10話 悲しいと言って、君は泣かない。
男はゆるりとあやに向き直って、頭の先からつま先まで眺めた。
肩に担いだ戟は長く、重く、花王があやの手にあったとしても、防ぐことは出来そうにない。
小細工が通じない、純粋な力。
少しだけ自分には望むべくもないその力に焦がれた。
ちりっと見上げてくる女の目に憧憬の光が瞬いたのを見て、男は歩みを止めた。
ふんっと鼻で笑い、背を向ける。
それはただの気まぐれ。
気まぐれで争いに割り込み、偶然に助かった女を気まぐれに切らなかった。
それだけ。
「誰?」
「…俺を知らんのか。」
去っていく男の背に、あやは聞いた。
多分人を殺すことなど何とも思っていない男。
あやにその凶器が降らなかったのはただの気分の問題なのだろうと気付いていた。
でも、知らなければならないような気がする。
わざわざ遠ざかった危険を呼び込んでも。
「知らないわ」
「いい度胸だ。」
あやは小高い丘の上で、風の吹く方向と火の手が大きく上がる幾つかの場所を頭に叩き込んで、急いで元来た道を戻る。
「赤兎!」
呼べば声に反応して美しい馬が姿を現しあやに合わせて併走する。
その鬣を掴んであやは背に飛び乗った。
本当に頭のいい馬。
もしかしたら祁央の黒駒、『黒核』よりも賢く、速いかも知れない。
「呂布奉先」と名乗った男の馬はまるで言葉どころか心が通じているような動きをする。
行きたい方向を指示しなくとも、彼は自ら駆けた。
駆けていく先々、丘から見た火の出所の中で、一番近い場所を周囲の人々に指示しながら赤兎に火元に行くよう頼む。
赤兎は火の粉が舞い始めた道も怯むことなく突き進んだ。
「見えた!」
盛大に燃え盛っている家を見つけてあやは赤兎から飛び降りる。
人が群がってちまちまと水を運んで行ったり来たりを繰り返すのが見える。
きっと当事者たちだろう。
諦めて見ているだけの者も多かった。
「そこのあんた!突っ立ってないで手伝いなさい!」
あやは見物人を怒鳴りつけて叫ぶ。
「隣接の家を破壊するの!早く!!」
落ちていた剣を拾いあやは火に捲かれている家の三軒隣に突き立てた。
夏侯惇邸のように石造りの家ではない。
壊れないということはないだろう。
「な、何をする!俺の家だぞ!」
「じゃあ自分でやって!」
「何故自分の家を壊さなけりゃならないんだ!」
「火を食い止めるためよ!!」
「そんなことしたら、その後どうすれば…」
「後で考えなさい!人が死ぬわよ!!」
怒鳴ってあやははっと口を噤んだ。
男は気圧されたように押し黙っている。
「ここで食い止めなければ、都中が焼け落ちてしまうわ。」
あやは深呼吸をしてから男に言い聞かせるように話し出した。
「でも今なら最小限で済む。」
「最小限って俺の家を犠牲にしろってことかよ」
あやは男を煽らないようにゆっくりと話す。
焦りで状況が見えなくなっていた。
急がば回れ、とはよく言ったものだ。
いつもならこんな時あやを止めるのは左近で、代わりに説得をしてくれたのは祁央だった。
離れてみるものだ。
自分がどれだけ人に助けられ、何が足りないのか。
とてもよくわかる。
「そうしたら貴方は英雄だわ。きっと焼け出されないで済んだ家の人たちが今度は貴方を助けてくれる。」
だからお願い。助かるものを助けたいのだと、言うあやをじっと見つめて男はあやから剣をもぎ取って自分の家に突き立てた。
「…これでいいんだろう?」
「ありがとう。他の人にもそう言って手伝ってもらって。」
「反対と向かいも必要だな?」
「頼める?」
「引き受けよう」
あやはこんな状況でも自然に浮かぶ笑みで男に感謝の意を伝え、また駆け出した。
懸命に水を運ぶ男から壷を奪い、井戸の場所を聞き出す。
井戸は幸いそんなに遠くない。
「人を集めて、井戸と現場まで一列に並ばせるのよ。」
日本ならバケツリレーという一言で通じるのに。
きょとんとしていた男もやがて合点がいったのか、人を集めに駆け出す。
あやも声を張り上げる。
「逃げるよりも手伝って!貴女!家に桶はある?早く持ってきて、水運びの列に加わって!そこの貴方、それは斧でしょう?あっちへ行って火をこれ以上広げないために家を壊すのを手伝うの!」
人々が右往左往するのを止め、できる事をし始めたのを見てあやは赤兎を呼ぶ。
まだ大事になりそうだった火の手はいくつかあった。
休む暇なく赤兎を駆って消えていくあやの姿には誰も気付かない。
しかし人々は血と煤と汗に汚れた女の姿と、枯れかけた喉で叫ぶその声を忘れることはなかった。
「ありがとう、赤兎。助かったよ~」
あんたがいなきゃ今もきっと街の中でもどかしい思いをしていた。
あやはまるで人間のような反応を返す赤兎の首に抱きついて、叫びすぎて潰れてしまった声を絞り出して言った。
「さて、あんたのご主人様はどこかな」
郊外に近い閑散とした場所で赤兎から降りて、あやは周りを見渡した。
「放せば勝手に帰ってくるって言ってたけど…」
あやの思案する声に赤兎がぶるるっと何かを訴えかけるように歯を剥いた。
「何?本当に一人で帰るの?」
返ってきたのは肯定の仕草。
懐くように鼻面を擦り付けてくるのは別れを惜しんでくれているのだろうと勝手に解釈する。
「大丈夫よ、また会えるわ。だって、あんたのご主人様に約束したからね」
あやは赤兎の顔を抱えて郊外の先に広がる荒野を見た。
「俺を知らないやつがまだいたとはな」
そう言った男は何の気まぐれか、名乗るばかりか自分の愛馬を貸し与えてくれた。
何故と尋ねれば、さあと返ってくる。
そして去っていく背にあやはもう一度声をかけた。
「生きたいと思う?」
彼は強すぎる。
その力は畏怖の対象になり、並び立つものを許さない。
その終わりは死か。
生き残れば孤独と退屈。
「俺の名を知らない者がいる限りは」
呂布はそう嘯いて笑った。
じゃあ、あたしは。
「迎えに行くわ。いつか、貴方が死ぬ時に。」
その時に生きたいと望むなら、一緒に行こう。
あやの言葉に呂布は何も答えず眉を上げて、それから興味をなくしたかのようにふいと前を向き、もうあやを振り返ることなく行ってしまった。
「行って、赤兎。」
尻を叩くと赤兎は軽やかに荒野に走り出し、呂布と違い何度もあやを振り返った。
しなやかなシルエットがきれいだった。
「また、ね。」
あやは赤兎を見送って、その姿が見えなくなると踵を返した。
まだやることはたくさんある。
あやは街中に駆けて行った。
「あや」
あやは臥牀の上で膝を抱えるようにして、蹲っていた。
頭から黒布銀糸の、あの長衣を被っているのでその表情は見えない。
「あや」
優しい声音があやの体に染み入る。
「惇兄…」
顔を上げてみれば、夏侯惇がゆったりと微笑んでいた。
夏侯惇はあやの隣、同じ臥牀に掛けるとあやの髪を撫でる。
あやは夏侯惇の顔を見て、それからもそもそと動いて夏侯惇にぴったりと寄り添う。
寄りかかったあやに夏侯惇は少し驚いた顔をしたが、窺ったその表情に拒否する色はなかったので、あやは力を抜いて目を閉じた。
あの、二人で眠った旅の夜を思い出して、ちょっと安心した。
夏侯惇は会ったときからずっと変わらず、今も髪を梳く手は優しい。
「どうした?」
「…ちょっと甘えたくなっただけ」
「そうか」
夏侯惇は言葉少なに抱き寄せたあやの頭を見つめた。
本当は知っている。
ずっとあやの元気がない訳。
「寂しいか?」
あの日から、あやをあやと呼ぶ者がいなくなった。
誰もがあやと対等に言葉を交わすことをしなくなった。
この邸ではもう夏侯惇以外に軽口を叩く相手がいない。
「ううん。少し、悲しいだけ。」
初めてではない。
もう何度も同じ事を繰り返している。
昨日まであや姉と慕ってくれていた子供が、あや様と膝をつく。
あやと呼ばれ、笑い合った友が響彩様と頭を下げる。
もう、何度も経験してきた。
こんな風に何かを失うことがあるのだと知った時、やめようかと思った。
何も知らない振りをして、見なかったことにして。
それでもやっぱり思ってしまう。
もう元には戻れなくても、死ぬより生きているほうがずっといい、と。
だからあやは失くしてしまうことを知っていても、助けようとすることをやめない。
ただ、この喪失感だけは、何度経験しても慣れそうにない。
あやは自分に言い聞かせるようにもう一度繰り返す。
「ただ、悲しいだけ。」
夏侯惇はあやの頭を抱き寄せて、その髪に口付けた。
あの日、治安の安定していた都が愚かな賊の襲撃を受けた。
武将らが駆けつけた時には既に賊は撤退し、無残に蹂躙された街が広がるばかりで、皆が臍を噛んだ。
しかし多くの民が傷ついたが、幸いにも賊が放った火は直ぐに消し止められ、大事には至らなかった。
復興にそう時間はかからないだろう。
あれが燃え広がっていたらと思うと、ぞっとする。
驚いたのは被害の酷い場所ほど、人々は落ち着いて自分のするべき事を理解し、迅速に対応していたことだ。
ただ、怪我人は夏侯惇邸に運べと男たちが叫んでいるのを聞いて驚いた。
救護場所として開かれ、今都中の怪我人と医者がいると。
共に行動していた曹仁と目を見合わせて、夏侯惇邸に駆けつけると、中はまるで戦場のようだった。
恰幅のいい女が湯を手に歩き回り、庭では男たちが簡易床や担架や添え木を作り、出来た傍から奪うように使われていった。
呉服屋が自分の蔵から大量の布を運び入れると女たちが端から湯を沸騰させた大鍋に突っ込んでゆく。
夏侯惇邸の前には料理屋から運ばれてきた鍋と材料で炊き出しが始まっていた。
塀の前では幾人かの者が壁に人の名を書き連ねて、死亡者・行方不明者・運び込まれた怪我人を羅列している。
その脇には無事を伝える伝言や捜し人の情報を代筆し、頼みに応じて読み上げる者たちまでいた。
やっと見つけた怜晶は「『あや様』のご命令とご指示です」と答えて、謝った。
処罰は私が受けます、と。
どう見ても民のためになっている事を夏侯惇は怒るつもりはない。
「あやは?」
と聞けば、
「先程こちらに戻られて、細かな指示を出された後、また街にお戻りになられました。」
あやが心配ではあったが、邸で生け捕りにしてあった賊に対する処理のため、邸を離れて城に向かい引き渡してからも、事後処理に追われて彼女に裂く時間がなかった。
何より魏の武将として、私事の一個人より多くの民が優先するべきことだ。
他の武将たちも似たり寄ったりの状況だったのだろう。
事務仕事より魏の武将として民を助けたいと最優先の仕事を片付けた後に、追いすがる文官を蹴散らして向かった厩舎で徐晃に会った。
苦笑して互いを労って、共に出かけた街にはまだ火が所々に燻っており、夏侯惇たちも一緒になって火消しに精を出した。
驚いたのは効率を考えた水運びであったり、これ以上の延焼を防ぐための迅速な対応だった。
自分の店や家を自ら取り壊していく家人たちの態度は夏侯惇たちも感服したし、街人たちの協力はまさに見事と言えた。
また、情報の伝達の速さと正確さは感心を通り越し、驚愕だった。
怪我人が出ればあっという間に担架がやってくる。
人手が必要だと感じればすぐに街人が駆けつけてきた。
その中心にあやはいた。
火の手が新たに上がったと聞いて、現場に駆けつけた夏侯惇たちの目に映ったのは、作業を手伝いながら指示を出していくあやの姿だった。
「人を集めて。こことあそこに家を失った人のための仮設住居を。」
「わかりました。おーい、伝令!人を集めてくれ!」
「南地区にも焼け出された人が多かったから、そちらも。」
「はい。南は南で設営責任者を決めます」
「被災者の正確な人数がわかる?」
「調べましょう。各地域の被害状況も。」
「頼んだわ。」
その間も動き回っている彼女の姿はお世辞にもきれいとはいえないものだった。
火の傍に居たため、その顔は煤で汚れていたし、服は水と泥で灰色一色になっていた。
しかし、そのとき確かに街は彼女を中心に機能していた。
あやを見て、呆けたように動かない徐晃に代わって夏侯惇はいまだに自分たちに気付かないあやに近づいた。
「あや」
「惇兄!」
声を掛けた時に、厳しい顔がほっと安堵に緩んだ彼女の表情を夏侯惇は忘れないだろう。
心が、嬉しいと、そう言った。
あやも思った。
惇兄だ。
彼の姿を見て、押し寄せる安心感。
張り詰めていた糸が切れるように、今まで疲れも見せず動いていたあやはふらふらと夏侯惇の胸に倒れ込んだ。
ずっと気力だけで立っていた。
とうに体力の限界を超えていたのだ。
あやは夏侯惇の腕の中で眠るように意識を失った。
「あや様?!」
「心配するな。気が抜けたようだ」
街人が驚きの声を上げる。
夏侯惇は苦笑して、あやに代わって指示を引き受けた。
魏を支えるためにいる武将が彼女に引けを取る訳にはいかない。
徐晃はあやを抱えたまま無駄な時間を使わず、状況を聞き出してあやの後を継ぎ的確な指示を出す夏侯惇を見て、知らない感情が動くのを感じる。
「夏侯惇殿!私は南地区を見てきましょう」
ここにはもう自分は必要ない。
おう、と返事が後ろから聞こえた。
自分があやを邸に連れて行こう、とは提案できなかった。
そこには純粋な親切と心配以外の感情が混じってしまうような気がしたから。
それに夏侯惇はきっとあやを放さないだろう。
人の手に任せたりはしない。
しかしこれ以上、ここにいてもいけない気がした。
徐晃は夏侯惇とあやから目を逸らし、馬を走らせた。
やるべき事をやっているはずなのに、どこか逃げるように感じるのが癪だった。
夏侯惇殿は驚かなかった。
何故。
徐晃は驚いた。
煤けて汚れたあやは、初めて会った時に桃の木の精かと驚いた、この世のものではないような美しさとはまるでかけ離れていて、しかし何故か目を奪われた。
あの時と同じように。
あるいはそれ以上に。
眩しいと感じたのは生命力だろうか。
まるで戦場の女神のようだと思った。
強い力が、彼女にはあった。
夏侯惇邸の庭で声を掛けるのを躊躇ったのは、儚い美しさ故だった。
今この時、消えそうにもないあやに近づくのを躊躇ったのは何故だったのだろう。
だが夏侯惇は何の躊躇もなくあやを呼んだ。
その事が腹立たしく、また悔しかった。
それが夏侯惇との差であり、あやとの距離だと見せつけられた様な気がして。
「あや、寝たのか?」
こんなことが前にもあったなと、既視感を憶えて夏侯惇は穏やかに笑う。
この邸で宴を開いた夜以降、正確にいえば、桃の木の下で話しをしてから、表面上は変わらずともどこか開いた距離があった。
こんな風にあやが心まで寄ってくる事はなくなっていて、二人だけで旅をしていた頃を懐かしく思ったりもした。
だから少しだけ嬉しい。
蹲るあやはいつもよりずっと小さく見えて、腕の中で悲しいと言う彼女がまるで自分だけのものになったような気がした。
そんなもの錯覚だと知っているけど。
何故なら、悲しいとあやは呟く。
「それでもお前は泣かないのだな。」
あやは決して涙を見せない。
思えばあやは自分の前では一度も泣いていない。
夜盗に襲われた夜も、あやは夏侯惇の胸で泣いてくれたわけではなかった。
あやの二の腕に捲かれた包帯を服の上から撫でる。
手のひらは今もまめだらけで、顔につくった擦り傷はきっと同じように体中にあるのだろうと思わせた。
あんなにも嫌いだった黒布銀糸の長衣が、少しでもあやの慰めになるならそれでいいと思える穏やかな心が不思議だ。
あやが愛しかった。
それに気が付いた。
それだけ。
なのに、心だけが変わった。
穏やかに。
静かに。
心が、凪ぐ。
あの旅の夜から、夏侯惇にとって、あやはあやだった。
その日それに気が付いたのだ。
皆があやをあやと呼ばなくなった日。
切なさと、落胆、そして少しの諦めが混じった目で、かつての友が頭を下げ、辞していく後姿を見つめた後。
あやは夏侯惇に気付いて、少し瞳を揺らした。
「…惇兄」
「何だ、あや」
そう答えるとあやは笑った。
心から、嬉しそうに。
不安、困惑。
それは鮮やかに変化した。
そして夏侯惇は知った。
変わらない、確かな、存在。
自分の中にある、揺るがない彼女の存在を支える、その根底を。
剣を握るにはあまりにも不釣り合いなあやの手を取って、そっと口付ける。
あやはきっと戦うことをやめない。
守りたい者がいる限り。
争いがなくならない限り。
この手に武器を握るのだろう。
夏侯惇があやにしてやれることの少なさに気付いたのは、邸に侵入した賊を切ったのがあやだと知った時だった。
あやがいとおしい。
あやは人を切る。
そして自分を傷つける。
でもあやは泣かない。
だから。
あやの為にできること。
「世界に安寧を。」
この少女が剣を握らずにいられる世界を、いま心から望む。
想いが、胸を満たした。
静かな夜の誓いを聞く者は夏侯惇以外にいなかった。