間幕 さよなら、またね。
どこかぴりぴりとした緊張感が漂っていたが、それでも酒が入れば何のその。
宴は宴だ。
それなりに気が合うもの同士が集まって酒と料理に舌鼓を打っている。
その顔ぶれを孫策は壇上から興味深げに眺めていた。
徐晃、曹仁、呂蒙、太史慈。
静かではあるが、楽しそうだ。
落ち着きがあって互いの分を守る連中。
司馬懿と張遼、凌統。
なかなかに意外な組み合わせ。
多分、どこにも居辛かった者同士。
張遼は保護者といったところか。
どうも三人とも居心地が悪そうだ。
夏侯淵と黄蓋のところからは必要以上に喧しい声が聞こえてくる。
孫権の傍にはいつも通り周泰が控えていて、その隣には曹丕。
あそこには近づきたくない。
孫策の傍には夏侯惇と周喩が控えていたが、この二人はどうもいけない。
基本的に合わないらしい。
さっきから見えない火花が散っている。
孫策は酒に口を付けながら酔いが回る前にこの二人は引き上げさせようと思った。
「どうかな、その酒は。」
遠く、北の地から運ばせたものだと曹操が自分も喉に酒を流し込みながら言った。
「なるほど、なればこそ。」
この地で作られる酒より随分と強い。
飲み慣れない熱さが喉を落ちていくが悪くはない感覚だった。
孫策はちらりと此度の同盟者を見る。
官渡での袁紹との戦の状況はまだ厳しいはずだが、そんな様子は欠片も見せない。
わざわざこんな所まで出向いてくる余裕を見せる、まったく小憎らしい男だ。
曹操孟徳。
隣にいるだけでじわじわと押し寄せてくる圧力がある。
さすがの孫策も小さな畏怖を抱く。
だが、喰われてはいない。
にやりと口の端に上る笑み。
圧倒されるかと思っていた曹操との対面は、気圧されることはあっても後退はしなかった。
同じ目標を掲げる者として、気後れを感じていたかつての自分。
思うより遠くはなかったのだと、孫策は不遜にも思った。
だからこそ、こうやってのん気に曹操の隣で酒など飲んでいられるのだ。
為政者としての彼は天才的だ。
しかしどうしてか孫策は絶対的な危機を切り抜けた今、彼を別の目で見てしまう。
―『彼女』が愛した男。
噂だ。
本当のところは知らない。
あやと曹操がどんな関係だったのかなど、想像することしか出来ない。
だが、あやが一時でも彼の寵愛を一身に受けていたのは確かな事実。
何となく、玄鳥の村を訪れた自分達をあっさりと受け入れたように、曹操の前でもあのままだったのだろうなと思う。
明るくて、気取らなくて、たまに失敗もする。
だけど、強くて、しなやかで、美しい。
そういう、ありのままの姿だったのだろう。
孫策は少しだけ悔しくも思う。
呉の中では彼女の本当の正体を知っていたのは自分たちだけだという優越感があったが、彼ら魏の連中は立場的には自分達と同じなのだから。
「呉は、いい国ですな」
曹操の声が孫策の国を漫然と褒めた。
それ故に社交辞令ではないように聞こえた。
驚きを顔に出さないように、どんな表情でそれを言っているのだろうとゆっくりと振り返る。
「そんな呉が我々に付いてくれるのはまったく僥倖。これで我々の勝利は確定したようなものだ」
孫策の目に映った曹操はすでに油断のならない顔で、続けた言葉はあっという間に元通りの声色になってしまっていた。
慢心で敗者になど決してならない男だ。
最後まで手を抜かないだろうに、そんな楽観的なことを言ってみせる。
その自分を見せない、姿。
「それはどうでしょうかね、まだ英傑は多くいる」
どうしてか、何としてでも崩してみたくなった。
「例えば、名高き玄鳥天女とかね。」
孫策はじっと曹操から目を離さずにそういった。
もし、彼が調子を崩すならそれ以外にはないと思った話題。
曹操の虚を衝いた顔を見たかった。
「ふん、響彩か。」
だが曹操は口の端を上げてあっさりと彼女の名を口にした。
周喩と夏侯惇が横で身じろいだのを感じる。
「問題ない。あれは自ら頂点に立とうと考える女ではない」
そして意味ありげに孫策を見て笑う。
「権力者の傍にさえいなければ、障害にはならん」
「…曹操殿、それはどういう意味ですかな?」
「おや、そのまま言葉通りに受け取って頂ければよいのだがね。」
孫策が厳しい目で睨むのも気にかけず、さらりと流してまた孫策から目を離す。
「今はどうやら一人のようだからな。」
孫策も周喩も確信した。
権力者とは孫策のこと。
曹操は知っていたのだ。
何から何まで。
あやが呉にいたことも、もうこの国にはいないことも。
それを仄めかしてみせる。
君主二人が静かに剣を交えている。
相手を殺すためでなく、探るために。
周喩は出る幕を失って、酒を一気に煽る。
ふと横目に夏侯惇が同じように杯を空けるのが見えた。
ぼそりと言った言葉は多分誰に聞かせるためのものでもなかったのだろう。
だが、周喩には聞こえてしまった。
「そうか、もうここにはいないのか」
「…あやのことですか?」
「周喩殿」
独り言に声が返ってきたのが意外だったのか、夏侯惇が目を見張って周喩を見る。
「知っています。彼女が魏にいたことは。」
「…そうか、あれは元気にしていたか」
「知っての通りですよ。あやが変わるところを私は想像できない。」
「はは、まったくだ。あのおっちょこちょい、少しは直っているかと思ったが、そうか、相変わらずか。」
周喩は少しだけ痛む胸の中を無視する。
あやが世間から少々かけ離れていることは認めるが、彼女の印象の中に『おっちょこちょい』というものは少ない。
どちらかといえば、やるときはやる。
そういう印象。
「仲が良かったのですか?」
「…いや。多分、普通だ」
「普通…ですか?」
一番解釈しにくい言葉ではないか。
けれどなぜだろう。
あやと夏侯惇は親しかったのだろうと思っていたから周喩は聞き返してしまった。
「ああ、淵とは仲が良かったがな。あとは孟徳か。よく二人で茶を飲んでたぞ」
懐かしそうに、夏侯惇も曹操のように抵抗なくあやのことを話す。
その程度のことなのだろうか、あやの存在は。
周喩は怪訝に思いながら、自分の思い込みがどこから来ていたのかを唐突に思い出した。
そうだ、右近だ。
彼がいつだったか言った。
『曹操と夏侯惇の話は禁句だ。あいつ、泣くから。』
だからきっと夏侯惇はあやのとても近くに居たのだと思っていた。
「彼女に会いたいですか?」
「いや」
嘘だと思った。
つい先ほどの事を、彼はもう忘れたのだろうか。
相変わらずだと知って笑った夏侯惇は本当に楽しそうだったのに。
「まあ、孟徳が望めば別だが。」
「どういう意味ですか?」
「孟徳が望めば攫ってでも叶える。」
最も、孟徳がそんな事言うわけがないが。
そう続いた言葉はあまり聞いていなかった。
「…あやがそんな事望むとは思えませんが」
曹操に会いたいなど、望んでいるようには見えなかった。
「貴殿は少し思い違いをしている。俺にとって最も大切なのは孟徳の望みだ。そこに誰かの意志が入る余地はない」
「あやの意志は関係ないと?」
「その通り。」
断言した夏侯惇に周喩はむっとした。
「あやは誰かに動か『される』人間ではありませんよ」
「だから動か『す』んだろう」
「あやは貴方のものではない、それは流石に傲慢な考えというものでは?」
「そう、俺のものではない。だが孟徳のものだ。」
同じ言葉を話しているはずなのに、まるで通じていない感覚。
いらっとして、周喩はそれでも怒りを抑えてはっきりと言い切った。
「あやは、誰のものでもありません」
「ふん」
周喩を冷めた目つきで見て、それきり夏侯惇は口を開かなかった。
だが、夏侯惇の最後の言葉が聞こえた気がした。
―そんな事は知っている。
ならば彼は一体どうしてわざわざそんなことを言うのか。
周喩は何となくわかって、少しだけ同情した。
自分の主を天下に押し上げようとする立場を見るなら、これ程互いに近い人間は他にいないだろうと思える。
孫策が曹操と同じ道を選ぼうとした。
そして付いて行こうと決めた自分が最初にとった道はもしかして夏侯惇が選んだ道と同じなのではないか。
そう考えると見えてくるものもある。
多分同情したなんてばれたら殺されるだろうから言わないけど。
孫策が私の主でよかった。
私が私であってよかった。
周喩は夏侯惇を見てそう思った。
「曹操殿、少し失礼してよろしいか」
「構わないが?」
「では」
断って孫策が席を立つ。
周喩がその行く先を目で追って目的がわかるとほっとしたように目を離す。
「周喩殿も好きに席を離れてもらって構わんよ」
「いえ、私は。」
「何も家族団欒の邪魔をして来いとは言わない。」
視線の先に孫策と尚香が見える。
「だが、わしの部下たちと会うのも初めてであろう?顔は繋いでおいた方がいい」
「…ええ、…ではお言葉に甘えさせて頂きます」
少しだけ躊躇して、周瑜は素直に曹操の言葉を受けた。
素直に席を立ったのは一人になった途端にいきなり増えた重圧を肩に感じて、この二人を相手にするのに一人では力量不足だと思ったからだ。
今まで特に何も感じなかったのは孫策がいたからだろう。
やはり君はすごいな。
周喩はその彼のためにできるだけの情報を集めるために魏の人々に近づいていった。
その背を見送りながら、曹操と夏侯惇の間にいつも通りの空気が漂う。
「良い、国だな。呉は」
「ああ」
「だが若い。」
「そうだな」
「青春の苦悩と輝きが見えるわ。どうもむず痒い。」
「…孟徳」
「……まあ、おぬしも小僧どもと大して違いはないがな」
「孟徳!」
「…相変わらず短気だの。真面目すぎるのも少々問題だ」
曹操が残念そうに夏侯惇への揶揄いを収めて、肩に力を入れた。
がらりと変わる曹操の雰囲気に、相変わらずなのはお前も同じだと心の中で返す。
細められた目にぎらぎらと輝く野望が眠っている。
「元譲」
いつだってこの声が夏侯惇を動かす。
「勝つぞ」
「当然だ、孟徳」
呉とてこのまま同盟状態が続くわけがない。
だが、時間の猶予はできた。
これは大きい。
まずは袁紹を食いつぶすと、曹操がここからは見えない敵にその矛先を向ける。
夏侯惇は戸惑いもなく即答した。
この血が沸く感覚。
手放すつもりはない。
「兄様、曹操のところにいたのではないの?」
「いや、魏は堅っ苦しくていけない。」
「…抜け出してきたのね」
「……いや、この頃忙しくてお前とゆっくり話してなかったと思ってな」
「兄様!」
「すまん。」
「もう、しょうもない兄様ね」
尚香が仕方なさそうにくしゃりと笑った。
許しの合図だ。
孫策は酒を片手に尚香と開け放された露台に出る。
「で、何?」
「あ?」
「何か私に言いたいことがあるんでしょう?」
確信的な口調に孫策は苦笑するしかない。
まったく、どれだけわかりやすいのだろうか、自分は。
「心配をかけたと思ってな」
「嘘。」
即断されてしまった。
「本当は、何が言いたいの」
「……」
孫策は頭をぽりぽりと掻く。
言いにくいから話題を逸らして、間を計って切り出そうと思っていたのだが、どうもそうはいかないようだ。
だが、そう、尚香には真実を知る権利がある。
「ああ~、なんていうか、その。あのな、」
「ふふ…兄様、ごめん」
「あ?何でお前が謝るんだ。」
「兄様が言いたいこと、本当はわかってたの。あやのことでしょう?」
我が妹ながら、勘がいいのも考え物だ。
ここまでお膳立てされたのだから、腹を括らなければ。
「ああ、そうだ。先ず言わせてくれ、」
「謝らないでね」
すまんと言う口を遮られた。
「ほんとはね、なぁんとなく気付いてたのよ」
「尚香…」
「播瑠は死んだのね?あやは…きっと私が好きになってはいけない人ね。」
後ろで手を組んで何でもないことのように尚香は告白した。
「よく考えればわかるわ」
孫策は顔が歪むのを止められなかった。
そうしたいのは尚香の方に決まっているのに。
「播瑠が兄様の傍を離れるなんて、例え故郷が見つかったってないことよ?」
それはどうかな、と思いはしたけど孫策は黙って尚香の言葉を聞いていた。
それが孫策の義務だ。
「それにあの子、あや。男にしては無理がありすぎよ」
男よりも男らしくて格好良かったから、中々気が付かなかったけど。
そう続けて尚香は苦笑したようだった。
自分より背の低い妹の顔は見えない。
「でもねえ、兄様。私嬉しいの。あの子に会えて、とても。」
わかるかしら。
尚香は孫策を振り仰いで笑った。
孫策はそれが眩しくて目を細める。
ああ、いつの間にか。
子供だとばかり思っていた妹は美しくなった。
知らないうちに成長して、あっという間に大人になっていた。
「あやが何者であろうともあやであることに変わりはないわ」
あやが聞いたらとても喜ぶだろう。
彼女が『玄鳥天女』と呼ばれながらもずっと、言い続けていたことだったから。
「次に会ったら私から声をかけるの。だって、あの子きっと騙したって気にしてるから。言えない事を言わなかっただけなのに、きっとその事を気に病んで自分から近づいてなんて来ないわ」
「よく、わかってるな」
尚香が予測したあやの行動は孫策にも目に浮かぶようだった。
きっとそれは現実になるに違いない。
「ええ、よくわかってるわ」
悪戯っ子のように尚香は笑った。
「だって、あやは私の自慢の友達だから。」
孫策は優しく尚香の頭に手を置く。
「お前も俺の自慢の妹だよ」
強く、優しく、美しく。
「あやに負けないくらい好い女だ。」
「兄馬鹿」
「そうかもな」
尚香を抱き寄せて、いつもなら怒る尚香は黙って孫策の胸に顔を埋めた。
月が顔を出して、宴会場を照らし出す。
「次はいつ会えるかしら」
「多分そう遠くない未来だろうさ」
二人で月を見上げた。
きっと同じ月の光があやにも降り注いでいることだろう。
二章本編完結。