叢話 名もなき眠人
三人で旅をしていた頃の左近の記憶。
左近はふと顔を上げる。
月が出ていた。
眠っていた訳ではないのに、いつの間にかあやがいない。
あやが好みそうな夜だ。
左近はため息をついてあやのいつもの行動を許容した。
ふらりと、彼女はいなくなる。
始めは焦ったものだが、必ず帰ってくるとわかっている今はそう慌てる事もなくなった。
それでも左近は腰を上げる。
いつもなら祁央を呼びに行くところだが、左近は珍しく自分の足で歩き出した。
月が地面を照らして、歩きやすかったからかもしれない。
これだけ明るければ自分一人でも見つけられるだろう。
ぶらぶらと気だるげに木々の間を縫い、夜の散歩でもしているかのように左近は歩く。
三人で旅を始めてどれくらい経ったのか、左近は数えていない。
左近の記憶は薄い。
生まれてこの方、ほとんどの記憶が既に流れていってしまっている。
それを左近は気にしたことはないし、流れ過ぎて行ったものは取るに足らないものであったからだと思っている。
どこで生まれ何をして、どうやって生きてきたのか。
生きるために淡々と、時にあやには言えない事をしてきたが、その時その時に流されて生きてきた左近には、「まだ生きている」という事実以外はどうでもいいことだった。
今も、覚えていることは少ない。
ここがどこであるとか、ここで何をしているのかとか、考えることなく左近は過ごしている。
変わったことはたった一つ。
ただ心に降り積もりものが、今はある。
留まることなく流れて行くはずの思い出が、消えることなく胸にあった。
大切なのは祁央と右近がいて、あやが居る事。
目を開けて、光景を焼き付ける。
それは心に留まり、思い出そうとすればいつでも、まるで目の前にあるかのように思い描けた。
鮮烈な世界。
そうして左近は生きるという事の意味を知った。
それはこうして世界を知ることだ。
心に、何かを溜めていくことだ。
あやが言った。
夜空を見上げて月が美しいと。
左近は月が美しいものだと知った。
あやが笑った。
一面の花畑を見て。
左近は花を好きになった。
あやが泣いた。
この世界を知って。
左近は世界が間違っている事を理解した。
想いは降り積もり、そして左近に多くの感情を教えた。
怒りや悲しみや、喜びや楽しみ。
こんな夜を心地よいと思うことや、大丈夫だとわかっていてもあやの姿を探してしまう心。
ひゅっと遠くで空気を切る音がした。
あやだ。
左近は足を速める。
生きてきた環境のせいか、足音をさせることなく左近は荒れた地面を歩く。
ふと開けた木々の間で、光が舞った。
左近は足を止める。
月の光を弾く、それは切っ先。
あやの剣が優美に踊っていた。
見慣れているはずの左近は、それでも思わず佇んでしまう。
これ以上に美しいものを見たことがない。
月の光に照らし出されて、時々霞む姿にやっと我に返った。
祁央なら直ぐに声をかけていただろう。
祁央はあやの幻想的な姿が好きではない。
あや。
そう声をかけようとして左近はやめた。
「…右近?」
左近の視線の先、同じようにあやに魅入る右近の姿に気付いたからだ。
あやだけを見ている目は、左近に気付いた様子もない。
気安い快活ないつもの様子は、今は鳴りを潜め、じっと動きもせずに彼女の剣舞を見つめる。
声をかけられなかった。
真剣な目の中に見え隠れするちらりと燃える炎が恐ろしいと思った。
その熱を開放すれば、それは『今』を簡単に壊すだろう。
駄目だと、心の中で声がする。
とめなければいけないと、何かが急かす。
まだ、このままがいい。
この心地いい場所にいたい。
それでも動けずに、どれくらいの時が経ったのか。
多分思うよりずっと短い間だっただろう。
張り詰めていた糸が撓んだ。
じっとりと汗をかいた手の平を開いて、左近はほっと右近を見る。
右近の目は閉じられていた。
静かに、何かを封じ込めるように。
左近は唇を引き結ぶ。
湧きあがるこの感情はまだ知らない。
悲しみの痛みに似て、悔しさの苦さに似て、胸が詰まる。
右近の名を叫びたい衝動が駆け巡る。
そうしてどうしたいのか、左近にはわからなかった。
ただ、どうにもならないもどかしさが渦巻いている。
ああ、そうか。
泣きたいのだと左近は気付いた。
人はどうにもならない感情を持て余して泣くのだと左近はまた一つ世界を知った。
右近がゆっくりと目を開ける。
その目は、もういつも通りの、穏やかに優しく、明朗な彼だった。
右近が一歩を踏み出す。
わざと音を立てるように、草を踏み分けて。
「あや」
「右近!どうしてここがわかったの!?」
「はっは、オレ様にわからないことなどない!」
「な~に言ってんだか…」
「そろそろ帰らないと祁央が気付くぞ」
「…ん、わかった、帰る」
素直にというよりは渋々あやが同意する。
あやを促して、歩き出した右近は、最後に一度だけ背後の月を見上げてふと目を細めて笑った。
左近と月だけが見ていた。
それがお前か。
全て、誰にも見せずに終わらせて、なんでもない顔で笑うのか。
左近は大きく息を吸い込んで、体にたまった重たいものを吐き出すように息を吐いた。
それから右近があやに対して、家族以上の感情を見せたことはない。
二度と。
ただの一度たりとも。
意志が強くて馬鹿な奴だったと、左近は思う。
そして誰にも知られることのなかった右近の覚悟はこれからも知られることはない。
これは自分が墓まで持っていく。
誰もいない、見晴らしのいい丘の上、十字架の前で、左近は泣いた。
それくらいは背負わせてもらってもいいだろう?
左近の髪を梳きながらあやが嬉しそうに言う。
「随分伸びたよね。」
「お前もな」
穏やかに笑って、左近は答える。
あやは左近の髪を触るのが好きだった。
手触りがいいのだと、気付くと髪を引っ張られていじられている。
いつの間にか、あやの髪が伸びるのと同じように左近の髪も伸びた。
何が嬉しいのか、あやは笑いながらさらさらと左近の髪に触れる。
左近はあやの膝の上で、あやを見上げてふと小さな衝動に駆られた。
目の前に落ちてくる彼女の髪。
自分のそれよりずっと艶やかで美しく見える髪。
それに触れてみたいと。
ぴくりと手を動かして、左近はその手を持ち上げるのをやめた。
代わりに目を閉じる。
目蓋の裏に、右近が映る。
あの月夜の、目を閉ざした右近。
あんな風には出来ない。
彼のように全てを自分の中だけで解決できるほど、この心は強くない。
「ねむたいの?」
「…ああ、眠りたいんだ。」
まだここに居たい。
だから全部、眠らせたいのだ。
「いいわよ、ゆっくり寝てて」
あやの声に生返事をして、左近は彼女の体温を感じる。
心地いい。
さらさらとあやが手慰みに髪に触れる。
それが好きだった。
その小さく灯る感情の名を知らない。
多分一生、名をつけることもない。
左近は髪を切ろうと思った。
そうしてもう、伸ばすことはないだろうと。
全て、持っていくのだ。
墓の下まで。
誰も、自分にも知られず密やかにそうして終わりたい。




