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燕華の天女 河岸の覇  作者: 一集
第一章 魏編
19/83

18話 楽園





夏侯惇は知らず握り締めていた拳に気が付いて、肩の力を抜いた。

いつの間にか強張っていた体に感覚が戻ってくる。


その辺りの体感の制御には、緊張と弛緩の具合がものを言う戦場に多く立ってきただけあって自信がある。


しかし、その手の平だけには熱が戻らない。

冷たい手には冷たい汗を感じた。


混乱を、している。


自分の状態について判じられるのはそのことだけだった。


夏侯惇にとってあやはあやだった。

そのはずだった。


あの日、悲しいと言って泣かない彼女を見て、夏侯惇は気が付いた。

あやが何者であっても構わないと、何があっても決して揺らがないだろう心を。


その心の在り処。

心に灯る温かい感情、それを真実と定めたならば。


だからあやはあやだと言い切る自信すらあったのに。

だが、簡単に揺らいだ。


あの盗賊が叫んだ名は、聞き知ったものだった。


あやが誰だって?

玄鳥天女?


それは玄鳥に祭られたただの守り神の名前ではなかったのか。


人間ではない?

空から落ちてきた天女?


例の広間での出来事の間、夏侯惇は明かされていくあやという人物像に呆然としていることしかできなかった。


しかし、そんなご大層な名を持っていたからと言って簡単に彼女を排除しようなどとは思わない。

思わないでいられた自分に安堵した。


だが、もしかしたらただ現実を受け止められていなかっただけなのかもしれない。

ただ実感をしていなかっただけなのかもしれないと、今は思う。


隣の部屋から漏れ聞こえてくる話は、確かにあやがこの世の者ではないと示していて。

この地にあってすら、立場を異にした地位を持って起つ女だと突きつけられて、混乱しないわけがない。


夏侯惇の無駄に回転する頭が、勝手にあやの危険性をはじき出す。

混乱しながらどこかが冷静に、曹操と魏の覇道にあやがいつか壁として立ちはだかる可能性を判じる。


ずっと、胡頌が現れてからあやの正体が知れたその日から、夏侯惇の思考は千路に乱れて、地に足が着いていない様な感覚が抜けない。


そしてやはり今も夏侯惇を引切り無しに襲う眩暈に似た焦燥が身を焼いて、考えが纏まらない。


そんな夏侯惇の様子に夏侯淵は気付いていた。

だが、声はかけなかった。

答えを出すのは彼なのだ。

傍観者にその位置を定めてしまった自分には口を出せない問題。


―惇兄、間違えるなよ。


つい一月ほど前の、夏侯惇邸の光景を脳裏に描いて、夏侯淵は随分と変わってしまった状況のめまぐるしさに目に見えない意志を感じる。


あやが人間だろうが天女であろうが、南の者だろうが天界の者であろうが、誰であっても夏侯淵には関係ない。

しかし、彼女の肩書を知って、一つだけ納得した。

彼女には確かに天がついているのだろう、と。


賊の襲撃を受けた街の中で、あやを見たときからわかっていた事だった。

彼女の存在は、埋もれない。

例えば曹操や、かつて見た孫堅が持っていた、周りを巻き込む力。


大きな力が彼女の周りを渦巻いて、望むと望まざるとに関わらず彼女は歴史の表舞台に立つ。

そう確信していた。


だが、夏侯淵はあやと夏侯惇が共にいるのを見るのが好きで、このまま穏やかに時が過ぎればいいのにとも思っていた。

穏やかで、暖かで優しい空気。


しかし、夏侯淵の願いは叶わず、曹操はあやに目をつけた。

曹操の命を聞きながら夏侯淵は、やはりそうなるのかと、逆らえない運命の力に頭を垂れたのだ。


文句も言わずに、曹操にあやを送った夏侯惇の選択を責めようとは思わない。

むしろ立場的にも、心情的にもそれが正しかったと断言できる。

夏侯惇にとって曹操が絶対であるように、夏侯淵にも曹操は仰ぐべき真の主だった。


夏侯惇が曹操の言に背きあやの手を取っていたら、夏侯惇を討つ羽目になっていただろう。

そんなことはしたくなかった。


曹操とあやの対峙を見ながら、夏侯惇に送り出され、これから舞台を駆け上っていくあやの姿に目を眇めたのはついこの前だったはずだ。


しかし曹操とあやの対面の結果は意外な方向に転がった。


あやは曹操と不可思議な関係を築いて、それはまるでずっと共に育ってきた兄妹のよう。

いや、それよりもっと近い関係。

例えば感覚を共有するといわれる双子のようにも見える。


危うい釣り合いの上で再び膠着した関係。

脆く儚い分、とても美しい。


あやと夏侯惇と同じように、あやと共にいる曹操の雰囲気が好きだった。

だが、また。

事態は大きく動いてしまったようだ。


いま、この時。

壁の向こうで。


夏侯淵にも読めないこの先の展開は、結局のところあや次第なのだろうと夏侯淵は壁の向こうにまた耳をそばだてた。




「どんなところなのです?響彩様の故郷は」

「…そうね」


とても会いたい人たちがいる所。

とは言わない。


「着る物に困らず、食べる物の事で争わず、誰もに家があるところ。考えを強制されず、人権を尊重され、好きなだけ学べて、理不尽に命を奪われることのないように護られている国。医療技術が進み、一度止まった心臓すら動かし、寿命を無理に延ばすことまで出来る場所。武を知らず、争いを知らず、命を脅かされず暮らしていける、そういうところ。」

「楽園みたいなところですね」

「…そうだね。考えたことはなかったけど、あそこは楽園だったのかもしれない」


思えばあっという間に還っていく。

心が、帰りたいと叫び出しそうで、あやは胸の間で手を握り込む。


「…足りないものなんか何一つなくて。」


そう呟くあやの目は窓の外の空を映して、青色に輝く。


胡頌にはあやが今にも消えそうに見えて、不安になった。

ざわりと揺らめく心を無視して聞く。


「足りないものが、ない?」


故郷の話を、きっとあやは南の地で語ることはない。

中玄祁央たちが傍にいるなら尚更。


事実あやは祁央たちに、自分たちが出会った場所を尋ねたことはない。

祁央たちもそのことについては話さない。

不自然なほど、話題の欠片にも上らない。


そんな予測が簡単に出来るから、口に出すことすら出来なかったあやの故郷の話を聞くのは、故郷へと続く最後の綱を切った自分の役割だと、胡頌は外に目をやり懐かしそうに目を細めるあやに向かい合った。


やめろと叫んで、言葉を遮りたくなるのを膝の上で拳を握り締めて耐える。

それが胡頌に出来ることで、やるべきことだった。


「そう。足りないものなんか、ないところ。両親がいて妹がいて、親友がいて。昔からの友と新しくできた友人。高校に入って直ぐに合宿があったから、とても仲良くなったのよ。昔の恩師には感謝してる。それからたくさんの同級生、後輩と先輩。クラスメート、遊び友達。喧々囂々だった生徒会仲間は個性が強くて一生忘れないんじゃないかな。」


どうしているだろう、彼らは。

元気だろうか。


一人ひとりの顔を思い浮かべながらあやは次々に言葉にあげていく。

この世界に来たばかりの頃は、もっと沢山言えた。


描く過去に、もうぼんやりとしか思い出せない顔が混じっているのを見つけて寂しく思う。


時の流れの速さと、三年という時の大きさはあやから徐々に故郷の記憶を奪っていた。


忘れろ。

あなたはここにいる。

俺たちの傍にいるのだから。

遠い故郷ではなく俺たちを選んでくれ。


きっと同じ事を祁央たちも思っていたのだろうと、ここではないどこかを見ているあやから視線を逸らさずに胡頌は思う。


あまりにも身勝手なその言葉は口には出来ない。

あやをこの地に無理やり繋ぎとめている自覚がある。

あやの優しさにつけ込み、多くの命を背負わせた。


そうすればあやは見捨てない。

見捨てられない。

わかっていて、枷を増やす。


ここにいて欲しくて。


だから祁央たちは口を噤み、胡頌はあやに問い掛け、あやも彼らに帰る方法を問わない。


そんな胡頌の苦悩には気付かず、あやはふと高校入学後、合宿の前に会ったひとの顔を思い出した。


彼が餞別にとくれた奇妙なプレゼントに文句を洩らしたものだけど、それはこっちでは随分と役に立つものだった。


初めて襲われた時に自分の身を守ったのもそういえばそれだったとあやは思い出して、リュックの中に今も納まっている万能ナイフを思い浮かべる。


故郷を想うと切なくなるのに、彼を想うと穏やかになる。

どういう心理だろうか。

帰りたいとか、会いたいとか、そういう感情を引き起こすのではなく、安定感のある心安らぐ想い。


彼に向かう感情が、幸せを願う心だけなのは、もう整理がついてしまった証拠なのかもしれない。


唯一つ、故郷に残る思い出の中で穏やかな想い。


彼に関して心残りがあるとしたら、礼が言いたかった。

心からの感謝の言葉が。


「そういえば、お礼をしなくちゃいけないわね。」

「は?」

「魏の人たちによ」


この心を伝える術のないことを残念に思って、後悔のなく今伝えられる人たちを思い浮かべる。


しかし、胡頌が幾ら聡いと言っても人の心が読めるわけではない。

あやの言葉は唐突にしか聞こえなかった。


その言葉から推察できることと言えば、彼女が魏を離れる決心をしたということだけ。

胡頌は何故こんな話題になったのかは解らずも、その事実だけは理解できて少々浮かれていた。


「何をしたらいいかしら。何かいい案ない?彼らは何をしたら喜ぶと思う?」


だから聞かれたことに対して、ぽろりと思ったことを言ってしまったのだろう。


「男が喜ぶものでしょう?やっぱり女じゃないですか?」


胡頌は答える。

男だらけの賊の中で育ってきた胡頌にはそれくらいしか答えようもないとも言えた。


焦ったのは壁を一枚隔てた向こうで聞き耳を立てていた男たちだ。


今までごくごく真面目な雰囲気で、深刻かもしれない話をしていたはずの二人の会話。

それが突然おかしな方向に捻じ曲がった。


大事に囲ってきたあやには酒を飲んですら振ったことのない話題。

せいぜい隠し事のない曹操が大人の事情を漏らす程度のものだった。

それすらも何とか周りで誤魔化していたのだ。


あやになんて事を!


故に、それが四人の一致した叫びだったのは当たり前といえば当たり前かもしれない。


「あ~うん、男の事情はお察ししますけども…。胡頌は正直ね。」


あやは目線を泳がせて苦笑い。

今さらカマトトぶる年でもない。


壁の向こうの男たちにとっては意外にも、彼女は普通に受け流した。

そのことには一安心して、しかし別の問題に行き当たる。


待て!一体何を察してるんだ、なにを!


あやがその疑問を聞いたなら、また困ったように笑って、それでも答えただろう。


ナニを、と。


ショックを隠せない四人だが、かなり心臓に悪いあやと胡頌の会話は続く。

本人たちは何の意図もしていないだろうところが性質が悪い。


「でもねぇ、皆にそれを贈り物(プレゼント)って訳にはいかないじゃない」


いくら彼らが喜ぼうと、女をお礼に渡す、なんてどこの時代の話だ。

あ、『今』ですね、すいません。


思わず心の中でノリ突っ込みをしたが、時代が許そうとも、あやには抵抗感がある。


「現代人として犯罪臭がハンパない。それは却下よ」


盗み聞きをしていた男たちは、誤解されたのは痛いが、突然女が贈られて来ることはなさそうだと、どこか感覚が狂ったまま少しほっとしていると、胡頌がまたもや問題発言をした。


「つまり他人に押し付けるのがイヤと?」

「あー、ちょっと違うけど、そういうことになるのかな」


この時代、あの武将たちが相手なら喜んで引き受けてくれる女が大勢いそうだが、そういうことを人に頼むのは、あやの倫理観が許さない。


「なら簡単ですよ。あなたが直接行けばいいんです」

「………え~と?」


ちょっと、思いもよらない提案をされたものだから、あやは隣の部屋で聞こえた盛大な音には気がつかなかった。


「痛、俺の上に乗っているのは誰だ!早くどけ」

「それは私の足ですよ!踏まないで頂きたい。」

「うお!悪い」


動揺のあまり現実逃避をしている四人が身内でごたごたとやっている間にも、胡頌ひとりがにこにこと笑いながらいい提案だと上機嫌だ。


「……それはあたしに酒の相手をしろとか、そういう話、…ではない、わよね。多分」

「それでも十分喜ぶ気がしますけどね!」


胡頌の軽い口調に、四人は殺意を憶える。

いい加減、その災いしか吐き出さん口を閉じろ!


「何か…久しぶりにカルチャーショック。ここの人の考えることっていまだに理解できないわ~」


そいつは特別だ!

全員が心の中で叫んだ。


頼むからそれが普通だと思わんでくれ!


「でも、まあ、それも残念ながら却下」


全然残念じゃない!

彼女が下した結論にほっとしながらも、そこは間違いなく真っ赤になって怒るのがごく普通の淑女の反応だと教えたかった。


「何故です?」

「女としての自信がない!」


堂々と言い切ったあやの感覚は確かにおかしいかもしれない。


初めは本気でも、途中からはただの冗談のつもりだった胡頌も段々と会話が危ない領域に踏み込んでいっていることに冷汗を流す。


何せこれで打ち切りにしようと思った質問全てをあやが受け流してしまうものだから、終わろうにも終われない。


ただし、これは言っておこう。

あやの間違った認識を一つ訂正しておく。


「…ええと、相手が貴女ってだけで喜ぶ人がいると思いますが」


ごん、と壁に頭をぶつけて、胡乱な二対の目が壁の向こうを睨む。

その瞬間、胡頌に向けられた殺意は本物だった。


さすがに胡頌も背筋に悪寒を感じてきょろきょろと不思議そうに周りを見渡す。


余計なことばかり言いやがって!

出来れば、今すぐに胡頌の首を締め上げたい衝動に駆られたが、こんな話を黙って聞いていたことを二人に知られるのはもっといやだった。

彼らはぎりぎりと歯を食いしばり、拳を握って衝動に耐えた。


「ないない、女慣れしてるもの彼ら。」


素人のあたしを相手にしてもねぇ?

何故か胡頌に同意を求めてあやは首を傾げる。


今日は衝撃的なことばかり聞く日だ。

夏侯淵だけは諦めの境地と共に、驚き疲れてぐったりと壁に寄りかかる。

ちらと同僚たちに目線を向けてみると、ものの見事に三人とも固まっている。


「ほう、やはり魏の武将ともなると?」

「うんうん。もてるからね」


同じ男として興味があるのか、俄然乗り気になった胡頌の合いの手は先を促す。

あやは内緒話をするように人差し指を唇に押し当てて声を潜めた。


「女はね、男が思うよりずっと鋭いのよ?匂いひとつで女の存在を嗅ぎ分けるくらいには」


気付かれていることに気付いてない男は単純でかわいい生き物だ。

そして気付かない振りをしてやるのが女の優しさだ。


誰がなにを気付かれていたのか、絶対に知りたくないあやの発言に男たちは黙した。

万が一、自分であった場合立ち直れない。

蒼白になっている武将たちは居た堪れない面持ちで、盗み聞きなんぞをしたことを心底後悔していた。


「ホント、今も昔もバカなところはぜんぜん変わらないのね」


一応当の本人のあやにも、随分アダルティーな会話をしているという自覚はある。


しかしこの程度、中学の時にだって仲間内では大いにしていた。

女の猥談は男よりえげつない、なんて常識だ。

ここにきてからはとんと覚えがないが、それは生き抜くことに必死だった上に、そんな馬鹿な話に花を咲かせられるような友達がいなかっただけ。


「…響彩様、もしかして、恋人いましたか?」


穏やかに、けれどどこか懐かしく、どこかの誰かを思い描くように呟いかれたあやの言葉に胡頌は思わず聞いていた。

しまったと思っても覆水は盆に返らない。

けれどあやは胡頌の質問に驚くこともなく、ごくごく自然に聞き返す。


「何、意外?」


答えは肯定。


「い、え。そんなことは。……恋人…いた、のですか」


否定しながら肯定するという中々器用なことをした胡頌の様子が、あまりにも予想通りだったことに満足しながら、あやはくすくすと笑う。


「そう、いたのよ。」


その言葉は過去形。


「きっともう新しい恋人がいるでしょう」


憎しみや皮肉ではなく、ただ事実としてそう思う。


「三年も行方不明の彼女じゃね」


何となく空をみた。


「三年も待てないような男は碌なやつじゃないですよ」


当たり前のことのようにあやは話す。

その事にカチンときて胡頌は口をはさんだ。


冗談ではない。

あの響彩が恋人だというのに。

たった三年を待てないなんて、あり得ない。


「あら、三年って思ってるより長いものよ?それに、待てないんじゃなくて、周りが放っておかないのよ」

「流されるって事ですか?もっと性質(たち)が悪いですよ」


胡頌はそんな情の薄い男を庇うような言動をするあやにも苛立ちを感じてむきになる。


何だ、そんな禄でもない奴ばかりの所。

この世界の方がずっといいではないか。

ずっと彼女を大切にしているではないか。


「本当に、いいオトコだったのよ?」

「随分肩を持ちますね。」

「そりゃあね、あたしが好きになった人だもの。いいオトコじゃないはずないでしょ?」


なのにあやは気にした様子もなく、最高の惚気を言い放つ。


不快に思って顔を上げて見たあやの顔には、しかし故郷を想う陰はなく、故郷を想う度に消えそうに見える儚げな雰囲気もない。

自分のとっておきの宝物を見せびらかすような、無邪気な笑顔がそこにはあった。


「それに、新しい恋人がいた方があたしは嬉しい。」

「は?」

「こういうのを信頼っていうのかしら」


不安も掻き立てられない。


「あたしはあの人の幸せを望んでる。それでもって、そうなることを疑ってない。」


太陽みたいな人だったから、幸せになれないはずはない。

それがわかるから、あやは穏やかに彼を想う。


大好きだった人だ。

そうでなければこんな風に懐かしく想えない。


「…あなたは、自分の想い人に新しい恋人がいても不快にならないのですか?」


天上界とはそういうところか?

どろどろとした愛憎とは無関係の世界なんだろうか。


あやの言葉はそう取れる。


「いやあねぇ。そんなわけがないでしょう。あたしにだってわかるわよ。曹操の女の人たちがあたしを殺そうとした感情。」


けらけらとあやが笑う。

意外そうに胡頌はあやを見た。


確かにあやは自分に殺意を向けた者に寛大な処置を願い出ていた。

それはただ、優しさから来ていたものだと思っていたが、その思いを知っていた故の望みだったのか。


「そういうのはもう過ぎたの」


熱く強く激しい感情はなかった。

けれど、穏やかな川のように流れ、途切れず、育んだものがある。


「一生を共にする相手だと信じて疑わなかったわ」


続く長い時を、手を繋いで、背中を見るのではなく、前を歩くのではなく、隣で、支え合いながら積み重ねていくのだと。


「けど、人生何が起きるかわからないものね。」


何の因果か、離れることはないと思っていた手は簡単に、あっけなく離れてしまった。


あやはかつての恋人が邪気のない笑顔で他愛無く話した言葉を懐かしく思い出す。

そんなことがあるはずがないから口にした、本当にただの仮定の話。


『もしお前がいなくなったら、必死で探してやるよ。一年間は死に物狂いで。』

『何で一年なの?』

『お互いのため。俺はお前を信じてるから、お前がどんなところでも幸せを諦めて終わるなんて思わない。だから一年経ったら俺は安心してお前のいない俺の幸せを探すんだ』


傍から見たら、随分身勝手で傲慢な台詞に聞こえたかもしれない。

でもあやは嬉しかった。


自分なしで生きられる彼と、彼なしで生きられる自分と、二人でその事実を知っていた。

でも二人でいる意味だって知っていた。


愛されていると知っていたから、そう言ったなら、彼は本当に一年間を自分のためだけに費やしてくれるのだろう。

泣いて、喚いて、絶望に暮れて、でもちゃんと区切りを見つけて、そしてまた歩き出してくれる。


まさかその言葉に当て嵌まる出来事が現実に起こるとは思っていなかった。

でも、今あやが痛みではなく彼を思い出せるのは、そんな会話があったからなのだろう。


一年を過ぎ、もうあれから三年の時が経ってしまった。

心に、区切りはつけなければならない。

それが約束だ。


「あたしも、幸せでいなくちゃ」


あやは自分の幸せを探しに行っただろう恋人に心からのエールを送り、信じてくれた彼を裏切らないために、そう言って穏やかに笑った。






夜這いでも何でもかけておけばよかった。

夏侯惇は戦場に立つよりも疲れた体を臥牀に投げ出した。


大事に育ててきた花を勝手に折られたような不快感が、行動に移せる訳もないことを漠然と思わせる。


あやにはまるで女の匂いがしなかったから、隙を見ればしな垂れかかってくる他の女とは違って、何をどうすればいいのか大いに扱いに困っていた。


なのにそれは夏侯惇の気の回し過ぎだったらしい。


あやは恋を知り愛を知る女だった。

しようと思えば、妖艶にもなれる、そういうことなのだろう。


あの頃、行動を起こしていたら、何かが変わっていたのか。

あやはこの腕の中にいただろうか。


意味のない「もし」が夏侯惇の頭の中をまわる。


いや、きっと変わらなかった。


共にいた数ヶ月、あやがその部分を見せることなど終ぞなかった。

自分が男として認識されていないということだ。

あるいは彼女がそういう対象として見られたくないと思っていたということ。


今更そんな事実が発覚しても夏侯惇にはどうすることも出来ない。


あやを手に入れることは、誰にも出来ない。

彼女は、本当の意味でいまだ地には降りていない。


それが夏侯惇が出した答え。


夏侯惇はゆっくりと、久方ぶりに戻ってきた感覚に息をついた。


ここにいるという現実。

まともに思考できる安心感。


あやという要素を取り除けば、複雑怪奇だった世界も幾分か単純になる。


自分たちには、今はまだこの距離が限界なのだろう。

遠くない未来に、待っているのは別れ。

もう一度出会えるかは運命。


ゆっくりと心を通わせている暇などない。

そういう、加速していく時代の流れを感じる。


惑い、悩み、遠回りをして、やっとそれがわかった。


冷静だったならば、すぐに気付いたことだ。

戦火の足音が色濃く聞こえてくる。


恋は盲目とはよく言ったものだと、夏侯惇は久しぶりに感じる心地いい眠りの気配に身をゆだねた。






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