Ⅵ・No Lily’s Room
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やがて来るとは分かっていた。
けれど僕はそれを、どこか遠くから見ていたのだろう。
現実を受け容れたくなくて。
目の前の光を、絶やしたくなくて。
そうして、いつしか僕は、振り返ることすら出来なくなった。
一瞬の幸福が絶望に変わる、その瞬間を、目にしたくなくて。
満ち足りた幸せは、いつのまにか僕のすぐそばをすり抜けていく。
そのことを、僕はよく知っているのだ。
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慣れないスーツを着たまま、慣れた道を歩いていくのは不思議だった。
駅のほうへ五分ほど歩くと、外壁が汚れ、白というよりは灰色になった建物が見えてくる。友里の住んでいたアパートだ。古びた階段を上がっていくと、スニーカーは錆びた階段に軋るような音を響かせる。奥から二番めの扉の前で立ち止まると、合鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。捻ってみて、首をかしげる。開いている。
僕は鍵を引き抜き、ドアを引いた。玄関を見て、溜息をつく。友里の靴とともに、見覚えのある黒いハイヒールが、きちんとつま先をそろえて置かれていた。
やっぱり。
靴を脱いで、リビングのドアを開ける。
窓から入り込む月明かりの下で、ソファーに横向きに座り、馨は出窓から月を見上げていた。喪服を着たままで、髪は解き放ったまま、整えた形跡もない。
「出るぞ。」僕は彼女に声をかけた。「そろそろ出ないと、間に合わなくなる。」
「・・・行きたくない。」
「分かってる。」
僕が言うと、馨は虚ろな瞳をゆっくりと伏せた。彼女は、彼女なりに苦しんでいる。それは間違いの無いことで、しかも僕の苦しみとは違うものだ。それは分かっている。
悔恨。
ないしは、責任感。
ただ一人、自分だけが彼女を救いえたことが、彼女の心を占めている。それに気付けなかった自分を、心から悔いている。
泣き疲れ、逃れる術も知らぬまま、僕らはこの場所で、いつか見た月を見上げる。花瓶に実った白百合の蕾は、友里の活けたものだ。
友里が死んで、僕と馨は以前よりもセックスをする回数が増えた。ついこの間まで、三人で抱き合っていたはずのベッドで、二人きりで欲望をぶつけ合う。
それは、慰め。寂しさ。
あるいは、補完。
そうして、けれど、探している色の欠片は、どこにも見当たらない。ただ繋がる欲望の連鎖を、半ば惰性的に、空間を埋めるように繰り返しているだけだ。
友里との思い出が、ここにはあまりに溢れすぎている。
残された者の悲しみ、苦しみ。それは、後悔と呼ばれるもの。まるで鏡のように、それは友里の心を映している。
穏やかに立ち上がると、僕は部屋の中央に座っているグランドピアノの蓋を開き、椅子に座って、ゆっくりと鍵盤を押した。ルードヴィヒ=V=ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ『月光』、第一楽章。
「・・・ぴったりね。」
馨がつぶやいた。
高く、高く昇る月。雲に隠れることもなく、それはいつまでも輝いている。そう、ただ晧々と。
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斎場は、奇妙なほどひっそりとしていた。友人の少ない友里の葬儀は、高校時代の同級生達が多く参列している。響き渡るお坊さんの声は、無機質なのにどこか芯があって、人の少ない式場を包み込んでいた。
やがて焼香が始まり、僕も馨も列に並んで、作法どおりに焼香を行った。一礼、一礼、三度ほど額の前にかざし、一礼、下がって一礼、そして列から抜け出す。
空席の遺族席。
そこに座るべき人々は、そこに望んでゆくことはない。そして僕は、それを一番よく知っていた。
祭壇で微笑む彼女の表情、その瞳は、僕の知っている彼女とはどこか違う光を放っている。
母親に棄てられ、父親の性的虐待から逃れて、僕を頼った。彼女が縋ることが出来たのは、僕と馨だけだった。そばにあった僕らに、服の裾にすがるようにして助けを求めてきた。
僕はそして、彼女のその思いを裏切らないと誓った。
誓ったのに。
どうして、なにもぼくにいわずにいってしまった?
どうして、ぼくはなにもきづくことができなかった?
疑問はまるで泡沫のように、浮かんでは消え、そしてまた現れる。そうしてあの夜から繰り返される連鎖は、けれど決して切れることはない。
参列者の列から離れ、僕は式場を出る。ロビーの喫煙コーナーにあるソファに座り、煙草をくわえて火をつけた。
「ヤマト先輩。」
ふいに聞き覚えのある声がして振り返る。紫煙の向こう側、顔をしかめて眉根を寄せた浩二の姿があった。ブレザーの詰襟をつめ、妙に窮屈そうな姿で立っている。
「来てたのか。」
「大丈夫ですか?」浩二は煙たそうに手を払いながら尋ねる。「煙草吸ってる先輩なんて、久方ぶりに見ましたよ?」
「まあ、な。」僕は曖昧に肩をすくめて、煙を肺に吸い込んだ。僕の隣に座った浩二は、背もたれにもたれかかるように背伸びをしてから、僕を見上げる。
「心臓の病気とかでしたよね、確か。」
すぐに、友里のことを言っていると分かった。
「ああ。」
「・・・なんか、」浩二は妙に泳いだ視線で首を捻っている。「変な感じです。昨日まで同じ空間にいたヤツが、今日はもういないんですから。」
「・・・まあ、そうだな。」
僕は煙を吐き出しながら頷く。虚偽の肯定のため、あるいは、嘘の継続のため。僕と馨以外の誰も、真実は知らないままで構わない。そうでなくてはいけない。
「だけど、誰かが死ぬって、そういうことなんでしょうね。」
浩二はぼんやりと天井を見つめながら、分かったように言う。
「多分、俺、親父が死んでも美咲さんが死んでも、こういう感じを味わうと思うんです。自分がここにいて、誰かがいなくなって、だけど世界は回っていくって、そういう感覚。そうやって何日も過ぎていって、ふとした瞬間に、いないことを意識する。そこでやっと哀しくなって、悲しむことができる。」
「いやでも、その感覚、ちょっと分かる。」僕は浩二の話に相槌を打ちながら、煙を吐いた。
いないことを意識する。それは、その人がいないという「真実」に向き合わなければ出来ないことだ。
友里のいない部屋。
白百合の蕾。
馨の涙。
百合の花が咲かない部屋。
そうして積み重ねられてきた世界のズレが、彼女のいない世界を強烈に意識させる。
ふいに熱くなった目の奥をごまかすために、僕は灰皿に煙草を押し付けた。中の水に落ちていった灰は、ジュッと音を立て、細い煙を立ち上らせた。
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百合を火葬場へと送る霊柩車には、僕と馨だけが同乗した。親族と呼ぶべき人は誰も来なかった。それは彼女自身も予想していたことで、だからこそ僕は少し、悲しくなった。
静まり返った後部座席、並んで座る僕ら二人。
車は緩やかな坂道を、緩やかに震えながら上っていく。運転している男性は、ロボットのようにじっと、しっかりとハンドルを握っている。
「倭・・・」
声に振りむく。馨は背もたれに体を預け、昨日と変わらぬ虚ろな目のままだ。
「なに?」
僕の問いに、しかし彼女はただ黙ったまま、答えることもない。ただ、僕の手をそっと握り、震えるように頷く。ただ、それだけだった。
予測をしていたことは、えてしてそこに起こる。
だからこそ、何も言わずにただ寄り添う。
彼女の死ぬまさにその姿は、僕らの中にいまだに残っている。
死ぬ間際、僕らに彼女が遺した言葉は、僕らを彼女のもとへと縛り付けてしまった、けれどそれは決して問題ではなかった、むしろここにその言葉がなければ、僕たちは先へ進むことはできなかった。
霊柩車は、田園の中を抜け、煉瓦造りの大きな建物へと向かっている。