宣言はこの乱世に天下の名乗りを上げたに等しい。
目指すものは天下だと、兄弟以外に言ったことのない劉備が初めてその意志を明確に示した。
劉備の存在はこの大陸の中であまりにも小さく、事はあまりにも大きすぎて大言壮語もいいところだ。
誰もが動けず、本気かと正気を疑うような胡乱な眼差しを向ける。
だが、あやはずいと膝を前に出した。
そして深々と頭を下げる。
「その道程、共に付き従わせて頂きます」
関羽が、張飛が、趙雲が、星蘭が、関平が、龐統が、月英が、呂布が、貂蝉が、孔明が、同じように揃って頭を下げた。
「どこまでも、どこへなりとでも」
「劉備玄徳様の為に」
「殿の作る新たな国の為に」
劉備は満足そうに頷いた。
あやはこうなる事を知っていた気がした。
歴史の流れに期待もあった。
本当なら黄忠と魏延は蜀の武将になるのだから。
きっと劉備は彼らを受け入れるのではないかと、歴史が変わり始めた今も、期待していた。
そうしてその通りになった。
ほっとしてあやは顔を上げる。
忙しくなる。
今度こそ、命を賭けた戦いが始まるのだ。
なのに、あやは口元に浮かぶ笑みを止められなかった。
やっぱりあなたを選んだのは間違いじゃなかった。
自分の夢とあなたの夢が乖離しない限り、あたしはあなたの為に戦う。
あなたの道を切り開く刃になる。
劉備の姿にそう誓う。
あやが劉備を視界に入れて晴れ晴れとしていると頬に物言うような目線を感じた。
視線をずらすと孔明と目が合った。
孔明がにやりと笑う。
その口が声を出さずに動いた。
『貸し、一つですね』
あやは苦虫を噛み潰したような顔をする。
もっとも厄介なのはあの喰えない軍師だった。
あやが彼らの受け入れを望んでいるのなんかばればれだったようだ。
劉備に助言してくれたのだろう。
あやは苦笑して声を出さずに返した。
『ありがとう、諸葛亮孔明「様」』
遠目でも孔明が鳥肌を立てたのが見えた。
失礼な奴だ。
もう二度と『様』付けなんてしてやらない。
『何の嫌がらせです!?』
感謝を込めて言ったのに、そんな言いがかりはないだろう。
あやが額に青筋を立てたのを知ってか知らずか、劉備が立ち上がった。
「今日より黄忠漢升、魏延文長両名を我が軍の武将として名を連ねる事とする!」
劉備の宣言に人々は頭を下げた。




