11話 波紋
「のう、淵。面白い噂を聞いたのだが。」
「殿、仕事してくだせえ。俺が惇兄に怒られちまう」
机に肘を突いて片頬を支えながら曹操が傍にいた夏候淵に話しかけた。
しかし夏候淵は聞く気がないのか、新しい書簡を広げて曹操に差し出す。
「ふん、おぬしわしと元譲とどちらに仕えておるのだ」
面白くなさそうに曹操が不満を漏らす。
「それは殿ですが。惇兄を怒らせると恐いのは殿もご存知でしょう」
「む、とにかく!街には今、ものすごい女傑がいると聞いたのだが、真実か?」
都合の悪い話題に曹操は逸れてしまった話の軌道を強引に戻す。
「女傑ぅ~?」
「うむ、何でも先の阿呆な盗賊どもの襲撃の折、一人で盗賊頭を追い払ったとか。真実なら会ってみたいのう」
話題転換はうまくいったようで夏候淵は素っ頓狂な声で聞きなれない単語を繰り返して、それから曹操の説明を聞いて目を瞬かせる。
夏候淵はぴんときた。
女傑という言葉はかなり似合わないが、焼けた瓦礫の上で街人に囲まれていたあやはそういうものに近かった気がする。
「…それってあやのことですぜ、多分。」
「ほう!おぬし知り合いか」
「まあ…、でも殿が思うような人物では…。」
「違うのか?」
「参考までに聞いておきますがどんな人物と?」
恐る恐る聞いてみると、曹操はにやりと笑った。
夏侯惇なら身構えて、夏候淵にとっては苦手な類の笑みだ。
「山のような大女で、その拳は岩をも砕くとか。なんでも盗賊は頭を引っこ抜かれたそうではないか」
「……訂正。別人かもしれません」
夏候淵はがっくりと力が抜けた。
その人物像とあやはあまりにもかけ離れている。
「ではそなたの言う女はどういう女なのだ?」
「腕のいい語り部です。もちろん大女ではありませんし、岩なんか殴ったら反対に腕が折れるような娘ですぜ」
だから曹操が興味を引かれるような人物ではない。
そう言外に言い置いて、夏候淵は曹操がこれ以上興味を抱かないように流そうとする。
「だが、街人に慕われている?」
「それは間違いないってもんで!」
思わず力強く頷いてしまった夏候淵に曹操は嬉しそうに言った。
「ほう、其処だけはわしが聞いた噂と同じだな。」
「…殿?」
「はっはっは!そう不安そうにするでない。なにもとって食おうというわけではない」
夏候淵が噂のあやという娘(というからには思っていたより若いのだろう)を気に入っているのはわかった。
何を心配しているかも。
「会ってみたいと言うておるだけではないか。」
夏候淵の顔が渋くなるのを了解の印と見て、曹操はにんまりと笑って見せてから、仕事に戻ろうと書簡に目を落とす。
曹操が話を終わらせる気配を感じて、夏候淵は一応言ってみる。
「本当に会うだけなんですね?」
曹操はおや?と目線を上げて夏候淵を見る。
これは本当に気に入っているらしい。
曹操は面白そうに口の端を上げた。
「殿、その笑いやめません?」
余計に興味を煽ってしまったことに気付いた。
こうなったら言うだけは言っておかなければ、あやの身が危ない。
「ほんっとうに手を出さないで下さいよ?」
「わかったわかった」
ここまで言われて、俄然興味が湧いたのは真実だが、本当に手を出せば夏候淵の不興を買うのはわかりきっている。
曹操にとって女は生活の花。
しかしそれと大切な武将とは秤にかけるまでもなかった。
事実、曹操の女好きは有名ではあったが、部下の女に手を出したことはない。
夏候淵もそれくらいはわかっていたが、駄目押しをしておくに越したことはない。
特に相手が相手ならなおさら、女のことくらいで失いたくないだろう。
「惇兄の気に入りですから」
夏候淵とて女一人で早々と夏侯惇の関係が変化するとは考えられない。
曹操はほんの少しでも溝ができるかもしれない可能性があるなら、そしてそれが単なる女がらみなら確実に夏侯惇の方を取るに違いない。
「…今、何と?」
「え?だから惇兄の女だから…」
しかし曹操の反応は夏候淵が予想したのとは大分違った。
戸惑いながら答える夏候淵の言葉を聞きながら、曹操は目を細めて考えるように目線を流した。
「それは元譲の邸にいるのか?」
先程までの面白がるような雰囲気を潜めて、乱世を狡猾に駆け抜ける英傑たる威圧が滲み出る。
やがてこの大陸全土を以って覇王と呼ばれるに相応しいと、誰もが認めざるを得ない男が必要以外は見せないその片鱗を覗かせた。
「は、はい」
惇兄、なんかよくわからんがすまん。
あや、ごめん。俺なにかやったみたいだ!!
「…その女、連れて来い」
「はっ!」
夏候淵は有無を言わさない声に拱手を返した。
それを視界の端に映しながら曹操は鼻を鳴らす。
ふん、天玄党とやらの女だな。
面白い。
いつの間にこの国に深く入り込んでいたか。
「そして彼は唱えたの、エクスペクト・パトローナム!」
きょろきょろと誰かを探している風な男の耳によく通る女の声が聞こえてきた。
男は微笑んで声のする方へ歩みを進める。
「いやあ!しりうすが死んじゃうわ」
「大丈夫だよ、はりいは天才なんだぞ!!」
「何でもいいよ、あや姉早く続き!」
最近街に出ることが多い。
あやは夏侯惇のいない昼間、そのほとんどを邸で過ごすことをしなくなった。
道を抜けると広場に出た。
沢山の子供たちに囲まれて物語を語っている娘の姿は今や街の名物でもあり、見慣れた光景でもあった。
広場を通る人々はそれをみて、足早に通り過ぎる足を緩めて目を和める。
もしくは足を止めてあやの語る物語に耳を傾けた。
「あや殿」
「あれ徐晃さん、どうしたんですか?」
こんなところまで。
あやは突然声をかけた徐晃にも嫌な顔をせず、不思議そうに首を傾けた。
「いえ、たまたま街に出かける用事があっただけなのですが」
「では用事の途中ですか。」
「もう済みました。今日はもう急ぎの用はないので、街を見廻っていただけです」
「そうなんですか。いつも忙しそうなのに珍しいですねえ」
突然現れた立派な体格の男と話し始めてしまったあやの裾を子供がつんと引っ張った。
「ねえ、あや姉。話の続きは~?」
「今日はここまで。また明日ね。」
「えー!!」
「ごめんね。でもまた来るわ。それまでに今日お話を聞いた人は聞き逃した子達に、同じように話して聞かせるように!宿題よ?」
「えっ!うそ、無理だよ!」
「無理じゃな~い、やってみなくちゃわかんないでしょう。挑戦が大事!どーしても出来ないなら自分で物語を作って誰かに聞かせてみるの。できる?」
あやとしてはダダをこねる子供たちの気を逸らせるための宿題だったのだが、声に出してみれば案外、いい提案に思えた。
繰り返すことで記憶力の強化になるし、話す事で説明力はつくし、自分で物語を作れば想像力を養える。
うん、我ながらいい考え。
あやの言葉に唸りながらぶつぶつと今聞いた物語の内容を確認し合っている子供たちに別れを言って、あやは立ったまま成り行きを眺めていた徐晃の傍に寄っていった。
「宜しかったので?」
「うん。あのままじゃいつまで経っても終わらないから。むしろ助かっちゃったカンジかな。」
徐晃がほっとするのを見て、あやは本当にいい人なんだな、この人。なんて感想を抱く。
「いつもどこで切り上げていいかわかんなくて。一度なんて子供たちの言われるままに喋ってたら夜になって惇兄が迎えにきたんだから。」
「子供たちの気持ちもわからないでもない。あや殿の話は面白いものばかりですから。」
「褒めても何もでないよ~」
少し照れて、そんな言葉で誤魔化した。
彼のいうことは社交辞令なんかではなく、本当にそう思って言っているとわかるから。
あやがこの世界に来て、初めて人に喜んでもらったのがこうして自分の知っている物語を話した時だった。
勿論自分が考えたものではないし、知っている話の中身も大分曖昧だったから、最初は人に語ることの難しさを実感したものだ。
でも、何も出来ない自分が出来ること。
語ること、時に歌うこと、最初それはあやが自分の居場所を見つけるために出来る唯一の方法だったのだ。
その頃よりずっと多くの事を知り、出来ることも格段に増えたけれど、それでもあやはやっぱり語ることをやめない。
「ところで、徐晃さん。時間おあり?お暇なら一緒に一息吐きましょ、いいお店知ってるんです」
「それは勿論喜んで」
何の衒いもなく嬉しそうに受けた徐晃の素直な顔にあやは一瞬怯んで、それから言いにくそうに徐晃に魂胆を告白する。
「スイマセン。実はお金がなくてですね、でも行きたい店があって、徐晃さんに奢って貰おうかという下心があったんですが…」
夏候淵みたいに「奢って~」とは言えないし、曹仁のように上目使いでおねだりの意味が通じるわけでなし(いや、やってみたわけではないが。なんとなく徐晃にはやってはいけない気がする)、だからといって当たり前に自分で払ってしまう夏侯惇の時のように平然と奢ってもらうのには抵抗がある。
結局あやは徐晃の人のいい笑顔に負けてしまった。
だって、徐晃さんといるとこう、自分が情けなくなるというか。
もっと本音で付き合いましょう、って言われてる気がする。
「構いませんよ。あや殿もそのようなこと言わなければわからないものを。」
あやの言葉にちょっと驚いた顔をしてから、徐晃は気を悪くした風もなく大らかに笑った。
ちょっぴり徐晃の言葉の端に女の影を感じたが、あやはそこは彼もそれなりに大人なんだなあと感心するに留まった。
きっと彼に近づく女は多いのだろう。
だって武将だし、強いし優しいし、カッコいいし、普通放っておかないわよね。
そんな女はきっと甘え上手で、おねだりもお手のものなのかもしれない。
で、徐晃さんはそれにある程度付き合ってあげるんだ?何にも知らない振りして。
爽やかで実直そうだけど、それだけじゃないってことね。
あやは心の中でしきりに感心していたが、あやの考えはあながち間違えではなかった。
徐晃の中で女とはとにかく金のかかるもので、そしてその金は男が貢いでくるのが当たり前だと思っているのが女だと、そう思っていた。
そうでない女もいることはわかっていたが、徐晃ほどの者となると出会う女もそれなりの身分を持っていて、それはつまり金と権力が好物な類の人間ばかりだということだ。
稀に当て嵌らないものは、飛びぬけた才能で以って徐晃たちと対等に渡り合い、媚びる事のない同僚の位置に居る。
だからあやの言葉は徐晃には新鮮で、逆に好感を抱いた。
「本当にいいの?あたしが行きたくて行く店だよ?」
「あや殿と行くのなら楽しいでしょうから。」
この人、天然で口説く人だ。
あやは徐晃が普通に表した好意の表現に照れを感じて下を向く。
しかも、社交辞令ではなく、本当にそう思ってるってわかるから性質が悪い。
「あ、ありがとうござい、ます!で、は早速行きましょう!」
イントネーションがおかしくなったが、一人で照れているのを知られるよりはいいだろう。
あやは徐晃の腕を取ってずんずんと先を歩き出す。
徐晃は自分より大分背の低いあやに腕を取られて歩きにくそうに、それでも文句も言わず時々つんのめりそうになりながらついて行く。
徐晃が出来るのはあくまで大人な対応であって、意識せずに誰かを口説けるほど器用な人間ではないことまではあやには見抜けなかった。
どこか噛み合っていない二人は小料理屋に入って、甘味と飲み物を頼む。
あやとしてはお茶が欲しいところだが、この時代まだ茶が一般化されていない。
玄鳥の第二の村、翡翠でお茶の栽培を始めたのは大いにあやの欲望が混じっていたのだ。
その我侭が通ったおかげで、南に居た時はお茶に困ったことがなかったのだが、魏に来てからはそうほいほいと手に入るわけもなく、いつも味のない白湯を飲んでいる。
いい加減、懐かしくもなる。
「ほう、これはなかなか。」
「でっしょ!この前見つけたんだ。でもお金もないのに行くのは気まずくて。」
甘味を口に入れたまま、疑問を声に出せず徐晃は首を傾けてあやに問いかける。
「皆タダでいいって言うんだもの」
なるほど、この辺はあの賊の襲撃の折、被害にあった地域だ。
つまりそれはあやが助けた人々でもある。
この様子からすると食べ物だけでなく、ほとんどか、もしかしたら全ての店であやは賓客扱いというか無料待遇なのだろう。
「そういうわけにはいかないでしょう?」
「彼らの好意ですよ、いいのでは?」
それだけのことをあやはした。
その感謝の表し方なのだから素直に受け取ればいいものを。
「徐晃さんまで。あたしそんなことしてもらうほど、彼らに何かをしたわけじゃないもの」
徐晃はまじまじとあやを見つめてしまった。
わざとではない。
本当に驚いたのだ。
「いや、あや殿?貴公は本当に何もしていないと?」
「え~っと、あたし?何かしたっけ?」
「先日、怪我人を助け、火の延焼を防いでいたと思いますが。」
「あれね、みんな雰囲気にのまれて気付いてないけど、よーく考えてみて!あたしが治療したわけじゃないし、火事だって消化したのでもなければ、家だって街の人たちが一生懸命壊してくれたのよ。あたし実はなんにもしてないの。」
「………あや殿は変わってますね」
「…褒めてる?」
「…一応」
「…んじゃ、一応ありがとう」
あやと徐晃は顔を見合わせて笑った。
徐晃にとって久々に心晴れる楽しい時間だった。
ずっと引き摺っていた蟠りが解けて消えたような気までして、忙しい仕事を放り投げて街にあやの姿を探しに来た理由まで忘れられたような気がしていた。
「そういえば、徐晃さん。あたしに何か用事があったのではないの?」
礼を言われて別れ際、あやの最後の一言に浮かれていた気分が現実に引き戻される。
なぜ、あやがそう聞いたのかはわからない。
徐晃が最初からあやに会いに街をうろついていた事に気付いていたのか。
徐晃の様子に何か感じるところがあったのか。
それとも何の意図もなかったのか。
「…殿の話はお聞きに?」
あやはきょとんとしたが、それは徐晃の質問の意味がわからなかったからではなく、わかったからだった。
あやはすぐに嬉しそうに笑った。
「心配してくれたんですか?ありがとうございます」
あやの言葉からすでにあやには伝わっていることを知った。
話は真実だったのだ。
曹操があやとの対面を望んだ。
それは取りも直さず、気に入られたら曹操の女になるということ。
後宮に身を置くということ。
「明日、城に行きます。」
不自然に肩を揺らした徐晃に苦笑してあやは徐晃を安心させるように早口で捲くし立てた。
「大丈夫ですよ、惇兄も淵兄もいるっていうし。大体曹操様はきれいな女の人を見慣れてるんでしょう?それに比べたらあたしなんか味噌っかすでしょう。それに…」
「それに?」
「きっと曹操は大切なものが何かを知ってるし、選ぶべきものを間違ったりしない。…そういう人だと思う。」
後に、自分が名を知る程に歴史を席巻することになるあの男なら。
頭がいい。
それがあやが歴史で見て曹操に抱いた感想だった。
あやは遠くに見える、夕日に照らされて影になった城を見つめて独り言のように呟いた。
曹操に敬称を付けていない事にも気付いていないだろう。
しかし徐晃はあやの言葉に口を挟む気にはなれず、じっと自分を見ないあやの横顔を見つめた。
初めて見たとき、儚い美しさを見た。
火の粉が舞い散る中、強い美しさを見た。
今、夕日の中で見るあやはただの娘のように見える。
しかしその瞳はやはり美しかった。
後宮の女にはない、しなやかで真っ直ぐな心に曹操が気付かないわけがない。
あやと曹操を会わせる事はそういうことだ。
徐晃は確信を持って、思う。
「だからそういうことにはきっとならない。」
しかしあやも徐晃と同じく確信を持っていた。
徐晃の考えとは反対に。
だけど、もしかしたら他の事態が起こるかもしれない。
別の意味で身が危うくなる事態が。
あたしのことを玄鳥と知っているなら。
あやは考えても出ない答えに自嘲して考えるのをやめた。
どちらにしても明日になればわかること。
明日にならなければわからないこと。
考えても仕方なかった。
うん、成せば成る。
死にさえしなければ大丈夫!
今更、姿を消すわけにはいかない。
退けないなら進むしかないのだ。
覚悟を決めたあやがきゅっと唇を引き締める。
徐晃はそれをぼんやりと目に入れて、あやに会いに来た訳に唐突に気付いた。
噂を聞いて、あやが曹操のモノになると、そう思って徐晃は何故か安堵した。
それが何故だかわからなかったのだ。
だが、気付いてしまった。
醜い心だ。
身勝手で自分を守るための。
曹操なら、逆らえない力で奪われるならそれでいい。
そう、思った。
きっと諦めることができる。
辛いだろうが、それは自分の中でやがて切なさから、穏やかに彼女の幸せを願う心に変わる。
誰も恨まずに、誰も憎まずに終れる。
何よりも自分に対する言い訳がたつ。
自分の心の在り処を知った徐晃は、そう思ってしまった自分が汚れた気がして、あやを恨んだ。
あやと出会った事を。
こんなことに気付かせたあやを。
あやと出会わなければこんな感情は知らずに済んだ。
そう思う自分の心こそが醜い、と徐晃は何も気付かないあやの姿を目に納めながら、情けなさに臍を噛む。
あやは真っ直ぐ残照を目に、南の夕暮れを思い出していた。
あの日、南で見た最後の夕日もこんな風に大きかった。
運命を感じて旅立つあやの背中を押すように最後の輝きを放っていた太陽は、今日も同じように赤く、あやを照らす。
そういえば、
運命に会いにやってきたのだった。
この魏に。
嵐に誘われて。
もう運命にはあったのだろうか。
過ぎたような気もするし、まだのような気もする。
この地を去る気にならないってのは、まだってことなのかな。
あやは地平に隠れていく太陽と、闇に消えていく城を見つめて、夕暮れが終る最後の瞬間に運命を想った。