Ⅴ・The tale of a Ring-first~The Teacher smiles for me~
「ごめん、待った?」
遙の声に、私と典子は振り返る。
「遅いよー!」
「ごめんってば!」そう言って遙は両手をあわせ、それから首を捻った。「あれ?綾音は?」
「バスケの練習、終わんないんだって。」典子は大げさに肩をすくめて見せた。「なんか最近、綾音の付き合い悪くない?」
「しょうがないよ、キャプテンになったんだから。することも練習だけじゃないだろうしね。」
遙はそう言って、櫛を取り出して乱れた髪を梳かした。
駅ビルからバスに乗り込む。3人並んで座りながら、シートの独特なにおいに身を沈めた。
「このビミョーなにおいがね・・・」私は首をかしげる。「何よコレ?って感じ。」
「馴れないわね、アンタも。」バス通学の典子は馴れている。私の顔に苦笑して、それから遙を振り返る。「で、アンタは誰とメールしてんのよ。」
「勇。」遙はキーをカコカコ打ちながら答える。「後でこないかってさ。今浩二たちと一緒に家飲みするからって。」
「・・・あいつら、歳いくつよ。」
バスはショッピングモールに滑り込む。建物を貫いた道路の途中、バス停に停まったところで私たちはバスを降り、東口からショッピングモールに入る。
球場二つ分くらいの広さがある、この近県では最大規模のショッピングモール。通路の中央にはレールが敷かれ、モール中央の広場からクモの巣状に広がっている。エリアごとに停留所が三つずつ置かれ、列車がそこで停まるようになっていた。広場から汽車型のものに乗ると、海外服飾ブランドの集まったエリアで降りて、私たちは歩き出す。
「コレ、コレ!」典子が突然興奮した声を上げて、『バルサ』というブランドの小売店に駆け寄った。「新作!夏コレで発表されたダウン!」
「へぇ、なんか今までのと雰囲気が違うね。」
「今冬の目玉って言ってた!」
「でも『バルサ』だよ?相当・・・いや、そうでもないね、『バルサ』にしては。」
「そう、いいのよこれ!」典子はそのダウンジャケットを両手で掴んで目の前に掲げた。「どうしよう、コレ・・・買おうかなぁ?」
☪☪☪
「一杯買っちゃった・・・」
典子が後悔したような表情で呟いた。「やんなっちゃう、もう。ここに来ると、いっつも衝動買いしちゃうんだもん。」
「たまにはいいじゃん、そういうのもさ。」私はBLTサンドをかじりながら笑った。
タリーズコーヒーはやや混んでいた。休日の昼過ぎ。カップルや家族連れが多い。私たちはようやく空いたテーブルに座って、ちょっとしたティーブレイクを楽しんでいた。向かいの椅子に置かれた紙袋の山は、すべて典子の荷物だった。中身はほとんど服だ。
「てゆーか、典子ってどこからそんなお金手に入れてんのよ?なんかアヤシイんですけど。」
遙がふざけて典子に尋ねる。典子ははしゃぎながら、怒ったフリをして「アヤシイって何よォ!」と遙の肩をパシパシ叩いた。それからふと真顔になり、「アヤシイと言えばさ、星村先生の噂、聞いた?」
「うわさ?」
「あ、あたし知ってる。」遙が身を乗り出してくる。「なんか病気らしいって話でしょ?」
「え、何の?」私も思わず身を乗り出して声をひそめる。
「そこまで分かんないって。」典子はさらに身を乗り出す。「だけどここ最近休みがちで、しかも学校に来るたび痩せてってる。言われてみれば、そんな感じがするのよね。」
典子はチラッと私を見た。私は首を振る。
「分かんないよ。私も最近会ってないし。」
「郁、最近忙しかったしねぇ。・・・文化祭の準備委員に、合唱コンクールの練習でしょ?文化祭で歌うほうも考えないといけないし・・・」
遙がしみじみという。典子も首をかしげて、「そうかぁ・・・」と残念そうに呟いた。
「でもさ、その噂が本当なら、星村先生、結構ヤバいんじゃないの?」
私が尋ねると、典子は肩を小さくすくめた。
「ビミョーね。どのぐらいの病気かわかんないし、しかもこの噂は生徒の中だけで流れてるだけだし。だけどコレを言い出したの、窄中くんなのよ。」
「・・・なるほど、それで本当っぽく聞こえるのね。」
私は妙に納得した。窄中透は、この町でもっとも大きな病院である「窄中総合病院」の後継ぎで、医学部を志望していた。それだけではなく、親からはすでに診察のノウハウまでもを学び、簡単な体調判断くらいなら顔色からできるようになっているらしい。それもまた噂に過ぎないけれど、噂に噂が重なるというか、その窄中君が言ったのならば、噂は妙に信憑性を帯びてくるから不思議だ。
不安。
あるいは、恐慌。
「じゃあ、明日行って聞いてみるよ。」
私は二人に言った。
☪☪☪
社会科教諭室は、いつもは閑散としている第三棟の二階にある。大講義室の隣の、小さな部屋。ひどく強く漂うコーヒーの香り。先生たちは一体、どれぐらいの量のコーヒーを飲めば気が済むのだろうか?
そんな事を考えながら、私は社会科教諭室のドアの前、一人立ちすくむ。
確かに、星村先生とはよく話していた。
乾いた声質。独特の話術。彼の話す日本史の話は、今まで聞いたことも無いものばかりでとても面白かった。
惹かれていた。それは分かっている。
けれど浩二と付き合いだしてからは、そういう気持ちにけじめをつけて、合唱部の練習を理由にこの部屋を避けていた。
一度息を吸って、ふっと吐く。それから、二度、トントンっとドアをノックすると、「はい。」と、聞きなれた静かな声が中から聞こえた。ドキン。跳ね上がる心臓を感じながら、私は「失礼します」と、扉を開く。
「おお。」
星村先生は一度驚いて見せたあと、ニッコリと微笑んだ。「久しぶりだね。まあ座ってよ。コーヒーでも淹れよう。」
そう言って立ち上がった先生の頬は、確かに以前よりも痩せて見えた。いつもつけていた、彼の大切にしている薬指の指輪も、なんだか頼りなげに彼の指にひっかかっている。
それは確かに、「痩せ細っている」という表現がもっとも的確だった。
「はい、どうぞ。」細くなったその腕を伸ばして、彼は私の前にコーヒーカップを置いた。「『グアテマラ』のいいのがあってね。君に飲ませてあげたいと思っていたんだ。」
「・・・ありがとう、ございます。」
そっとコーヒーカップを持ち上げて、立ちのぼる湯気に鼻を寄せる。立ちのぼる香りは深く、そして濃い。『グアテマラ』は、彼の好きな、そして私も好きなコーヒー豆のひとつだった。
「最近来なくなったからもう来ないのかと思っていたよ。」
彼は自分のぶんのカップを運んできて、私の向かい側に座った。
「すみません。最近忙しくて・・・」
「それは知ってるよ。」先生は苦笑した。「合唱部の部長として、コンクールと文化祭の準備。それに君は実行委員もしてる。ああ、それに、彼氏も出来たって聞いたよ?」
思わずコーヒーを吹いてしまって、カップの中には戻れなかったぶんがテーブルで跳ねる。星村先生は笑いながら立ち上がり、台拭きをもってきてそれを拭い取った。
「何で・・・」むせながら、私はハァハァと言葉をつなぐ。「先生が、私に彼氏が出来たこと知ってるんですか?」
「浩二くんたちの再テストの時にね。」彼は苦笑した。「近藤くんが浩二くんをからかっているのを聞いたんだ。早く終わらせないと、津村が先に帰っちまうぞーって。この学校で津村といったら、君ぐらいのものだからね。」
顔が燃え上がりそうなほどに恥ずかしい。友達のならやんわりと逃げられるのに、彼の追及には、どうしてもこうなってしまう。なんだか、裸を見られたような、私の中の敏感な部分に触れられてしまったような、そんな気持ちになる。
「そう言えば、先生の噂聞きました。」
話題を変えたいと思って口を開くと、自然とそんな言葉が飛び出してきた。「先生が病気だって。結構広がってるみたいですよ、生徒の間では。」
「そうみたいだね。」
彼は微笑みを崩す事無くコーヒーを啜った。
「本当なんですか?」
「本当かといえば本当ではないし、」カップを置いて、星村先生は妙に曖昧な言い方をする。「だったら嘘かといえば、それもまた違う。」
なんだかはぐらかされているような気がして、私はむっとした。
「どういう意味ですか?」
彼はけれど曖昧に笑って続ける。
「大体、僕自身もまだ、何がどうなっているのか良くつかめていないところがある。僕が今後どうなるのか、どんな病気なのか・・・自分でも分かっていないことを説明は出来ないんだ。」
その言葉は、まるで本当のようだった。けれど私には、その言葉は本当でない事がわかっていた。
胸の奥に湧き上がっていく、どす黒い感情。
ドウシテドウシテナニモハナシテクレナイノワタシジャダメナノダッタラダレナライイノ。
気がつくと、私は空になったコーヒーカップを置いて立ち上がっていた。先生が目を丸くしている。
「どうした?」
「部活に戻らなくちゃ。」私は言った。「ごめんなさい。途中で抜けてきたんです。コーヒーごちそうさまでした。」
私はぺこっと頭を下げると、早歩きでドアへ向かう。これ以上ここにいたら、自分の感情に飲み込まれてしまいそうだった。
ドアをあけて振り返ると、先生は立ち上がってこちらを見ていた。彼は私に向かって微笑んだ。
「津村。質問をしてもいいかい?」
胸の中で、クエスチョンマークが浮かぶ。今まで、質問なんてしたことはなかったのに。私は頷く。彼は少し考えてから、うんとひとつ頷いた。
「そうだな、ストレートがいい。ひとつだけ・・・君は今、幸せかい?」
更なる困惑が、心を染める。一体、こんな時に、何を尋ねてくるのだろうか?私は、けれど少し考えて答えた。
「幸せです。部活も全国大会に行きますし、今は浩二だっていますから。」
そうか。そう呟いて、彼は心が表れるような、満面の笑みを浮かべた。「よかったよ、久しぶりに話せて。」
私は彼に頷くと、ぺこりと頭を下げた。
「失礼しました。」
「うん、それじゃあ。」彼は手を振った。「さよなら。」
ドアを閉めて、踵を返すと、第三棟のドアから渡り廊下の方へ出て、部室へと向かう。
なんだか奇妙な違和感が、胸を占めていた。
何か、違う。
何かが、おかしい。
ジグソーパズルのかみ合わないピースのような、小さな不快感が、胸の中にわずかに残っている。
渡り廊下の真ん中、私は気がついて、思わず立ち止まった。
さよなら?
今まで彼は、「それじゃあ」と言って手を振るだけだった。部屋を出るときに、「さよなら」だなんて、そんなふうに言われたことは一度も無い。
それに、あの最後の質問。
幸せか、だなんて。
渡り廊下の真ん中、思考はどんどん回転していく。そしてその思考が止まったとき、私は思わず来た道を振り返った。
マサカデモソンナハズハダケド。
吹きぬける風はどこか冷たく、それでいて湿っていて。
唇に残る『グアテマラ』の苦味を、妙に舌に強く感じた。
☪☪☪
彼の死を聞いたのは、それから二ヵ月後、初雪の降った朝のことだった。
☪☪☪