表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸福  作者: 柊悠(月隈朱莉)
8/9

Ⅵ・No Lily’s Room


☪☪☪


 やがて来るとは分かっていた。

けれど僕はそれを、どこか遠くから見ていたのだろう。

 現実を受け容れたくなくて。

 目の前の光を、絶やしたくなくて。

 そうして、いつしか僕は、振り返ることすら出来なくなった。

一瞬の幸福が絶望に変わる、その瞬間を、目にしたくなくて。

 満ち足りた幸せは、いつのまにか僕のすぐそばをすり抜けていく。

そのことを、僕はよく知っているのだ。


☪☪☪


 慣れないスーツを着たまま、慣れた道を歩いていくのは不思議だった。

 駅のほうへ五分ほど歩くと、外壁が汚れ、白というよりは灰色になった建物が見えてくる。友里の住んでいたアパートだ。古びた階段を上がっていくと、スニーカーは錆びた階段に軋るような音を響かせる。奥から二番めの扉の前で立ち止まると、合鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。捻ってみて、首をかしげる。開いている。

 僕は鍵を引き抜き、ドアを引いた。玄関を見て、溜息をつく。友里の靴とともに、見覚えのある黒いハイヒールが、きちんとつま先をそろえて置かれていた。

 やっぱり。

靴を脱いで、リビングのドアを開ける。

窓から入り込む月明かりの下で、ソファーに横向きに座り、馨は出窓から月を見上げていた。喪服を着たままで、髪は解き放ったまま、整えた形跡もない。

「出るぞ。」僕は彼女に声をかけた。「そろそろ出ないと、間に合わなくなる。」

「・・・行きたくない。」

「分かってる。」

 僕が言うと、馨は虚ろな瞳をゆっくりと伏せた。彼女は、彼女なりに苦しんでいる。それは間違いの無いことで、しかも僕の苦しみとは違うものだ。それは分かっている。

 悔恨。

 ないしは、責任感。

 ただ一人、自分だけが彼女を救いえたことが、彼女の心を占めている。それに気付けなかった自分を、心から悔いている。

 泣き疲れ、逃れる術も知らぬまま、僕らはこの場所で、いつか見た月を見上げる。花瓶に実った白百合の蕾は、友里の活けたものだ。

 友里が死んで、僕と馨は以前よりもセックスをする回数が増えた。ついこの間まで、三人で抱き合っていたはずのベッドで、二人きりで欲望をぶつけ合う。

 それは、慰め。寂しさ。

 あるいは、補完。

 そうして、けれど、探している色の欠片は、どこにも見当たらない。ただ繋がる欲望の連鎖を、半ば惰性的に、空間を埋めるように繰り返しているだけだ。

 友里との思い出が、ここにはあまりに溢れすぎている。

 残された者の悲しみ、苦しみ。それは、後悔と呼ばれるもの。まるで鏡のように、それは友里の心を映している。

 穏やかに立ち上がると、僕は部屋の中央に座っているグランドピアノの蓋を開き、椅子に座って、ゆっくりと鍵盤を押した。ルードヴィヒ=V=ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ『月光』、第一楽章。

「・・・ぴったりね。」

 馨がつぶやいた。

 高く、高く昇る月。雲に隠れることもなく、それはいつまでも輝いている。そう、ただ晧々と。


☪☪☪


 斎場は、奇妙なほどひっそりとしていた。友人の少ない友里の葬儀は、高校時代の同級生達が多く参列している。響き渡るお坊さんの声は、無機質なのにどこか芯があって、人の少ない式場を包み込んでいた。

 やがて焼香が始まり、僕も馨も列に並んで、作法どおりに焼香を行った。一礼、一礼、三度ほど額の前にかざし、一礼、下がって一礼、そして列から抜け出す。

 空席の遺族席。

 そこに座るべき人々は、そこに望んでゆくことはない。そして僕は、それを一番よく知っていた。

 祭壇で微笑む彼女の表情、その瞳は、僕の知っている彼女とはどこか違う光を放っている。

 母親に棄てられ、父親の性的虐待から逃れて、僕を頼った。彼女が縋ることが出来たのは、僕と馨だけだった。そばにあった僕らに、服の裾にすがるようにして助けを求めてきた。

 僕はそして、彼女のその思いを裏切らないと誓った。

 誓ったのに。

 どうして、なにもぼくにいわずにいってしまった?

 どうして、ぼくはなにもきづくことができなかった?

 疑問はまるで泡沫のように、浮かんでは消え、そしてまた現れる。そうしてあの夜から繰り返される連鎖は、けれど決して切れることはない。

 参列者の列から離れ、僕は式場を出る。ロビーの喫煙コーナーにあるソファに座り、煙草をくわえて火をつけた。

「ヤマト先輩。」

 ふいに聞き覚えのある声がして振り返る。紫煙の向こう側、顔をしかめて眉根を寄せた浩二の姿があった。ブレザーの詰襟をつめ、妙に窮屈そうな姿で立っている。

「来てたのか。」

「大丈夫ですか?」浩二は煙たそうに手を払いながら尋ねる。「煙草吸ってる先輩なんて、久方ぶりに見ましたよ?」

「まあ、な。」僕は曖昧に肩をすくめて、煙を肺に吸い込んだ。僕の隣に座った浩二は、背もたれにもたれかかるように背伸びをしてから、僕を見上げる。

「心臓の病気とかでしたよね、確か。」

 すぐに、友里のことを言っていると分かった。

「ああ。」

「・・・なんか、」浩二は妙に泳いだ視線で首を捻っている。「変な感じです。昨日まで同じ空間にいたヤツが、今日はもういないんですから。」

「・・・まあ、そうだな。」

 僕は煙を吐き出しながら頷く。虚偽の肯定のため、あるいは、嘘の継続のため。僕と馨以外の誰も、真実は知らないままで構わない。そうでなくてはいけない。

「だけど、誰かが死ぬって、そういうことなんでしょうね。」

浩二はぼんやりと天井を見つめながら、分かったように言う。

「多分、俺、親父が死んでも美咲さんが死んでも、こういう感じを味わうと思うんです。自分がここにいて、誰かがいなくなって、だけど世界は回っていくって、そういう感覚。そうやって何日も過ぎていって、ふとした瞬間に、いないことを意識する。そこでやっと哀しくなって、悲しむことができる。」

「いやでも、その感覚、ちょっと分かる。」僕は浩二の話に相槌を打ちながら、煙を吐いた。

 いないことを意識する。それは、その人がいないという「真実」に向き合わなければ出来ないことだ。

 友里のいない部屋。

 白百合の蕾。

 馨の涙。

 百合の花が咲かない部屋。

 そうして積み重ねられてきた世界のズレが、彼女のいない世界を強烈に意識させる。

 ふいに熱くなった目の奥をごまかすために、僕は灰皿に煙草を押し付けた。中の水に落ちていった灰は、ジュッと音を立て、細い煙を立ち上らせた。


☪☪☪


 百合を火葬場へと送る霊柩車には、僕と馨だけが同乗した。親族と呼ぶべき人は誰も来なかった。それは彼女自身も予想していたことで、だからこそ僕は少し、悲しくなった。

 静まり返った後部座席、並んで座る僕ら二人。

車は緩やかな坂道を、緩やかに震えながら上っていく。運転している男性は、ロボットのようにじっと、しっかりとハンドルを握っている。

(やまと)・・・」

 声に振りむく。馨は背もたれに体を預け、昨日と変わらぬ虚ろな目のままだ。

「なに?」

 僕の問いに、しかし彼女はただ黙ったまま、答えることもない。ただ、僕の手をそっと握り、震えるように頷く。ただ、それだけだった。

予測をしていたことは、えてしてそこに起こる。

だからこそ、何も言わずにただ寄り添う。

 彼女の死ぬまさにその姿は、僕らの中にいまだに残っている。

 死ぬ間際、僕らに彼女が遺した言葉は、僕らを彼女のもとへと縛り付けてしまった、けれどそれは決して問題ではなかった、むしろここにその言葉がなければ、僕たちは先へ進むことはできなかった。

 霊柩車は、田園の中を抜け、煉瓦造りの大きな建物へと向かっている。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ