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幸福  作者: 柊悠(月隈朱莉)
3/9

Ⅲ・Breaking A Commandments

 バスを降りると、冷たい冬の空気が肺を貫いた。コートの襟を立てながら、私はロータリーの時計台を見上げる。約束五分前。ちょうどいい時間だ。

 辺りには夜の気配が立ち込めている。駅舎を出て路上駐車の列を見流すように視線を動かして、もう見慣れた青のスカイラインを見つける。駆けるように近付いて、助手席の窓をトントンっと叩くと、タッキーは読んでいた小説から目を上げ、そっと微笑んだ。

「久しぶり。元気だったかい?」

 助手席のドアを開けて乗り込むと、彼は閉じた小説をダッシュボードに入れながら尋ねた。私は頷く。

「今日は早く帰ったの?それとも行ってない?」

「今日は早く帰った。」私はベルトを締めながら答える。「今日はどんなお店に連れてってくれるの?」

「それは秘密。当ててごらん。」

「えーっ?なんかずるい!教えてよ!」

 彼が微笑んで言った言葉に、私はちょっと甘え声で言う。彼はけれど笑いながらハンドルを切り、車をスタートさせた。

 金曜日の逢瀬。

 サイトで知り合ってから、もうすぐ半年になる。

 こうやって毎週逢う関係になるとは思わなかったけれど。

 最初会ったときの印象が若く、私は彼を二十代だろうと思っていた。彼が四十一歳だと聞いたときには、驚きすぎて言葉を失ったほどだ。

 毎週金曜日の夜。

 彼と食事をして、時にはちょっとだけお酒を飲んで、そして家まで送ってもらう。誰もいない、閑散とした家で、彼と過ごした時間を反芻し、一人リビングで過ごす。

 それが私の過ごし方。

 彼は今まで一度も、私の体を求めたことはない。私の身体に魅力がないのか、あるいは奥さんに遠慮しているのか。彼自身がもう出来ないということもありうる。

 彼は外資系企業の幹部だった。自らが訪れた様々な海外の町のことを、面白おかしく話してくれる。深く澄んだ、心の奥に染み渡るような声。整理された話し方。

 そのときだけは、彼が本当に年上の男性であることを意識する。

 私は彼が好きだ。


☪☪☪


「なんか・・・イタリアンって、タッキーっぽくない気がする。」

 コートを脱いで椅子の背にかけ、私はきょろきょろと店内を見渡した。彼は首をかしげる。

「そうかい?」

「うん。なんか、和食とか懐石とか、そんなのばっかり食べてるイメージがあったからさぁ・・・」

「まさか。」タッキーは苦笑した。「確かに役職柄、そういうの食べる機会は多いし、嫌いでもないけどね。だけど、結構いい値段なんだよ、懐石とかって。だから本当は、こういうリーズナブルな方が好きなんだ。」

 気負わなくてもいいし。最後にボソッとそう付け足したのが面白くて、私はクスッと笑って、それからもう一度店内を見回す。木造りのあたたかい雰囲気。椅子もテーブルも、それに合わせた木の装飾で、空気はぬくもりに満ちていた。

 テーブルの中央の、燭台風のスタンドを見つめていると、その視線の先、タッキーがぼんやりとみえる。

 それが、妙に嬉しくて。

「どうかした?嬉しそうな顔してるけど。」

 はっと我に帰ると、タッキーがからかうような微笑みを浮かべて私を見つめていた。

「べ、別に・・・」私は慌ててしまって、それを取り繕おうとフォークを取り出す。

「まだパスタは来てないよ。」

 タッキーは大笑いする。私はフォークを置いて耳まで熱くなった頬をこすりながら、ふくれっつらで呟く。

「そこまで笑わなくてもいいじゃん。」

「ごめんごめん。」

 タッキーはそれでも笑っている。

 やがてパスタが運ばれてくると、タッキーは鮮やかな手つきでパスタを巻き上げ、口に運ぶ。その姿はひどく煽情的で、私はドキッとしてしまう。胸の動悸をごまかすために、私はパスタを口に運ぶ。ガーリックのよく効いたパスタは、舌の上で強く香った。

「そう言えばタッキー、イタリアは行ったことあるの?」

 私はふと思いついて尋ねる。タッキーは少しだけ考えると、「ああそう言えば、」と笑顔になった。

「一度だけあった。アンコナって言う、アドリア海に面した港町でね。古い町で、ローマ帝国時代からあったんだって。サン・チリアーコ大聖堂って言う古い教会があって、すごく綺麗なんだよ。・・・」

 そう言って語る彼に相槌を打っていると、私はいつも彼の住む世界との違いを感じる。

 かたや世界を飛び回る、超やり手の外資系企業幹部。

 かたやこれといって特徴もない、ただの女子高生。

 そこに感じる、わずかな、けれど深い溝。

 彼の手招きがなければ、それを乗り越えることすら出来ない。

 寄る辺もなく曖昧に揺れるフォークの先は、スタンドの仄かな灯りに揺らめいている。

「どうかしたの?」

 タッキーが心配そうに私の顔を覗き込む。私は無理に笑顔を作って、それから残りのパスタを口に詰め込む。鼻をつくガーリックの香りが突然強く感じて、私は思わず顔をしかめた。

 タッキーは、そんな私の様子を何も言わずに見つめている。

 私の皿が空になったころ、タッキーは口を開いた。

「まだ時間、大丈夫かな?」

「え?まあ、別に大丈夫だけど・・・」

 そんな事を聞かれたのは初めてだ。今までは、このあとはすぐに、家に送ってもらうだけだったのに。

 タッキーは、いつになく真面目な表情で言った。

「少し君に、見せたいものがあってね。」


☪☪☪


 車は地下に入っていく。県下でも有数の高級ホテルは、よく政治家の会合場所になる施設だった。艶やかさというよりは、政治的な匂いのほうが強い場所。

 地下の駐車場に車を停めると、彼は車を降り、私と共にエレベーターに乗り込んだ。一番上の「16」を押すと、すぐにドアが閉まる。人を運ぶ小さな箱の中に流れている音楽は、たしか、四〇〇年程前に生きていたドイツの作曲家が作ったものだ。

 エレベーターは徐々に速度を落とし、やがて、止まった。タッキーは私を促して先におろし、それから自分も降りる。

 広いバーのようだ。入り口には小さなブラックボードがあって、メニューが綺麗な楷書体で書き込まれていた。

「いらっしゃいませ。」

 中に入ると、カウンターの内側にいる女性が頭を下げた。「何名様でしょうか。」

「『トレモロ』の前田と申します。」

 タッキーは丁寧に名を告げる。女性はそっと手元のノートに目を落とし、ひとつ頷いた。

「どのようなご用件でしょうか?」

「ボックスルームは空いてますか?」タッキーは彼女に微笑んでみせた。

「少々お待ちください。」女性はカウンターのパソコンを少し操作して、頷いた。「大丈夫です。全て空いています。」

「それじゃあ、2号室に白と赤を一本ずつ。グラスは二つ用意してください。それから、チョコレートを。」

「かしこまりました。」

 女性が頭を下げると、タッキーはまた私を促して、奥へと進んだ。

 この歳でバーに入っていくというのは、なんだか妙な気持ちだ。いけないことをしているようで、なんだかドキドキする。一般客の人たちの怪訝そうな視線を浴びながら、奥の廊下の入り口へ通される。

「タッキー、なんかここ、関係者以外立入禁止になってるよ。」

 黒い、おしゃれなドアの並んだ廊下に平然と入ってゆくタッキーの背中に、私は言った。彼は意味深な微笑みを返して、けれど戻ってくることもなく、逆に私を手招きした。仕方なく、私も彼を追って、その廊下に入っていく。

 廊下を縁取るブルーのライトが、足元から上がってくる。薄暗い、藍に染まった廊下。まるで海の底を歩いているような、そんな錯覚にもとらわれる。

 最初の角を曲がってふたつ目のドア。その前で彼は立ち止まり、ポケットから名刺入れのようなものを引っ張り出すと、中から厚めのカードを取り出して取っ手に差し込んだ。電子音が響き、がちゃっとロックの開く音がする。

「さあ、」彼は扉をグイッと引くと、部屋の中へと手を向けながら言った。「入ってごらん。」

 彼に促されるままに部屋に入り、私はそこでそのまま立ち尽くした。

 小さなリビングルーム。そんな言葉が一番合う。光沢のあるシルクのソファ。ガラス張りのテーブルは、脚に海外家具メーカーのマークがついている。65インチの薄型テレビ。奥の方にある小さな机には向かい合って座るように椅子が設置されていて、机の上の盆には、伏せたワイングラスがふたつ、窓の外からの光でキラキラと輝いていた。

「・・・ここ、何・・・?」

「僕の会社の重役だけが泊まれる・・・そうだなぁ、プライベートルームとでも言うのかな?」彼は窓のそばまで言って、私を手招きした。「来てごらん。」

 彼に導かれるままに私は窓辺へと向かい、窓から外をのぞきこんだ。

「うわぁ・・・」

 思わず、私は声を上げた。

 眼下に広がる、私の街。ネオンが規則正しく並んだビル街。国道に沿うように並んだそれらのビル群は、オレンジや黄白色の人工的な輝きに彩られていた。

 それは、光の海にも似ていた。

「僕がまだ二十代のころ、入社して初めての管理職ポストをもらったとき、当時の社長が連れてきてくれたんだ。」

彼はいつのまにかわたしの肩に手を置き、背後から外を見下ろしていた。

「若くて、まだ部下たちをうまく統率する力量を持たなかった僕に、ここでストレスを発散するといいと言ってくれた。本来幹部しか入れないんだけど、二泊まで泊まれるし、この店は会社の傘下だから注文も自由にするといいって。」

 眼下の国道、テールランプの列がゆらゆらと揺れる。

「しょっちゅうきていたよ。ここに来て、こうやって、窓から街を眺める。それだけで、また頑張れるような、そんな気がするんだ。ワインを飲みながら外を眺めて、夜はそこの入り口から寝室に入って、眠る。」

 彼は手を挙げた。その指の示す先、壁にぽっかりと穴があいたように入り口があって、その奥には、二人も横になればもう一杯になってしまいそうな、大きなベッドが置いてある。

「今でも、元気がなくなったとき、心が折れそうな時には、よくここに来る。ここは、僕の社会人としての原点だから。」

「・・・なんで・・・」ようやく取り戻した声は、けれど、掠れていた。「なんで、ウチなんかを・・・?」

 どうして?どうして私を連れてきたの?

 頭の中でぐるぐる回る疑問は、けれどほどける事無く回りつづける。そして、ふと気がついた。

タッキーも、わずかだけれど、声が震えている。

「・・・君が、ご両親の海外勤務で寂しい思いをしているのは知っていた。」タッキーは静かな声で話し始めた。「けれどそれでも、僕はこれ以上、君との関係に、深いところへ踏み入ってはいけないと思っていた。君は若いし、僕には妻もいる。君を望むことは、本当は許されないことだということも分かっている。」

 肩に置かれた手に、少しだけ力が入ったのが分かる。その分だけ骨がきしむように痛くなる。

 彼の言葉に見える、感情のもどかしさと、切なさ。

「君が僕をどう思っているかは、分かっているつもりだ。それに僕も、君に好意を持っている。こういう関係が、本当は続かない方がいいのも分かっている。けれど僕は、やっぱり踏み切れないんだ。こんな風に、このままの関係を維持する方がいいはずなのに・・・」

 私は彼の唇に指を当てた。これ以上、言葉は要らない。身体をくるりと反転させると、そっと伸び上がって、彼の唇とのわずかな距離を埋める。軽く触れて、それだけで唇を離す。彼を見上げると、少しだけ戸惑ったような、迷っているような、そんな複雑な表情で彼は立っていた。

 彼の手から離れ、私はぽっかり空いた入り口からベッドルームへと入る。ベッドの向こう側に、小さなテーブル。入り口の脇にある、小さな一人がけのソファ。

 コートをそっと脱いで、ソファに置く。入り口を振り返ると、彼はまだ戸惑ったような表情のままで、入り口のところで立ち止まっていた。

「壊して。」私は言った。「あなたの手で。言葉なんていらないから、だから、あなたの手で、ぐちゃぐちゃにウチを潰して。それが、タッキーのしなきゃいけないことよ。」

 彼はいつのまにか、私のそばまで歩いてきていた。

 その瞳に、もう迷いの色はなかった。

 いつもよりも少し乱暴に、少し強く、けれど彼らしい丁寧さで、私の腕をつかんだ。

 彼の手が伸び、私は服を着たまま、ベッドに投げ出される。

 スプリングの感覚。剥がれてゆく服の感覚。彼の大きな手。舌と舌の絡み合う、熱の溶け合うような心地。

 私は目を閉じ、全てを、彼に預けた。


☪☪☪


 次の朝、太陽の光に目が覚めた。

 昨日までとは違う身体の感覚に、馴れるまで少し時間が必要だった。

違和感。

 寂しいような、嬉しいような、そんな矛盾した感覚に襲われて、私は軽くまぶたをこする。

 ベッドから降り、冬の朝、肌を刺す冷たい空気に、私は思わず身体をブルッと震わせた。床に落ちていた服を身につけると、リビングを覗き込む。朝の太陽が東側から射し込んで、テーブルに置かれたワインの瓶がキラリと光る。

テーブルに立てられた、一対のワイングラス。

わずかにそこに残った赤味は、私の飲みそこねた分だろう。

 ふと思い立ってワインを注ぎ、口に含んでみる。空気に触れてしまったそれはもはや味を失ってしまっていて、けれどそれでも、アルコールとわずかな果実味があって。

 シャワーの音がする。

 土曜日の朝。学校は休み。彼は午後から出張で、出勤する必要もないのだと言っていた。

 窓から見下ろした朝の国道は、まだみんな眠っているのか、いつもよりもスムーズに流れているように見える。

 つかの間の幸福。

 昼を過ぎ、家に帰れば、私はきっと郁たちに誘われ、買い物にでも出かけるのだろう。真夜中の語り合いを胸に秘めたまま。この幸福を胸に秘めたまま。

 朝が、終わろうとしていた。




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