3話 嵐、来たる
益州に入ってからも、漢中から成都、どこも酷い有様に変わりはなかった。
土地は枯れ、民は痩せている。
跋扈する酷吏や長引く戦がここまで痩せ衰えさせているのだと、夏侯惇は苦く思った。
荒廃の一端を担っているという自覚はあったが、この状況を一刻も早く打開するためにも曹操がこの大陸を統一すべきなのだと思う。
夏侯惇には最良の道がはっきりと見えていた。
それを叶えるべく曹操の覇道の道への志を強く、新たにした。
だがどうしたことだろう。
見渡す限りの荒野は、南下するほどにぽつぽつと緑が増え、雲南を越え、永昌に入る頃には人々は息を吹き返したように、地を耕し、糸を織り、家畜を世話している。
初めて天玄党の話を聞いたのはまだ永昌に入る前だった。
天玄党について教えて欲しいと、立ち寄った村で聞いてみれば、中年の男は眉を顰めて夏侯惇に忠告した。
「あんたはここらに来るのは初めてだな?気を付けた方がいい。この辺はまだいいが、この先、不用意に『天玄党』なんて言ってみろ、あんた殺されても文句は言えないぞ」
「…どういう事だ?」
「天玄党ってのは噂を聞いたお偉いさんが天地玄黄、つまり『天玄而地黄(天は黒く、地は黄色である)』ってやつだな。あれと太平道の『黄天當立』と黄巾党そのものを掛けて勝手に付けたものだからな。」
彼らに対する蔑称なのだと口にする。
夏侯惇は驚いたように眉を上げたが、それは彼の言葉よりも彼自身の博識さからだった。
かつて太平道の教祖張角が乱を起こした。
『蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(蒼天已に死す。黄天まさに立つべし。時は甲子にあり。天下大吉ならん。)』の旗を掲げ一斉蜂起した。
目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いたことから彼らは黄巾賊と呼ばれ、それは八州にまたがる大規模な反乱となった。
曹操も黄巾には大分手を煩わされた。
乱は年内に終結したが残党はその後も反乱を繰り返し、度々手を焼かされ、実際に曹操が事実上黄巾を抑えたのは反乱から八年経った後で、つい六年前の事。
逆に言えばその黄巾の乱を足がかりに曹操はのし上がり、黄巾党の残党を兵力として組み込んだことで一気に覇道を突き進むことになったのだ。
そのことを考えれば、そう忌避すべき事件ではなかったのかもしれない。
が、あの苦労をもう一度してもいいかと問われれば迷わず否を返す。
そういう戦だった。
「あんた初めて声をかけたのがおれでよかったな!」
気安く夏侯惇の肩を叩く男は黄巾のことはともかく古い故事などを知っているようには見えない、見た目はどこにでもいるような村人だった。
「普通は皆、玄鳥族って呼んでるから、あんたも間違えないようにしなよ。玄鳥様は寛大だが、あの方達に世話になったもんはそうもいかねーからな。」
男はそういいながら玄鳥族の者を玄鳥様と呼ぶのだと教えてくれた。
「ところであんた、なんにも知らないようだが、何しに来たんだい?」
「…噂を聞いてな。玄鳥族には文字を読めるものが多いと。それなら私の村に師事してもらおうと頼みに来たのだが、真実だろうか?」
「ああ、そりゃ本当よ。かく言うおれだってそれなりに読み書きは出来るぜ。これも玄鳥天女様のご偉功ってやつかね。」
「…その『玄鳥天女』というのは初耳だが?」
「あ?そりゃいけねーな。玄鳥天女様ってのは…」
勢い込んで言ってはみたものの、段々と声が小さくなり、最後は頬を掻きながらどこか自分でも納得いかなさそうに説明した。
「…なんだろうな?守り神みたいなものかな…」
それよりはもっと現実的な気もするのだが、如何せん言葉が見つからない。
その間にも夏侯惇は男の話に頷きを返しながら納得していた。
結局祭り上げられる象徴があるならばそれは宗教ではないかと思う。
天女とは中々洒落ているとは思う。
永昌郡の横断山脈付近が本拠地と聞いていたのに、永昌郡に近いとはいえ一応雲南郡に当るこの村にすら影響をもたらしている所からして、思っていたよりかなりの影響力があるらしい。
しかし、男から話を聞けばそれは黄巾と変わらないように思えた。
天女を祭るようなただの宗教勢力ならば、手はかかっても曹操の敵ではない。
怖いのはただその高度な教育成果。
その謎だけは探らねばならない。
夏侯惇はそう判断して男に最後の質問をした。
「では玄鳥族の幹部と話をしたいのだが、どうしたらいいだろうか。」
夏侯惇としてはかなり真っ当な質問だったのだが、男は思いも因らない質問をされたかのような素っ頓狂な声を上げた。
「幹部ぅ?!……あ~?うーん、そうだな黒布銀糸の方々ならその幹部ってのに当らずも遠からじというか、…意味で言えば間違いはないと思うが。」
男は自分で言って自分で納得するように頷く。
しかし、その独り言染みた言葉は夏侯惇への説明にはなっていない。
それに気付いたのだろう、村人は照れと気まずさを隠すように頭を掻きながら謝った。
「ああ、すまんな。どうも幹部って観念がなかったもんで吃驚しただけだ。玄鳥族は役割と能力で区別するが、それは地位の差別じゃないからな。あ、でもそれをまとめる役割の者もいるんだ。集団になったら効率の問題でそういうのは必要だろう?おれが思うにそれがあんたの言う幹部だと思うんだが、どうだい?」
どうやら玄鳥族は特殊な形態を取っているようで、男が言っていることはわかったが、理解は出来なかった。
やはり玄鳥の人間を連れ帰る必要がありそうだと夏侯惇は気が乗らないまま決意する。
玄鳥のことを知るには一朝一夕には出来そうもなく、だからと言ってこの地に長く留まるには魏が心配だ。
誰か玄鳥族について詳しく知る人間が必要だった。
それも内部事情に詳しい者が。
「…ああ、そういうことか。戸惑わせて悪かったな。ところでその黒布銀糸というのは?」
夏侯惇は適当に相槌を打って方針転換に必要な情報を集める。
男が黒布銀糸『の方々』と複数形で言っていたからには黒布銀糸は人の名前ではないのだろう。
役職だろうか、と夏侯惇が考えていると男は思いきり苦笑して言った。
「あんた本当に何も知らないんだな。太平道が乱を起こした時、黄色の巾をしていただろう。玄鳥族も同じさ。自分たちの村以外では基本的に布を目立つところのどこかしらに巻いてる。黄巾と違って色は一つじゃない。その布と刺繍の色が役割と能力を表してるんだ。」
玄鳥族であること、その者が出来る事、それが一目でわかって頼みごとがしやすいと男は笑った。
面白い仕組みだと夏侯惇は感心して耳を傾ける。
「その中でも黒布銀糸は特別だ。」
きっぱりと言って男はその姿を思い出すように目を細めた。
その中に瞬くのは明らかな憧憬。
「…彼らに会うにはどうしたらいいだろうか。」
「そうだなぁ、いつも走り回ってらっしゃるから村に行っても会えるとは限らんしな。いや、ああでも今の時期なら中玄様が多分近くにいるはずだ。運がよければ会えるはずさ」
中玄祁央。
玄鳥で最も天女に近く、剣を持たせれば最強。
玄鳥天女に次いで名高い男だ。
「それはありがたい。会えばわかるのか?」
「ああ、黒布銀糸の中でも中玄様が一番わかりやすい。黒地に銀糸の長衣を羽織ってらっしゃるから。そんな人はこの一帯ではあの方以外にはいないからね。」
「確かにわかりやすいな」
今度は夏侯惇が苦笑した。
「いや、助かった。礼を言わせてくれ。」
「いいってことよ!人助けは玄鳥族の教えだからね」
「やはりあなたも玄鳥族の方でしたか。貴重な情報有難うございました。」
「いやいや、玄鳥族ではあったけど。もうこの村に身を落ち着けてそれなりに経ったからね、役に立ったのならよかった。」
男は満足そうに笑った。
男を見ていると、本当に自分が玄鳥族であったということが誇りなのだろうと感じさせられた。
それは玄鳥族を離れた今もその教えを守っていることからもわかる。
面白い。
玄鳥族に興味が湧いてきた。
改宗、とはこの場合言わないのかもしれないが、一度入った信者を簡単に手放すなど、既存の宗教では考えられない。
そして抜けて尚、教えに忠実な元信者も珍しい。
「治安が良くなったとはいえ、用心に越したことはない。兄さんも気をつけな。無事に中玄様に会えるように幸運を祈ってるよ!」
夏侯惇は元玄鳥族だという男に見送られ、緑が増えていく大地を馬に乗って駆け出した。
「すいません」
声をかけられた時ビックリした。
あまりにも声が好みで。
振り返ってみたら、顔は更に好みだった。
剛速球、ど真ん中にズドンと言ってもいい。
もし祁央がいたらまた説教されたかもしれない。
『お前ね、若いんだから相手もそれに相応しいヤツを選びなさい。どうしてお前はそう渋好みなんだ。』
オヤジ科ヒゲ属が好物なのは世界を超えてもかわらないらしい。
嗜好の問題は個人の自由だとあやは思うのだが、残念なことに祁央にその反論が通じるとは思えない。
祁央の説教が思い出される。
あれは辛かった。
1時間以上正座で「相応しい男とは」について延々と父親のような嘆きを聞かされていたのだ。
だから、声をかけてきた彼が何か言っていたのも遮って、第一声に聞いてしまったのは仕方なかったとあやは言い訳をしたい。
「あなたのお年は?」
あや的にはかなり真剣だった。
男の方としてはまさか自分がいきなり彼女のお相手候補に躍り出て、保護者の了承の心配なんかされているとは心にも思わないだろう。
戦場を渡り歩いてきた男にその唐突な質問はとても効果的だったらしい。
思わず真実を答えた、という点に置いて。
「…三十前だが」
わお、老け顔。
賢明にも口には出さなかった。
一つ言うならば、彼女はこれでも貶しているわけではない、褒めている。
「…これなら祁央も納得してくれるかしら?」
あやは男の顔を舐めるように見つめた。
男の方は彼女に何かを言われたことよりも、その執拗な目線に引いてしまっている。
見れば見るほど好みだ。
思わず舌なめずりを自重するほど。
三十後半位の渋みが増してきたころの男性が好みのあやだが、祁央のお許しは多分予想するに二十代を超えればダメだろう。
そこに、顔は三十代で年齢は二十代という今まで両立のし得なかった、あやの好みと祁央の条件の両方を満たしている何とも美味しい物件が目の前に転がってきた。
これを逃す手はない。
「あの、お兄さんはこの辺の人?」
あやは「この辺の人」なら自分を知らないわけがないことも失念して、捕獲計画のために恋愛の基本である情報収集に勤しむ。
脇が甘く、基本も甘い。
害意や敵意に晒されずに育ってきたあやの根本は、今さら厳しい世界に身を置いても変えられなかった。
だがあやの強運は呆れるほど発動率が高い。
今回も然り。
相手は決して悪人ではない、という幸運。
「いや、長旅で…」
「ここに住むの?」
「いえ、仕事も故郷に残しているので…」
「仕事ならあるからここに住もう!」
あやはお近づきになれるチャンスを作ろうと必死に言い募る。
男の方は次々にされる質問に答えるだけで、自分の置かれた状況すら把握できていない。
「いや、それはちょっと。大体余所者は嫌われるだろう?」
勢いに押されて何について断っているのかすらよくわからず、とりあえず了承してはいけないのだろうという本能に従って遠回しのお断り。
男はどうやら押しに弱いようだった。
「嫌われないよ、だって外から来る人多いし。あなたもそうじゃないの?あたしに声をかけてきたのはそういうことではなかったの?」
「え?」
「で、あなた名前は?」
「夏侯惇と言うが」
次々に変わる話題にまったく付いていけない。
女子とはそういう生き物だが、夏侯惇には姦しい女子の生態を目にする機会があまりなかった。
何か引っかかることを言われても、思考が働かないうちに投げかけられた、話題とは関係ない質問に反射的に答えてしまう。
しまった、と焦ってみてももう遅い。
「そう、素敵な名前ね。夏侯惇さん…惇さん、ん~?」
不味いばれたか、と夏侯惇がすぐにでも逃げ出せるようにと愛剣と馬に手をかけようとした。
しかし、夏侯惇の意表をついて、あやは何故か堪えきれないように噴出した。
笑いの原因はあやにしかわからない。
ここの人の名はいまだに頭が勝手に日本語に置き換えようとする。
「あは、トンさんって面白い名前ですねえ」
どうやら正体がばれた訳ではなかったらしいとひとまず夏侯惇は嘆息する。
しかし、面白い名前とはこれいかに。
初めて言われた。
「あの…?」
「あ、ごめんなさい。で、何でしたっけ?」
「いえ、その羽織物は貴方のかと尋ねただけだったんですが」
そう、彼女に声をかけたのはそう一言聞きたかったからで。
随分と本題に入るまでに無駄な会話をしたような気がする。
夏侯惇が指すのは、あやがこちらに来た時に着ていたコートに形を似せて作った、祁央がいつも着ている長衣。
黒一色の布地の端々にあしらった銀糸の刺繍が地味過ぎず、かといって派手すぎず。
飽きのこないデザインと上品な美しさがあったが、祁央が着ると不思議と凛とした強さが押し出される。
玄鳥族の服飾自慢の者たちが手によりをかけて、祁央のためだけに作ったそれはもちろん祁央によく似合っていて、あやはこれを着ている祁央の姿を見るのが好きだった。
「いえ、違いますよ。ただの借り物です!」
しかしここで遠慮は無用。
どう見ても男物のそれ。
誤解させてなるものかときっぱりと断言する。
日が暮れて肌寒くなったからと祁央がかけてくれた祁央の物だ。
答えにはまったくもって嘘の欠片もない。
だが夏侯惇と名乗った男はその答えにじっと考えるような素振りを見せて、あやに目を合わせる。
彼女は「あたしに声をかけてきたのはそういうことではなかったの?」と聞いた。
それはつまり。
「でも貴方も天げ、いえ玄鳥族の方ですよね?」
「え、まあ。そうなりますかね。」
曖昧に答えながらあやは彼が言いかけた言葉が「天玄党」だろうと当りをつけて怪訝に思った。
玄鳥族を天玄党と呼ぶのは遠く北の地と中央から派遣されてくる役人くらいなものだ。
彼がそういう者だったとして何の用だろうか。
きな臭さを感じて、あやは顔には出さずに夏侯惇と名乗った男を見る目を変える。
色を失くし、観察するように夏侯惇を見て、頭の中で情報整理に明け暮れていると何かが引っかかった。
思い出せない。
でもあたしはこの人の何かについて知ってる。
顔しか見ていなかったが、よくよく見ると着ているものも引いている馬もかなり上等なものだ。
長旅をしてきたのだろう。
乾期故に砂埃が付いていて薄汚れた印象が先に立つが、あやの目は確かだ。
いらないと言ってもどうか貰ってくれと、あやに差し出される服は材料も作りも、刺繍や飾りも、上等なものばかりでどれも丹精込めて作り上げられている。
目も肥える。
馬も同じ。
なんと言っても自分で毎日乗り回しているのだから。
実を言えば服や馬だけでなくほとんどの品質を判じることが出来るようになった。
三年前の自分からは想像も付かない。
当然、そこに至るまでは平坦ではなく、自分の努力以上に、村を作ってから得た厳しい白髪の教育係の努力の賜物ではあるのだが。
馬に乗せられた旅道具の中に大きな刀の一部を目が捉えて、形状を記憶する。
この辺は大分マシになったとはいえ、北は群雄割拠の混乱の中にあり、物騒であると聞く。
北の方から来たらしいから、そんなものを持っていてもおかしくはない。
が、あやの目から見てもそれはかなりの名器と見えた。
一般人が持つにはあまりにも不釣り合いなくらいには。
そこまでを一瞬で見て取ってあやは美味しい物件には目を瞑り、引き上げることにする。
残念。
だが、怪しすぎる。
本気でもない色恋で村に災禍を招くわけにもいかない。
一瞬の取捨の判断はあやの強みだ。
かつて玄鳥族がまだ玄鳥賊と呼ばれていた頃、武を魅せたのは祁央や右近、左近だったが、指揮を任されていたのはあやだった。
驕るつもりはないし、玄鳥は全て自分が作り支えたなんて口が裂けても言えないが、負け知らずの今の玄鳥の一翼を担ったという自負はある。
だからあやは戦場で鍛えた勘と判断力に素直に従うことにする。
たぶんこの状況と自分が感じたこと、これは玄鳥の知恵袋であり自分の教育係でもある白父に報告すべきことだ。
白父ならきっと刀の形状を伝えれば何らかの情報を持っていることだろう。
彼に説明出来るだけの情報は頭の中に入れた。
この男は悪い人には見えなかったが、何か大きなものが動き出しているのを今更ながらに感じ取る。
ざわりざわりと、身の内を動くこの気配は昔よく感じていたものだ。
それの名前をあやは知っていた。
最近祁央たちが過保護だったわけを何となく悟ってあやは夏侯惇からじりっと距離をとる。
「でも、残念です。お兄さんとても素敵だから、ここに住んでくれればと思ったのだけど。」
「残念と思ってくれますか。嬉しい言葉です。私はここに残ることは出来ませんが…もしよろしければ一緒に来ますか?」
あやが会話を終わらせようとしている気配を感じ取って焦ったのか、そんな怪しい笑顔で言われても、まして初対面の男では、何も言わずに頷く馬鹿はいないだろう。
夏侯惇自身もそう思った。
男だろうが女だろうが、武力以外の勧誘をしたことがない。
ましてや、その腕を買ったわけでもない女をどうやって口説けばいいのかもわからない。
迷った挙句、自分の願いに割りと率直で、他人からみたら怪しさ満点の台詞になってしまったことに頬が引きつった。
こういった類は夏侯惇の苦手とするところ。
無理難題を言ってよこした曹操に八つ当たり気味に怒りを抱いた。
もちろんあやも思わず宙に目を泳がせてしまうくらいには唐突な誘い。
彼ならば無言で手を差し伸べて、一緒に来いと言うだけで花も恥らうような美しい娘たちが何もかも捨ててついて行くような気がするのだが、と思わず苦笑いする。
あやは図らずも夏侯惇と同じ表情を浮かべることになった。
実際魏では名前さえ出せば寄ってくる女には事欠かないのだが、それはあやの預かり知らぬこと。
モテそうな見た目に反して、硬派で不器用な男であるらしい。
おかしなことで、あからさま過ぎる言葉は、怪しいはずの男に逆に好感を持った。
色も観察眼も収めて、純粋にあやはただ勿体無いと思う。
堅苦しい態度と表情しか見えないから、気を許した人にしか見せない表情がきっと多いに違いない。
少し、見てみたかった。
出来たら笑うところを。
そんなことを考えていたから選択を間違えた。
何も言わないあやに自嘲の混じった苦笑を浮かべ、諦めて踵を返そうとした男の腕を掴んで引き止めていた。
「…来てくれるのか?」
そんな行動に一縷の希望を見出した夏侯惇が驚きの表情と共に言葉を零す。
あやは困ったように笑った。
自分の行動と彼の言葉に。
そんなつもりはなかった。
だが、
「戻ってこれる?」
「ああ、約束しよう」
あやの言葉に表情を明るくする様がはっきり見えてあやは自然に微笑んだ。
夏侯惇が一瞬動きを止めたのには気付かず、あやは運命に従おうと決めた。
身の内の気配は、この地に突然やってきたときに感じていたものと同じ。
祁央たちと出会った時にも感じていたものとも同じ。
それの名は多分、『運命』だ。
こうしようと決めたことがあって、それでも意思に反して動いてしまう状況と言うものが確かにある。
今のあやの行動のように。
かつて初めて人を殺した時のように。
逆らいようのない運命がまた動くなら、今度は何もわからないまま終わってしまわないように、ちゃんと逃げずに向き合おう。
そう、ずっと心に決めていた。
「あなたが嵐だったのね」
あやの言葉の意味は夏侯惇にはわからなかった。
一部の登場人物と一部の出来事だけで進む物語です。
本来の登場人物は多すぎて、出来事も多すぎて、自分の手には負えませんでした。