14話 書庫にて、奇人と出会う。
「やっほ~、来たよ。今日は何見せてくれんの?」
「ぐ、また来たか!」
扉からではなく、窓からにょきりと顔を出した訪問者に驚くのではなく、怒りの表情でくわっと振り向いた男に怯むことなくあやは笑い返す。
「んもう、すぐ怒る。そんなんだから顔色悪いのよ。もうちょっと人生穏やかに生きられない?」
「貴様がいなければ可能だとも!!」
「あれ、やっだ。せっかくの竹簡が墨で汚れてるわよ。弘法にも筆の誤りっての?やっぱりそそっかしいんだから」
あやはまったく聞いておらず、ひょいっと男の肩越しに机に広げてあった竹簡を見る。
それは見事なまでの達筆で、寸分のズレもなく綴られていたが、最後の一文字はどう見ても書き損ねたとしか思えない長い線が延びていた。
「き、さ、ま、の!せいだ!!」
ばきりと音がして、筆が折れた。
ぎゃー、気に入りの筆が!!と叫ぶ、最近出来た友人はどうにも怒りっぽくて、素直じゃない。
「はー、あたしって我慢強い。」
こんなへそ曲がりで扱いにくい性格じゃあ自分以外友人はいないのではないだろうか。
というかそれに付き合えるあたしがすごい。
「何だと?!今なんといった?」
「え~と、声に出てた?」
「我慢強いのはどう考えても私だ!!」
「なーに言ってんのよ。あんたが我慢強かったらあたしなんて仏じゃない」
「お前のどこが仏だ!私には悪魔にしか見えんぞ!私の執務を毎回邪魔しに来おって、そのおかげで私がどれだけ迷惑を被ってると思ってるんだ!?」
「素直じゃないなー」
「貴様聞いてるのか!」
「聞いてるって、ってーか、そんな大声で叫ばないでよ。きこえるからさー」
耳を塞ぐ彼女の行動は、実の所予想がついていて、この破天荒な女に慣らされつつある我が身を知る。
しかしそれを認めるのはプライドが許さない。
言ってやりたいことは山ほどあるのだから、とりあえずはこの不満を吐き出ししまわねば。
「貴様の耳は飾りだ!でなければ塵が詰まっておるぞ!何故言葉が通じんのだ!?」
「やっだな~。今あたしが話してる言葉は何なのよ、あんたの耳が変なんじゃない?」
「ぐっおお~!!」
普段は青白い顔が真っ赤に染まるのを見て、あやは頭の血管大丈夫かしら、なんてのん気に男を宥めようと、馬にするようにどうどうと声をかけた。
それが火に油を注ぐ行為だとは欠片も考えないまま。
「っき、さま!!!」
「あんたは仕事のし過ぎ!根を詰めすぎなのよ。」
「ぬう、貴様がいなければもう少し効率が上がるのだがな!!」
最早怒りで声が出なくなった男にあやは労るように笑う。
「……はあ」
あやの顔に毒気を抜かれて男は体から力を抜いた。
あやに詰め寄っていた体を引き、背を向け座りなおす。
それは入室を許す合図だ。
まったく、素直じゃない。
嬉しいならあんな風に怒鳴らないで普通に迎えてくれればいいのに。
あやは本当は男がこの瞬間、もう何を言っても無駄だと諦めているのを知らない。
とりあえずあやは毎回のパターンに苦笑して、靴を持っていつもの特等席へと足を進める。
この男は司馬懿と言う。
偶然、迷い込んだ書庫の主だ。
初めて見たときはあまりの顔色の悪さに病人かと思ったくらい、不健康な男でいつも机に噛り付いて何かをしている。
ここに来たのは偶然だった。
さすがに何日も籠もっていると息が詰まってきた部屋を窓から抜け出し、城の中を探索中。
見廻りの兵に見つかりそうになって慌てて飛び込んだ部屋に彼がいたのだ。
その部屋には並び立つ棚に所狭しと書簡が収められていて、一見して書庫とわかる場所だった。
司馬懿は最初からそこにいた。
ちなみにあやはまったく気付かなかった。
だって、書簡に埋もれて、身動きもしないし、完全に部屋の一部だと思ってたわよ。
偶然入った部屋ではあったけど、面白そうだと棚を覗いて回っていたあやに司馬懿は声をかけなかった。
けっこう長い間ウロウロしてたわよね。
ずっとあたしを見てたのかしら。
そう考えると気持ちの悪い男だ。
「おい、貴様。ここに何の用だ」
声をかけられて驚いた。
人がいるとは思ってなかったし、貴様なんて呼ばれたのは初めてだったから。
「え、えーと。こんにちは?」
「頭が悪いのか、貴様。聞かれたことに答えろ」
笑顔のまま怒りマークが額に浮かんだのを感じた。
非友好的すぎるこの態度はさすがにどうかと思う。
「それとも私の言葉が理解できないほどの阿呆か。」
あやは無言でつかつかと司馬懿に近寄って、正面に立った。
「何だ、貴様。私のま」
何か言っていたけど、あやはにっこりと今までになく極上の笑顔を浮かべた。
夏侯淵が言っていたから気付いたが、あやは怒ると笑顔になるらしい。
その特上を彼に向け、あやは容赦なく彼の頭を、叩いた。
その時の司馬懿の顔は見ものだった。
何が起きたのか理解できないまま、笑顔のあやを見つめるしか出来なかったのだから。
音をつけるなら正に、ぽかん、に相応しい。
剣も抜かれたけど、予想をしていたあやはきれいに忠相で受け止めて、ついでに彼の気に障るだろう勝ち誇った笑いを、ふふんと浮かべてやった。
それからはいつものように怒鳴りあい。
というより、そこで二人の関係が確立されてしまった。
いつも怒鳴りあいで始まって、それに飽きたあやか、諦めた司馬懿によって終わり、その後はそれぞれ自分がしたいことをする。
あやなら書簡の中に混ざっている、色々な物語や歴史を読み、司馬懿は公務をする。
いつからかあやが読むものを選ぶのは司馬懿の役目になり、時々内容について質問するあやに答えるのも司馬懿の仕事になった。
あやは執務室側の司馬懿からは離れた、棚と部屋の間、書庫に厳禁である光を抑えるために、棚側にある唯一の採光窓の下に陣取って、どかりと座り込む。
ここなら棚が邪魔をして、誰かに見つかることも無い。
司馬懿は埃をたてるなとか、書物を乱暴に扱うなとか、そういったことにはうるさかったが、行儀については何にも言わない。
だからあやはここにいるときは好き放題にしている。
壁に寄りかかるのにも飽き、胡坐も辛くなったら、床に寝っ転がることも珍しくない。
「で、で、今日は何?どんなの」
あやはやはり行儀悪く足を投げ出し、床を叩き司馬懿に尋ねる。
「もうちょっと落ち着けんのか、貴様。…今日はこれだ。そろそろ物語や歴史を卒業しても良いころだろう。」
「?…で、これ何?」
「兵法」
「は?」
「だから兵法だと言っておるだろう!一度で理解できんのか!?」
「…何でそんなもの今更」
「今更?」
「あ、なんでもなーい。ありがたく司馬懿先生が選んでくださった書物、読ませて頂きます」
あやは恭しく書簡を掲げて頭を下げた。
司馬懿は不機嫌そうに鼻を鳴らして行ってしまう。
この世界に来てから早三年。
白父が玄鳥に来て、あやに知識を詰め込むようになって二年。
兵法を読まされたのは結構始めのころだ。
やったことがあるのだから、いつものように司馬懿の手を煩わせなくて済むかもしれない。
それにあれからどれくらい成長しているか、自分を知ることにもなる。
あやは書簡を広げて渡された書を読み解き始めた。
司馬懿はそんなあやの様子をチラリと見てから自分の仕事を片付けにかかる。
文句を言うかと思ったが、予想に反してあやは集中しているようだ。
司馬懿は自分も書きかけていた竹簡に向き直り頭を切り替える。
部屋にはあやがたまに動くとする衣擦れと、司馬懿のたてる筆の音だけが響く。
お互いに相手のことを忘れているわけではなかったが、そんな時、不思議と相手の存在が気にならない。
普段はぎゃーぎゃーとうるさいが、この状況になると傍にいても邪魔にならない相手となる。
時々尋ねてくる人があってもあやは書簡を広げたまま動かないし、司馬懿は書物を頼まれれば訪問者を待たせて、探してやる。
それはあやが来る以前には見られなかった行為で、お忍びでここに来ているあやが見つからないようにとの配慮であった。
反対にあやは茶葉を持参して来て、司馬懿の疲れが溜まって来た頃を見計らって、無言でお茶を入れてやる。
あやが動く気配がして、見ると立ち上がって無言で執務室の方に出てくる。
もうそんな時間か。
いつのもあやの行動に、あと数分もすれば温かい、湯気を立てた茶が司馬懿の机に運ばれてくるだろうと、予想が付く。
司馬懿は長時間同じ姿勢をしていたため凝ってしまった首を回す。
かなり集中していたようで、そんなに時間が過ぎていたとは気付かなかった。
ああ、そうか。今日はあやつの邪魔が入らなかったのか。
いつもならわからない字や理解できない内容には随時質問が入るのだが、今日はそれが一度もなかった。
だから気付かなかったのだ。
「珍しい、疲れた?」
予想通り茶を入れて戻ってきたあやが、肩を回している司馬懿に目を留め、茶を置くついでにそう聞く。
「いや、今日は邪魔をされずによく集中できた」
「あっそ、いつもは邪魔ばかりですいませんね!」
だんっと机に置かれた茶から中身が踊りだす。
「おい、危ないではないか!」
「あっら~?すいませーん」
「貴様…!」
「って言うか、質問はあったのよ?でも手を煩わせるほどじゃなかったから、後でまとめて聞こうと思ってたの。今いい?」
「あ、ああ」
いつもこうやって話を急転換され、話と怒りを逸らされている事に司馬懿は気付かない。
「ここと、ここ。あとこの部分なんだけど」
「ああ、それは…」
司馬懿は説明しながら、あやの奇妙な違和感をまた感じる。
あやは頭は悪くない。
だが書を読み解く力もそれなりにあるのに、変なところで一般常識が欠けている。
文字にしてもそう。
普通に読み書きをしていたと思えば、知っている漢字を忘れ、知らなくて当たり前の字を簡単に読んでいたりする。
歴史書を読ませたら、読みは出来るのだが、その背景をまったく理解しておらず、説明するのにも次々に疑問が湧くのか、キリがなくなって、最後には一番初めの神話や伝説まで遡り歴史順に読ませる羽目になった。
あやのレベルは計りかねるのだ。
司馬懿はあやのことだから、兵法など読ませたらあれやこれやの質問で、今日は仕事にならないだろうと覚悟していた。
それが今日は随分とはかどってしまった。
あやに割く時間を計算して、今日中にやると割り振った量を既に終えたのだ。
「貴様、」
「あや!何度言ったらわかるのさ。人の名前はちゃんと呼ぼうね?」
「おひ、やめほ」
みょ~んと司馬懿の口を引っ張りながらあやが訂正する。
いつものパターンで司馬懿は聞こうと思っていたことを忘れてあやのペースにあっさりはまってしまう。
「きはまほへ、わらひほはまへほよはないへははいは」
「何て言ってるのかわかんな~い、あたし聖徳太子じゃないし。」
聖徳太子は一度に何人もの話が聞けるのであって、人の言葉を理解することに特化していたわけではない。
だがあやにそれを指摘する人は残念ながらこの世界にはいない。
「いい加減に離せ!貴様も私の名などまともに呼んだことないではないか!と言ったんだ!!」
あやの手を叩き落として、司馬懿は文句をつける。
「じゃあ、とりあえず司馬懿?」
「…仲達でよい」
司馬懿にはその言葉に他意はなかった。
たとえ今まで誰にも呼ばせたことはなくとも。
ただ、あやに司馬懿などと堅っくるしい呼び方は似合わないと思っただけで。
あやとのいつものやり取りがほんの少し、嫌ではないと、思っているくらいで。
「…え?」
「何でそこで顔を赤らめる!」
「だって、そんなにあたしに字を呼んで欲しいと思ってたなんて…」
「そんなことは言っておらん!大体お前の恥らう顔など薄気味悪いのだ!!」
「なんか酷くなーい?年頃の娘に向かって。そんなこと言うからあんたはもてないのよ。そんなんじゃお嫁さんもらえないよ?さびしい晩年だよ?一人で干からびて死ぬのヤじゃない?」
「よけいなお世話だ!!だいたい私がもてないなどと誰が言った!!」
「え、見てればわかるし。神経質だし、怒りっぽいし、男のヒステリーって最低だし、気に入らないと暴力奮いそうだし。そんな男、誰だって嫌じゃん」
「な、な、な、私のどこが!!」
わからない言葉はあったがそれがいい意味ではないのは確信がある。
司馬懿は酷い言われように反論をしようと口を開いたが、あや以外にならすらすらと出てくる言葉が見つからない。
「ばっかねー。本当にそうじゃなくたってそんな印象があれば、誰も近づかないって言ってんの。」
「そんなつまらん奴はこっちから願い下げだ!」
え~?もったいなーい。人生楽しまなきゃ損だって。
人生を共にできる人がいるってすごいよ?
愛する人が自分を愛してくれるのって幸せだよ?
哀れむような目を司馬懿に向けぶつぶつと呟く言葉は幸せな女の台詞で、司馬懿はあやからそんな甘ったるい言葉が出てくるとは思っていなかったため、ついついあやを凝視してしまった。
あやが幸せなはずがない。
あやはそれを自分の言葉に感銘を受けたのかと、笑顔になってアドバイスをしてあげる。
「だからさ、もう少し笑えば?せっかく可愛いのに。」
「……か、わいい?」
「あ、あれ?おーい、仲達くんー?戻ってこーい!」
がくりと床に手を着いて、司馬懿はもはやあやの感覚が世間とは到底合致しないものだと認識する。
「貴様、まさか殿のことも可愛いと思っているのではないだろうな」
ぽろっと漏れてしまった皮肉に司馬懿は自分ではっとなった。
今まで曹操のことはここではまるで禁句のように両者とも話には出さなかったからだ。
あやのことは会う前から知っていた。
知らないはずがない。
あれほど噂になっていたのだから。
特に軍師を志す司馬懿は噂には気を配っている。
一目でわかった。
静かに佇んでいれば極上に値する女。
だが、その実、中身は見たこともない変わった女。
これが噂の、曹操の寵愛を受けた女だと。
ある日突然現れた闖入者は自分の名前だけを名乗って、毎日入り浸るようになったから、きっと言いたくないのだろうと思ったのだ。
いつだったか、いつも部屋に籠もっているのは気が滅入る、と笑ったあやはもしかしたら望んで曹操の傍にいるのではないのかもしれないと、そう思って。
それから司馬懿は決してその事を話題に出さなかった。
その禁を破ってしまったことに司馬懿はとっさにあやの顔色を伺った。
あやがまるで幸せを知っているようなことを言うから口が滑ってしまった。
「やっだ!曹操が可愛い?笑える冗談だわ~!」
しかしあやの表情はいつもと変わらず、大口を開けて馬鹿笑いしている。
何の気にも留めていないような様子に司馬懿は無意識にほっとした。
何故私が安堵せねばならんのか。
何故、のし上がるために利用できるあやから何の情報も聞き出そうとしないのか。
何故、曹操の話題を避けているのか。
あるいは何故、書庫に人が踏み入らないように気を使ってまで、曹操の女と二人きりになるという危険を冒しているのか。
司馬懿は自分がずっと、出会ったときからあやが傷つくことを恐れている事に気付かない。
「…お前、本当に」
もやもやとしたものを抱えたまま、司馬懿は『曹操』と君主を呼んだあやに衝撃を受けていた。
この城で、あの曹操孟徳を呼び捨てに出来る女はただ一人。
あやがその女だと知っていたはずなのに、いざ目の前にその真実を突きつけられると動揺している自分がいる。
「いや、何でもない。」
司馬懿は首を振っておかしな思考を取り払おうとする。
あやが曹操の女だと言う事実は変わらない。
「何よ、一体。」
「…お前を後宮に入れなかった殿の英断には感服する」
「……貶してんの?」
さっきまで口に出来なかった曹操の話題も、よく考えれば特に気にするものでもない。
あやは司馬懿の言葉にピクリと反応した。
曹操はあやに対してそんな扱いは一生しないだろうし、あやも後宮になんか入るつもりもなかったのだか、他人からそう言われるとムカつくものがある。
「…褒めておるのだ。」
司馬懿はぼそりと言った。
それは本当。
権力を揮いこの女を後宮に押し込めて、他の側室たちのように扱わなかったことだけは、曹操を評価できたし、あやはそんな風に生きていい女ではないと、どこかで思っていた。
あやは自由が似合う女だ。
曹操の傍に縛られているような女ではなく。
司馬懿は気付いていた。
あやが訪れるようになってから、人付き合いが苦手でなるべく避けてきた司馬懿に声をかけてくるものが増えたことも。
同僚たちの自分に対する評判が上がっていることも。
いつも痛んでいた胃が大分静かになったことも。
自分が随分と肩の力を抜いて、過ごしていることも。
だから、もし。
「あ、そうだ今日は早めに帰らなくちゃ、お客さんが来るんだった。」
「あ?では早く帰れ。部屋にいないのが発覚したら殿に報告されるぞ」
もし、あやが望むなら。
仮定の話を司馬懿は思う。
「それは大丈夫よ。」
望むなら、自由を。
お前に自由を、と。
これほど空に相応しい娘もいない。
だから彼女はそうあるべきなのだ。
知らない感情が湧き上がる。
世界が広がって、何でも出来そうな気までしてくる。
空すら掴める様な錯覚が、心地よかった。
「だって知ってるもの。」
そのために私は目指してやる。
その為なら目指してもいい。
「誰もあたしの居場所探さない。だって、知らないはずがないから。」
「…何を」
お前が共に歩んでくれるなら。
高みを。天下を。
曹操のいるあの場所を。
「曹操が。あたしのいる場所を知らないわけがないわ。」
司馬懿は目を見張った。
曹操は知っていたというのか。
ずっと知っていて、自分の女が男と二人きりであることを黙認していたのか。
「あの人さえ把握していればいいのよ。」
その顔は特別に感情を込めたのでもなく、ただの事実を言うように発せられた。
だから司馬懿はわからなくなる。
「……お前は、望んで曹操のそばにいるのか?」
「質問の意図がわかんないけど、まあ、そうとも言えるかも。」
あやの心がどこにあるのか。
「窮屈だと思わないのか?」
「べっつに~。もし嫌になったら出て行けばいいことだもん」
司馬懿は息を飲みそうになった。
その答えは、司馬懿の予想を遥かに超えていて。
曹操すら置いていくのか。
曹操は知っていたのか。
だからこの女を傍に置かなかったのか。
あやは自由な女。
最初から自由で、それを捨ててなんかいなかった。
掴んだと思った道が消えていく。
高揚していた気分も、無限の広がりを見せていた世界も元に戻り、司馬懿は書庫の主以外の何ものでもない自分に気付く。
司馬懿は自分で思うよりずっと自由だった女を見つめて、最後の質問をした。
「…曹操を愛しているのか?」
「ぶっ!随分ストレートで恥ずかしい質問ね!!しかも仲達の口から聞くとなんでか鳥肌立つし!」
あやが珍しく本当に顔を赤くして喚いた。
しかし司馬懿の顔を見て、何かを感じ取ったのか真剣に自分の中で答えを探す。
「曹操は大切な人よ。」
男女の愛に近いけれど、親愛にはもっと近くて、友情というには濃く、家族というには遠い。
あやは二人を表す言葉を持たない。
「…そうか。」
それでも司馬懿は納得してくれた。
「もう行け。客人が来るのだろう。」
「うん、そうだけど。…仲達?」
「司馬懿…と、呼べ。」
あやは小さく身じろぎして、一つ頷いた。
「わかった、行くね。」
あやは靴を持って窓枠に足をかける。
司馬懿は振り返らない。
「…また来てもいいの?」
「……構わん」
あやの気配が窓の外に消えていった。
随分と時間がたってから、司馬懿は窓の外を見た。
そこにあやの姿はない。
時々あやは窓の外を、焦がれるように空を見ていたから、手に入れられないものがきっと欲しいのだと思った。
それは権力から、曹操から逃れるための自由だと。
だが違った。
あやはそんなもの始めから持っていて、もし無くても自分で掴み取るような女で、司馬懿の力など必要としていない。
つかの間見た夢は、夢だった。
だが、忘れられそうにない。
あの高揚だけは。
何故なら見てしまったから。
見えてしまったから。
天に至る道を。
天を掴めると思った瞬間を。
世界を睥睨する快感と実感を得てしまった。
一度でもそれを見た人間はもう逃れられないのかもしれない。
司馬懿は窓から吹く風に目を閉じた。
あやのようだと、目を閉じた。
奇人ってつまりは司馬懿だったのか主人公だったのか。