9話 譲れない信念と選択
桃の花は散って、緑の芽が伸び、地に萌え広がり始めた頃。
それは突然やってきた。
「きゃゃゃ―――――――ぁぁあ!!」
布の切り裂くような声が邸に響いた。
日課になっていた街での物語りにも出ず、珍しく部屋の中で、夏侯惇が贈ってくれた楽器に四苦八苦していたあやはその声に反応して、すぐに臥牀にあった黒鞘銀鍔の日本刀を掴んだ。
楽器を投げ捨て、武器を掴んだのは無意識。
長いこと、魏に来てから抜くことのなかった刀だが、あやの体は危険を忘れてはいなかった。
刀は久しぶりの出番に喜んでいるかのようにあやの手に馴染む。
刀を片手に厳しい顔をして駆け出していくあやの視界の端に、部屋を出る最後の一瞬、床に投げ出された楽器が映った。
あれはもう駄目かもしれない。
勿体無い。
「あやさん!あや!逃げて、賊よ!」
怜晶が走ってくるのが見えた。
なるほど、廊下の曲がり角から飛び出してくる武器を持った男がいる。
あやは怜晶が叫ぶのを無視して、怜晶に向って躊躇いなく駆け寄る。
怜晶はその事に驚いて、何故と問いかけようとしたが、あやは予想に反し怜晶の横を速度を上げて駆け抜けた。
からんと黒い鞘が怜晶の傍に落ちる。
「ぐあっ」
くぐもった声が聞こえて、驚いて振り向けば剣を振り上げていた賊が床に崩れ落ちるところだった。
「怜晶さん」
口を開けたまま、何を言っていいのかわからず佇む怜晶の耳に静かな声が聞こえた。
背筋が伸びる。
どんな混乱の場でも頭に染み入る声だった。
「状況は?」
「はい、街に賊が侵入。邸の護衛も対応に当たっておりましたので、その隙をついて表門より邸に入られました。」
「人数は」
「わたくしが確認できたのは五人まで。」
「そう」
あやはそれだけ聞くと再び、危険が多い玄関の方に駆け出した。
怜晶は咄嗟に止めようとして、あやが切り殺した賊の死体を目に入れ、ごくりと息を飲んで口を噤んだ。
それがあやの揺ぎ無い意志のように感じて。
怜晶は落ちていた黒い鞘を拾い上げて、胸に抱きあやの後を追って走り出す。
あやの後を追うのは簡単だった。
所々に倒れている賊の死体を辿ればいい。
怜晶があやに追いついたのは玄関前の広場だった。
目の前の光景に息を飲んだ。
「あや…」
泣きそうな顔で香鈴があやを呼んだ。
あやは刀を構えたまま香鈴を安心させるようににこりと笑いかける。
香鈴の首には剣が押し当てられ、後手は賊に拘束されていた。
転がった幾つかの死体は、邸の者より賊の者の方が多い。
きっとあやが切り伏せたのだろう。
怜晶もこの乱世に生まれたからには、死体など見慣れている。
しかし高官の下で代々侍女に就いていた怜晶の一家が権力争いに巻き込まれる以外に死ぬことなど、今までなかった。
賊は日常茶飯事に現れてはいたけど、襲われるのは自分がいる邸ではなかった。
高官の邸を襲った賊がその後どうなるか、誰だって知っている。
見せしめの様に殺される。
だから襲われるのは自分たちではない。
だからこんな日常茶飯事の事態は近くて遠い話だったのだ。
だが、目の前で死んでいるのは同僚だった。
目の前で命の危機に晒されているのは目をかけていた部下だった。
膝が崩れ落ちそうになるのを支えていたのは、胸に抱いたあやの剣の鞘。
今はなぜかそれが怜晶にとって確かな強さと力の象徴のように感じられた。
あやがはっきり、ゆっくりと賊に話しかける。
「その子を離して」
「はっ!馬鹿な」
賊はあっという間に仲間を倒した女が自分にも刃を振り下ろさないのは、人質がいるからだと十分に承知していた。
「おい!今の内に殺せ!」
賊は後ろにいた仲間の最後の一人に声をかけた。
しかし仲間の男は動かない。
訝しく思って振り向いてみれば、男は剣を構えてはいたけれども歯を鳴らして切っ先は女に向かっていない。
飲まれたか。こんな小娘のどこに!
賊はこの愚かな集団をまとめる首領であり、男は今まで目にかけて育ててきた酌み交わした義息でもあった。
その義息は今まで首領の期待にこたえて満足な結果を出してきた。
こんなことで気圧される様な男ではない。
賊の首領は息子が唯一失敗した先日の襲撃を思い出した。
何があったか知らないが、その後も彼はこんな風に様子がおかしかった。
その首領の声であやの意識が初めて首領の後ろで剣を構えた男に向かう。
あやは密やかに片眉を上げた。
あの男…。
あの夜の賊。
一人生き残った男。
あたしを響彩と呼んだ。
その男が今、街と夏侯惇邸を襲撃している因果はわからなかったが、あやはそれを思い出してもすぐに男から目線を外した。
今はそんなことに時間を取られている場合ではない。
「その子を離してくれたら何もしない。」
「そんな戯言に乗るか!」
「あや!私はいい、この男を殺して!」
香鈴が叫ぶ。
「この女!!」
「きゃっ!」
香鈴の首に赤い筋が走った。
「彼女を傷つけることは許さない」
「許さない?どうするってんだ!何も出来ないくせに」
首領の馬鹿にしたような笑い声。
「それはお前も同じ。どうする?」
あやは激昂しなかった。
ただ静かに言葉を紡ぐ。
普段のあやを知っている邸の者たちはいつもと様子の違うあやに戸惑いの目を向ける。
「生きたいか?」
あやの言葉は強くはない。
しかし怜晶は思った。
それは力だ。
「逝きたいか?」
逆らうことの許されない、その力を、かつて怜晶は一度だけ聞いたことがある。
君主の、夏侯惇の主の、あるいは乱世の奸雄と呼ばれた男の。
首領は急に息苦しくなったその訳を理解していなかった。
その圧迫感の意味を図ることができない男は自分の愚かさに気付かない。
「お前、その男に言え。引け、と。」
あやはいまだに震えていた首領の息子に、彼を見ないまま命令を下す。
彼女に話しかけられた途端に彼の剣が手から離れ、床に落ちる音が一層大きく聞こえた。
「お頭、引こう。」
「馬鹿野朗!こういう奴らはな、隙を見せた途端に襲って来るんだよ!助かりてえなら皆殺しだ!!」
「この人はやらない。やらないと言ったなら絶対に。」
「何でお前にそんなことがわかる!」
男が青ざめたまま首領を説得する。
本能が言う。
彼女に剣を向けてはいけないと。
義父の愚かな行動に叫びたいのを押さえて男は引けと繰り返した。
「お頭がいやなら俺が代わる。その人質の女は俺が預かって交渉するから、お頭は先に行ってくれ。」
「何でお前、其処まで…」
「……」
男は見たことがあった。
南の地で。
天女と呼ばれていた、血に塗れた少女を。
最強の男を背に、左右に双璧を従え、振るう右手に神剣『花王』、左手に鬼剣『景元』、それはあまりにも鮮やかに男の目に焼きついている。
「わかった。お前が其処まで言うなら。」
「お頭…」
ほっとした男に首領は嫌な笑いをした。
「だが、ただでとはいかない。」
「…お頭!」
「おい、女。お前いい物を持っているな」
男は声も出ず、血の気が引いた。
首領が指したそれは、間違いなく『花王』。
血を吸えば鮮やかに浮かび上がる花の刃紋。
誰も知らなかったけれど、それは桜の花に似ていた。
「それを渡せば引いてやる。この女も無事に返してやろう。」
それを聞いて青くなったのは男だけでなく、身動きの取れない香鈴もだった。
香鈴は武器を扱わないからその価値はわからない。
だが、細くしなやかに弧を描くその剣が夏侯惇の愛剣に負けない名器であることぐらいはわかる。
そして、あやがその剣をどれほど大事にしていたのかも知っている。
そんなものを自分の命なんかと引き換えにさせてはならない。
「あや!駄目よ、お願い!!」
こんな、ただの侍女は、本当はこうなった時点で命なんか考慮してもらえる立場ではないのに。
あやは一人で賊に立ち向かってくれた。
助けようとしてくれた。
嬉しかった。
もう十分だと思う。
人を傷つけるのが嫌いなのに。
武器を握りたくなんてないはずなのに。
自分のために人を殺してくれた。
殺させてしまった。
そのことが涙が出るほど嬉しく、また申し訳なかった。
あやが好きだった。
夏侯惇の客人なのに、気さくで優しくて、得意の物語や歌を下働きの自分たちにも聞かせてくれて、誰にでも対等を望み、誰よりも綺麗に笑う人。
何も知らないただの偽善者。
そう思ったこともあったが、そうではなかった。
あやはきっと大切な者を、そうと決めたものを守るために、沢山のものを捨ててきている。
そしてこれからも捨てるのだろう。
「いいわ」
そうやって。
なんでもないことのように。
あやは賊の提案に頷いた。
邸の者も、首領の義息も、言った賊以外は彼女がそうするとわかっていた。
香鈴が泣き崩れる。
「泣かないで、香鈴。あたしにも譲れないものがある。そのために選ばなきゃならない事もある。」
香鈴は首を振って泣き止まない。
あやは困ったように笑って、怜晶が抱えていた鞘を受け取り、もう二度と見ることがないだろう、共に戦場を駆けてきた相棒を感慨深そうに見つめた。
美しい刀身は黒い鞘に消え、ぱちんという音と共にあやの姿を映さなくなった。
「よ、よーし、床に滑らせな」
簡単に要求を呑んだ女に戸惑いながら首領は指示を出す。
あやは素直に従い、花王は彼の手に収まった。
「本当にいい剣だな。銘は?」
頭は受け取った剣を試す返すして、感心したように呟いた。
これだけでもしかしたら邸が建つかもしれない程の業物だ。
「花王、桜。」
「ふん、変わった名だ。まあ、約束だ。ほら、よっと」
掛け声と共に香鈴が突き飛ばされあやは咄嗟によろけた香鈴に手を伸ばした。
「お頭!やめろ!!」
その後ろで花王を鞘から抜き放つ賊の姿が見える。
いつの間にか集まっていた邸の者たちが悲鳴を上げた。
ガキッ!
耳障りな金属音が響いた。
あやは片手に香鈴を抱え、片手に小さな奇妙な形の剣を持って花王を受け止めていた。
「忠相…」
本当によく知っている。
男の呟きに「忠相」と名付けた十手型の刃物を横に薙ぐ。
賊の手から花王が飛んだ。
「ちっ!」
賊は舌打ちをして花王を拾い上げる。
忠相は花王や景元ほど殺傷能力が高くない。
護身用で、どちらかというと、こうして相手の武器を受け止め、折る。
それが出来なければ今のように弾き飛ばすことに特化した武器。
花王は奪われ、景元は手の内にない。
やばいかな。
あやは少しだけ思う。
まあ、怪我の一つは覚悟しよう。
「やめろ!お頭!!」
「何言ってやがる!この女を殺せるんだぞ!」
「何でわからない!!」
男が渾身の力で怒鳴った。
怒りが男の中で渦巻いている。
「そいつは人間じゃない!!」
ぎょっとしたのは言われたあやもだった。
彼はあやを響彩と呼んだことがあった。
だから玄鳥天女の話も知っているのかもしれない。
天女と言われたことはある。
だが、男の言葉が例え天女のことを指していたとしても、どきりとする言葉だった。
本当に、時々自分は一体何者なのかと思うことがあるから。
「行こう、お頭。もう十分だろう?」
懇願するように言って男が先に邸を飛び出した。
ハッとしたように首領も後に続く。
いくらあやを殺したくとも一人では不利だと踏んだのだろう。
あやも邸の門まで走る。
男はともかく首領の方は出会い頭に人を切りかねない。
「…これは」
あやは表門で立ち尽くした。
街のあちこちから火の手が上がり、人が倒れていた。
今も所々で悲鳴が聞こえる。
賊が残虐の限りを尽くして行った結果だった。
しばらく見ていなかった光景が目の前に広がり、あやは無言で唇を噛んだ。
魏の都なのに。
曹操のお膝元でもまだこんなことが起きる。
あやは街から踵を返し、邸に戻る。
一人では対処できない事態だ。
「あやさ…」
「お湯を沸かして。足に自信がある者はありったけの医者を集めて!」
「あ、あや?」
「ここを一時的に救護場所にするわ」
「な、そんなこと!ここは夏侯惇様の!」
下働きの男が叫ぶ。
ここは魏の武将、夏侯惇の私邸。
一個の指示で開かれる謂れはない。
しかしあやは指示を止めなかった。
「布を集めて煮沸をして、手が空いたものは応援を呼んで。」
何も言わず、あやを見ていた怜晶が静かに一歩下がって、ゆっくりと膝をついた。
香鈴が少し寂しそうにあやを見て、それから同じように膝をつく。
最初から広場で事の成り行きを見守っていたものは次々とそれに倣った。
あやはそういう人だった。
それを表す言葉が見つからなかったが、膝をつく者を見て、あやを見て、皆がそれを理解した。
気付かずに共に、対等であるかのように過ごしていたけれど、とても楽しかったけれど、彼女は自分たちが膝をついて接するべき人だった。
ほんの少しの哀しさは、けれど膝をついて頭を垂れてみれば深い敬愛と憧憬に変わった。
逆らうことを許さない声は脊髄を駆けて体を支配する。
「怪我人を運び入れなさい。医者が着くまで出来るだけの処置を。」
やがて邸の者全てがあやに膝をついた。
「承りました、あや様」
頭を下げたまま持ち上げられた手は拱手の形を取り、自然発せられた声は誇りに満ちていた。
邸の者たちは了承すると直ぐに動き始め、怜晶は無駄が出ないように割り振りを決め指示を出す。
幾人かの男たちが外に駆け出し、女たちは怪我人を運び込む準備のため邸の中を動き回る。
邸の中は大丈夫だろうと判断しあやは街に飛び出す。
夏侯惇邸が開かれたことを街の人たちに伝えなければ。
「怪我人は夏侯惇邸に運び入れて!医者は邸に!手がある者は怪我人を運び、女性は邸で手伝いを!!」
「あやさん!」
「ご主人!無事だったのね。」
「あや姉!」
「ああ、君も。」
街に来ているうちに知り合った人々の顔に安堵の息が漏れる。
「賊どもがあちこちに火を点けていきやがった!」
「あや姉、僕どうしたら…」
あやは夏侯惇邸が怪我人に開かれたことを皆に伝えるように二人に指示し、自分は火の出ている場所を確認するため小高い丘に走った。
倒れている者に縋り、泣きじゃくる者。
おろおろと怪我人を見ている者。
火を見て嘆くばかりの者。
彼らが動けば救える者が沢山いる。
指示を与える者が必要だった。
拡声器が欲しい。
それから馬。
魏に来てから運動といえば街に出かけるくらいだったから息が切れる。
行く先々でも指示を出し、叫びながら久しぶりに全力疾走をすると直ぐに足にきた。
ぜえぜえと漏れる息を整えるために足を止め、流れる汗が目に入るのを拭うが、足元の地に広がる血痕があやを休ませない。
「だれか怪我してるの?!怪我人は夏侯惇邸に!」
はっと振り向き様、忠相を振るえたのは奇跡に近かった。
がきっという忠相特有の音と手ごたえが、相手の得物を受け止めたのだと教えてくれる。
賊だった。
馬を奪われたのか、撤収のタイミングをのがし、逃げ遅れたのだろう。
片手から血が滴っているのが見え、さっきの血の痕はこの男のものだったのだろうと推測がついた。
「落ち着いて。怪我をしているわ、手当てをさせて」
男は興奮しているようであやの言葉が耳に入っていない。
互いの荒い息だけが空間を支配していた。
「うがあああぁ!!」
獣のような声をあげ男が槍を突いてくる。
「しまっ!」
間一髪で避けて、槍は二の腕を掠めた。
忠相の短所はこれだった。
振るわれた得物を受け止めることは出来ても、突いてくる切っ先を払うことは懐刀程度の長さしかない忠相には難しい。
無理か。
自分も無事に、彼にも傷を付けずに終わるというのは。
あやが覚悟を決め、男がもう一度槍を突き出した時、あやにも男にも理解できないことが起きた。
槍が柄の半ばで折れた。
というより、その先端を見れば、刃物で切り落とされたような切り口だった。
その事を一瞬で見て取って、あやは反射的に後ろに飛び退る。
男は何が起きたのか理解できなかっただろう。
そしてそのまま死んだ。
唸りを上げて地に突き刺さった戟は賊の体を真っ二つに切り裂いていた。
あの位置ではあやがそのまま動かなければ共に死んでいただろう。
噴出した血が衣を濡らすのも構わず、その男はのっそりと武器を引き抜き、顔を上げた。
「ふん、生き残ったか」
あやは声が出なかった。
殺されそうになったことも結果助けられたことも、どうでも良かった。
今の一撃で助かったことが奇跡。
あたし、死ぬわ。
突然理解した。
何の前触れもなく、彼を見て、そう思った。
圧倒的な力というものがあるなら、それは彼の形であると、知った。
修正は語尾程度です。