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燕華の天女 河岸の覇  作者: 一集
第一章 魏編
17/83

16話 盗賊と玄鳥天女


「お前さえ…、お前さえいなければ!!」


低い、地を這うような声が、広間に響く。

その声ははっきりとあやに向けて発せられていた。


誰もが男とあやを見たが、言いがかりの様な男の言葉にあやはゆっくりと中空を見て、それから目を閉じる。

胸を渦巻くなにか熱いものを収めるために息を吐き出し、あやはひたと男の目を見返した。


今度は怯まない。

そうしなければならない。


あやはすっと足を進めた。

男の下へ。


「あや、止まれ」

「あや殿、危険です!」

「あや」


どれもがあやを止める響きを持っていたが、誰も実力行使であやの行き先を遮ることはしない。


同じように曹操だけは何も言わなかった。

そのことに少しだけ口の端を持ち上げる。


「…お前の剣だ。受け取れよ」


男が近づいてくるあやを見て、顎をしゃくるように、横に立っていた官が捧げ持つ刀を指した。


その言葉と仕草に、あやは男に向けていた目線を離し、黒光りする鞘に目をやる。

所々に汚れが目立ち、汚れた手で触ったのか、手形が付いていたが、それは紛れもなくよく見知った形をしていた。


「花王…、っ!」


目にして、名を呼べば、今まで忘れていたものが溢れ出す。

あやは男に向けていた足を愛剣に向け直し駆け寄った。


それは衝動だ。

失ったはずのものだった。

二度と戻ってはこないものだと思い諦めていたものが、目の前に翳されている。


捧げ持つ官の前で、震える手を伸ばした。

ああ、あたしの、花王だ。


しかしあやの手が花王に届くことはなく、一瞬後には代わりに刃が向けられていた。


先程まで自分で動くことも出来なかった男の機敏な動きと、予想に反した行動が反応に遅れを作った。


「!!」


花王の柄を口に食んで、鞘から抜き様、あやの首筋に当てられた花王の刃は主人の皮を一枚裂いた。


一瞬で曹操の周りに人壁が築かれ、男にも凶器が突きつけられた。

武将たちは当たり前に曹操の前に立って、武器を構える。


きっと何かあればあやごと切り捨てるつもりだろう。


「……」


しかし、それはあやにとっては当たり前の認識。

傷付く心は持ち合わせていない。

迂闊だった自分を責めても彼らを詰る心はこれっぽっちもなかった。


だからあやは冷静に、口に花王を持ったまま話せない男の望みを目から読み取って、首に花王を突きつけられたまま、曹操を振り返る。


曹操とは武将や兵に囲まれ、ちらりとしかその身を確認することは出来なかったが、目を合わせることができた。

きっと伝えたいことはそれでわかるだろう。


曹操は目を細めてから、あやに頷きを返し、配下に命じた。


「拘束を解け。」

「な、にを。殿。」

「曹操様!?」

「手枷を外してやれ。聞こえなかったのか?」

「正気か孟徳!」

「殿!ご無礼を承知で言わせて頂きます。そのようなことをなされば女に溺れたと揶揄されますぞ!」


曹操はくつくつと笑う。

あやは曹操にそう命じてくれるように頼んだが、それは決して自分が助かりたいための懇願ではなかった。


だから曹操は受け入れた。


「言いたいやつには言わせておけばいい。この曹操を侮りたいならそうするがいい。わしは曹操孟徳。その身を持って刻んでやるだけよ」


今度こそ大きく笑って、曹操は再度男の拘束を解くように命じた。


まったく愉快。

あやが傍にいると飽きることがない。


槍の穂先を男に突きつけていた兵の一人が、男の手を後ろで拘束していた板を割った。

同時にからんと花王が床に落ちる音がした。


あやの細く白い手首に、泥と血がこびり付いた男の手が巻き付いている。

凶器を捨て、男はあやの手を取った。


動きを見せた男に合わせて緊張に身を構え、いつでも振り下ろす準備の出来た、武将たちが突きつける凶器が目に入らないのか、男はあやの手首を握る手に力を込めた。

まるで恐れるものなど何もないかのように。


「っ!」

「痛いか…」


男の握力は強い。

容赦のない苦痛に顔を歪めたあやに男が顔を近付ける。

あやが顔を上げれば男は歪んだ笑いを顔に貼り付けていた。


「響彩。響彩。罪深き神よ!」


神と称され、息を飲む。


「お前が!天女ならば何故!」


叫ぶように放たれた男の言葉が身に刺さる。


やはり、いつか聞いたのと同じ言葉。

同じ目をした男に言われた言葉と同じ。

自分を断ずる言葉。


そしてそれは自分がずっと迷うたびに自身に問い続けてきた台詞でもあった。


何故。

天女と呼ばれて、尚、零れ落ちていくものがあるのか。


「俺は!義父を殺した!こんな物のために!あんたの武器一つのために!!」


もしもの時にはあやごと切る覚悟だったが、助ける道があるならば助けたいと状況を見守っていた者は誰もその言葉の意味を理解できない。


「あんたが天女というなら、何故俺にこんなことをさせる…」


段々と弱弱しくなっていく男の声と項垂れていく首にあやは目を閉じた。


また、あたしは。


眉をきつく寄せ、唇をかみ締める。

心臓が悲鳴を上げるほどの痛みが体中を駆け巡った。


男の口から洩れた告発。


ごめんとは言えない。

口を開けば謝罪してしまいそうな自分を叱咤し、あやは男を正面から見つめる。


男の憤ったような顔は泣きそうにも見えた。


「義父は悪党だったけど、俺たちを拾ってくれた。まだ返してない恩義があった。なのに!」


あやの理想、あやの甘さ、あやの望み。

捨てらず、越えられなかった最後の一線。

それを守るために。


どれだけの人が、犠牲になったのか、あやはもう覚えていない。


あやの、自分の心を守るための偽善に多くの人が死んだ。

口にするだけなら簡単な理想に夢を見て、自ら戦地にたって、逝ってしまった。


気付いた時にはもう遅かったのだ。

無邪気に、無知ゆえに、簡単に、無責任に発したあやの口だけの理想論。

あやの後ろにはもう、それを、命を賭けて肯定しようとする仲間がたくさん、いたのだ。


取り返しはつかなかった。

走り出した理想は、あやにだって止められない。


あやのために沢山の人が自分の手を汚した。

時には自分の大切な人すら手に掛けて。


男もそういう一人だった。


「誰かが言うんだ。義父の命よりもあんたの武器の方が大切だと…」


恩もないあんたなんかの。


遂に男は涙を流した。

あやは彼の手と同様に泥にまみれ、固まった血がこびり付き、汗と涙で汚れた男の頭を抱き寄せる。


走り出したのは時代のせい。

でも、走り出す切っ掛けを作ったのは、他でもないあやだった。


その責任は、重い。


人が死んでも、人を殺しても誰もあやを責めなかった。

責めるどころか、跪いてあやを称えた。


その時に得た感情はただ一つ、恐怖だ。

なぜ。

誰かが死ぬのに。

あたしは、責められない?


天女と呼ばれて、天の大義名分をかざして、やっていることは人殺しに変わりはない。

皆は天からの使者と崇め奉るのに、あやには奇跡などおこせない。

あや一人のものだったはずの理想論は、今や人の命を喰い尽くす怪物に成り果せた。

無力さに吐き気がする。


あやに出来るのは戦場に送り出す彼らの犠牲を最小限に抑えるために、ない知恵を絞ることだけ。

人が自分のために死んでいくのが、殺していくのが、人の命を動かしている事実が、絶望的に恐かった。


天女なんかじゃない。

あやだけが嫌というほどその事実を知り、自分の罪を知っていた。


それを背負う覚悟をしたのは、そう、この男によく似た目を持つ男が言ったから。


その情景に曹操は周りを囲んでいた兵たちに合図をする。

人壁が曹操の前から消え、今にも切りつけそうだった武将たちも武器を構えたままではあったが、男とあやから少し距離を置く。


今起きていることが把握できているとは言い難いが、男はあやを傷つけるつもりではないらしいということは見て取れた。


話からすると彼はあやの武器を取り戻すために義父を切り、その足でここまでやってきた様子だ。


そして泣く。

何故義父を殺させたのかと。

あやを責める。


戦場を駆ける武将たちにその心情は欠片とも理解できない。

自分で殺した者のことで他の誰かをなじることなどありえない。

言いがかりもいいところだ。


しかしあやはそうは言わなかった。


「教えてくれ、何故俺は義父を殺したのだ。」

「…あなたのせいではないわ。だから」


苦しまないで。

罪に慄かないで。

自分を責めないで。


あたしのために辛い選択をしてくれてありがとう。

辛いことをさせてごめんなさい。


言ってはいけないことが沢山あった。

言えない言葉が胸につかえて苦しい。


そのかわりにあやは思いを込めて男の背を抱き寄せる。


「玄鳥天女、響彩。」


あやの肩口で男が呟いた。

あやが背負った責任の名前だ。


いつだったか、男と同じ目をして、同じことを言って、泣きながらあやを詰った男がいた。


誰も言わない。

誰も責めない。

でもあやがずっと心に溜めてきた言葉。


凄惨な戦場跡で一人佇んで、いっそ責めてくれた方が楽だと何度も思っていた。


だから嬉しかった。

詰られて、責められて、その言葉がどんなにあやを救ったかきっと男は知らないままだった。


酷いことを言われて、なのにありがとうと言って笑うあやを、男は怒りも忘れてぽかんと見上げていた。


だから、あやは返事をする。

あやの名前ではない名を呼ばれても。


「はい」


あやははっきりと答えを返した。


曹操と夏侯惇が目を見張った。

玄鳥天女、その名を持つ意味に。

あやが、そう呼ばれる者である事実に。


「玄鳥天女、響彩」

「はい。」


涙に濡れた声が、あやを呼ぶ。

繰り返す男の言葉にあやも同じ答えを返す。


「助けてください。俺を救ってください。」

「あなたが望むなら何度でも。」


あやの迷いのない答えに男が微かに笑う気配がした。


「この体が必要なら何処まででも貴方と行きます。この名が必要なら何度でも貸します。この手が必要なら幾らでも差し出すわ。」

「罪滅ぼしのつもりか」

「いいえ。でも、貴方の失ったもののために。貴方の義父と『弟』のために」

「っ!知っていたのか」


男が息を飲んで驚愕に叫んだ。


あやはかつて彼と同じことを言って、自分を救ってくれた男の顔をはっきりと思い浮かべて笑った。


「とても似ているから」


顔も、目も、その言葉すら。

多分、この男の血縁なのだと、気付いたのはつい先ほどだけども。


「あいつはあんたのために死んだ。」


どうか表情を歪めたりしていませんように。

傷付いた顔など、見せていませんように。

あやは奥歯を噛み締める。


「否定しないのか」

「何故?」


否定しなければならないかのような男の言葉に、あやは心底不思議そうに問い返した。


彼は、男の弟は、あやを責めて、それでも玄鳥に、あやの傍にいてくれた。

詰られてあやが笑ったのを見て、おかしなひとだな、と霧が晴れたように穏やかに笑い返して。

付かず離れず戦場を共にした彼はもうどこにもいない。


満足そうにごめんと笑って、逝ってしまった。

ただ一人、あやを責めてくれた彼もあやの起こした争いに果てたから。

だからあやには男の言葉を否定しない。


「…弟の言っていた通りだなぁ」


男は呆れと諦めを混ぜて零した。

あやは首を傾げて疑問を返す。


「あんたは真っ直ぐで、自分を騙すことを知らない」


どこか、肩の力が抜けたような顔で男が苦笑した。

穏やかに細められる目も、やっぱりとても似ている。


だが、その言葉は正しくない。


自分がどれだけのことに目を背けているか、考えないように生きてきたか、いまだに身体とは裏腹についてきてくれない心が語っている。


「あんたを恨むのは筋違いだと、本当は知っていた。弟はあんたのために死ぬつもりなんかなかった。」


あやは無言で返す。


「本当だ。あいつはあんたのために生きるつもりだった。」


あやにはずっとわからなかった。

彼の弟の死ぬ間際の、最後の謝罪の意味が。


では、あれは死んでしまう事に対しての言葉だったのだろうか。

彼は生きるつもりだったのだろうか。


それなら、少しは救われる気がする。


「命を捧げると言ったら、怒られたと、死ぬ覚悟があるなら生き抜く覚悟を持てと言われたって。そのほうがずっと難しいことなんだって、殴られたって笑ってた。もし、自分が死んだらあんたは絶対泣くから生きるんだって、あいつは嬉しそうだった。」


男が滔々と語りだす。


弟との思い出は彼にとって忌避すべきものではないのだろう。

それに安堵している自分に嫌悪感を抱いてあやは一層強く拳を握る。


彼から弟を奪ったのは自分なのに、そんなことを思うのはおこがましい気がして。


「ただの雑兵のために上の人間が泣くもんかって言ったら、あいつ賭けてもいいってさ。あんたは絶対泣くから。」

「あたしは泣かないわ。」

「そう言ってたぜ、あいつも。あんたは人前では絶対に泣かないんだって。でも泣き場所がある。違うのか?」


あやの泣き場所。

中玄祁央。

彼の傍ではいつも泣いてばかりだった。


祁央はあやを甘やかすだけ甘やかしてくれたから。


だがそれが人に知られていたのは、予想外のことだった。

あやは赤くなる顔が男の言葉を肯定していることに地団駄を踏みたくなる。


「今も目蓋に焼き付いて離れない光景がある。戦場に立つあんたの姿だ。」


そんなあやを見て、男が唐突に話を変える。

その目は陶然とどこか遠くを見ているようだった。


あやを崇める、多くの人と似た目。


「背に最強中玄。右に炎将陽明。左に氷将近衛。背後には智将師白父。その誰よりも玄鳥天女は美しかった。」


陽明右近。

近衛左近。

南の地では知らぬ者のない武将だ。


「天下無双といわれた玄鳥天女の姿は俺たちにとって神に近かった。本当はわかっていた。弟はきっと幸せだった。認めたくはなかっただけなんだ。」


だって、あの時魅せられていたのは弟だけではなかった。

俺も思った。

彼女と共に行きたいと。


弟のように義父を捨てて、駆け参じることはできなかったが、どこかで自由に動ける弟が羨ましかった。


あの時に、刻まれてしまった絶対的なあやの存在が、男に義父を裏切らせたのだ。


あやは思わず、あたしは神なんかじゃないと言いたくなって口を開いたが、男が先に言葉にする方が早かった。


玄鳥天女響彩げんちょうてんにょきょうさい。その名を知らぬもの無き、玄鳥の族長。戦場を駆ける天女などいるものかと否定しながら俺は知っていた。あんたは一度も自分を天女とは言わなかった。」


成功した悪戯の仕掛けを話すように男は言った。


驚いてあやは男の顔を凝視する。

そう、あやは自分が天女などと一度も言ったことがない。


男は知っているのだろうか。

自分が天女ではないことを。


何度もそう言いたかった。

けれどそれを否定することは、死んでいった者たちへの裏切りのような気がして、あやはいつも言葉を飲み込んできた。


「そしてあんたが『本物の天女』だと、俺だけは知っていたんだ」

「あたしは!」


反論が意味になる前に、男は驚かずにはいられない事を口にした。


「俺は見ていた。まだこの地に降りたばかりのあんたを」

「っえ」

「あんたはまるで迷子みたいな顔をして不安そうに周りを見てた。ああ、そう、ここは何処だって叫んでたっけ。」


初めて暗さのない顔で笑って、顎に手を当てて、記憶を探るように中空を見る。


「金の波打つ髪が陽に輝いて、光を弾いて、とても綺麗だった。」

「そ、れは染めてたから!」


言葉は通じなかったようで、男は首を傾げて先を続ける。

とりあえず彼が三年前のあの場に、少なくとも髪を切るまでの数日間の内にあやを見ていたことは確かなようだ。


「次に見たときあんたの髪も目も真っ直ぐに黒くなっていたけど、間違うはずがない。あれはあんただった。」

「単に元からストレートだった地毛が伸びただけよ!」


波打っていた金の髪が黒く真っ直ぐに変わって生えるのは不思議なことだったようで、祁央たちは伸びてきた黒髪を見て、食べ物のせいだとか、地上に染まってしまったのだとか、色々と議論していたけれど。

あやはそれを笑って流してしまっていたけれど。


そんなくだらない、単純なことが天女の根拠になっているなんて、あやは今まで知らなかった。


男がポツリと呟くように言った言葉には後悔が滲んでいた。


「あの時、あんたを捕まえていたら、中玄の場所にいたのは自分だったかもしれないと、時々思った。」


同じか、それ以下の暮らしをして、その武だけが拠り所だった祁央や右近左近のように、変われたのかもしれない。

憧憬と尊敬を一身に受け、昼の道を堂々と歩く人生があったのかもしれない。


あやをはじめて見た時、弟と玄鳥天女を見た時。

どちらの時も、男は選び損ねた。


もしどちらかの時に彼女を選んでいたら、義父との道は断たれたが、殺す結末はなかっただろう。

男は義理を選んだつもりが、結局は義理を断ってしまった皮肉な結末に自嘲する。


義父を手にかけてからの記憶はほとんどない。

どうやってここまでやってきたのかも。

花王を響彩に返すことしか頭になかった。


悲鳴を上げる義父の顔を憶えている。

ただ、その時は確信があった。

自分はこのために、生まれ、生きて、存在していたんだと。


あの時、弟と共に行かなかったのは自分にはこの使命があったからなのだと、強迫めいた思い込みが身体を満たしていた。


逆らいたくても逆らえない天の意志が思考も身体も支配していた。

何故、義父に剣を振り下ろせたのか、今となってはわからない。

身体を満たしていた天の意志も空気を掴むように霧散している。


彼女は義父を殺して、武器を奪い返せとは言わなかった。

ただの八つ当たりなのに、あやはあなたのせいじゃないと言ってくれた。


それは口だけの慰めではなくて。


男はあやの顔を見て、抱き寄せられて、自分が間違ったのだと気付いた。

いや、間違ってはいない。

正しく、これは必要なことだった。


だが、彼女は馬鹿正直に真っ直ぐだ。

自分勝手な俺の行為すら受け止めてしまった。

多分、自分の罪として。


響彩は、自分が誰かを殺して武器を返しに来ることなど望んでいなかった。

あやと接してみればそんな答えは簡単に出る。


天の意志と、あやの望みと、それは相反するもので。


確かに、こうすることが正しかったのだろうと思うのに、苦い思いが込み上げるのは、彼女に一つ、罪を背負わせたと悟ったから。


「俺は間違えてばかりだ…」


きっとこれから自分は義父を殺した罪とあやに責を課してしまった意識で死ぬ。

死んで償うべき大罪だ。


自分で望まなくとも、刑は速やかに行われるだろう。

なにせ魏王の前で刀を抜いた。


「響彩様、花王が戻ってきて、嬉しいだろうか?」


男は憑き物の落ちたような顔をして、あやに聞いた。

あやは頷いた。


男に大切な人を殺させてまで、返して欲しいとは思わなかったけれど。

でも、また花王を手にすることが出来て、嬉しいのは本当だから。


「そっか、ならいいや。もう、それでいい。」


満足そうに男は息を吐いた。

それだけで、自分のくだらない人生にも価値があったと思えた。


「さて、魏王様。俺はこれからどうすればいい。牢か?処刑台か?拷問されても仲間のことは喋らないから無駄だぜ」

「な!」

「響彩様。ここはあなたの威光が通じる土地ではない。だから気にすることはない」


俺が死ぬことは気にしないでくれ。

男の言葉の意味は覚悟。

盗賊頭の首を取ってきたとはいえ、男も元は盗賊。


魏は、曹操はそれを許すような甘さを持たない。

男はそう理解している。


「さて、答えは?」


不遜に急かす男を面白くなさそうに見ていた曹操は片眉を上げた。

それは曹操が自分の感情を表わしたのではなく、寵を与えた女の行動が、曹操からはよく見えていたからだ。


間を置かずに、乾いたよく響く音が鳴る。


「響彩様?」


殴られた頬を押さえて、男がふらついて床に倒れ込んだ体勢のままあやを見上げる。


「何であんたたちはそう簡単に命を投げ出すのよ!!」


あやは肩で息をしていた。

怒りが視界を滲ませる。


覚悟とか、諦めとか、償いとか。

この時代の人たちは、簡単に死を定めてしまう。

生まれた時から死が身近にあった者達だけが持ち得る潔さなのか。

どうしても、あやには共有できない価値観。


だからだろうか。

押し付けたくなる。

泥臭く、諦め悪く、生きることを。


そうして天女と祭り上げられた理想論を、あやは振りかざすことをやっぱりやめられない。


「そういうの自己陶酔っていうのよ!?ダサくてカッコ悪いって思わない?一生懸命生きてる人に申し訳ないって何で思わないの?一瞬で終わる死なんかより、生きる方が何倍も辛いんだから、死んでもいいって思うなら難しい方を選んでよ!!」


驚くほど簡単に人は死ぬのだとこの世界に来て初めて知った。

自分でも沢山の命を奪った。

だからこそ、命は諦めてはいけないんだと思った。


「落ち着け、あや。」

「だって!ここじゃほんの小さな傷で人が死ぬわ。止まった心臓を動かす術なんかなくて。血を補充する技術すらなくて。ただの風邪なんかでもう目を覚まさなくなるのよ?ここにはあたしたちを簡単に救ってくれた薬も技術もない。なのに、皆、簡単に命を投げ出してしまう。…どうして?」


官たちが少し身じろぎするのを見て、曹操は舌打ちしそうになる。

あやは怒りで混乱して自分が何を言っているのか、気付いていない。


「あや、お前…」


呆然とした夏侯淵の声が隣から聞こえてきた。


男の話を半信半疑で聞いていた者にとっても、これではあやが自分でこの世界の者ではないと証言しているようなものだ。


「こんなに生きることは難しいのに。何で?」

「あや」


静かな呼びかけにあやは肩を揺らした。


「…曹操」


顔を上げたその瞳も揺れているように見える。


「そう安易に生きる意志を与えるでない。死ぬ人間に生きる意志があれば、よけいに苦しみ惨めに足掻くだけよ。」

「曹操!」


厳しく、あやの言葉も一顧だにしない言葉に、あやは彼の名を悔しそうに呟いた。


「そう、わしは曹操孟徳。その男に死ぬ覚悟があろうが生きる意志があろうが、決定を下すのはおぬしではない。このわしだ。」


命運は彼の手に。






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