4話 旅は道連れ
おかしな女だ。
彼女と同行して早幾日、何度思ったかわからない。
「惇兄!見て!魚がいる」
そりゃいるだろう、湖なんだから。
夏侯惇は懸命にも言葉には出さないで心の中で突っ込んだ。
曹操がいなければ吐くことはないだろうと思っていたため息をまた吐き出して、無邪気に水遊びをしている女の後姿を眺める。
あやにとって三年ぶりの旅の道連れは、顔がかなり好みだった。
苦労性っぽいところも、何気に世話焼きな性格も大好きだ。
浮かれても仕方がないと思う。
あやはチラリと木陰で休んでいる夏侯惇を見た。
「見れば見るほどタイプ!」
鼻の下を擦ってみたのは鼻血が出ていないか確かめたからだ。
ついでに涎が垂れていないか、口元も拭ってみる。
なぜ夏侯惇と共に旅に出ようなどと、一朝一夕に決められたのか。
運命に導かれた、と言えば聞こえは良いからあやはそういうことにしておく。
顔がいいからついて行ったと思われたら事だ。
特に、祁央に。
心の中で自分の姿が消えて大慌てしているだろう祁央に謝っておく。
一応手紙を書いといたから大丈夫だと思うんだけど、まさか追いかけてきたりしないわよね。
鬼の形相で追いかけてくる祁央を想像してあやはぞっとする。
これでうっかり夏侯惇と対面して、「お前、まさかな?」なんて疑いの目で見られたくはない。
想像だが、あり得るから困る。
「惇兄!休んでないで早く行きましょう!」
夏侯惇はいまだに慣れない呼び方に微妙な顔をしたが何を言っても無駄と知ったか、それについては何も言わなかった。
休憩はあやの為に取ったものだったので、あやがいいならと直ぐに頷いてあやと同じように水辺にいた馬を引いて出立の準備をする。
あやが彼を『惇兄』と呼んでいるのは、相変わらず勢いで押し切った結果だ。
夏侯惇様は長いし惇様はイヤ、と呼び方に困ったあやが。
「普段何と呼ばれてます?」
と聞いたのに、うっかり素直に答えてしまったからだ。
「夏侯惇様とか夏侯惇殿だが?」
まさか「将軍と呼ばれてます」とは言えず、当たり障りのない事を言っていたが、あやは納得せず、聞いた。
「他には?」
「他には…?まあそうだな、惇兄とか元譲か?」
ニヤリと笑ったあやにしまったと後悔しても遅い。
元譲と呼ばれないだけマシと自分を慰めて、夏侯惇は思う。
この女に会ってから調子が狂いっぱなしだ、と。
「あたしのことはあやって呼んで下さい!」
あやからはそう言われたので、一応の抵抗として「あや殿」と呼び続けている。
だが、かの夏侯惇将軍とあろうものがこの程度の足掻きしか出来ないとは情けない、と心の中で嘆かずにはいられない。
一度だけ笑顔に見惚れたことがあったが、今ではそれも幻だと信じて疑わない。
普通の娘なら絶対に乗らない誘いに嬉々として乗ってきた女は、その時すでに旅の途中だったのか直ぐに出立の準備を整えて夏侯惇の元へ戻ってきた。
荷物はそう多くなく、唯一目立つのが細長い黒木の棒。
見たことのない形だったそれは多分武器なのだろう。
この時代、旅をするのに丸腰は死にたいと言っている様な物だ。
「馬は?この村まで乗ってきたのだろう?」
「だめ、あれは祁央の馬だもの。勝手に連れて行くわけにはいかないじゃない。」
あやはちらりと村の外れにある馬小屋に目線を送った。
今日も今日とて祁央の馬に相乗りさせてもらってここまで来たのだ。
その祁央は馬の疲れを取るために、乗りなれた美しい黒駒を置いて、村の飼馬で村長たちと周囲の視察に行っている。
あやの方は去年敷いた用水路やら病人などの村内の様子を見回り、一段落着いたところだった。
思ったより早く終わったのは、それだけ問題が少なかったと言うこと。
順調に土地は回復してきて、人々にも笑顔が戻ってきている。
これほど喜ばしいことはなかった。
村人たちで体力のあるものは祁央と共に村の周囲をまわり、他のものは村内であやが指摘した問題場所を解決・改善するために散らばっている。
あやも一緒になって手伝いたいところだったが、あちこちに駆けずり回り指示を出すことに追われて、一所に留まることは出来なかった。
やっと人心地ついた所で、うずうずと待っていた子供たちの相手をしてやろうと閑散とした村の外れを歩いていたところに、偶然村に入ってきた夏侯惇に呼び止められたというのが一連の経緯だった。
夏侯惇はあやの言う「祁央」が誰だかわからなかったが、あやの気が変わらない内にはやく連れ出すことが先決と考え、あやを自分の馬の後ろに引っ張り上げて乗せた。
あやは少し驚いたように目を見張ったが、文句は言わなかった。
「これからどこへ?」
「雲南郡を抜け、益州も抜け、更に北に。」
「…遠いね」
行きたくないと言い出すかと一瞬ひやりとしたが、あやは何も言わずに夏侯惇のがっしりとした腰に腕を回す。
一体なにがそこで待っているのだろうか。
不安はある。
けれど、この導き手を信用したのはあや自身だった。
彼女はそのまま何も言わず、夏侯惇を離すまいとでもするように抱きついて離れなかったので、夏侯惇も無言で馬を駆った。
回された腕の細さに動揺したのはどうしてだっただろう。
これでは例え武器を持っていたとて、寝込みを襲うことも出来きないのではないかと心の中で呟いて誤魔化した。
あや、と名乗った娘。
最初から変わっているとは思っていたが、共に旅をしてみるとあやは「ものすごく」変わった娘だということがわかった。
その心の在り様ははじめから心配になるほどに無防備だ。
物騒な世の中で怪しい男にあっさりとついて来る彼女には自分がどう映っているのかが少し気になってしまうほど。
その目には自分が害される心配が欠片もない。
最初から寄せられていた信頼に戸惑うなという方がおかしい。
それから見た目。
旅支度をしてもあやは借り物だと言っていた長衣を羽織ったままだったのでわからなかったが、その下には夏侯惇が見たこともない形をした服を着ていて、それは夏侯惇が見るに馬には乗りやすそうだったし、動くのにも楽だろうが足がかなり無防備だった。
数は圧倒的に少ないが、女武将の中にはもっと足を出している者もいないでもなかった。
だが、それは夏侯惇ら豪名を轟かせている武将たちにも勝るとも劣らないという自他共に認める実力あってのもので、こんな村や旅人がしていていい格好ではなかった。
もしかしたらこの羽織物の持ち主である中玄とやらは彼女の格好を見かねて、この羽織物をかけてやったのかもしれん。
夏侯惇はそう考えて一応あやに注意した。
「あや殿、貴方の様な年若い女性がそう素肌を晒すものではないと思うのだが。」
「…ぶ!惇兄までそんなこと言う。いいじゃない、これがあたしのスタイルなの!今更襲う人がいるわけじゃなし!!」
玄鳥天女の姿が知れ渡っている今、あやを間違って襲う者はいない。
いまいち言っていることがわからなかったが、夏侯惇はまたあやの勢いに黙ってしまった。
どうせ自分に害があるわけではない、夏侯惇は放っておくことにする。
それだけでなく、あやは料理も満足に作れなかった。
これは夏侯惇も言わずにはいられない。
「年頃の娘が料理が出来なくてこれからどうするのだ!嫁の貰い手がつかんぞ!!」
一人で旅をしていた時には自分でどうにかしていたのだろうに、連れができた途端にあやがやるのが当然とばかりに何もしなかった人には言われたくはなかったが、確かに自慢できることではないので反論は小さな言い訳程度にしておく。
「コンロとちゃんとした調味料と材料があればあたしだってそれなりに作れるわよ。」
「こんろ?」
「ここに来てからいつも手伝いしかさせてもらえなかったんだもの。努力はしようと思ったのよ?なのに右近なんてあたしが鍋に近づくと血相変えて追い払おうとするし。」
白父のおかげで食べられない食物の違いくらいはわかるようになったと思うのに、祁央たちは苦い経験からか、いまだに食事係は任せてもらえていない。
あやの呟きを聞き取った夏侯惇は右近と同じように身の危険を感じて、あやから携帯用の食料を受け取った。
その日から食事は夏侯惇が担当することになった。
夏侯惇は一体自分は女と旅をしているのではなかったのかと、食事の侘しさに空しい疑問を抱く。
それなりに好感を持っていた玄鳥族のイメージがガラガラと音を立てて崩れていく。
噂を鵜呑みにはしていないが、一人旅の途中聞いて回った玄鳥族の話は正に素晴らしいものばかりで、行いの悪い部下たちにも見習ってもらいたいと思っていたほどであったのに。
捕まえた玄鳥族の娘は馬も一人では乗らない、周りに対してあまりに無防備である上に、料理もできない。
まさかと思って聞いてみれば女なら出来て当然である家事の筆頭、針仕事などとんでもないという、何とも常識から外れた女だった。
「ボ、ボタン付けくらいならできるもん!」
あやは反論したが、規格統一されたボタンが存在しないこの場所ではつまり何も出来ないと同義語。
肩を落とした。
「一体玄鳥族の中であや殿は何をしていたのだ。」
夏侯惇は心底不思議に思ってあやに聞いた。
いまだ先の飢饉の影響が残る時期だ、役に立たない者を養えるほど豊かな村は少ない。
どう考えてもこれでは村の厄介者だ。
「ええ?何してたかって、玄鳥の村で?」
馬上で、うむと夏侯惇が頷く気配を背中で感じてあやは記憶を手繰る。
実はあまり玄鳥の村に居ついていた覚えがないので困る。
玄鳥の村を造って、灌漑・建築の知識を持った者や読み書きの講師の派遣などの建設的な要望が多くなったが、争い事が絶えたわけではなった。
あやには自分はのうのうと村で暮らし、仲間たちに命を張れとは言えない。
だからいつだって野山を駆け回っていたし、時には人の命を効率よく奪うための相談をして、それを指示しながら戦場にも立った。
だからたまにしか村に帰らない自分になんらかの役割が振られているということもない。
「村では子供たちと遊んでたわ。後は皆と一緒にお勉強。」
「……」
夏侯惇はやはりと心の中で呟いて、あやを甘やかして育てた玄鳥族の意図がわからず困惑した。
「あや殿はもしかしてその羽織物の持ち主の御身内であるとか?」
それならわからないでもない。
玄鳥族の中では身分が高いと思われる黒布銀糸が身内だとすれば、蝶よ花よと甘やかされて育てられてもおかしくないだろう。
それにしては令嬢とかけ離れた雰囲気だがそこは辺境だからだ、と目をつぶる。
「え~と、そうなるのかな。」
あやは玄鳥族かと聞かれたときと同じように曖昧な答えを返した。
あやにとっては最初に出会った祁央、右近、左近の三人は家族のようなものだったが、血のつながりはない。
その関係を他人に聞かれるとどう答えればいいのかわからなかった。
「やはりそういうことか」
「ええ、何?」
「幾ら親が甘いとはいえ、料理と針仕事もできんとは…」
夏侯惇はため息を付きながら、常識外の娘を見下ろした。
答えを渋ったということは複雑なお家事情があるのかもしれない。
もしかしたら不憫な境遇で可哀想に思った親がずっと甘やかして育てたのではないか。
「何よ、その呆れた顔。これでもあたしのする物語は評判がいいのよ。子供たちが強請るんだから!」
「何だ、あや殿は語り部であったのか」
「か、語り部?そんなすごいものではないと思うけど」
だが、夏侯惇の言うそれは戦闘に明け暮れる自分の姿よりよほど素敵に思えた。
「惇兄も聞く?ずっと馬に乗ってるだけじゃ退屈でしょ」
初日以降は夏侯惇の前に座り、馬に揺られているだけの旅に彩りを添えるのにはとても良い考えだと夏侯惇を満面の笑顔で振り返る。
ずっと夏侯惇の馬に乗り、食事を作ってもらいながらの旅はあやにとってもかなり心苦しいものだった。
図太い神経でも、それなりに痛みはする。
出来ることを見つけられて嬉しいと思うくらいには。
「それはいい考えだな」
夏侯惇はあやの影のない笑顔に少々面食らいながらも、あやの心情を慮ってくれたのか、提案に賛成した。
「ちょっと待て!その後ほびっとはどうなったんだ!」
「だからあ~、今日はここまでだって!早く野営の準備しなきゃならないでしょう。」
「そんなのはどうでもいい!このままでは気になって眠れないではないか。お前は俺を寝かさんつもりか!?」
「…これじゃあ子供たちと反応が変わらないじゃないの。」
夏侯惇とあやの言い合いが響くのはそれから幾許もない時刻。
彼らは目的地に着くまで、毎日飽きずに変わりばえのないやり取りを続けることになった。
「お!祁央帰ってきたか。今回はあやと二人だけだったろ、大丈夫だったのか?」
「白父殿は?」
右近に声をかけられてもそれには答えず、祁央は玄鳥族の文部の長とでも言うべき老人の名前を挙げた。
「いつも通り、白亜洞に籠もってると思うが。おい、祁央!?」
右近の答えを聞くか聞かない内に祁央はさっさと歩き出す。
「あやはどうした、祁央」
いつの間にいたのか、いつも感情の起伏のない左近のどこか押し殺したような声にも足を止めずに祁央は白父の元へと向かう。
左近は組んでいた腕を解き、ふっと息を吐き出してから祁央の後に続いた。
「おい?…どういうことだ」
左近の様子で何か不穏な空気を嗅ぎ取って、右近も表情を改めて二人を追いかける。
「白父殿!いらっしゃるか!?」
横断山脈にある玄鳥の一番目の村、『金剛』の奥、天然に出来た洞窟、『全役洞』に果たして白父はいた。
全役洞は役所の様なものだと言ったあやが適当に付けた名前だ。
沢山の者が洞窟内で揺れる明かりの中働いている様は、外から入って来た者にはうぞうぞと動く巨大な蟲にも見えて、気味悪がられることも多い。
事実子供たちはほとんどこの場所に来る事はないし、剛の者である右近なども苦手としている。
「どうしたのかね、慌てて。」
声を聞き全役洞の一番奥に座していた白父は祁央の顔を見て、直ぐに全役洞にいた全員に休憩を取るようにと遠まわしに人払いを命じた。
不文律で白父とあや以外には入ることの許されていない全役洞の更に奥の『白亜洞』に入るように祁央たちを促す。
右近が気味が悪そうに全役洞の揺らぐ影を見ている内に、祁央と左近は白父に誘われ噂の白亜洞に行ってしまった。
祁央はいつもあやといるからどうだかわからないが、右近は白亜洞に足を踏み入れるのははじめてだった。
鍾乳洞の通路を通って辿り着いた光景に右近は口を開ける。
「うおお!?すげーな」
恐る恐る入ってみれば、そこは名前の通り全面が白く輝く洞窟だった。
何の成分かはわからなかったが、そこは洞窟内とは思えない明るさで、幾つかの光源が白い壁に反射し、その明度を上げている。
「ほっほ、どうぞ座りなさい」
「いえ、結構です。これを、白父殿」
「ふ~む、『坊』はせっかちでいかん」
白父の中では祁央を指すらしい、気に食わない呼び方も聞き流して白父を無言で見る。
「わかった、わかった。どれ。」
白父は祁央に差し出された紙を受け取ってさっと目を通す。
紙は玄鳥族の名産品の一つで、その質は紙の製法が発見されてから百年を経ていないとは思えないほど、上質なものだ。
勿論その改良は現代の知識を持つあやの尽力が大きかったわけだが。
「そうか、嬢は行ったか…」
「はい」
深いため息を漏らし、白父は紙を机の上に置いた。
それは手紙のようだった。
右近はそれを無遠慮に机から奪うと目を通す。
みるみる顔色が悪くなっていく右近の様子に、左近も内容の検討がついたのか、表情を険しくする。
「あやの字だぞ、祁央。」
「ああ、そうだな」
「追いかけなくていいのか!!」
「追いかけてどうする」
「取り返すに決まってるだろう!」
祁央は右近の言葉に静かに首を振る。
「連れ去られたわけじゃない、あやは自分で行ったんだ」
「わからねーじゃねーか!脅されて書かされたかもしれないだろう?!」
「あやは今『景元』を持っていないはずだが?」
喰い尽く右近に重ねて、左近もあや愛用の武器名の一つを上げて気懸かりを漏らす。
武器なら『景元』はなくとも、そのおかげで残りの二つを持っていたはずだ。
祁央はもう一度頭を振った。
あやはこういう脅しに乗るような娘ではない。
なにかあればそれとわかる手がかりを残している。
それは祁央だけでなく三年と言う月日を共に過ごした右近にもわかるはずのことだ。
「ちっ!もういい、オレが行く!行くぞ左近!!」
「……ああ」
「ほっほっほ、そんなに心配せずとも大丈夫だろう」
「師父?何か知ってるのか!?」
何を言っても埒が明かないと短気を起こし飛び出していこうとした右近と左近の耳に、こんな時に聞くとかなり耳障りで神経を逆撫でするような白父の声が届く。
「向かった先は明白。」
「どこだ!」
右近の勇んだ問いに答えたのは意外にも祁央だった。
「魏、ですか?」
この大きな大陸に一際強大な力を持つ、北の大国。
それが祁央の考え。
行き先もわかっていたから祁央はそんなに落ち着いていられたのかと、右近は祁央を見やる。
「ご名答。わかっておったか」
「あやの手紙の人物、夏侯惇は魏の武将でしょう」
「あの曹操の筆頭武将か!?」
「夏侯惇なんて名前聞いて誰か思い至らないのはあやくらいです」
手紙を読んでいながら男の正体に気付かなかった右近が祁央の言葉にむっと口を閉ざした。
「俺が知りたいのは一つです。白父殿、彼は本物でしょうか」
「まず、間違いなく。」
「そうですか、ありがとうございました。聞きたかったのはそれだけです」
安心したように祁央は肩の力を抜いて、あやの手紙を懐に仕舞い込み、白亜洞を出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待てよ、本物だからどうしたってんだ!あやはどうするんだよ、何の解決にもなってないぞ!」
「本物ならあやを無碍に扱うような御仁ではないはずだ。」
「だからどうしたって!?ふざけんな、あやはオレの妹みたいなもんだ!勝手に出て行くなんて許さん!」
「右近、落ち着け。あやは帰ってこないわけではないだろう」
最早何に対して怒っているのかわからない右近を左近はいつもの表情に戻って宥める。
「…右近、半年だ」
「は?」
「半年経ったら迎えに行く。」
だからそれまではあやのいなくなったこの地を支えることに専念してくれ、と言い置いて祁央は白亜洞を後にした。
「なんだあ?ったく、よくわかんねーな。取り返したいなら追いかけりゃいいじゃねーか。」
祁央の声に混じっていた感情をやっと読み取って祁央が消えた全役洞の方を眺めて右近は呟いた。
右近にしたら祁央を見ているとじれったいと叫びたくなる。
なぜ感情のまま行動しないのか。
「お前ほど単純に答えが出せる人間ばかりじゃないってことさ。」
「ほっほっ」
「ちぇ、半年の間に横から掻っ攫われてもしらねーからな」
左近は苦笑し、白父はいつも通り笑う。
「オトコゴコロは複雑よ、青春だのう。ほっほっほっ」
白父が玄鳥の第二の村、『翡翠』の名産品の茶を啜りながら漏らした感想に右近は嫌な顔をして白父を見た。
同じ男としてこういうからかわれ方をされるのは不憫に思えてしまう。
そんなやり取りをしている間に、何か考え込んでいた左近が白父に尋ねる。
「師父と祁央はこの事を予測しておられたようですが」
師父は玄鳥族では彼だけが呼ばれる敬称で、彼の名を呼ぶのは祁央とあやだけだ。
その祁央でも「殿」と敬称をつけるから白父と実際呼び捨てにするのはあやだけということになる。
「そうじゃな、それ程に玄鳥族の名と玄鳥天女の名は広まったと言うことだ。いつこんなことが起きてもおかしくはなかった。」
「何故、師父はあやを追おうとなさらなかったので?」
「坊と同じ理由だよ」
「祁央も、何故半年も待たなければならないのか。」
「ほっほ」
「師父!」
少しだけ手伝ってくれとあやに拝み倒されて玄鳥の村にやってきた白父が逗留してすでに長く時間が経った。
いまだに潮時を見極められず、ずるずると居ついているが、またもや出ていく機会をなくしたらしい。
玄鳥天女のいない地を治めるには自分の力が必要だろうと自負するからだ。
「左近左近、あれじゃね?『意思の尊重』!あやが自分でついて行ったなら、ってさ。オレには理解できねーけど、そういうとこ祁央はあんじゃん。理解者ぶるって言うか」
「当らずとも遠からじ、だのう。「陽氏」は時々物事の確信をつく。」
こわいこわいと笑う白父ならではの呼び方にはもうなれた。
祁央の「坊」、あやの「嬢」よりはよっぽどマシに思えて、右近は白父の呼び方に文句をつけたことがない。
白父の答えに右近が得意げに左近を振り返る。
しかし左近は白父を見つめたまま視線を逸らさなかった。
頑固なところは左近も祁央と良い勝負だ。
白父は温くなった茶を飲んでため息を付く。
若い真っ直ぐに向けられる熱意に本気で抗おうとしない老人が勝てるわけがない。
「運命なのだよ」
左近は目を見張り、右近は怪訝そうに白父を振り返った。
「少なくとも坊はそう思っている。坊が関わることのない嬢の運命が動いていると。ずっと嬢が行ってしまう予感があったのだろう。だがそれに多分自分も付いて行くつもりだったから最近はいつにも増して嬢の傍を離れたがらなかったのだとわしは思うんだがね。…それでも嬢は行ってしまった。嬢の運命は坊を必要としていない。そう考えたから、坊は追わない。」
それはどんな感情だろうか。
…悔しいのかねえ?
白父は最後にそうポツリと呟いた。
「なんだそりゃ!意味ワカンネ、行きたいなら追っかけても一緒に行けばいい、取り返したいなら掻っ攫ってくりゃいい、好きなら抱きしめりゃいいじゃねーか。なんでそんな簡単なことができないんだよ。」
異様に理屈っぽいってか、自分の決めたルールに縛られて過ぎだっつーの。
右近の言葉にはさすがの白父も苦笑せずにはいられなかった。
まったくそれは真実を言い得ていると、そう思ったからだ。
白父は空のない白亜洞から北に目をやった。
北の地で教え子は何を見て、何と出会うのだろう。
願わくば、彼女が後悔することのない道を選ばんことを。
三人衆は中玄祁央、陽明右近、近衛左近です。
苗字名前のように使ってますが、本来はそんな使い方しませんのであしからず。