Ⅳ・"More Than Blue"
雨は布のように、さらさらと降っている。傘を差したままゆったりと歩いていくと、アーケード街のほうに入っていく。屋根の下に入ったところで、私は傘を閉じ、ふっと息を吐いた。
一番街アーケードは賑わっていた。この不景気、安定して収入を得られる地元の商店は強い。あちらこちらの店で、おまけだとか値引きだとか、そういう言葉が飛び交っている。
世間話をする店主とおばさんたちを尻目に、アーケード中央部の大きな広場に到達する。
煉瓦造りの門をいくつか備えた大きな囲い。その真ん中に広場があって、いつもは子供たちが遊んでいる。けれど今日は雨のせいか、人は少なく、若いカップルが数組、歩いているだけだった。
慣れないコンタクトに目を瞬かせながら、少し広場を見回す。
勇は壁に背をもたせかけ、片手で携帯をいじっていた。私が近付いていくと、彼は一度大きく目を見開いて、携帯を閉じ、もたれていた壁から背を離した。
「ごめん、待ったでしょ?」
駆け寄った私が謝ると、勇は肩をすくめて見せた。
「いや、そんなには。それより、早く行こう。もうすぐ始まっちゃうよ。」
勇はそれから、さりげなく手を差し出す。私はおずおずとその手を掴んだ。勇が嬉しそうに微笑む。
ぬくもりが、さりげない行為の中に生まれる。それに気がつくたび、痛烈に、鮮烈なほどに、私は彼を想うのだ。
「コンタクトにしたんだ。」
「うん。」私は少し嬉しくなって頷いた。「一度つけてみたかったんだ。似合う?」
「コンタクトに似合うも何もないと思うけどね。」勇は苦笑した。「だけど僕は、どっちの遙でもかわいいと思うし、好きだよ?」
屈託もなく勇は言い放ち、私は耳まで真っ赤になった。
広場から西に伸びる二番街アーケードへ入っていく。こちら側はゲームセンターやボーリング場が並んだ界隈で、このあたりの高校生はよくここで遊びまわっていた。
私たちは手をつなぎ、その明るい集団からは少しはなれた、古い映画館に入っていった。
「なんだっけ・・・『悲しみよりもっと悲しい物語』?」
「そ。」勇の言葉に、私は頷く。
初回の上演時間まではあと十分ほどあった。私たちはチケットを買って、エレベーターに入っていった。
☪☪☪
「勇くんて、そういうイメージなかったんだけどなぁ・・・」
カバンに教科書をしまいこみながら、綾音は首をかしげた。放課後の教室はがやがやしていて、妙に居心地の悪さを感じる。
「あんまり器用じゃないから、言葉がすごく素直で率直なんだよね。だからかもしれないけど、勇といると、私もすごく素直になれるの。私の本当の姿って言うか、そういうのを出せる。」
「はいはいごちそうさま。」綾音はカバンのチャックを、勢いよく閉め、肩に背負った。「早く行こう。」
教室を出ると二階に下り、そのまま棟をひとつ突き抜けて渡り廊下へ出る。体育館の扉を開けると、いつも通り、しんと静まり返った体育館には、誰もいなかった。
「じゃ、よろしく。」
綾音はそう言うと、体育倉庫と消えていく。私がゴール下に着いたとき、綾音は体育倉庫からコートに入り、スリーポイントラインの外からバスケットボールを放り投げた。ボールはきれいに弧を描き、ゴールリングで跳ね上がって、けれどネットを揺らすことなく落ちてきた。
「うーん、入らないなぁ・・・」
私の投げ返したボールを受け取りながら、綾音がぼやく。もう一度、今度はジャンプシュートを放つと、今度もリングで跳ね上がり、今度はバスケットに収まった。
「二本に一本は入ってるじゃない。」
「これじゃまだダメよ。」綾音はまたボールを受け取りながら首を振った。「アンタはボカスカ決めてたでしょ?あれくらいのレベルじゃないと。」
綾音はボールを受け取るたび、すぐにシュートを放つ。決まったり、決まらなかったり。もともと外からのシュートが苦手な綾音が、こうして外からのシュート率を上げることで、私の穴を埋めようとしている。
私が抜けたことで、バスケ部の実力は半減している。茜はまだ成長過程の司令塔で、とてもスリーポイントの練習など手が回らないからだ。
「遙、一本打つ?」
綾音が言ったので、私は頷き、綾音とは反対側のスリーポイントラインに出た。綾音からのパスを受け取ると、素早く身体を入れ替え、シュートを放つ。高い弾道から放物線を描いて、ボールはリングに触れることもなくきれいに、シュパッとネットを揺らした。
「・・・さすがね。」
綾音は囁くように言った。私は綾音にボールを返すと、コートを出てバッグを持った。
「じゃあ、帰る。」
綾音は一瞬驚いたように目を開いて、けれど頷いた。
体育館をぬけ、階段を降りる。職員室の前を通って校長室の方へ抜ければ、そこが昇降口になっている。ローファーをはいて外へ出ると、学校のフェンスを回って、裏の堤防へと出た。
夕暮れ。滲んでゆく空をぼんやりと眺めて歩くのは、結構好きだ。特に、落ち込んでいる時には。
堤防の道はオレンジ色に染まり、なんとなく続いている。つらつらと流れる川の水を見ながらゆっくりと歩いていると、自分の心がすっと楽になる気がする。
強豪のバスケット部でレギュラーを取るのは確かに楽ではなかった。
中学校時代からフォワードとして名を馳せていた綾音がいたことで、私はフォワードでのレギュラー獲得は厳しいと判断し、ポイントガードへのポジションコンバートを断行した。もともとポジション的にはやったことのあるものだったし、そこからひたすらスリーポイントシュートの決定率をあげたことで、レギュラーになるのに時間はかからなかった。中は綾音が取り、外は私が取る。一年生の二枚で攻めるのが私たちのスタイルになった。
けれど、今年の全国大会、決勝戦。あとわずかで優勝が決まるという時に起きた衝突プレイで、私の膝は、あっけなく壊れた。
輝かしい栄光と引き換えに、バスケットをするために必須の、走る力を失った。
普通に日常生活を送るぶんには支障はない。けれど、跳んだり跳ねたり走ったり、そういう運動的な才能は、この怪我ですべて封じ込められた。
それでも、私は未だにバスケットに未練がある。だからこそ、綾音の練習に付き合う。けれどそれは同時に、過去に自分がいた場所を見ることにもなる。その場所には、もう、私はいない。
こうやって歩く時には、誰かと一緒にはいたくない。
失ったもの。
それを反芻すること。
ただそれだけが、私の存在、その輪郭を、くっきりと浮かび上がらせる。
大袈裟でなく、顕著に。
日は落ちるように沈んでいく。冬の太陽は、長く空にいようとはしない。私は一人きり、堤防をゆっくりと住宅街の方へと歩いていく。堤防を十分ほど歩きつづけ、そこから降りれば、すぐに住宅街に入っていく。
夕陽はいつのまにか、その身体を半分ほど隠し、川面は橙に染まっていた。
☪☪☪
日が落ちると、辺りは驚くほどに暗くなり、川面は黒に染まる。コンクリートと草の境界があいまいになり、路肩を歩いていると、時折転びそうになる。堤防には人気がなく、時折通り過ぎる車のライトだけが、道を照らし上げた。
そろそろ帰ろうかな。そんなことを考えながらなんとはなく後ろを振り返ったとき、私ははっとした。
男の人だろうか、中肉中背の、パーカー姿の人が後ろをついてくる。そう言えば、さっき堤防を歩いていたときから、ずっと後ろにいたような気がする。
背筋がぞっと寒くなり、同時に、肩のあたりからいやな汗があふれた。寒さのせいではない事は、ちゃんとわかっていた。
自然と足が速くなった。住宅街の方へ向かう坂を通り過ぎ、街の方へ向かいながら、私はちらりと後ろを振り返る。男は、これもわずかに足を速めていて、けれどやっぱり、私の後ろを歩いてくる。
もう間違いなかった。
頭が真っ白になった。ポケットから携帯を取り出すと、発信履歴を開いた時に一番上にあった名前に電話をかける。コール音が三回ほど鳴り、それから声がした。
「遙?電話、珍しいね。」
「・・・勇!」
私の震える声に、勇も驚いたようだ。
「どうしたの?何かあった?」
「なんか、変な男の人がついてきてて・・・」私は足を止めることなく歩いた。声は、けれど、震えを抑えることは出来なかった。「勇、怖いよ。どうしよう?」
「待って。」勇の声音が、刹那、真剣なものに変わった。「今どこにいるの?」
「堤防、学校の裏の。もうすぐ市街のほうに出る。」
「こんな時間にいるから・・・」勇は少しだけぼやくように言ったあと、すぐに 声を戻して、強い口調で言った。「とにかく、市街のほうに歩いてて。絶対に土手の方には降りちゃダメだよ。迎えに行くから。」
「勇・・・」私は囁くように言った。「お願い、早く来て・・・」
「分かった。」
そう言うと、勇は電話を切った。私も携帯を閉じると、勇の言ったとおり、ただ歩きつづける。堤防の端っこにある端を渡って、その向こう側は、三番アーケード。あそこに入れば、男も諦める。私はそう信じて、歩きつづけた。
そのとき、だった。
ずきん、と、膝に刺すような激痛が走った。例えるなら、ナイフを膝の関節に突き立てたような、焼けるような、骨を断ち切られるような痛み。
今なの?
気を失いそうな痛みに、私は思わず崩れ落ちた。古傷だった。正面から蹴り折られた膝。普段よりも速いスピードで歩きつづけたために、膝に負担がかかっていた。
痛みに耐え、脂汗を流しながら振り返ると、男は着実に近づきながら、その視線は確実に、うずくまる私をじっと見据えていた。私の傍らに立つと、しばらくじっと私を見下ろす。三十代も後半だろうか。髪も薄く、温厚そうな顔をしている。しかしその目は野獣のように爛々と光り、汚いらしい口ひげの隙間から洩れる息は荒い。恐怖と、痛みとで、私は声も出なくなっていた。体が動かない。
男が、私にのしかかってきた。体重がかかる。生暖かい息が顔に当たって、臭くて気持ち悪い。必死にもがくが、男はそんな反抗などまるでないように易々と、制服を剥いでいく。ビリッ、と制服が引き裂かれ、胸に刺すような寒さを感じた。声が出ない。私は、せめて目を閉じた。
ふいに体が重さから解放され、私は驚いて目を開いた。
男が土手の方に転がっていて、私と男の間には、誰かが立っていた。薄い色の コートを脱ぐと、彼は私の体を包み込んだ。
私を見下ろした顔は、汗まみれになった、勇の顔だった。
「ごめん、遅くなって。大丈夫?」
私は安堵とまだわずかに残る恐怖で、首を振ることしかできなかった。勇はほっと息をつくと、「ちょっとだけ待ってて。」と呟いて、立ち上がった。
その表情に、私はギョッとした。今までの勇にはない、怒りに満ち満ちたものだった。
明王の憤怒。
勇は土手を駆け降りて、伸びた男を蹴り飛ばし、土手から転げ落とした。胸倉を掴んで男に何か呟く。そして次の瞬間、勇は男を、川に叩き込んだ。
派手な音を立てて水に落ちた男は、けれど勇から逃げるように川の中央のほうへと泳いでいく。勇はそれを怒りの表情のまま見送ると、すっと踵を返して、土手を登ってきた。その表情は、さっきよりも幾分か和らいでいた。
「結構飛ばしてきたんだけど。大丈夫?何もされてない?」
「・・・制服、破られた。」
私はようやく言った。声が震えている。それに歯もガチガチと鳴っていた。寒さと、痛みと、恐ろしさと。
「とりあえず、僕の家に行こう。この土手降りたら、裏庭の方に行けるから。」 勇は手を差し出した。「歩ける?」
「膝が・・・」私は呟く。勇ははっとした顔で、「そうか・・・」と呟き、それから私に背を向けた。
「背中に乗って。」
私は少しだけ迷って、それから彼の背中に負ぶさった。彼は私の腿に腕を回し、それからすっと立ち上がった。道を渡り、川とは反対側の斜面を、身体を横向きにして降りていく。堤防に沿うようにして、そこには砂利道が伸びていた。
「大分無理して歩いてたんだね。」斜面を降りながら、勇が申し訳なさそうに言った。「ごめんね。どのルートが1番早いか考えるので精一杯になっちゃって、膝のこと考えるの忘れてた。」
私は何も言わなかった。
勇が砂利道に降り立ち、走り出そうとしたときに、私は小さく呟いた。
「怖かった。」
勇は、ひとつだけ頷いてから、走り出した。
☪☪☪
包むように持ったマグカップから、穏やかに湯気が立ちのぼっている。そっと口に含むと、コーンスープのまろやかな甘さが口一杯に広がる。勇の渡してくれた丹前は、ちょっともこもこして格好悪いけれど、でもとても暖かい。芯まで冷えた体は徐々にぬくもっていく。
勇の家は、木造二階建ての典型的日本家屋だ。けれど、この部屋だけはなぜか洋室のように模様替えしてあった。ソファーもそれなりに高級だし、床は絨毯が敷き詰めてある。わずかに入り口の引き戸だけが、もとの形を残していた。
その戸が開き、盆にいくつか皿を載せて勇が入ってきた。
「はい。まあ、ありあわせで作ったから、そんな豪華でもないけど。」
そう言ってテーブルに並んでいくのは、ご飯、洋風スープ、ピーマンのチンジャオロース。とてもありあわせで作ったとは思えないほど、クオリティが高かった。チンジャオロースをひと口含むと、ピリッとほのかに辛い味付けで、食欲のわかない私でもするすると入る。
「じゃあ僕、隣の部屋にいるから。どうせ今日、うちの親どっちも海外だし、この部屋にあるものは自由に使っていいから。」
そう言って勇は、部屋を出て行った。
半ば機械的に、食べ物を口に運ぶ。口の中は妙に乾いていて、それでも味は感じるのが不思議だった。熱さを感じられずに火傷してしまいそうでスープだけは残したけれど、その他の皿は空にした。
盆を置きっぱなしのまま部屋を出ると、すぐ隣の部屋の戸を開ける。すっと横にスムーズに開いて、襖は開く。
勇は、畳にあぐらをかいて、クラシックギターを弾いていた。
ジャズだろうか、妙に耳に残るリズミカルな響きが、心地よく体の中で響く。手の届かないところのかゆみを和らげるような、そんな響き。
掻き鳴らしたり、弦を小さく爪弾いたり、そうやって重ねられていく音は、部屋一杯に広がって、私を包み込む。
長い和音が響いて、勇がふっと息をつき、振り返って私を見る。私は拍手した。
「弾けるってのは知ってたけど、そこまでのレベルだったのね。それ、なんて曲?」
「・・・いたんだ。」ちょっと恥ずかしそうに呟いてから、勇はギターをそっと抱えた。「僕、曲名知らないんだ。『ショコラ』の中でジョニー・デップが弾いてた曲なんだけど。」
「『ショコラ』?」
「知らない?映画の。」
「ああ、そう言えばあったわね。」言われて、ふっと思い出す。「私、あれ見てないのよ。放浪のチョコレート職人かなんかの話じゃなかった?」
「うん。ジョニー・デップはジプシーの役を演じてた。」そう言うと勇は少しだけギターを見つめて、それから呟く。「そう言えば、しばらく見てないな。見ようかな?」
勇はギターケースにギターをしまいこむと、壁に立てかける。部屋を出ようとして、振り返った。
「遙もおいでよ。一緒に見よう。」
それから勇は、さっきの洋室に戻って、てきぱきと私の盆を片付け始める。私は我慢できずに、少しだけクスッと笑った。
勇の照れ隠し。
勇は人のことをためらいもなく褒めるくせに、自分が褒められるのは慣れていない。自分のしていることに対して肯定的な意見や趣味に対する褒め言葉に関しては、異常なくらいに恐縮して、照れてしまうらしい。
そういう所が、勇らしいのだ。
「よしできた。」DVDデッキにディスクを差し込み、それが吸い込まれていくのを見届けてから、勇はソファに座り、自分の隣を叩いてみせる。「ここに座りなよ。並んで見よう。」
彼の隣に座る。勇はリモコンを操作して、洋室の電気を一段階下げた。オレンジ色の淡い光が、部屋を包む。そして勇は、それからDVD用のリモコンに持ち替え、再生ボタンを押した。
やわらかな印象の映画だった。食べた人を幸せにするというチョコレートを作る未亡人の女性を中心に、古い慣習の中にある街の人々の、心の交流があたたかく描かれていた。教会や市長による妨害にもめげず、彼女はチョコレートを作りつづける。そんな彼女の姿に、街の人々も徐々に心を開き始め、ついには市長と教会の司教までもがチョコレートの虜になる。
勇の弾いていたギターは、映画の主題歌となっていた。
ジュリエット・ビノシュの演じる主人公・ヴィアンヌがジプシーの集落でパーティーに参加していた時に、その集落の長ルーを演じていたジョニー・デップが弾き始めた曲だった。本来は二本のギターで演奏する曲らしく、勇の単独演奏とは少し音の厚みが違っていたけれど、やっぱり、耳に心地よく残る。
勇は、食い入るように画面を見つめる。そして私もまた、物語に惹き入れられていた。
それは、勇の心の中にある思いとは全く違うのだろう。けれど、私の心の中ではじけたそれは、奇妙な切実さをもって私に迫ってきた。
彼と共に在ること。
それが、今の私がいること。
ぬくもりをもっと感じたくて、私は彼の肩に頭を預けて、そっと目を閉じる。彼の肩が、呼吸のたびに上下するのが分かる。
私の愛しいひと。
彼の体温を感じながら、私は静かに、眠りに落ちていった。
☪☪☪
わずかに朝の光を感じて、私は目を覚ました。
体を起こした時、掛け布団が滑り落ちる。私はそこでようやく自分が布団で眠っていることに気がついた。
ふと辺りを見回して、自分が勇の部屋にいることに気がつく。窓際に置かれた彼の机の上、几帳面に並べられた教科書で、それと分かる。けれど、勇の姿はこの部屋にはない。違うところで眠っているのだろう。
布団をたたんで、ドアを出る。
一番奥の部屋のようだ。あの洋室から、わざわざここまで運んでくれたのだ。
勇がどこにいるかは、なんとなく分かっていた。そっと、できるだけ静かに歩いて、昨日いた洋室の戸をあける。
勇は、ソファの上に丸くなり、小さな毛布に包まって眠っていた。その寝顔はどこか幼く、それでいて大人びていて。
彼の傍らにしゃがみこみ、その顔を見つめる。少しだけ開いた唇。私は目を閉じると、そこにそっと、唇を押し付けた。
柔らかさ、ぬくもり。
一瞬のキスの後で身体を離すと、思わずビクッとした。勇が、目を開いて私を見つめている。
「お・・・おはよ。」
取り繕うように微笑んでみせる。勇はけれど、何も言わずに起き上がった。そっと持ち上げた手で、唇に触れる。
「・・・どうしたの、遙?突然。」勇は呆然としたように尋ねる。
ふいに恥ずかしくなった。顔が熱い。思わず立ち上がろうとすると、けれど勇は、私の手をぐっと掴んで引っ張った。勢い余って、勇の足の上に倒れる。
「キャッ!」
思わず悲鳴を上げるけれど、勇は自然に私の身体を受け止め、私の瞳を見つめた。とても澄んでいて、深い藍色をした、綺麗な瞳だった。
藍より青く(モア・ザン・ブルー)。
私はそっと、彼の唇にキスをした。彼もそれに応える。彼の唇は柔らかくて、熱かった。
勇に全てを預けること。
それが、今の私の存在。
勇といれば、私は私でいられる。本当の私の姿で、私を認めてくれる。だから、こうやって彼とキスすることもできる。
「勇。私さ、」唇が離れた時、私は囁くように言った。「最後にあと一度だけ、試合に出ようと思うの。」
「え?」勇は目を見開いた。「本気なの?」
「本気。」私は頷く。「もう、少し走っただけでもやばい膝だけど、それでも、中途半端なままで終わりたくない。この膝が壊れても、最後にもう一度だけ、試合でやりたい。」
勇は何も言わず、私を見つめている。
「綾音にも、たくさん迷惑をかけてる。だからせめて決勝戦くらいは、私の最後の力を使うわ。いい?」
「いいも何も、」勇は微笑んだ。「僕はそれでもいいと思うよ。遙の身体なんだから、それは遙の決断次第だと思うし、報いたいって気持ちも、よく分かるしね。」
きゅっと胸が締まる思いがして、私はもう一度勇にキスをした。
朝陽はまるで微笑むかのように、優しい光で差し込んでいた。