Ⅴ・The tale of a Ring-second~The man was smiling for me, whenever~
暗い体育館。校長の読み上げる弔辞の音が、朝の冷えた空気を刺激する。靴下の裏から伝わる、床の冷たさ。それが、この現実と私を繋ぎとめる。
星村先生の学校葬。彼が死んでから、もうすでに一週間が過ぎていた。
窓際に並んだ先生方も、全員が喪服を着ている。女の先生は、何人かが時折目にハンカチを押し当てていた。彼は先生たちの間でもかなり人気があったらしい。整った顔立ち、40を少し過ぎたくらいで、独身。そんな人が、騒がれないはずが無い。
死因は、ガンだった。
彼の肺に住みついたガンが、彼の体のすべてを蝕んでいた。小康状態になった最後の時に、彼は学校へやってきて、すべての後片付けをしていたという。
それが、あの日だった。
どうしてあの時、もう一度彼のもとへと向かわなかったのか。日が過ぎれば過ぎるほどに、後悔は大きさを増してゆく。
渡り廊下の上、振り返ったとき、けれど私は第三棟へ引き返す事無く、そのまま歩き出し、部活へと向かっていったのだ。
『失礼しました。』
『うん、それじゃあ。さよなら。』
それが、私が彼と交わした、最後の言葉。
教師と生徒としての、あまりに儀礼的な言葉。
生徒会長が代表して焼香し、戻る。慣例的な動き。
ステージに設置された花台の上、彼の遺影がある。見慣れた、わずかに柔らかく微笑んだ表情。今にも話し掛けてくれそうなほど、美しく、悲しい。
もっともっと、声を聞いていたかった。
もっともっと、彼と話していたかった。
不思議なことに、けれど涙は出なかった。
☪☪☪
「津村。」
全校集会ののち放課となってざわめく体育館の中、静かな声が私を呼んだ。私は振り返る。向こうの方で、少しだけ太った男性教諭が私に向かって手を挙げていた。
「郁。どうかした?」
綾音が私を振り返る。
「ちょっと、及川が呼んでる。先に戻ってて。」
「分かった。」
手を振って綾音と別れると、私は人の流れに逆流して及川先生のところへと歩いていく。
コーラス部の顧問で現代社会の教諭でもある先生は、私が前に立つとその禿げ上がった頭をつるりと撫でた。
「すまんな。」
「何ですか?正直、今日は早く帰りたいので・・・」
「分かってる、分かってる。えっと、確かここに・・・」先生は懐に手を突っ込んで、内ポケットをごそごそと探った。しばらくごそごそとやってから、あった、と、茶封筒を取り出して私に差し出す。
どきん、と、心臓が波打つ。
万年筆だろうか、青いインクの、見覚えのある筆跡で、「津村 郁様」と書かれていた。
「隆作から、自分が死んだらお前に渡してくれと頼まれてたんだが、ここ一週間出張で渡せなかったんだ。すまんな。」
「・・・じゃあ、やっぱり星村先生は、」私は呟くように言った。心ならずも、声が震えている。「彼は、やっぱり、自分のご病気のこと、ちゃんと知ってあったんですね。」
先生はけれど何も言わずに首を振って、ただ私の手を取り、封筒を握らせた。
「それは俺が言うべきことじゃない。ただ俺は、それを君に渡すように頼まれただけだしな。」
それじゃあ、気をつけて帰れよ。そう言って先生は踵を返す。
「及川先生。」
私は先生の背中に呼びかけた。先生が振り返る。
「何?」
「ひとつだけ・・・」私は封筒を右手に持ったまま問い掛ける。「先生と星村先生って、どういう関係だったんですか?」
「どういう関係って・・・」先生は一瞬奇妙な表情をして、それから何か理解したように微笑んだ。「隆作は、教員養成所のころからの付き合いだよ。ライバルといってもよかった。教員になったのは俺が一年早かったがな。」
「悲しくないんですか?」
気がつくと、私は挑戦的な口調で、そう言っていた。先生が驚いた顔をする。
「どうした?」
「そんな親友が死んで、悲しくないんですか?」
そのとき、いつもは柔和な先生の瞳が、一瞬だけぎらりと強く光ったような気がして、私はたじろいだ。
「・・・まあ、悲しくないわけは無いな。」
及川先生はそれだけ言うと、寂しそうに背中を丸めて歩き出した。その背中は、いつも堂々とした先生からは想像もつかないほど、ひっそりとした寂寥感があふれていた。
先生にとって、彼は、大切な一部だった。
それは私にとっても同じで。
けれど、彼がいなくなっても、世界は昨日までと同じように回りつづける。
心にぽっかりと開いた孔。そこから吹き込んでくる風は、あまりにも冷たくて、強すぎて。
チャイムの音に、ふと我に帰る。右手に持った封筒をポケットに突っ込んで、それから私は歩き出した。
☪☪☪
どさっとベッドに飛び乗る。変えたばかりの真新しいシーツは、すべらかで柔らかい。ただ仰向けに横になったまま、ぼんやりと天井を見つめる。
梅雨までなら、この時間は。
人は、失ってから初めて、失ったものの大切さに気がつく。そこにあるときには、あまりに普遍的で、日常的で、いつでも手の届くところにある気がする。けれど本当はそんなことはなくて。
今ここにある日常も、壊れてしまえば、感嘆になくなってしまうのだ。
もう、彼はいない。
そっと起き上がって、ベッド脇のテーブルから封筒を手に取り、またどさりと頭を落とす。
私の名前。
彼の筆跡。
封筒の口を開き、そっと中身を取り出す。何枚家の便箋と一緒に、何かがころりと転がり落ちた。慌てて身を起こし、落ちたものを拾い上げる。
指輪。
授業でも、私と2人きりの時も、右手の薬指につけていた、あの指輪。
心の中、あの時感じたクエスチョンマークが再び現れる。
ナンデコレヲ。
指輪をサイドテーブルに置くと、私は便箋を拾い上げた。六枚。多いのか、少ないのか。
私はそっと便箋を開いた。青いインクで書かれた、几帳面な万年筆の文字。手紙の便箋というより、なんだかレポートみたいだ。一瞬だけクスッと微笑んで、私はそれを、目で追っていった。
***
『津村へ。
こういう形でしか、自分の言葉を君へ残すことが出来ない僕を、どうか許して欲しい。
今僕は、県立病院で治療を受けている。こうして色々と考えていられるの も、時間的には、あと少ししか残っていないと思うから。君へ伝えたいことがあって、けれどそれを言葉にするのに、少し時間がかかりすぎてしまったことも、君には謝らなければいけない。すべてを記して、この手紙を書き終えたなら、雪(及川先生の名前だよ。知ってたかい?)に預けるつもりだ。
そう、この封筒に、指輪を同封しておくよ。
君には言ったことがあると思う。その指輪は、僕にとってとても大切なものだ、と。けれど、「どうしてですか?」という君の問いに、僕は答えることができなかった。その質問に答えてしまえば、もしかしたら君は、僕に会いに来ることを止めてしまうかもしれないと、そう思ったんだ。
だけど、今こんな風に病院のベッドで手紙を書いたりしていると、そんなことは意味がなかったように思える。君にすべてを伝えて、そして消えても、君なら受け容れてくれる気がする。
だから、僕はここで、僕のすべてを君に告白しようと思う。僕の、そしてこの指輪についての物語を。
二十歳のころ、僕は県の最南端にあたる学校にいて、講師として働いていた。そのころ、いっしょに講師として働いていた新人の女性がいてね。同じ講師ということで、お互いを励みにして頑張っていた。真面目な人だったけれど、何度か一緒に食事をしたりしているうちに打ち解けてきて、やがて付き合うようになった。その次の年、彼女が教員試験に合格して正規の教員になってからも、ずっと同じようにね。そしてさらにその一年後、僕もまた教員試験に合格して、それを機に彼女にプロポーズした。彼女も承諾してくれた。そして彼女の父親の承諾も得て、結婚式を挙げたのは、付き合い始めてからちょうど二年後、二十二歳の時だった。
僕の真実の入り口だ。僕は結婚していたんだよ。
僕らは共働きで、彼女も僕も、教員としては異色のほうだったけれど、徐々に その方法も認められ始めていて、未来には何の障害も無いように見えていた。
けれど、そううまくは行かなかった。
結婚した次の年、彼女の身体に異変が起こった。時折胸が苦しいと訴え、胸を 押さえて喘息のような症状を起こす。酷いときには、気を失うことさえあった。僕は彼女に病院へ行くことを勧めたけれど、彼女はどうしてもうんといわなかった。というのも、彼女は病院というものに不信感を持っていたんだ。彼女の母親は内臓器系の病気で入院していたのだけれど、術後の経過が悪く、その感染症のせいで亡くなってしまった。彼女はそういう事があって、極端に病院というものを嫌っていた。けれど、症状は日を追うごとにひどくなる。ついには仕事にまで支障をきたすようになったから、僕は彼女を説き伏せ、半ば強引に病院へ連れて行った。
精密検査をし、三日間の入院のあと、僕と彼女は病室へ呼ばれ、医師の説明を受けた。
心臓病だった。
君は生物選択だから知っていると思うけれど、普通心臓には、心室から心房にかけて、血の逆流を防ぐ弁がついている。彼女の心臓は、左側の心室と心房の間にあるはずの弁が無かった。それだけならまだいい。人工弁をつければいいのだから。けれど彼女の場合、それすら叶わなかった。心臓そのものが弱くて、手術に耐え切れる保証が無かったんだ。
医師は、沈痛な顔で、根治の手段としては移植しかないと思います、と言った。
彼女は泣いた。だから医者なんていやなのだと、呪いのように叫んでいた。けれど僕は彼女を説得して、移植心臓を待っていようと、そう言ったんだ。海外、あるいは国内で、君の遺伝子と合う心臓が、一つか二つくらいあるはずだ。それを信じよう。そう言うと彼女は、僕を信じて待つ、といったんだ。
そのときに、僕は彼女と約束した。心臓が治ったら、2人ぶんの、おそろいの指輪を買おうって。きっと治るから、そのときには、ペアでその指輪をして、一緒に買い物でもしようって。彼女はとても嬉しそうに頷いてくれた。
それから一年間、僕等は待ちつづけた。僕はペアの指輪を買い、家の机の中に隠していた。彼女はその間、襲い来る発作に悩まされつづけながらも、ドナーを信じて待った。
だけど、願いは届かなかった。
その年の終わり、雪の降る寒い夜に、彼女は息を引き取った。二十五歳。僕よりひとつ年上だっただけの、あまりに若すぎる死だった。
彼女は僕を信じていた。ドナーを信じて待つと。けれど僕は、そんな彼女のために何もして上げられなかった。それが、僕をずっと苦しめていた。
彼女に渡せなかった方の指輪は、彼女の骨と一緒に壺に入れ、墓に入れた。
それから三日間は、仕事にも行かず、ずっと家で泣きっぱなしだった。さすがにずっとないてばかりもいられないから仕事に復帰したけれど、それ以降、僕は 指輪の片割れをずっと身につけていた。
それから五年経って、僕は今の高校に転勤になった。彼女のことを知る人がいない学校。それにここには、現代社会の教諭として雪も赴任していたから、気が楽だった。彼女のことは片時も忘れたことは無かったけれど、事情を知る人に同情されてばかりの生活が辛かった。だからこの高校に来てから十年くらいは、生徒と深く関わる事無く過ごしていたんだ。
けれど、それがいつしか変わり始めた。ある生徒が、僕と深く関わってくれるようになったんだ。
始めのころ、僕は彼女の訪問をただわずらわしく感じているだけだった。だけどそれはいつしか、不快感よりも、そよ風に似たような、そんな感覚を僕に与えてくれた。いつしか彼女の訪問は、僕の日常の中で、ささやかな楽しみとなり始めていた。彼女と日本史について話し合える時間が、僕の日々のなかで、唯一の楽しみになっていた。
言うまでもなく、君のことだよ。
いつのまにか君は、僕の救いになっていたんだ。
そんな中での、この病だ。実は僕の父親も若くしてこの病で死んでいる。遺伝性みたいだ。医者はそんなこと言ってなかったけれどね。だから、僕の命は長くないってことは、僕が一番分かっている。
この指輪も、もう薬指から抜け落ちるようになってきた。痩せ細っていく僕の姿を見られたくない。君の中では、常に優しい先生でありたい。優しい、一人の男でありたい。
だから、君には言わなかった。言えなかった。
せめて健康な姿のままで、君の記憶の中に残っていたかった。僕の唯一の意地であり、願いだ。許してくれ。
最後にひとつだけ、伝えたいことがある。
最後に君に会ったとき、言ったよね。君が浩二くんと付き合っていること、聞いたって。
最初にそれを聞いた時、僕の心は中学生のようにざわめいた。君に惹かれていたことを、はっきりと心で、頭で、知ったんだ。
僕は教師だし、君には彼氏もいる。倫理的には許されることではない。だからあの時、君に思いを告げることなく、さよならと言った。
だけど、僕は君に伝えておきたい。伝えておかなければならない。もう声は届かないけれど、せめてこの思いだけは君に届くように、ここに記しておきたい。
君のことを愛している。
初めて会ったときから、ずっとずっと。
君のすべてに、僕は救われた。
僕は君に何も出来なかった。
だから、せめてものお礼として、そして、最初で最後のプレゼントとして、僕の分身であるこの指輪を受け取って欲しい。
いつまでも、君が幸せでありますように。
星村隆作』
***
月はいつのまにか上り、暗くなった部屋に差し込んでいる。頬を濡らす涙のあとはもう乾き始めていて、けれど、目の奥の方がなんだか痛い。
体の奥にある倦怠感は、喪失感と重なっていた。それを人は、あるいは愛しさと呼び、あるいは切なさと呼ぶ。けれどこの思いは、そんな言葉には通じないほどに、破壊的なほどに強い感情だった。
彼は私を愛してくれた。
だからこそ、私が気付かなければならなかったのに。
右手を目の前に持ち上げ、開く。薬指に通した白銀色の指輪は、もう温かくなっていた。彼の温もりが、指輪を通して伝わってくる気がする。
隆作さん。
気がつけば、そう呟いていた。目の奥がじんと痛んだけれど、もう流せる涙は無く、ただ嗚咽だけが洩れる。
惹かれていたどころではない。私もきっと、彼を愛していた。現実という大きな壁を築き上げ、その向こう側にある感情を見ようとしなかった。
こころが叫んでいる。
私の想いを聞いて欲しいのに。
なのに、あなたはもうここにいない。
ぼんやりと見上げた空、ぽっかりと浮かんでいるのは、今にも壊せそうなほどに近い満月だった。
☪☪☪
「郁!お昼いっしょに食べようよ!」
教室の向こう側から、典子が弁当箱を掲げてみせる。私は自分のぶんを持って、典子の前の席にある椅子を反対側へと向け、座った。
「聞いた?窄中くんが勝木さんと付き合ってるの。」
「へぇ、そうなの?」私は驚いてみせる。「勝木さんって、間違ってないとしたら四組の人よね?なんかイメージ違うなぁ・・・」
「ウチもびっくりしたわよ。昨日まであんた休んでたから、多分知らないだろうって思ってさ。」
奇妙な話だ。親しい人がいなくなっても、世界はこれまでと同じように回っている。大切な人がいなくても、今日も地球は自転することを止めない。
私の世界は、ずっと止まったままなのに。
弁当に入ったアスパラのベーコン巻を、そんな事を考えながら口に運んでゆく。
「郁。」
突然名前を呼ばれて、私ははっと我に帰る。
「え、何?」
「それってさ、」典子の視線は、箸を握った私の右手に向けられている。「それって、星村先生のだよね?」
私は曖昧に微笑んで、箸を置き、それから手を開いた。シンプルかつシックな、メビウスの輪を象ったデザイン。少しゆるいけれど、外れることなく、指輪は薬指に収まっていた。
「一昨日、及川に呼ばれたときに封筒渡されてさ。」まじまじと指を見つめる典子を眺めながら、私は言う。「そこに入ってたの。私に渡すように頼まれたんだって。」
「何で及川?」
「教員養成所で親友だったんだって。」
「えーっ?あの二人が!?」典子が驚いた顔をした後、微妙な顔をした。「及川が星村先生と同期か。なんか・・・嫌だなぁ・・・」
「及川はいい教師だよ。」私が苦笑する。
「いや、けどさぁ・・・」
典子の矛先が及川に向いたので、私はほっと息をついた。典子の追及を受けると、どうしても喋ってしまいそうになる。
けれど私は、この会話の流れを断ち切ったのが典子自身だということも分かっていた。
壊れそうなほどの愛。背徳と罪に満ちた関係。典子は自らの秘密を、いつもそんな風に形容する。少しだけ辛そうに、その瞳を潤ませて。その話を聞いた時、私はただ圧倒され、相槌を打つことしか出来なかった。
けれど、今ならよく分かる。
背徳心。
破壊的な愛の破片。
こぼれ落ちた想いをすくい上げて、私はただ彼の面影を探す。伝わらなかった思いを集めて、この小さな手のひらの中に入れて。
それはきっと、心の中に。
「ねえ、上行かない?」
私が誘うと、典子は「いいねぇ。」と笑った。
廊下へ出て第二棟へ行き、中央の階段から上がって屋上へ出た。閉まったドアの前、大きく息を吸い込むと、冬の冷たい空気が肺を貫いた。昼間の太陽が容赦なく私を貫く。雲ひとつ無い空が、青いじゅうたんのように広がっていた。
太陽を遮るように右手を上げ、それからその指を、わずかに開いてみた。指間から入り込んだ光が目に鋭く突き刺さる。
少しだけ手を動かすと、太陽は指に遮られ、それに代わるように、指輪に弾かれた光が鼻の辺りに振ってきた。わずかな、優しい温もり。それがなんだか嬉しくなって、思わずクスリと微笑む。
ありがとう。
心の中で、小さく呟いてみる。言葉から漏れ出した暖かさが、身体の中にじんわりと広がっていく。
カチリ。どこかで、スイッチが入ったような気がした。
太陽が一瞬だけ揺らいで、そして世界はまた、回りだした。