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幸福  作者: 柊悠(月隈朱莉)
5/9

Break~Le midi~


プシュッとプルタブを引っ張って、テーブルの端に置く。ぱさぱさに乾いた、かじりかけのサンドイッチを頬張って、ゆっくり咀嚼する。ハムと卵の香りが、口の中いっぱいに広がった。

優しい味。

「優しい味よね。」

 美和が呟く。口の周りにペースト状の卵がついていて、それに彼女は、しかも気がついていない。それが可愛くて、私は思わず微笑んでしまう。

「美和、口の周り、いっぱい卵がついてるわ。」

 私が言うと、美和は「うそ!」と呟いて口元に手をやり、人差し指でそれを拭い取って、それをしゃぶった。その仕草はどこか官能的で、私はそういうところで、愛おしさを感じてしまう。

 5つほど年上の、美しい女性。

 初めて会ったときは、私はまだ高校生で、彼女は教育実習生だった。しかもそのとき、彼女には婚約者がいた。その婚約者に逃げられ、男の裏切りに打ち沈む彼女のそばにいたのは、私だ。

それは間違いなく真実で、それだからこそ、私は今、ここにいられるわけで。

「渚。」

 突然名を呼ばれ、私は驚いた。

「何?」

「お昼は、外で食べない?」

「いいけど、急にどうしたの?」

 美味しいお店を見つけたの。美和はそう言って、無邪気な笑みを浮かべる。その高校生のような表情に、私は心が浮き立って、頷いてしまうのだ。


☪☪☪


 お昼になって、私たちは予定通りに出掛けた。彼女の言うお店は、私達の住むマンションから歩いて5分くらいのところにあって、パスタの専門店なのだと言う。

「この間、春樹君と食べに言ったの。」

 美和はそう言った。春樹君というのは、彼女の同僚で、「私に気がある」男なのだそうだ。

 空は青くて、爽やかな風が頬を撫ぜた。

「渚は、小説は大丈夫なの?」

 美和は歩きながらそう言った。

「ええ、明後日連載の分は、朝のうちにメールしたわ。」

 私は言った。「あと2、3回で終わるから、今度は出版に向けて、話を整理しなくっちゃ。」

「・・・小説家って、いつも思うけど、大変よね。」美和は空を仰ぐように顎を少し上げ、言った。「全てが自分の手作業、頭の中の作業だもの。尊敬しちゃう。」

「そんなにすごくないわよ。」

「やってる人は、自分のしていることをすごいとは思わないのよ。」美和はそう言った。「このお店よ。」

 美和の言った店は、外装をレンガで彩った古風な雰囲気を持つお店だった。入り口のドアを抜けると、柑橘系の香りがするりと鼻を触る。ふっと入り口の隣を見ると、レモングラスだろうか、観葉植物が鉢に植えられていた。そこから内装を見渡せば、そこはやはりレンガで、何だか優しくやわらかい雰囲気があった。

 どうやらアロマと言うのは、この店のコンセプトの1つみたいで、案内された席にもそれらしき観葉植物が置いてあった。美和はテーブルにつくと、その葉に触れて小さく、「サンダルウッド。」と呟いた。彼女はアロマセラピーが好きで、こういうことにも詳しい。

 予約していたのか、料理はすぐに運ばれてきた。温かいパスタ。私の好きなのはカルボナーラで、彼女は和風のパスタ。

「青じそとベーコンのスパゲティなの。」私の視線に気がついたのか、彼女は微笑んで言った。

 私たちは食事をしながら、何気ない会話を交わす。例えば同僚の話。例えば職場の話。それらの話には、そして、必ずと言っていいほど、私の知らない人が出てくる。「春樹君」とか、「リンちゃん」とか。そして彼らの話を聞くことで、私も美和と同じ時を共有していれるような気持ちになる。

 私の知らない日常。美和の住む日常。

「すばらしいわね。」

 私が呟くと、美和は一度ぽかんとして、それから笑った。

「全く、渚ったら。」


☪☪☪


 その日、私は出版社へ出かける用事を済ませ、帰りの道を急いでいた。

 乗りなれた電動機付き自転車を漕いで、マンション前の緩やかな坂を登っていく。わずか15分ほどの距離だけれど、この毎日通う道があるおかげで、私はこのスリムな体系を維持できる。だからやめたくない。

 今日は、美和はいない。例の「春樹君」に映画に誘われたのだと、今日の朝、彼女は言っていた。「遅くなるから。」と。

 だから私は、今日は、家に1人でいることになる。寂しいけれど、彼女を引き止めたりはしない。

 私達の間に作られた、暗黙のルール。

 マンションの部屋に入り、パソコンのスイッチを入れ、ワープロソフトを開く。いつも通りに化粧を落とし終え、それから私は、サウンドプレーヤーのスイッチを入れる。流れ出すクラシック音楽に身を浸しながら、私は小説のファイルを開いて、書きかけの長編小説を書き始めた。

 美和がいない部屋は静かで、けれど気配はいつだってそこにあって。

 やっぱり私は、美和を求めている。美和が、私の全てなのだと、美和がいないときにいつも、私は再確認する。

 キーボードを叩く単調な音ですら、私を幸せにする。美和と生きている部屋にいることそのものが、私の幸せだから。

 人はもしかしたら、これを不幸せと呼ぶのかもしれない。でも私だけは、彼女の帰りを待つこの時間を、本当に幸せだと思う。

 気がつけば、もう夜になっていた。玄関で、ハイヒールのなる音がして、私は少しだけ顔を輝かせながら、パソコンを離れて立ち上がる。

 今夜は、美和の胸に抱かれていたい。


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