小咄 追う人 待つ人
すみません。間違えて2話を先に投稿してしまいました。
「原陽!」
あやがその名を呼ぶのが祁央はあまり好きではなかった。
間を置かずに聞こえてくる足音。
横を向けばあやの紅潮した頬が見えた。
あやは駆けるのが好きだ。
だから時々衝動のように独り、荒野に駆け出していく。
風を感じて祁央が目線を戻すと既にあやは馬上の人。
あやは振り返らない。
言葉の一つも置いていかない。
あやは前だけを見ている。
「貂蝉、珍しいな。」
金剛の村に彼女がいることは滅多にない。
祁央はいつも自由気儘な呂布の帰りを家で待っている貂蝉に声をかけた。
歌伎を学び、それを生業としていた貂蝉はやはり美しい。
「ええ、少し暇が出来たものですから。子供たちに歌を教えに来ていたのです。」
貂蝉はそう答えた。
歌や舞なら玄鳥でも貂蝉の右に出るものはいない。
物腰の穏やかさもあって彼女は女子供には絶大な人気を誇る。
きっとずっと強請られていたのだろう。
その頼みを、ほとんどの場合断ってしまう貂蝉がこんな所まで出てきた理由を祁央が知らないわけがなかった。
祁央はため息を飲み込んで貂蝉に聞いた。
「呂布もか」
「ええ。」
呂布がいないのだ。
あやと同じく。
二人で山深いここからは見えない荒野の方角を見る。
「赤兎が奉先様を急かしていましたから、きっとそうだと思いましたのよ?」
あやが原陽と駆け出したのだろうと。
そうすると決まって呂布と赤兎も行ってしまう。
呂布は他者に動かされるのを嫌うが、あやとの遠乗りは嫌ではないようだった。
貂蝉と祁央の間に沈黙がおりる。
「何となく、わかっていましたの。」
「…ああ」
「こうなることは。」
少しだけ寂しそうに言う貂蝉の心情を祁央は正確に理解していた。
悪いことではない。
彼らは自由で、祁央も貂蝉も変わらぬ彼らを望んでいる。
ただ、哀しいのは、寂しいのは、どんなに共に行きたくても、追いつけない現実。
置いていかれるこの身。
いつでも傍にいたいけど、隣を、往くことは出来ない。
そして少しの焦燥感。
独り、往くなら見つめることも出来た。
だが、今、彼らは一人ではない。
複雑に心が歪むのはそのせい。
悲観しているわけではなかった。
祁央はふっと息を吐き出して感傷的な気分を振り払う。
「さて、そろそろ迎えに行くかな」
貂蝉が悪戯に輝かせた祁央と目を合わせて、笑った。
彼女にも先程の影は欠片も見えない。
「では私も帰ります」
彼らが知らなくて、二人だけが知っていることがあって、できる事もある。
「黒核!」
祁央が自分の馬を呼ぶ。
それに跨って祁央は山を駆け下りていく。
貂蝉は祁央を見送ってから自分も背を向けた。
腹を空かせて帰ってくる呂布の為に、やることはたくさんある。
彼らが足を止めるのは、追う者がいるから。
彼らが帰ってくるのは、待つ者がいるから。
彼らに、自分たちが必要である事。
誰よりもよく、知っていた。




