5話 ある夜の出来事
「あや殿、起きてるか。」
「惇兄…」
夜、それは突然だった。
旅の途中。
なるべく夜は村で宿を取ることにしていたが、時々はそこまで行き着けず野宿ということもある。
その日はそういう日だった。
いつものように野営の準備をして、寝る前のひと時を夏侯惇に強請られて物語の続きを話すことに充て、あやは祁央の長衣に包まって眠りについた。
そこまではいつもと同じ。
目が覚めて、すぐに月の位置を確認したのは時間を知るため。
一応現代からお供して来てくれた腕時計をしていたが、夜ではアナログの文字盤はよく見えない。
雲がかかっていたが、生憎と今日は十六夜。
薄ぼんやりと光だけは確認できる。
月の位置から今が所謂丑三つ時だろうという予想がつく。
獣除けに焚いていた火は消えかけていた。
こんな時間に目が覚めるのは珍しい。
疑問に思って身じろぎしようとした時に、近くで眠っていたはずの夏侯惇の小さな声が聞こえた。
それにあやも同じく小さな声で彼の名を呼ぶことで答える。
「合図をしたら走れ。いいな。」
夏侯惇には、あやが息を飲む音が聞こえた。
けれどここで自分がいても足手まといになる。
あやは夏侯惇の邪魔はしないと頷く。
夏侯惇は頷く気配を感じてほっと息を吐く。
悲劇の主人公よろしく、あなたを置いてはいけないわ、などと言われたらどうしようかと思っていたのだ。
あやは馬鹿じゃない。
それは呆れることが多かった旅の中で、それと同じくらい感じたことだった。
自分が戦いに専念しても、あやは大丈夫だろう。
彼女は迫る危機の中、何もできずに震える女ではない。
夏侯惇自身は気付かなかったが、それは紛れもなく信頼だった。
かちゃりと金属の鳴る音がした。
多分夏侯惇が自慢の武器を引き寄せたのだ。
北へ進路を取り、永昌郡も雲南郡も抜け、多分益州南部に入ったくらい、巴郡付近のはずだ。
治安は玄鳥の居住地、永昌郡を離れるほどに悪化していた。
その様子は目に見えて酷いもので、村に泊まったからといって安全とはいえない環境であるほど。
野盗だって当然いるはずだ。
むしろここまで襲われなかったのが不思議なくらいなのだろう。
目が覚めたのはこのせい。
伊達に三年も放浪してない。
村の中に泊まることも多かったが、こうして屋外で眠ることも、特に始めの一年間は度々あった。
ただの女子高生が、いつの間にか不穏な空気や気配を読み取れるようになるとは世の中何が起こるかわからない。
あやは傍に置いていた黒木造りの木刀を引き寄せた。
「今だ!」
夏侯惇の声に弾かれる様にあやは立ち上がって、夏侯惇から離れるように走り出した。
それまで潜んでいた気配が一気に濃くなり、派手な音と共に姿を現す。
やはり見た目、弱いあやだ。
直ぐに駆け出したとして、見逃すわけはなく幾人かが追いかけてくる。
夏侯惇は荷を狙うのに邪魔だが、あやなら他にも使い道がある。
女というだけで。
あやは三年前、この地に来たばかりのときのことを思い出し、顔を歪める。
あれから同じような体験を何度もした。
祁央たちがいなければとっくの昔にその餌食になっていただろう。
全速力で駆けるあやの手には全ての荷物を置いて掴んできた黒木があった。
それは日本人が見たら一目でおや、と疑問を持つ形状をしていて、その疑い通りそれは抜けば反り返った片刃の剣、即ち日本刀だった。
玄鳥族の一員である腕利きの男に作ってもらった武器の内、一番長い刀で殺傷能力も一番高い、誰もが見惚れる業物だ。
すらりと抜けば禍々しい光を放って牙を剥く。
「花王、行くよ」
銘を花王、桜。
黒鞘銀鍔の日本刀が答えるように高い音を弾く。
あやは目を閉じて、自分の命を救うために夜盗に向き直った。
繰り返す日常の中に組み込まれた、よくある事。
そう思えてしまうことが、あやは悲しい。
「ちっ!」
夏侯惇の舌打ちに正面の夜盗がニヤリと笑ったような気がした。
周りには既に六人の夜盗が倒れていた。
残りはあと三人。
だがこれがしぶとかった。
三人が一組として襲い掛かってくる戦法は夜盗にしては戦略があったが、そこは夏侯惇も魏の武将、早々に叩き伏せている。
しかし最後の三人、これが中々出来る。
あやは無事に逃げただろうか。
思いの外、質の高い野盗に夏侯惇は少し眉を顰めた。
「考え事なんてしてていいのか、ね!?」
同時に剣が降ってくる。
夏侯惇は冷静に避けて、直ぐに飛び退った。
案の定今避けた先の地面にもう一人の剣が突き刺さる。
隙の概念があるとは。
これは心してかからねばならないかもしれない。
それでも手古摺るという考えはあっても負けるという考えはない。
「お前、強いが馬鹿だな!何で女を逃がした?ここで守ってやれば助かる可能性もあったろうに!!」
「なに!?」
しまったと思った時には遅かった。
不覚、こんな簡単な挑発に乗るとは!
これは避けられないと思った夏侯惇は少々の傷は覚悟で、引くのではなく一歩を踏み出した。
予想外の行動に夜盗の目が見開かれるのがわかる。
夏侯惇は一度の戦いで二度の失敗を犯さない。
失敗をカバーするために焦ればそこをつけ込まれる。
失敗をしたときには踏みとどまるか、出る。
それは本能に逆らう行動ではあったが、夏侯惇にはそう難しいことではない。
夜盗の刃は身を傷つけるだろうが、自分の剣は夜盗を命ごと切り裂くだろう。
一人目はそれで確実に死ぬ。
問題は二人目、三人目だ。
一瞬の内にそこまで考えて、夏侯惇は一般人が扱うには幅広く重い剣を軽々と、しかし勢いよく振り下ろした。
「惇!」
実際に愛剣は夜盗の身に沈んだ。
しかし代わりに肩口を襲うはずの痛みはちりっとした感覚だけに留まる。
「あや!?」
夜盗の豪剣を受け止めたのはあやの黒木だった。
いつの間に入り込んだのか、夜盗と夏侯惇の間、黒木を両手で捧げ持つように下から夜盗の剣が夏侯惇の肩に食い込むのを防いでいる。
顔が歪み、両手は衝撃のために震えていた。
「な!」
夏侯惇が驚きに何かを言う前にあやは黒木の鞘を投げ捨て、夏侯惇の剣によって見事に事切れた正面の夜盗が崩れ落ちる前に、横から襲いかかろうとしていた男に切りつけた。
それは鮮やかな手並みだった。
残る銀の太刀筋は緩やかな弧を描き、曲線上にいた薄汚い男の肩から胸、そして脇腹に抜けるように切り抜ける。
浅いかと危惧した夏侯惇の思いは杞憂に終わり、軽く見えた剣筋は敵を絶命させるには十分な深さを持っていた。
良い剣なのだろう。
噴きだすように広がった鮮血があやを濡らす。
彼はもう助からない。
あやは肉を絶つ音の中に命を断つ音を聞いて、歯を食いしばった。
夜盗は地面に倒れ伏して、幾度かの痙攣の後に静かになる。
じわりと沁み出した赤黒い色が暗い視界でも地面を浸食していくのが見えた。
十六夜の月が雲間から顔を出す。
あやは月の光に照らし出されてしまった自分の手に着いた血の赤を無表情で見下ろした。
その光景は美しかった。
夏侯惇と残った最後の夜盗は身動き一つできずに息を飲む。
「……響彩様」
呟いた声は残った夜盗のもの。
無意識に漏れたのだろう言葉を残し、彼は瞬きも忘れて、あやの姿を凝視している。
賊の目に涙が滲むのを夏侯惇は不思議な面持ちで見ていた。
その声に反応して、今まで自分の手を見ていたあやが夜盗に振り向く。
「あ…あ、あ」
あやの茫洋とした色のない目に見つめられて、夜盗は声にならない声を上げた。
敢えて言うのならば畏れの悲鳴。
彼は振り向いたあやと目が合った途端に金縛りが解けたように、武器も捨てて逃げ出した。
「……」
「あや」
夜盗が去った後も、あやは動かなかった。
どこを見るでもない、空ろな目をしたあやは夏侯惇の声にも反応しない。
あやは自分にしか聞こえない音に耳を澄ましていた。
扉が閉まる音、あるいは遠のく音。
故郷へと繋がる扉は誰かの血を流すたびにあやの手の届かない場所へと消えて行く。
この音が嫌い。
故郷を遠ざける、忌々しい音。
帰れないことを知らせる、悲しい音。
「あや!目を覚ませ!」
何故、さっきあんなものを美しいと思ったのか。
夏侯惇は自分を罵る。
「正気に戻ってくれ!!」
まるで人形のように反応がないあやの肩を揺さぶる。
いつも言い合いばかりでうんざりしていたのに、あの無邪気に笑うおてんば娘に戻って欲しいと心から思った。
「…惇兄?痛いよ」
頬を叩いていると、あやの声が返ってきた。
「どうしたの?どこか痛いの?」
必至な表情を見せる夏侯惇が、途端にあやは心配になった。
そうは見えなかったが、先ほどの夜盗に手傷を負わせられたのかと。
その台詞と目は今も夢見心地のように柔らかかったが、夏侯惇は一先ず自分を認識してくれたことに安堵のため息をもらす。
「ああ、傷が…ごめんね?受け止めきれなかったから」
夏侯惇の肩から流れる血に目を留めてあやは済まなさそうに言った。
どちらかと言うと感謝を言わなければならないのは自分の方だと思っていたのに、先に謝られてしまった。
この程度の怪我は夏侯惇にとってはかすり傷だし、この程度で済んでいるのはあやのお陰だったからだ。
「早く、手当てしなきゃ…ね」
ここには抗生物質などない。
雑菌は恐ろしい死神だ。
ゆらりと微笑むあやがまるでこの世の者でないように感じて夏侯惇は連れの少女を抱き寄せた。
離したら消えてしまうかと思ったのだ。
その肩は頼りなげに細く、夏侯惇の胸に簡単に埋まった。
何がそう思わせたのか夏侯惇にはわからなかった。
だが彼女が消えてしまうのは許せないと、怖いと、思った。
夏侯惇はあやの手を一度も離すことなく、夜盗が転がるその場を離れ、夕刻に使った川辺に向かった。
あやの身に纏わりつく血が嫌だった。
夜と月があやを連れて行ってしまいそうで、太陽が恋しい。
「冷たい」
「ここで汚れを落とそう。匂いにつられて獣が来るかもしれないからな」
あやは素直に手を洗い、綺麗になった手を見てから、服ごと川に踏み込んだ。
「あや!?何をやってる。戻って来い、危ないぞ!」
「だって、消さないと。」
「何を…」
あやは気付いていた。
血だ。
多分、それが帰るための鍵。
三年もの間、帰れない理由。
自分の時代ではない者の血。
それを流すことは、きっと重い罪なのだろう。
罪は重ねられて、もう数えきれない。
許される日は来るのだろうか。
あやの答えは夏侯惇の不安を煽る結果にしかならなかった。
彼には、あやとの問答はまるで会話になっていないように見えるから。
「わっ!」
「あや!?」
足を滑らせたあやを見て、夏侯惇もそれを支えようと咄嗟に川に入る。
「あら、惇兄も水浴び?」
「危なくて見ていられないだけだ。掴まれ。」
夏侯惇は呆れながら、穏やかに笑うあやに手を差し伸べた。
ここまで濡れるともうどうでもいい気分になる。
「月が、綺麗で怖いね」
「…そうだな」
あやの声は寒さのせいか震えていて、まるで泣いているようにも聞こえる。
夏侯惇は半身が水に浸かったまま月を見上げるあやの腰を抱き寄せて、川に流されていく二人に付いた血が消えていく先を見つめていた。
早く、流してくれ。
あやが気が付かない内に、全て洗い流してくれ。
ずっと、あやの体が震えているのが、何かの感情を揺さぶる。
川から上がって、濡れそぼった服を着替えて夜明けまでの時間を少しでも睡眠に充てることにする。
あの様子では多分もう夜盗は来ないだろう。
何よりあやを寝かせてやりたかった。
あやはいつも通り、黒布銀糸の長衣を巻きつけて、膝を抱える。
「あや」
夏侯惇はあやを引き寄せた。
「震えている。寒いならこの方がいいだろう」
まるで自分を守るものはその着物だけだとでも言うように、小さくなって震えているあやを見ていられなかった。
あやは不思議そうに夏侯惇を見上げて、それから少し笑って夏侯惇の腕に寄りかかる。
これまで夏侯惇は村の宿泊でも同じ部屋で寝たことはなかったし、野宿の時もそれなりの距離をとって休んでいた。
それは夏侯惇なりの気遣いだったのだろう。
夏侯惇の体温が冷えた体に心地よくて、優しさが嬉しくてあやは笑って目を閉じる。
よく祁央がこうして眠らせてくれた。
淋しい時も哀しい時も辛くて苦しい時も怖いときも、泣いてる時はいつだって祁央と、時には右近と左近も交えて眠った。
こんな風にあやが不安定になった時は、彼らはまるで自分の温もりを分けるように支えてくれる。
だから、あやは嬉しく思う。
随分と、この世界の人たちは他人の心情に敏感で、それでもって優しい。
髪を梳く感触がしてあやの意識が休息に眠りへと引き込まれていく中、夏侯惇の低い声がした。
その声は祁央には似ていなかったが、同じように安心する。
「お前の名前は響彩というのか?」
「ううん、あたしの名前はあや。」
「そうか」
夏侯惇にとってその答えがどうであろうとよかったのだろう。
静かに答え、何も聞かないところが夏侯惇らしい。
「明日は久しぶりに新鮮な肉を食おう。兎を狩ってやる」
「楽しみ。でもあたしには捌けないから、惇兄がやってね」
くだらない話が眠気を誘う。
この人をとても信頼している。
だからあたしはきっと大丈夫。
大丈夫だよ、祁央。
まだ震えている手を握り締めてあやは心配しているだろう人たちを想う。
「まったく…そんなことでは本当に嫁に行けんぞ。魏に帰ったら侍女たちに教えてもらえ」
「別にいいわ。お嫁さんになれなくても、その時は惇兄に貰ってもらうから…」
「なんだそれは」
「………」
「あや?…寝たのか。」
返事はなく、あやの胸だけが静かに上下するのを見て、夏侯惇はほっとする。
寝息すら聞こえない事に心配になって覗き込んでみるが、あやの寝顔は穏やかで、夏侯惇はあやを抱えなおした。
今も震えている体をゆっくりと擦ってやる。
きっと寒さのせいではないだろうと思いながら。
必要以外で指一本触れたことのないあやの体は簡単に夏侯惇の腕の中に納まるくらいで、何故か夏侯惇は胸が痛んだ。
あやが傷つくのは見たくない。
震えているあやが哀れで、それを止めてやりたかった。
「…祁央」
「……だから誰なんだ、それは」
あやの寝言と同時に涙が一粒流れる。
それをすくいながら夏侯惇は複雑そうに呟いた。
「男の前であまり涙を見せるな」
喰われても文句は言えない行為だ、それは。
そんなことも知らないに違いない、手の中の少女。
あやの無防備さが無性に心配になる。
傍で見ていないと、なにをするかわからない。
うっかりおかしな男でも引っかけてきそうで不安だ。
白く、細く、小さく、柔らかな腕。
それでも、手には剣を握る者特有の硬さがあった。
似合わない、と夏侯惇は思う。
震える指でも手際良く処置してくれた夏侯惇の肩の傷。
繰り返すほどに慣れていた。
やはり似合わない、と思った。
夏侯惇の頭にあやの言葉が掠める。
『別にいいわ。惇兄に貰ってもらうから』
「なにを馬鹿なことを。」
彼女は娘の様なものだと、夏侯惇は心の中で付け加えた。
ため息と同時にもれた夏侯惇の呟きは十六夜の月が浮かぶ空に消えた。
響彩、ひびきあや、が主人公の名前です。