19話 曹操孟徳
「疲れたの?」
「…いや」
ふふ、と微かに笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「何を笑う?」
「いいえ、笑ってないわ。」
あやは自分の前ではわかり易い嘘を付く曹操の、その嘘を指摘することなく、代わりに自分もわかり易い嘘を付いて穏やかに笑った。
窓からは月明かりが漏れ、光源のない部屋に差し込んでいる。
月光は互いの姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。
会話はそれで終わり。
あとは静寂が二人を包む。
曹操は時々、こうしてあやの部屋を訪れる。
誰も連れずに、一人で。
それが、城内の噂にならないわけはなく。
あやは曹操の後宮に入らなくとも、そういう女なのだと認識されていったが、気には留めなかった。
実際のところ、曹操はそういう時何をするでもなくただ座っていることも多かったし、あやが物語を語ってやることもあった。
どちらにしても、無邪気な娘であると認識されているあやと、権力者に相応しく畏れられるだけの行いをしてきた曹操には似つかわしくない静かな空気が辺りを支配する。
あやは気付いている。
彼が夜、一人であやを尋ねてくる時、彼はここに平穏を求めてやってくるのだと。
一月の宮仕えを終え、胡頌は玄鳥の村へ発った。
胡頌の旅立ちを見送った日も遠くになりつつある。
それでもあやはここにいた。
魏に。
今は曹操の隣に。
曹操はあやのために胡頌を生かした。
何のメリットもない罪人を、放免した。
歩むべき道を、覚悟を持って駆けていた男が、その道から半歩だけ、一瞬だけ、ふらついた。
それは傍から見れば何でもないこと。
何ものにも影響していない、曹操のいつもの気まぐれのようで。
だがあやは気付いた。
危険信号が遂に点ってしまったのだ。
点滅を繰り返し、終わりを告げる警告音。
もう、タイムリミットが近いのね。
南へ帰る日が。
これ以上、依存し始めたらもう抜け出せない。
きっと曹操だって薄々わかっている。
それなのにあやは今も魏に留まり、曹操は何も言わない。
傍にいれば、待っているのは破滅だけだと、最初に会った時から理解していた。
だから昼も、夜も、曹操はあやに触れない。
恐れているかのように、一筋たりと触れようとしない。
それでも、侵食は進む。
事実、曹操は生活に平穏を求め始めているではないか。
疲れを知ってしまったではないか。
「……」
月を見ながら、あやはため息を付いた。
早くしなければ、自分もここを離れられなくなる。
曹操のためだけに、生きてやりたくなる。
それは双方の望むところではなかった。
そう思いながら、どれだけの時が過ぎているのか。
あやは気がつかない。
「のう、あや。おぬし嫁ぐ気はないのか。」
「はい?なによ、突然。」
唐突に話しかけられた内容の辻褄は、あやの思考ではまったく理解できない。
「…大体誰とよ。」
問いかけても答えない曹操に再度問いかける。
「さあ?誰でも。…理想は元譲だが。まあ淵でも、曹仁でも構わん。勿論徐晃でもな。」
自分に忠誠を誓う魏の者なら誰でもいい。
心の中で曹操は呟く。
どうでもよくないことをどうでもいい事のように言う曹操の視線は外に向いたまま。
あやに窺い知ることはできない。
「また何でそんなことを考え付くのよ」
「さあ。」
あやは今回ばかりは思考の読めない曹操の真意を測りかねた。
「元譲では不満か?」
「不満って、そんなわけないけど」
「あれは喜ぶと思うぞ」
「…そうかしら。」
そうとは思えない。
自分のような貧弱な娘より、家柄も容姿も才能もそれから家事にも才長けた、彼に相応しい娘なら沢山いる。
それを抜きにしても、曹操に忠誠を誓った彼なら、いまだ不安定な立場にいる曹操を助けるためにも、結婚を政治の手段として使いそうな気がする。
「おぬしも嫌いではないのだろう?ではいいではないか。」
「何をムキになってるのよ」
普段ならエロ親父みたいな台詞だと突っ込んでやるところだけど、曹操の声があまりにも平坦で、きっと茶化してはいけないんだろうと思う。
あやの的確な指摘に曹操は鼻を鳴らして、今度は夏侯惇に矛先を向ける。
「大体三ヶ月も共に過ごして何もないなど、信じられん。何をやっておったのだ、元譲は。押し倒すくらいの気概を見せなくてどうする。」
「ちょっとー、本人の前で変なこと言わないでよ。何もないってことは惇にそんな気がなかったって事でしょうが。」
「…わかってない。わかっておらぬぞ、おぬし。」
「何がよ。」
曹操は再度頭を振って、ため息を付いた。
あやは心底呆れたと言わんばかりの曹操の態度に眉根を寄せる。
「それに!あたしは今、真実がどうであれ、世間的にはあんたの女!それがいきなり部下の誰かに嫁ぎますって、おかしいでしょうが。」
「…だが元譲と、あと淵くらいは気付いておると思うぞ。」
「何を」
「おぬしがわしの女ではないことだ。」
曹操の答えにあやは少し驚いて、それから複雑そうな顔をした。
自身にも自分の心情に説明は付かない。
だけどそれを言うのは、気恥かしくてあやは憮然と曹操に問いかける。
「さっきから何が言いたいの。」
「…さあ」
肝心なところで口を噤む曹操の考えはいまだに彼の心中。
別れのときが近づいていることなどとうに気付いているだろうに。
今更そんなことを言い出す曹操の意図がわからない。
ふとずっと背けていた顔を戻し、曹操はあやと目を合わせた。
「わしが、もし…」
「孟徳!」
思わず呼んだことのない名を叫んだ。
言葉を遮るようにして発せられたあやの鋭い声にハッとして曹操は口を閉じる。
苦い顔が、意識して言ったのではないことを如実に表していた。
ああ、遂に。
遂に。
あやの顔が歪む。
危険を知らせる点滅は、点灯に変わってしまった。
曹操は眉根を寄せて黙り込んだ。
二人にとって『もし』は禁句だった。
それが言葉になったときが、終わりの時であると、両者が知っていたから。
共にいればいつか道を踏み外す。
最初はほんの小さな齟齬も、時が経てば、取り返しのつかない大きな歪みになる。
そしてその最初は起きてしまった。
いや、もう起きていた。
はっきりと、その事を曹操は認識した。
そんな事にすら、今まで気が付かないくらい、侵されていたのか。
現実は変わらない。
あやと曹操の道はこれ以上交わらない。
二つ同時に選べないのなら、選ぶものは決まっている。
それでも『もし』、と望む心がある。
そして、それを口にするほど心が揺らいでいるなら、そこが限度。
曹操は自分の愚かな弱さを憎んだ。
何を考えていた?
あやもこの野望も、両立はしないと知っているのに。
愚かな夢を見た。
あやと共にある夢を。
誰かのもとで笑うあやを。
誰かを枷に自分の元に繋ぎとめる可能性を。
傍に置くには、触れられもしないけど。
距離さえあれば、両方を選べるのではないかと、ありえないことを思った。
いつもなら可能と不可能と、現実と絵空事を冷静に判じる心が弱さに負けた。
「…ふ、くっくっくっくっく!」
まったく、こうも強い毒を知らない。
心を侵していく甘い心地よさ。
自分を笑う。
湧いてくる怒りを押し殺しても、漏れる声と共に吐き出しながら、曹操は目を開けた。
弱さは露呈した。
それこそが、共にあることが不可能であるという証拠。
突然、曹操の笑い声が止まる。
耐え切れないかのように腹を抱えていた体を起こし、真っ直ぐに、曹操は立った。
「あや、やはりおぬしとわしは相容れぬか」
「…タイミングが悪いのよ。生きる時代と出会った時期と」
それから、捨てられないもの。
座ったまま、曹操を見ないあやを見下ろして、曹操は聞いた。
「あや、わしは誰だ。」
その質問にあやは肩を揺らした。
それは曹操があやに寵愛を与えた台詞。
では二度目は。
「わしの名は」
それは初めて聞いたときの声のように、強制力を持って響いた。
重ねて問う曹操に、あやは少し間を置いて答えた。
あの時と同じ答えを。
「…曹操、孟徳。」
「そうだ。わしは曹操孟徳。」
にやりと笑う曹操は覇者の目をしていた。
あやの前でする隙のある表情も、見せる弱さも、そこにはない。
「我は天を得る者なり!」
曹操は最後まで顔を上げないあやを気にも留めず、一声あげて踵を返した。
曹操は振り返らず、部屋を出ていく。
留まることの許されない彼の道を歩くために。
あやも彼の背を見送らなかった。
じっと、前を見たまま、窓の外の月を見ていた。
彼の名は曹操孟徳。
彼はもう二度と自らに弱さを許さない。
迷うことを許さない。
愚かな夢を見ることもない。
だからあやの存在も、認めることはない。
「…あなたは曹操孟徳」
強く、美しく、狡猾ともいえる賢さと、先を見通す目と、世界を統べる器を持つ者。
あの時のように、真っ直ぐに曹操の目を見て言われることがなかった言葉が宙に漂う。
言いたくなかった。
答えたくなかった。
曹操が去った部屋で、彼の名をもう一度呟いてあやは顔を歪めた。
曹操、あなたは強い。
弱さを認められるほど、強くて、それが羨ましい。
こんな問答一つで、もう彼はあるべき姿を取り戻してしまった。
簡単に切り捨てられてしまった。
あやは、気付いても尚切り捨てられず、結果惨めに一人取り残された自分を自嘲する。
あたしは弱い。
終わりは見えていたのに、目を背けて、先延ばしに出来るなら、それがいいと、どこかで思っていた。
まるで夏休みが終わる直前の小学生。
いつかは向き合わなければならないのに、溜まった宿題を、見ない振りをすることで逃げ続けた。
そして遊び相手にもそれを押し付けようとする卑怯者。
だけど、あやはもう子供ではない。
それだけ、大事だったのだ。
そうしてしまうほど、大事だった。
あたしは曹操に夢を見ていて欲しかったんだわ。
その望みの愚かさを知っていても、それでも気付かないで欲しかった。
そして自分も気付かない振りをすれば、変わらないでいられるんじゃないかなど。
あやは顔を覆う。
愚かな夢を見ていたのはあなたじゃない。
あたしだ。
曹操に繋がる心はそれでも切れてなどくれないから、この醜い想いもきっと曹操に筒抜けに違いない。
軽蔑されただろうか。
されただろうな。
それもいいかもしれない。
ここを出る踏ん切りがつくから。
「失うものばかりだわ」
大切な人。
もう彼は一人夜に、この部屋を訪れることもなく、無心で過ごすこともない。
その姿を見ると愛しさが溢れて止まらなかったのに。
今も、これからも、曹操に続く引力は消えないのに、扉は閉ざされた。
喪失感が胸を塞ぐ。
あやは流れる涙を止めようとは思わなかった。
「月が嫌いになりそう…」
淋しい。
その言葉の代わりにそう言った。
祁央、ここは大切な人が多くて、とても悲しくなる。
月の柔らかな光は一晩中、部屋に、あやに降り注いでいた。
曹操は自室の前に立つ衛兵が自らの姿を認め、緊張するのを目に留める。
今まで、あやの元へ行った曹操が夜が明けないうちに帰ってくることなど、ただの一度もなかったことだから。
曹操の様子はいつもと変わらず、何も言わず、自室へと消えた。
それでも衛兵が不審そうな顔をするのを、見逃さない。
あやの元から帰ってくる曹操は『いつもと』少し違うから。
いつもと同じ、人を圧する雰囲気の曹操に違和感を覚えた。
衛兵の表情からその事を読み取って、曹操はひとりになった自室の真ん中で拳を握り佇む。
怒りが渦巻いて、衝動で動かずにいられなかった。
机を蹴飛ばす。
久しぶりに感じる激情が体を支配した。
盛大な音を立てて転がる書簡や書記具がまた曹操の怒りを煽る。
曹操は片っ端から部屋を汚し、高価な調度品をも叩き割っていく。
壊れなかった物は剣を抜いて、斬りつけた。
外で控えている兵たちは入ってこない。
彼らは曹操に仕えて長い。
人前では決してパフォーマンス以外では怒らない曹操が、時々ひとり部屋を荒らすことを知っている。
その心情を彼らは慮ることはできない。
夏侯惇が言ったことがある。
曹操は独りなのだと。
だからひとりで、明日を往くために、全てを消化するための儀式が必要で。
だが心配はいらない。
なぜなら彼は曹操孟徳だから。
そう言われてから、兵たちは納得した。
不用意に部屋に声をかけることもない。
それでも、最近はなかったことだ。
兵たちは部屋から破壊音が響くたびに身を竦めた。
肩で息をして、壊すもののなくなった部屋を見渡し、曹操はようやく動きを止めた。
剣を鞘に戻し、冷めていく体を臥牀に横たえる。
身を燃やしたのは屈辱。
そして怒り。
甘い毒。
変質していくことにも気付かせない、恐ろしい媚薬。
あやはそういう存在だった。
そういうものだと知っていたのに、あまりにも簡単に侵された。
怒りは、自分へ向けた怒りだった。
兵にもわかるくらい、いつの間に、変わっていたのだろう。
屈辱は、心の変質を小物にすら見抜かれた腑抜けていた自分に。
曹操は仰向けに、窓の外に見える月を見て、目を閉じる。
変えたのはあやだ。
だが、あやを恨む気にはなれない。
失敗を誰かのせいにして終わらせるには、曹操の矜持は高すぎ、誇りはまだ折れていない。
変わったのは自分。
静かに受け止めて目を開く。
月はまだそこにあった。
月を睨んで、曹操はまだ消えていない自分を認識する。
引き返せない深みまで、踏み込んではいない。
曹操孟徳はここにいる。
あやは曹操孟徳を殺せなかった。
その事実をほんの少し、残念に思う心を無視して、曹操はもう一度目を閉じた。
目蓋の裏に月の残像がちらつく。
あやのようだと思った。
月を愛でる様に、近づくことは許されない。
だが、美しい女だった。
最愛の娘。
彼女が泣いてる。
曹操は独り、険しく、長い旅路へと戻るのに、それは最高の餞だと、流れ込んでくる悲しみの気配を胸に、一度だけ穏やかに微笑んだ。
翌日、あやは鳥を飛ばした。
自分は弱いから。
何もかも終わったのだと悟っても、未練と愛着が強くて一人では出て行けないから。
ここから連れ出してくれる誰かが必要だった。
実際に魏という国が出来るのは曹操の息子の時代だそうですよ。