8話 宴
「ここで大人しく待ってるのよ、いい?絶対フラフラ出歩いたりしないで!」
信用ないな…。
どうやらあやがいつも通り勝手気ままに行動して、客人たちと遭遇してしまうことを危惧しているらしい香鈴に心の中ではいい加減に、表面上は殊勝に返事をしておく。
香鈴が出て行った部屋はしんと静まり、あやは目線を落とした。
邸の人々は今日の宴の準備で忙しいらしく、あや付きの侍女である香鈴もそれは例外ではなかった。
宴と言っても、夏侯惇邸で行われるそれは他と比べると慎ましいもので、今日もごく内輪のものであると言う。
しかし、あやが初めてこの邸に来たときに驚いたにも関わらず、夏侯惇邸には使用人がかなり少ないらしい。
彼自身の生活が質素なこともあって(あやにはそうは見えないが、皆はこぞってそう主張する)普段は問題はないのだが、こういった人を招く時は手が足りなくなるのだ。
あやも普段なら手伝いに行った(最初は悲鳴をあげていた邸の者も今は馴れたもので、あやの突飛な行動は黙認されることが多い)だろうが、こう動きにくい服では邪魔になるだけだろう。
折角着飾ってくれた香鈴たちにも悪いので、着崩さないよう、汚さないよう、宴が始まるまで大人しくしておこうと思っていた。
しかし一人取り残された部屋にじっとしていると不安になる。
日本にいたときはそんなことはなかったが、あやはここに来て一人が苦手になった。
一人でいると世界に取り残されたような冷たい感覚が足元から這い上がってくる。
それに南の地ではあやの傍には必ず人がいた。
そのほとんどは祁央であったけれど、一人になる機会などなく、余計なことを考えずにすむ状況がどれほどあり難かったか今はよくわかる。
要するに一人に慣れていないのだ。
あやは嫌な気分を振り払うように静かに頭を振った。
そんなところでもせっかく結った髪が解けないように気を使う。
ふと格子の外にある見事な桃の木が目に留まった。
あやはふらりと立ち上がる。
「見えるところだし、いいよね?」
部屋の中とは反対に慌しい廊下に一度目をやって。
誰か入ってきたら戻ればいい。
あやは中庭に出た。
夏侯惇邸は変わらず質素で、夏侯惇の飾らない性格が良く出ている。
主人が戻っても誰も迎えに出ないところを見ると、かなり忙しく人手が足りないらしい。
きっと気付く余裕もないのだろう。
その事に不快感を持つよりは好ましく思って、徐晃は内心で笑う。
夏侯惇自身そんなことは気にもしておらず、客人を迎えに出なかった邸の者に怒気を見せるでもなく、先に行っていてくれと徐晃は一人残された。
徐晃も一人放って置かれることは、信用していると、気心の知れた仲であると言われている様で嬉しく思いはすれど、不快感などなかった。
夏侯惇の言の通り先に行こうと思い、ふと外から見えた桃の花を思い出した。
今日はあの見事な木を見ながら飲み交わすことになるのだろうが、その前に近くで観賞しておくのも悪くない。
徐晃は目的地には遠回りになる、中庭を通る道を組み込んで他意もなく歩き出した。
満開の桃の木は昇り始めた満月に映え、見事だった。
今日はよい酒が飲めそうだ。
徐晃は最初それに気付かなかった。
ふと枝が揺れたような気がして、花に目をやるが風はない。
訝しく思い目を凝らしてみると、もう一度、今度は幹のほうがぶれた。
目を見張っているとそれはゆっくりと人の形を取って、人間の形を露わにする。
あるいは始めからそこにいたのかもしれない。
しかし徐晃にはそれが桃の木から生まれ出でたように見えた。
息を飲む。
その人は満開の花と同じ色の衣を纏って、木の下で枝に手を伸ばしていた。
この世の者ではない。
それは直感だった。
気付かれたらたちまち消えてしまうように思え、徐晃はこの美しい光景をもう少し見ていたくて息を潜めた。
満月と満開が偶然重なったのだ。
桃の精に遭遇しても不思議ではない。
「徐晃、どこだ?」
姿は見えなかったが、夏侯惇の声がした。
はっとして肩を揺らすのと桃の精がこちらを振り返るのは同時だった。
しまったと思って、次に起こる光景を予想しても、彼女は反して消えなかった。
不思議そうな顔をしてこちらを見る表情は先程の印象とは違い随分幼いように感じる。
「えっと、こんばんは?」
消えるどころか、驚いたことに桃の精は声をかけてきた。
「はっ、こんばんは…でございます」
「お客さんですか?」
「あ、申し訳ない。私は徐晃、字は公明。曹操殿の配下に身を置いている者。」
「あ、いえ、こちらこそご丁寧にどうも。あたしはあや。徐晃さんは宴のお客さんなのね」
名を名乗る精はいるのだろうか。
人外にしてはおかしいと思い始めていると、あやと名乗った彼女は焦ったように、徐晃に言った。
「あの、会ったばかりで頼み事は気が引けるんですけど、ここで会った事は誰にも言わないで!」
手を合わせて、必死に頼み込む姿に先程の神々しさはなく、一生懸命な様子が可愛らしくもある、ただの人間の女に見えた。
「徐晃?そこにいるのか」
あやは聞こえてきた夏侯惇の声に飛び上がって、徐晃の隣を抜けて一目散に走っていってしまった。
「徐晃?」
あやの行動に呆気にとられ、その後ろ姿を目で追っていると、姿を現した夏侯惇が徐晃を呼ぶ。
「夏侯惇殿、いえ、なんでもございませんよ。見事な桃の木に目を奪われまして。」
「そうか、ではこれを肴にそろそろ始めるとしようか」
「夏侯淵殿と曹仁殿は。」
「ああ、先程揃った。」
もしかしたら、直ぐにもう一度彼女に会えるかもしれないと、どこか確信を抱いて夏侯惇と連れ立って歩き出す。
「馬子にも衣装だな。」
「惇兄、それ褒めてない」
宴の前にあやを迎えに部屋を訪れた夏侯惇。
開口一番そう漏らした夏侯惇にあやは頬を膨らませて不機嫌そうに言った。
予想以上の出来栄えに照れもあってそんなことを言ってしまったのだ。
傍に控えていた侍女たちからくすりと笑う気配がしたのは、たぶんその心情がばれているからだろう。
今度はその事に恥かしくなって夏侯惇は軽口を止められなかった。
「褒めてるぞ。女は化粧次第でどうにもなるものだ。あや、お前も今はあやとは思えないくらい美しい」
「だから!それ褒めてないし!」
「美しいと言っているではないか」
「その前に貶してる!!」
いつもならとうにぶち切れているはずのあやが今日は大人しく座りながら悪態を付いているだけ。
それを喜ぶならまだしも、不気味と思いつつ寂しく思えてしまうのはかなりの末期症状に思えた。
末期症状?何の?
自分で思って疑問で返す。
何やらあまり深く考えるべきことでもないように思えて思考をあやに戻した。
「あや?」
「何。」
「どうかしたか?」
「だから何が。」
聞いてみればあやからは不機嫌な答えが返ってくるばかり。
「お前何かおかしいぞ」
「え、ど、何処が?」
どきっとしたのが、ばれない訳がない。
これでは折角徐晃に口止めして彼が守ってくれたとしても、不機嫌を装って夏侯惇を遠ざけようとしても、自分からばらしているようなものではないか。
「…何か隠しているな」
「へぇ!?そんなことないし~?」
あははと笑って宙を泳ぐ目はあからさまに怪しい。
「そんなことより!お客さん待たせてるんでしょう?行かなくていいの?」
朝、夏侯惇が登城するまで今夜の宴に出るのを嫌がっていたあやが、夏侯惇の背を押し、自分も一緒について行きながら宴に促す。
その姿を皆が微笑ましく思いながら見送っているのには気付かず、二人は連れ立って夏侯惇の同僚の元へ歩き出す。
確かに客人を待たせているのは礼儀に適っていない。
夏侯淵がいるはずだから、自分が遅くなってもそれなりに仕切ってくれるだろうが、堅実実直な徐晃などがこの邸の主である夏侯惇抜きの乾杯を受けてくれるかというと疑問なところだ。
本当に皆で酒に口を付けず待っているなんて可能性も否定できないと思い至って夏侯惇は今日は宴会場として設営の整っているだろう二階の眺めのいい広間に急いだ。
「惇兄遅いな。やっぱり先に始めてようぜ」
「うむ、そうだな」
「いや、夏侯淵殿、曹仁殿、やはり主がいないのに勝手に始めるのは良くない」
「う、う~む」
「はっは、徐晃は真面目だな」
広間からそんな声が聞こえて夏侯惇はやはりと苦笑する。
あやの方はまさか自分たちを待っていてくれていたなど思いもしなかったから、しまったと今更慌てた。
「と、惇兄。早く行かないと。ずっと待っててくれてたみたい」
のうのうと部屋で休んでいた自分を責めているのかあやは冷や汗をかいている。
勿論あやの行動としてはそれでいいのである。
呼ばれもしないのに宴に顔を出すほうが非常識だ。
しかしそれでも相手に悪いと素直に思う心には好感が持てて夏侯惇はあやに気付かれないように笑った。
それはあや以外に向けられることのない柔らかな笑みだったが、それを知るのは夏侯惇本人でもなく向けられるあやでもなく、邸の者だけだ。
「お、惇兄!待ってたぞ!」
広間に近づいた夏侯惇とあやに夏侯淵が気付き声をかけてくる。
「悪かったな、先に始めていても構わなかったのだが」
「いや、徐晃が惇兄が来るまで駄目だって聞かなくて。」
夏侯惇と夏侯淵が話している影で、夏侯惇の後ろになって見えなかったあやは聞き知った夏侯淵の声に安心してひょいっと顔を覗かせた。
目が合ったのは夏侯淵ではなかったが。
彼はおや?という顔をして直ぐに笑ってくれた。
確か徐晃さんって言ったかな。
惇兄に怒られなかったし、本当に黙っててくれたんだ。
あやも徐晃に笑顔を返す。
どことなく秘密を共有したような、悪戯な童心が二人の間にはあった。
「あや?なにやっている。お前の席はこっちだ。」
慌てて夏侯惇を振り向けば、意識がふらふらとさ迷いがちなあやのいつもの癖だと気にはしていない様子。
なんか納得いかないけど、今回は結果オーライかしら。
あやが呼ばれて近づけば、これまた厳つい男を紹介された。
夏侯惇や夏侯淵に比べれば背が低くも見えたが、これだって日本では平均を超しているに違いない。
それにがっしりとした体格が迫力を持っていて、夏侯惇たちと立っていても見劣りなど少しもしていない。
きっと彼も名のある武将なのだろう。
「自分は曹仁、字を子考という者。夏侯惇には日々世話になっている」
何故、自分に夏侯惇のことを言う必要があるのだろうと思い、直ぐに例の噂を思い出して、あやの顔が引きつる。
何とか笑顔は保ったが、見慣れた夏侯惇などにはばればれだっただろう。
「私はあやと申します。夏侯惇将軍の邸にお世話になっている者です。」
丁寧に腰を折って、なるべく優雅に見えるように顔を上げて笑った。
これでも長らく日本で生まれ育ってきたのだから、体面を取り繕うことや外面をよく見せることには長けているつもりだ。
やれといわれてその覚悟があるなら夏侯惇が思うよりずっとあやは完璧に演じることが出来る。
案の定、夏侯惇は目を見張り曹仁はその礼儀正しい様子に好感を持ったのか目を細めて頷いている。
日本の学生の世界の狭さを舐めないでよね。
こういう処世術がなきゃ生きていけない弱肉強食の世界なんだから。
あまり自慢できない事だと頭の隅の冷静な場所で思ったが、その言葉は丁寧に無視させてもらった。
「げほっ!」
何か咳払いが聞こえてあやは目をやり引きつる。
咳き込む振りをしているが、どう見ても笑いを咳で誤魔化している。
「徐晃、大丈夫か?」
「いや、大丈夫だ」
夏侯淵が素直に徐晃の心配をして背中をさすってやっている。
「おお、あや、彼が徐晃。同じく曹操に仕える武将だ」
紹介してくれる夏侯惇には知っているとは言えず、仕方なしに徐晃に近づいて挨拶をしようとするが、咳き込みをやめて真面目な顔で立っている彼の口元は微妙に波打っている。
きっと腹筋を最大限に使って笑いをこらえているのだろう。
ちょっと、ちゃんと堪えてよ!
あやとしても素で会っている相手に気取って見せるのはかなり恥ずかしい。
事情を知っているのだからそのギャップに笑いを堪えるより、にっこり笑って自己紹介するくらいの共演者になって欲しところだった。
「はじめまして。」
「ぶっ」
しかしその一言目で徐晃は共演者の役をあっさり降りてしまった。
一応噴出したのを誤魔化そうとでもいうのか、その後に咳を続けているがツボに嵌っているようで回復するのは無理そうだ。
「惇兄、先に乾杯しよう」
「あや?」
「早く!」
「あ、ああ」
徐晃の様子が急におかしくなり、あやはその徐晃をほっぽって夏侯惇に声をかける。
しかも今までの優雅な様子をかなぐり捨ててかなり不機嫌に。
一瞬の夢だった。
落胆して夏侯惇は仕方なさそうにため息を付く。
すぐにあやの睨みが夏侯惇を刺す。
夏侯惇はあやの勢いに押されて、今まで自分たちの登場を待っていてくれた徐晃を置いて乾杯の音頭を取った。
その後あやは徐晃を無視して他の三人に上機嫌に酌をしている。
先程の不機嫌さから一転した陽気さが彼女の怒りの深さを表しているようで夏侯惇と夏侯淵は徐晃に話しかけた。
「徐晃、お前一体あやに何したんだ」
「そうだぞ。特に笑って怒ってるときは要注意だ」
「…いや、何をしたと言われても」
三人がごちゃごちゃと言っているのを耳が捉えるが、あやは振り向くことなく曹仁に酒を注ぐ。
この魏の武将の中では一番親近感が湧いたとは本人にはいえないが、実は初めて会ったときから話しかけてみたかったのだ。
失礼ながら精一杯首を傾けなくても話ができるのが嬉しい。
日本での日常に触れたような気がして少しだけ安心できた。
優雅なあやなら曹仁様と呼んだだろうが、もうどうでも良くなったあやは彼をさん付けで呼んでみる。
「曹仁さんは曹姓なんですね。曹操とは何か関係が?」
曹仁は自分がさん付けで呼ばれたことには何も感じなかったが、主君を呼び捨てにされる無礼に一瞬目を見張って、彼女が地方からやってきた事を思い出した。
それを考慮して注意だけに留めておく。
「あや殿、ここは魏の国。この地にいる限り主君を呼び捨てにするのは不敬に当たる。」
「…そう、ですね。不快にさせてしまってすいません。惇兄がいつもそう言うか、字を呼び捨てにしているものだからつい。」
「惇兄?」
「あ、えと、夏侯将軍?夏侯惇様?」
しどろもどろと言い直す様子に本当に他意はないのだと悟って曹仁は先程の厳しい顔を収めて穏やかに笑った。
素直に忠告を受け止められる心根は好感が持てる。
「責めているのではない。場をわきまえれば構わないと思うが?」
泣きそうだった顔があからさまにほっとしてそのわかり易さに曹仁は笑みを深くした。
「今は身内だけの場だ。遠慮なく呼ぶといい」
「はい!」
やはり優しい人だ。
あやは嬉しくなって満面の笑みを浮かべる。
曹仁は曹操の従兄弟だと教えてくれ、驚いてるあやに不思議そうに聞いた。
夏侯惇と同じ立場なのに何故そう驚くことがあるのかと。
曹仁から注いで貰った酒を飲む前でよかった。
そんな事実はまったく寝耳に水だったとうことはその反応で曹仁にバレバレだっただろう。
うそ?白父そんなこと言ってた!?聞いてないよ!
白父が聞いたなら不出来な弟子に怒鳴りだしそうなことを思ってあやは夏侯惇をちらと見やった。
なるほど、周りが彼の暮らしは質素だと言う意味がやっとわかった。
君主の親族で?筆頭武将で?彼の右腕?
そりゃ叶わないことなどないだろう。
その中でこの暮らしならば彼はかなり慎ましやかな生活だ。
しかしそれを思えばこの邸に来て何も言わない彼らも不思議な存在だ。
きっと彼らも贅を尽くす事には価値を置かない人間なのだろう。
それはあやのかなり無礼な言動や態度を問題にしない度量の広さや清廉潔白な人柄がよく表している。
あやは自然緩やかに微笑んだ。
曹仁はその笑みに目を奪われる。
仕事柄、権力争いと女の艶姿には事欠かない中で、その笑顔は遠い昔にまだ色恋を知らない頃に見た幼馴染の女の子や、反対に母が浮かべていた、もう長いこと見ることの叶わなかった笑みに似ていた。
「何を笑う?」
「いえ、曹操様は良い人材をお持ちであると」
「そうか」
曹仁は自分を見てそう言ったあやの答えに偽りない賞賛があるのが嬉しく、また曹操を戴く者として誇らしくもあった。
「殿は乱世を終わらせる方。一日も早くこの戦乱を終わらせるため自分ももっと武を磨かねばな」
「乱世…」
上機嫌な曹仁はあやが表情を曇らせたことには気付かなかった。
「曹仁さんは武将ということはかなり強いのでしょう?」
「武に終わりはない。…というよりは、あまり大きな声では言えんが、自分は防御に拠ってしまうのよ。困ったことにな」
「なぜ?それは困る事?恥ではないでしょう?」
「む、しかしやはり武将なら敵を倒してこそ価値がある」
あやは考えるように首を傾げる。
「それはおかしいわ。武将の能力に差があるから大将や軍師が采配に苦心するのだし、反対に武将の能力を踏まえて巧く使う、あるいは役割を振るのが彼らの役目でもあるはずよ。戦場で担う働きや求められている結果がそれぞれ違うなら武将たちが同じ能力を持っていても使い勝手が悪いわ。私なら同じ能力の武将を揃えるよりも分野に長けた者を重用する。」
考えながら話すあやの言葉はゆっくりだったが、整然としていて説得力があった。
のほほんとしていたあやの頭の中にそのような考えがあることに驚く。
あやを侮っていたつもりはなかったが、そういったことを考えることもないのだろうと無意識に思っていた故の驚きが、結果そういわざるを得ない状況にしていた。
「それに、あたしは好きよ。曹仁さんの今の在り方のほうが。」
先程の考えるような顔を消してあやはにっこりと笑った。
曹仁はきょとんとしてから豪快に笑い返す。
「あや殿がそういうなら、これからも自分なりの武を磨こう!」
豪快に笑う曹仁とそれに笑いを返して酌をするあや。
端によってひそひそと話す三人の目にはかなり楽しそうに見える。
「曹仁のヤツ、かなりあやが気に入ったみたいだぞ。惇兄大丈夫か?」
「何がだ。」
「惇兄~、こんな時に意地張ってる場合じゃねえぞ。」
「やはりあや殿は夏侯惇殿の好い人でしたか」
「待て、徐晃それは誤解だ」
「何が誤解だ。さっきから曹仁のこと睨んでるだろう?浮気を監視する夫か?」
ははと笑う夏侯淵の言葉にはさすがにぎょっとした。
「な!し、してないぞ、そんなこと!」
「汚ねぇな、惇兄」
口に含んだ酒を夏侯淵に飛ばして夏侯惇は力説する。
「無意識でしたか?かなり重症でありますなぁ」
「重症とは何のことだ!徐晃!!」
「何ってそんなの恋の病に決まってるじゃねえか、なあ徐晃」
「うむ、そう口に出して言われると気恥ずかしいものがあるが」
「ち、違うぞ!お前たち何か誤解しているみたいだが、あやは事情があって邸に置いているだけで…大体年が離れすぎているだろう!」
少々説明しづらい件に夏侯惇は方向転換して反論する。
「年~?そんなこと気にしてたのか、惇兄」
「年の十や二十離れている夫婦などざらにいますが?」
「そ、それは権力者の話であって!」
俺に関係ないと言おうとした言葉は夏侯淵の胡乱気な目に阻まれた。
「自分が権力者じゃないと思ってたのか?」
「うっ」
遂に言葉に詰まった夏侯惇に徐晃と夏侯淵がニヤリと笑い合った。
いつもは何を言おうと表情も崩れない公人夏侯惇を、私事でやり込めるのは格別の楽しみがある。
「夏侯惇ー!」
「何だ、曹仁!」
追い詰められていた夏侯惇は喜色も露に曹仁の呼びかけにがばりと顔を上げた。
「いや、あや殿が…」
曹仁の腕の中、ぐったりとしているあやを見た途端、表情を険しくして曹仁に駆け寄っていく夏侯惇を見て夏侯淵と徐晃は呟いた。
「あれで隠しているつもりなのか?」
「十分、仲睦まじい恋人に見えるな。」
しかもかなり嫉妬深い心配性な。
「惇兄はさー、噂を否定してっけどよ、あれじゃ噂が立つのも無理ないと思わねえ?」
「で、噂は本当のところどうなんで?」
「あれ見ると否定はできねえな。でも」
あやは遠目で見ても酔いが回って舟を漕いでいる状況だとわかる。
夏侯惇は曹仁からあやを受け取って、抱き上げた。
部屋に寝かせてくるつもりだろう。
「こわいのはあれを無意識でやってる可能性があるってことだ」
「つまり?」
「本当にただの噂。」
「あれで?」
「ま、本当のところどうかわからねえけど、可能性は高いと思う」
徐晃はあやを抱えて広間を後にする夏侯惇に目を移す。
それだけで誰が見ても夏侯惇があやを大事に思っているのはわかるような光景だった。
桃の木の下で見たあやの姿を一瞬思い出して徐晃はどきりとした。
このタイミングで思ってはいけない場面を、人を思い描いてしまったような気がした。
「今まであれに一人で耐えてきた俺を褒めて欲しいぜ」
ぽつりと呟かれた夏侯淵の言葉がどこか場違いに聞こえて、徐晃は少しだけ夏侯淵を恨めしく、そして大いに有難く思った。
いつかここで、あの庭で彼女に出会ったことを後悔するかもしれない、そんな予感がした。