Ⅶ~Captain~
バッシュで二度、床を叩いてから、僕はぼんやりとボールを受け取る。手首をくるっと巻くようにボールを操ってから、低い体勢でゆっくりと、ドリブルを始める。左右に開くように叩いて、目の前の相手に集中する。修吾は強い。それなりの覚悟が必要だ。息をついて、それから突っ込む。
修吾の伸ばした腕を交わすように右にターンして、右手に持ちかえる。上半身をひねって体の勢いを殺し、一瞬そこで止まる。急激なスピード変化に対応できず、修吾はわずかながら重心を崩す。一気に逆方向へとドライヴを仕掛けるが、修吾は紙一重で手を伸ばし、一瞬ボールに触れた。
「チッ」
思わず舌打ちする。強引に腕を振り抜いてどうにか持ち直すともう一度、今度は左にターンして、それからわずかに後ろに跳んでシュートを放った。修吾の伸ばした手をかいくぐり、ボールはきれいにバスケットに収まった。
着地でわずかによろめく。二、三歩よろめいてどうにか持ち直し、次の組にコートを譲る。
「ふぃーッ!やっぱ止まんねーっすよ。」椅子にどさっと座り込んだ修吾は、汗を拭いなら悔しそうに言った。「切り返しの速さが尋常じゃないですもん。先読みして動いてもどうにかやっとこですよ。」
「お前は振られやすいからな。相手のボールを奪おうとするから、フェイントに引っ掛かる。んで、無理やり身体をもっていくことになるんだよ。」僕はドリンクを飲みながら言った。「無理にスティールに行こうとすんな。要はシュートを決めさせなきゃいいんだからよ。とにかく撃ちづらい体勢で撃たせてからリバウンドを取った方が、効率がいい。」
「そういや、先輩のディフェンスって、ほとんどスティール無いですもんね。」
「スティール、疲れるしな。」
苦笑したとき、向こうのコートから監督の声がする。
「浜口!宮下の相手してやれ!」
監督の隣で、一年の宮下がボールを抱え、おどおどと突っ立っている。僕は肩をすくめると、タオルを置いて立ち上がった。
☪☪☪
クロスオーバーから一気に走りこみ、そこで一気にスピードを落としてから、フェイダウェイのジャンプシュート。バスケットにボールが収まったのを確認するころ、着地。左足から降りた瞬間にやっぱりバランスを崩し、僕は舌打ちをした。
長所であり、短所。
僕のスタイル。
重心を常にゆらゆらとさせ、動かしつづける。そうすることによってドリブルやシュートモーションに緩急をつけ、トリッキーな動きをすることが可能だ。けれどそれは、空中でも姿勢が安定しないという意味でもある。揺らいだジャンプからシュートした時、着地の折にわずかに体が傾いでいるため、うまく着地できることは少ない。着地でバランスを崩せば、次の動作への初動が遅れる。
ボールを拾い上げた時、バスケットコートの入口、金網にもたれて、ジャージ姿の女が立っていた。
「・・・綾音。」
「ボールちょうだい。」綾音はコートに入ってくると、両手を胸の前で広げてみせる。チェストパスで綾音に投げ渡すと、綾音は見事に受け取って、それから投げ返してきた。
「高広、一対一(1 on 1)、しよう。」
綾音の言葉に、僕は頷いた。綾音が髪を後ろで留めたのを確認して、僕は綾音に投げ返す。綾音はそれを受け取ると、高い位置のドリブルから一気に前のめりに突っ込み、ドライヴをかけてきた。
綾音の得意技はこのドライヴだ。一度、高く跳ね上がるボールを操り、そこから一気に体勢を低くして突っ込んでくる。そのときの体のキレが尋常じゃない。だが逆に、スリーポイントの確率が非常に悪く、そのため、中に入れさえしなければ、そう怖い相手でもない。
前の道を塞ぎ、そこでドライヴを止める。綾音は反転して、逆手にボールを弾き飛ばし、後ろ向きの体勢からさらに切り返す。鏡のように綾音の動きに合わせて体勢を切り替えると、綾音は顔をしかめて、その体勢のまま、片手でボールを飛ばしてきた。僕はそれをハエタタキで打ち落とす。
綾音はそのボールを拾うと、僕に乱暴に投げ返した。うまく捌いて持ち直すと、クロスオーバーでゆらゆらと身体を揺らしながら、ゆっくりとドリブルを始める。綾音が僕のディフェンスのために体勢を低くした時、僕はゆっくりと右に重心をかけた。綾音がわずかにその方向へ体を傾けた瞬間、僕は一気に速度を上げ、逆方向へドライヴを仕掛けていく。次の瞬間、綾音がターンして後ろ手で指先を伸ばしてきた。わずかにそれがボールに触れ、僕の手から離れて転がった。
「・・・やっぱ伊達でキャプテンにはなれねーよな。」
「あったり前でしょ?」僕の呟きに、綾音は真剣な顔でボールを拾い上げた。もう一度パスされたボールを投げ返すと、綾音はいつも通りの高いドリブルで少し間を取り、それからいつも通りに突っ込んでくる。重心を揺らし始めた瞬間、ところが綾音は急停止し、スリーポイントラインの外から、なんときちんとしたジャンプシュートを放ってきた。
「えっ?」
困惑と、何よりまだ距離が一メートル近くあったことでガードもできず、ジャンプして伸ばした指先はボールを掠めもしない。シュートは美しい放物線を描き、リングに当たることもなくすっとゴールネットを揺らした。
ややバランスを崩した身体を立て直すと、僕は綾音を振り返る。
「お前・・・外から打てんの?」
「ちょっとね。」
綾音が右手をプラプラと振ったその瞬間、突然視界が紅くなった。綾音が空を振り返り、言葉を失い呆然としている。
夕陽が半分ほど地平線に顔を隠し、その光が空を赤銅色に染め上げていた。
夕暮れに呑みこまれていく。
奇妙な感覚。
綾音はコートにどさっと座り込むと、そのまま大の字で寝転んだ。僕も同じように、彼女の隣に寝転ぶ。
ぼんやりと、しばらく空を眺めたあとで、綾音はボソッと言った。
「あたし、キャプテンの自信、ないよ。」
「俺だってねぇよ。」
僕が言うと、綾音はそうじゃない、というように首を振った。
「あたしだって、今までと同じチームなら、自信・・・はまあ、ないかもしれないけど、今よりはもっとまともでいられたわよ。」
僕は少しだけ首を持ち上げて綾音を見た。綾音の目はどこか虚ろで、ぼんやりと空を見ている。
「何かあったのか?」
僕が尋ねると、綾音は小さく頷き、言った。
「遙が膝壊して、チーム抜けたの。」
「大野が!?」
思わず体を起こしていた。綾音は相変わらず茫洋といった感じでぼんやり空を眺めている。
「お前・・・だからスリーを?」
僕の言葉に、綾音は頷いた。
女子バスケ部、大野遙。学級委員であり、勇の彼女であり、なおかつ、ポイントガード、シューターとしてうちの高校のバスケ部を綾音とともに引っ張ってきた俊才だ。綾音が中から切り込んで、外からは大野が打ち込む。それが、今年の女子バスケ部大躍進の、大きな歯車のひとつだった。
その大野遙を失ったことは、文字通り右腕を失ったに等しい。そのバスケ部を引っ張っていくためには、外のシューターが必要だったのだ。
「けど、茜も聖美も、ポイントガードとしての技量もまだまだなのに、スリーの練習なんて間違いなくできっこないし。」
「だからって、今からスリー練習したところで、大野ほどには決めきれないだろ?」
「そりゃ分かってるけど・・・」
綾音は眉根に皺を寄せた。僕は身体を起こして座りなおし、まだ寝転んだままの綾音を見下ろす。
「だからお前がキャプテンなんだよ。お前には実力があるし、それにカリスマ性もある。それに努力家で、責任感が強い。だけどな。」
綾音は僕の顔を見る。瞳が夕陽に少し煌いて、わずかにドキッとする。僕はけれど、動揺を隠しながら言った。
「全部背負い込んで、自分の力だけで何とかしようとするのは違うぜ?萩野だって嘉村だって、必死に練習してんじゃねーか。特に今の萩野は、ゲームメーカーとして力をつけてきてる。」
綾音はじっと僕を見つめたままだ。僕は彼女の傍らにしゃがみこんで、瞳を覗き込むようにして言った。
「チームメイトを信じろ。んで自分を信じろ。大野がいないのに、大野がいたときと同じスタイルじゃダメだ。だったら、萩野と二人で、新しいスタイルを作っていくしかないだろ。そりゃ、すぐにはできないかもしれない。時間はかかるかもしれないけど、お前ならできるだろ。」
ふいに綾音が僕に飛びついてきて、僕はバランスを崩しかけた。
「お、おい・・・」
「ありがと、高広。」綾音が耳元で囁く。「やっぱあたし、アンタのこと好きよ。」
呆然とする僕を尻目に綾音は身体を離すと、ゆっくりと立ち上がった。ゆったりと歩いていくと、金網の側でじっとしていたボールを拾い上げ、振り返る。
「さ、アンタの番よ!それとも、しないままであたしの勝ちにする?」
僕は思わずクスリと微笑んで、それから立ち上がった。
「んなことさせるかよ!ボール貸せ!ぶち抜いてやっから。」
綾音の投げたボールを受け取ると、高くドリブルする。
夕焼け、橙に染まったコート。僕らは、日が落ちるまで戦いつづけた。
☪☪☪
体育館の熱気は最高潮だった。男子部員の大声を聞きながら、三年生のレギュラー陣は前のほうの席で悠然と座っている。コートでは、もう第四クォーターの半分が過ぎて、二点差と四点差を繰り返して追いかける、苦しい展開が続いていた。
「・・・やっぱ大野いないと、外が苦しいな。」フォワードの昇平が呟く。「南も萩野も頑張ってるけど、向こうのセンターが高い分、リバウンドが圧倒的に不利だ。あれじゃあ南は、そう簡単には撃てねぇ。」
速攻で点を取りに来る相手のペースに巻きこまれて、ゲームは点取り合戦の様相を呈している。取りこぼせば、流れを持っていかれる。自分達のスタイルをまだ確立できていないチームにとって、相手のペースに巻き込まれるのは一番辛い。荻野も、まだ流れを断ち切らないようにするので精一杯だ。
「残り一分・・・」
修吾が小さくつぶやいた。
綾音のスリーが、今回は決まり、一点差になる。すぐに相手の速攻が始まり、陣内にボールが入ってくる。ボール回しが並ひととおりでなく早い。綾音のマークは相手のセンターで、綾音よりひとまわりも大きい。綾音をかわして中に入った瞬間、ボールを受け取り飛び上がる。刹那、綾音は吹き飛ばされ、ホイッスルが鳴った。ファウルだ。
残り、六秒。
と、交代を告げるブザーが鳴り響き、綾音が驚いて振り返る。コートの端にいる人物を見て、男子部員がどよめいた。
「大野・・・?」
「脚悪くしたとか言ってたじゃん。」
そこに立っているのは、大野遙だった。間宮とハイタッチをかわすと、少し足を気にするような仕草をしてからコートに歩いて入っていく。綾音が近付き、驚いたような顔で何か言う。大野が笑いながら何か呟くと、綾音は少しつらそうな顔をして、それからぐっと眉根を引き締めた。拳をぶつけあって、それから綾音はゴールラインまで退く。
ホイッスル。
ボールを受け取ると、右サイドからドリブルでコートを疾走する。マーカーの相手センターを、わずかに大野が邪魔する。だが彼女は一瞬でそれを振り切り、ラインからドリブルで入ろうとした綾音の前に立ちふさがった。
次の瞬間、綾音の手からボールが消え、スリーポイントライン外、中央のあたりにいる大野の手にボールが渡った。しっかりと両手で受け取った彼女は、そして、そこからシュートモーションに入る。
「決めろ!!!」
修吾が叫んだ瞬間、大野の手からボールが放たれ、ブザービートが鳴り響く。
かなり大きな傾きの放物線を描いたボールは、その頂点からゆっくりと降下し、リングに触れることなく通り抜け、ネットを揺らした。
「ブ、ブザービーター・・・」
修吾が呟き、会場のボルテージは最高潮まで上がっていく。
誰も、気が付かないのだろうか。
綾音は歩いて近付いていくと、シュートを放ったその場で倒れこんだままの大野に手を差し出した。大野はその手を借りて起き上がる。綾音の肩を借り、大野と綾音は二人、双生児のようにコート内を歩いていた。
☪☪☪
「多分ここだろうと思った。」
夜の公園の中、妙に明るいストリートコート。綾音はフリースローレーンに立ち尽くして、じっとコートを見つめていた。
フェンスを開いて、足元に落ちたボールをフリースローレーンに投げる。綾音は両手で受け取ると、しっかりしたフォームでシュートを撃つ。リングで跳ね上がったボールは、けれどバスケットに収まることなく、地に虚しく跳ねた。それを拾い上げると、それを適当に撞きながら僕は彼女の方へ歩いていく。
「なんて顔してんだよ。優勝校のキャプテンとは思えねぇな。」
綾音の表情は悲しそうだった。ボールを投げ渡すと、彼女はまたシュートを放つ。放たれたボールは今度はネットをゆらしたが、綾音は取りに行こうとはしなかった。
「知らなかったんだな、お前。」
綾音は立ち尽くしていた。コートを照らす蛍光灯の灯りだけが、妙に浮かんで見える。
「勝つためには、持てるものすべて尽くさなきゃならないのは分かってる。」綾音はやがて、絞り出すように呟いた。「だけど、誰かのこれから先のキャリアを奪ってまで成すことなんて、何の意味があるんだろう。」
ぐっと唇をかみしめたまま、綾音は立ち尽くしていた。夜のコートを照らす大きな照明だけが、妙に視線を照らす。
ゴールの下に転がるボールを拾い上げると、僕はそっと綾音に首を向ける。
「それだけ、大野にとってこの試合が大事だったってことだろ。」
分かってるわよ、とでもいうように、僕を睨みつける。けれど僕は意に介さず、ボールをバウンドさせて渡した。
「最後の大会、決勝、全国への切符。それを手に入れることが、あいつの最後の使命だって思ったんだろ。」
「だけど、それは認めるべきじゃなかった。」綾音はボールを握りしめながら言った。僕はけれど、首を振る。
「仮にお前が同じ状況なら、出るだろ。」
「でないわよ。」
「嘘だな。」綾音の反論を僕はバッサリと切り捨てる。「どんなにひどいけがでも、走れないほどひどいけがじゃない限りは出るはずだ。」
突然綾音が振りかぶって、バスケットボールを投げつける。左手で軽くいなすと、ボールはあさっての方向にポーンポーンと跳ねていった。
照明のじりじりという音の中で、ボールの跳ねる音が少しずつ弱まっていく。立ち尽くす綾音から視線を離すと、新月の星空はきらきらと宝石を散らしたように輝いていた。
勝つ。ふいに綾音が呟く。僕は少し驚いて振り返った。
「え?」
「勝つ。遥の分まで。」
ふり返って目があった綾音の瞳は、さっきまでの弱気なそれではなかった。
僕は頷くと、フェンスで跳ね返って止まったボールを拾い上げ、再び綾音に投げ渡した。先ほどより少しだけ下がった場所、スリーポイントラインの外で受け取ったそれを、綾音はためらうことなくシュートした。
ボールは全くリングに触れることなく、シュッと音を立ててネットを潜り抜けた。