12話 龍玉
この世界に来てはじめて、知っている人に会う。
歴史に名を残す、あやのような小娘でも知る人物。
呼びに来た女官に目線で了解の意を示し、椅子から立ち上がった。
背を伸ばし、顎を引いて、真っ直ぐに前を見る。
決してその目が揺らがぬように、あやは一歩を踏み出した。
震える足は大嫌いなひらひらと広がる豪奢な服に隠されて見えない。
あやは初めて、無駄に布を使った裾を踏みそうな着物に感謝した。
城に勤めて長い女官は、曹操が所望したという女の前に立ち、曹操が待つ広間へと案内する。
それはもう慣れた役目であったが、いつもと少しだけ違うことがある。
同じようにこうして着飾った女たちを多く先導したが、そうして幾人もの違う女と通り慣れた道を外れ、女官は公務で人が行き来する往来の回廊を歩いた。
今日は定例の軍議が広間で開かれていた。
その広間の前の、立派な扉の前で女官は止まり、立っていた衛兵に何事かを伝える。
あやは澄ました顔をしながら内心大いに冷汗をかいていた。
うわあ、扉が大きい。
惇兄の邸を見たときも驚いたけど、これって規格外の大きさじゃない?
大体このお城だって、絶対に全部把握してる人なんていないわよってくらいでかいし。
さすが大陸よねえ。
何でも日本とはスケールが違う。
あやはここに来てから見上げることばかりなデカイ人々の顔を思い浮かべて、しかしその実優しい彼らの心を思い出し、少し肩の力を抜いた。
扉が両端の衛兵によってきれいに揃い、開かれる。
祁央、心臓が口から飛び出そうよ。
あやの一大事にはいつも背中にいた男の心強さを今更ながら知って、あやは心の中で遠い南の地にいる祁央に話しかける。
お前が勝手に一人で行ったんだろう。
理不尽に傍に居ないことをなじられた祁央がそう、少し拗ねた口調で言った気がした。
そうね。
あやは床を踏みしめる足にぐっと力を入れ、扉の向こうに足を踏み入れた。
内心がどうあれ、傍から見てあやは落ち着いた態度に見えた。
その立ち姿は凛と。
一本の線の上を歩くようにズレなく足を運ぶ小さな体はむしろ堂々と。
何より揺れない目線はこの雰囲気に負けていない。
ずらりと両端に座って並んでいる人々の舐める様な目線。
あるいは観察するような、面白がるような、訝しげな。
やっはり曹操は単なる興味であたしを呼んだんじゃない。
目立ちすぎたのかもしれない。
この国の中枢を司る多くの視線を浴びて、あやは確信した。
だが、その強い視線の中に幾つかの案じるような視線を見つけて、あやはふと微笑んだ。
昨日は街で徐晃に会って心配されて、夏侯惇邸に帰れば夏侯淵と曹仁が押しかけていた。
夏侯淵には何故か泣いて謝られ、曹仁には懇々と礼儀や作法について講義をされた。
大丈夫、祁央。
あたし一人じゃないみたい。
正面の高座に程近い席でいつもながら姿勢のいい夏侯惇が胡坐を組んでいるのを見つけた。
昨日、二人で見た月は絶対に忘れないだろう。
「あや。……俺は、」
夏侯淵と曹仁を帰して、二人だけになった部屋で、夏侯惇は随分と長いこと無言で考え込んでいた。
あやは黙って彼が口を開くのを待つ。
彼との間にある沈黙が、あやは嫌いではなかった。
夏侯惇は意を決したようにやっと顔を上げたが、また直ぐに言い淀んだ。
そんなに言いにくい事があるのだろうか。
そういえば、曹操の命を受けてから夏侯惇はずっとこんな様子だった。
「惇兄……曹操の、っと曹操様のこと?」
言い直したあやに苦笑いを返して、夏侯惇はきっかけを作ってくれたあやに背を押されてもう一度口を開く。
「俺はお前が大事なんだ。」
「うん。」
知ってるとは、声に出さなかった。
「だが、もしお前と孟徳が同時に命の危険に晒されたら、俺は孟徳を助ける。」
「うん。」
知ってるとは、やはり言わなかった。
その事実は特に悲しくないのだ、と言ったら逆に傷つけるだろうか。
「孟徳とお前と、俺は孟徳を取る」
あやは正直なひとだ、と柔らかく微笑んだ。
言わなければいいのに。
言わなくてもいいのに。
でも、別たれてしまう場面を前に、言わずに居られなかったのだろう。
街で会った時の徐晃さんもこんな気分だったのかしら。
曹操が望むなら、夏侯惇はあやを差し出す。
惇兄はきっとあたしに命の危険があったって、曹操に掠り傷の危険があるなら曹操の元へ行く。
惇兄も知っている人だ。
大切なものと、選ぶべきものを。
そしてそれを間違えない強い人だ。
でもそこに苦悩がないわけじゃない。
あたしはそれをよく知っている。
だからあやは夏侯惇を恨む気にはなれないし、そんな資格もないと思うのに、夏侯惇は頭を下げた。
すまないとは言わずに、ただ頭を下げる。
あやは初めて彼を見たときのように、桃の木の下で話したときのように、やっぱり彼は美しい人だと思った。
その姿が。
その心が。
あたしの目は確かだった。
「…惇。」
もう、彼と共に長い夜を、月を見ながら、物語を語りながら、あるいは彼の腕の中で眠ることはないだろう。
それだけが少し寂しかった。
あやはかつて二度だけ呼んだことのある、そしてこの先ずっとそう呼ぶことになるだろう彼の名前を口にした。
夏侯惇様と、夏侯惇将軍と呼ばなかったのは、あやに出来る最低限の親しみの表現だった。
変わってしまうことは避けられないけど、信頼が、共に過ごした日々が消えるわけではない。
また、ここから始めるのだ。
あやに告げられた終わりの言葉は夏侯惇の視界を滲ませた。
続く日々に、「惇兄」と言って無邪気に笑う彼女はもういないのだ。
月明かりが差し込む部屋の中、静かに涙を流し続ける夏侯惇と穏やかに微笑むあやは、長い間椅子に座ったまま動かなかった。
夏侯惇と目は合わなかった。
真っ直ぐに前を見つめる揺るぎない目は、強い意思と、誇りに溢れている。
カッコいい、とあやは思う。
あたしの惇はやっぱり世界で一番カッコいい。
あやはそっと下を向いて目を閉じた。
その口の端が緩やかな弧を描いていることに気付いた者は居ない。
すっと膝を落とし、拱手を掲げる。
昨日散々、曹仁にやらされた甲斐があって、それは流れるように美しい。
曹操がいるのだろう高座の下のそう多くない階段が目に入る。
ほっと一仕事を終えたような気分で、あやが内心安堵のため息を付いていると、頭の上から声がした。
「そなたが、最近女傑と名高い女か」
心の中を声にすれば、「女傑?」だ。
初めて聞いた曹操であろう声も、その内容に気を取られて感動のしようもない。
疑問と勝手に口を開いていいのかの戸惑いが、結局無言という行動になった。
「賊の首を引っこ抜くような怪力には見えんぞ」
「ぶっ!」
噴出したのはあやではなく徐晃と曹仁と、夏侯惇だ。
ちらっと下げた頭で視線を向けてみると、周りの胡乱気な目線にも取り繕うことをせず、三人とも引きつった顔をしている。
確かに本物のあやとはかけ離れた人物像ではあったが。
こんな時一番大きな反応をしそうな夏侯淵は何故か眉根を寄せ、怒ったような顔を崩さない。
まるで何かを誤魔化すように。
「顔を上げい」
徐晃の顔が苦くなったが、誰も曹操に異を唱えるものはいなかった。
あやは初めて聞く、命令調の言葉に一瞬肩が揺れる。
抗いがたい、声だった。
何の威圧も込めてないだろうその声に平伏してしまいたくなるのを、気付かない振りでやり過ごし。
あやは拱手をしたまま、言われた通りに顔を上げて、曹操の姿を視界に入れた。
あやが顔を顰めたのは、曹操の姿にではなかった。
…な、んだ、これ。
風が吹いているような気がした。
強風だ。
踏ん張っていないと、飛ばされそうな勢いで、曹操に向かって風が吹いているような気がした。
違う。
風じゃない。
むしろ、そう。
引力。
歯を食いしばって、引き摺られそうになるのを耐えていると、視界の中で曹操が身じろいだ。
それにつられて曹操を見たあやと、あやを凝視していた曹操と、目が合った。
ぱんっと破裂音に似た音がして、強烈に身を引き寄せる力が失せる。
しかしあやも曹操も、そんなことどうでもいいといばかりに、互いから目を逸らせなかった。
曹操はあやと同じように、何かに耐えるように眉根を寄せた表情のまま、ゆっくりと高座から立ち上がる。
いつの間にかあやも拱手をやめ、立ち上がって、呆然と曹操の目を追う。
無礼者といわれて切り捨てられても仕方なかったが、誰も動けずにその一枚の絵のような光景を見つめる。
何かが、誰にもわからない何かが今、起こっている。
それだけ、理解できた。
その時、確かに世界には二人しかいなかった。
互いには互いだけがいた。
あやには曹操が瞬く、その睫毛の一本までも認識できて、不思議に自分たちを繋ぐ透明な縁を感じる。
どうして、こんな近くにいたのに今まで気付かなかったのか。
きっとわかる。
これから彼がどこにいても。
豆粒のように遠くにその姿があっても、今のように多分、自分には彼の表情も仕草も、髪の毛一筋までも見えるに違いない。
あやも曹操も、欠けたものが嵌るように、始めはそうあったことを思い出した。
「何故今頃現れた?」
「あなたがいたことを知らなかったから。」
「何故わしの傍に生まれなんだか」
「……」
その問答は二人の他に誰にも理解できなかった。
その感覚を何と言うのか曹操は知らない。
だが、もし、人が元々一つであるものを別たれて生まれてくるとしたら。
そして出会ったとしたら、こんな風に感じるのかもしれない。
一つであって完璧なもの。
傍にいて満たされるもの。
そういう存在。
「わしはお前を殺すべきか?」
「…もう止まらないなら、そう思います。」
そうするのが正しい。
安寧を望まない男に、今更あやは必要ない。
むしろ覇道の弊害にしかならない存在だ。
曹操にとっての自らの存在の意義を自分で否定して、あやは曹操を見つめる。
「そう、もう走り出した。後戻りは出来んのだ。」
曹操がすらりと剣を抜くのを見て、さすがに周りがざわついた。
「孟徳!」
「殿、おやめください!」
曹操の耳に制止の声は届いていなかった。
今ですら、思う。
彼女に続く道があるなら、王座などどうでもいいと。
だが、多くの人の人生を巻き込んで動き出したうねりがある。
曹操が作り出した夢と野望。
全てを放り出し、彼女の手を掴むには遅すぎた。
満たされる思いなどいらないのだ。
「龍玉などあってはならないのだ!」
龍を鎮めると言われる秘宝。
「あや!」
「殿!!」
「曹操様!」
曹操の剣が振り下ろされるのをあやは冷静に見て、手を上げた。
しんと静まり返る広間で曹操の掠れた声が響く。
「何故。」
「あなたのために死ぬには、あたしにも大切なものが多すぎる。」
曹操の剣はあやが頭を庇って差し出した手に幾らか食い込んで止まっていた。
「…そう、か。」
「そうなの」
曹操に譲れないものがあるように、あやも、曹操だけを選ぶことなどできない。
その訳がある。
そのことに気付いて、曹操は目から鱗が落ちたように、あやを見た。
初めてあや個人を認識する。
ずっと目を放さず見ていたはずなのに、彼女の顔は今初めて見たように思えた。
驚いたようにあやを見つめる曹操の視線に気付いて、あやはにっこりと笑った。
はじめまして、こんにちは。
その表情がそう言っていた。
激情が去っていく。
曹操にあやのいない、長い年月があるように、あやにも今まで生きて、積み重ねてきた人生があるのだ。
あやは曹操ではなく、曹操もあやではない。
生まれ出でたものを元に戻すことはできず、曹操とあやが一つになることもない。
あやの命はあやのものだった。
曹操は自然に笑いが漏れるのを止めはしなかった。
あやは剣を引き、笑い出した曹操を困ったように見つめて、やっぱり困ったように笑った。
曹操があやのために生きることが出来ないように、あやも曹操のために生きることも、まして死んであげることもできなかった。
自分の命が惜しくて。
だが、腕を一本、あげてもいいと思ったことは本当だった。
血が滴る腕を下ろして、笑い続ける曹操と目を合わせた。
「そなた、名は?」
「あや、と。」
怒涛の展開についていけなかった者たちが、目を剥く。
話を聞いていて、彼らはどんな縁かわからないが知り合いであるのだろうと思っていたから、曹操が今頃娘に名前を問うていることに驚いたのだ。
「ではあや、今日から城に住むがいい」
「…承知しました。」
隣で夏侯淵が青い顔をして、曹操と夏侯惇を交互に見ている。
息を飲んだのは曹仁だろう。
一人だけ曹操の言葉に動揺を表さない夏侯惇は、曹操が剣を引いてから直ぐに元の位置に座りなおし、あやの腕を伝う血を心配そうに見ていた。
やはりこうなったか、と経緯は理解できないまでも、結局成るべきように落ち着いたのだと徐晃は諦め半分に思った。
やはり確信は正しかった。
「そうか、では部屋はどこがいい。元譲の邸にいたなら元譲の部屋近くがよいか?」
「どこでも構いません。後宮以外なら。」
「はっはっは、そうか。では官に任せよう。後で文句を言うでないぞ。」
戸惑ったのは周りにいた官たちだ。
徐晃たち武将も含めて、皆が頭上に疑問符を飛ばす。
「…え?」
曹操が女を城に住まわせるということはつまり曹操の女になるということ。
それは後宮に入って曹操の寵愛を受けるということを示す。
だが、曹操は夏侯惇の名を出した。
夏侯惇たち武将は邸も持っていたが、城にも生活するに困らないだけの空間が確保されている。
忙しければ邸に帰っている暇などない。
事実、夏侯惇も毎日邸に帰れていたわけではない。
あやが来てからはなるべく邸に帰っていたが、それまではその必要がなくとも城で寝泊りすることは当たり前だった。
そして彼らの居住は勿論、後宮などにあるわけもなく。
「あや、わしは誰だ?」
「曹操孟徳」
視線を逸らさずに、正直に答えたあやの無礼な物言いに、ガチャリと金属音がして衛兵たちが武器を構えた。
曹操はそれを手振り一つで抑えて、愉快そうに笑った。
「では、この世でただ一人、お前だけにそう呼ぶことを許そう。」
それは後宮のどんな女にも許されなかった特権。
後宮に入らずとも、あやが曹操から寵を得た女たちと変わらない力を得た瞬間だった。
反対に言えば、彼女は曹操の寵を得るのに何も、その身すら差し出さなかったということ。
あやは曹操に望まれて、後宮に入らなかったただ一人の女となった。
そして、曹操に許されて名と字を呼ぶ、唯一の人間となった。
その日、美を競い愛を乞う女たちの勝者にいつか与えられるはずの最高の寵愛の証が、後宮の女ではなく、魏の民でもない、ただの語り部の娘の手に渡った。
その事実に魏を支える百官たちは曹操に是の意味を、あやにその存在を承諾する意味を込めて、ゆっくりと平伏した。
彼女の一番大きな「運命」は曹操です。