Ⅱ・pluie
雨が降っている。
マンションの中で寝転んでみる雨は、薄い簾のようだ。僕はこんな雨が嫌いではない。昔は連休の雨など大嫌いだったのに、最近はこんなふうに音を立てて落ちる雨は、嫌いではない。
パタパタパタ・・・
リズミカルに心地よく窓を叩く雨が、枯れかかった観葉植物の鉢を濡らしている。美咲さんの趣味だ。確か、レモングラスとか言ったっけ。
不意に、玄関の扉がガチャガチャ鳴って、開いた。美咲さんが、スーパーの袋を抱えて入ってくる。
「お帰り。」僕は玄関まで出て彼女に声をかけた。美咲さんは袋を降ろしながら、「もう帰ってたの?」と驚いて見せる。
「日曜日だっつの。」僕は苦笑した。
美咲さんは、父の再婚相手だ。どこでどう知り合ったのかは知らないが、去年二人は結婚した。彼女は二十八歳、僕のほうが年齢的には近い。父とは一回り違い、僕とは十歳ほど違う。母というよりも姉といった方が近い気がして、彼女がはじめて家に来た時には、僕はものすごい違和感を覚えた。だから今でも僕は彼女のことを母さんと呼べずに、「美咲さん」と呼んでいる。
「今日、父さんは?」
「出張。今日は茨城だから、帰ってこないわよ。」
美咲さんは僕の問いに答えながら、袋の中身を冷蔵庫に移し始めた。僕はテレビを見ながら、彼女の背中を見つめている。水に濡れたTシャツが肩甲骨を浮かび上がらせて、やたらとセクシーだった。
「あ、そういえば服濡れてるんだ。」
袋の中身を全て写し終えてから、美咲さんは思い出したように言って、脱衣所のほうに歩いて行った。なぜか分からないけれど、彼女は雨に濡れると、必ずシャワーを浴びたがる。僕はやれやれと立ち上がり、ボイラーのスイッチを入れた。
「何見てるの?」
バスルームから出てきた美咲さんが、ソファに座った僕を見ていった。髪を拭きながら歩いてくる美咲さんの姿はどこか艶かしくて、僕はドキドキしてしまう。
「映画だよ。」僕は目を逸らすようにして言った。美咲さんは画面を覗き込む。
「『007』?古いもの見てるわね。」
「そう古くもないよ。格好いいし。」
僕が呟くと、彼女は僕の隣に座り、冷蔵庫から取った缶ビールのフタを開ける。
「飲む?」
彼女はもう一缶を掲げてみせる。僕は頷き、それを受け取った。プルタブを引っ張り、喉に流し込む。体の奥の方が熱くなる。
そっと美咲さんの顔に唇を寄せると、軽く耳をかんだ。彼女は一瞬ふっと息を止めて、けれどその呼吸は、やや荒くなり始める。
カチリ。身体のどこか、聞きなれたスイッチの音がした。
「抵抗しないの?」
僕が小声で尋ねると、彼女は苦しそうに首を振る。そっとその首を押さえると、僕の唇を彼女に押し当てた 僕は彼女の首をこちらに向けさせ、そっと唇を押し付ける。美咲さんは一瞬体を強張らせたが、すぐに力を抜き、僕の舌に応えるように、動き始めた。
この人は、今僕の目の前にいるこの愛しい人は、しかしながら、義理とはいえ僕の母親でもあるのだ。
堕ちてゆく、快楽。
強い背徳感。悲しく、愛しい、永遠に叶うことのない恋。
外はまだ雨だ。
☪☪☪
「浩二!コージ!」
聞きなれた声にぼんやり振り返ると、そこに郁が立っていた。何かに怒っているのか、ふくれっつらだ。
「・・・なんつー顔してんだよ。怒ってんの?何で?」
「何で昨日、電話出てくれなかったのよ。電源入ってなかったし。」
「ああなるほどね。」僕は苦笑してみせた。「病院行ったときから切ったままだった。忘れてた。」
嘘だ。昨日の夜は、美咲さんと一緒にいた。僕も美咲さんも、そのときになると携帯電話の電源は切ることにしている。2人だけの時を、邪魔されたくない。
それが例え、恋人の電話であったとしても。
「病院?・・・ああ、そうか、もう薬切れてたの?」
「前に行ったの一ヶ月ぐらい前だったからな。まあ、もらいに行かないといけなかった。」
半分は本当だ。検診に行く必要はあった。けれどそんなに急がなくても、まだ薬はいくつか余っていて取りに行く必要はない。
「・・・まあ、いいけど。」
どこか憮然としない表情を浮かべ、それから普通の笑顔に戻って、「数学教えてよ。」と言った。
郁と付き合い始めて、もうすぐ一年になる。可愛らしく、空気も読める子で、だからこそ僕は、彼女を突き放すことが出来ないでいる。
また少し成績が落ちた、と、彼女は深刻な顔で言った。放課後の教室は静かで、外から聞こえる野球部やサッカー部の声だけが、時間の経つことの手がかりになる。
「数列がヤバイの。これ、ここ。」
教材を見て即座に判断し、シャーペンで指し示しながら説明する。
「ここの分からないところを文字にするわけ。例えば、a、bと置くと、ここは2b=3+a。」
「何で?」
「等差中項の公式って言って、こうなるようになってるの。」
「出る?」
「八割は。」
他愛もない学生の会話。だからこそ、一緒にいて気まずくならない。
「で、これにbを代入して、cが出る。」
「へぇー!」
「感心してないで解けって。」
「うん。」
シャーペンを数学のプリントの上でさらさら走らせながら、郁は呟いた。
「ねえ浩二。」
「ん?」回答をチェックしながら、相槌を打つ。
「別に連絡取れないのは仕方ないけどさ、」ぴたりとシャーペンの動きを止めて、プリントを見たまま、郁は言った。「嘘はつかないでよ。」
ドキッとした。
「・・・嘘?」
「・・・とぼけるのね。」郁はまたシャーペンを動かし始めた。「浩二、私さ、隠し事は嫌いじゃないけど、隠していることを知ってて、しらんぷりなんか出来ないの。知ってるでしょう?」
だから、と、郁はシャーペンを置いて僕を見た。
「隠さないでよ。本当のことを言って。でないと、私・・・」
言葉は、そこで途切れた。僕を見つめる郁の瞳はひどくまっすぐで、僕はたじろいだ。
なんだか、とても情けない気持ちになっていた。
☪☪☪
「そりゃ、津村は何か感づいてんだろ。」
高広が決め付けたように言って、グイッとコップを飲み干した。一升瓶を握ると、それをひっくり返す勢いでとくとくとコップを満たした。
「うん、僕もそう思う。・・・高広、飲みすぎ。」そう諌めたのは、勇だ。高広は、もう顔が真っ赤になっている。
「問題は、」高広がコップを持って言った。「津村が、何を分かってるかだ。」
勇の家は昔ながらの木造二階建てなのだが、僕らはたまにこうやって集まって、座敷に座り込んで日本酒を飲む。僕と勇はザルだが、高広はそうではない。一杯飲んで酔っ払い、2杯目をちびちびと飲んで、寝てしまうのだ。
「さあ?」僕は肩をすくめて見せた。「心当たりはないですな。」
「・・・んだよ、ただの痴話喧嘩・・・かよ・・・」高広はふてくされた顔をした。「つーか、お前ら、どうやって長く続いてんだよ、彼女と。」
ここで言う彼女とは、僕にとっての郁、勇にとっての遙のことだ。
「うーん・・・僕は一緒にいるだけだからなー・・・」勇は考えながらぽつぽつ呟く。僕は高広をからかった。
「つーかコツとか訊く前に彼女を作ったらどうだ?」
「そーなんだよなー・・・」相槌を打ちながら、高広はごろりと寝転がった。そして、そのまま寝息を立て始めた。
「あーあ、寝るなって言ったのに・・・」
そう言いながらも、高広を見る勇の目は優しい。高広の手からコップを取って横にすると、また座りなおし、「で?」と、これは僕に向かっていった。
「津村さんの感づいてることって言うのは、もしかして、美咲さんのこと?」
勇は言った。僕は頷く。
「何?見られたの?」
「・・・いや、そうじゃないんだけど。」僕は言って、酒を少し飲んだ。腹の底が熱くなる。
「お前、律子さんは?」
「うん・・・まあ、変わらないかな。」勇は苦笑した。「昨日もね、また愚痴を聞かされてたんだ。夫の帰りが遅い、だのなんだの。」
律子さん、とは、勇と寄り添っている女性だ。三十八歳、童顔でスレンダー、若々しく、そして人妻である。勇は僕ら三人の仲では一番無邪気で素直だ。そういうところが、律子さんを惹きつけたのかもしれない。
「律子さん、ヒステリーなんだよね。」勇はそう言いながら、一升瓶を空けた。「まあ、そういうところが、やっぱり僕は好きなんだけど。」
「・・・すげぇサラッと言うな。」僕が呟くと、勇は「何が?」と目をぱちぱちさせた。勇にとって「好き」という気持ちは、彼の素直で堂々とした気持ちなのだろう。
「美咲さんと、うまく言ってないの?」
「・・・いや、そういうわけでもないけどさ、」僕はコップに注がれた酒をちびちびと飲んだ。「美咲さん、自己主張少ないからさ。」
僕らは二人して高広を見た。ガッチリした顔つきに似合わない純粋なハートを持っている高広には、僕も勇も不倫のことについては何も伝えていない。受け容れられるほど、彼は恋愛に慣れていない。
「俺と二人のときは、気を遣ってんのもあるかもだけど、親父のことなんてカケラも言わないよ。」
「そうだよねぇ。美咲さん、そういうこと口にするタイプじゃないしねぇ。」
したり顔で言う勇の、その表情が面白くて、僕は思わず吹き出した。
「・・・ま、焼酎ロックに合わせるには、」
「うん。ちょうどいい肴だね。」
勇は言って、それから苦笑して見せた。
☪☪☪
雨は降らなければ困るし、けれど降りっぱなしも憂鬱になる。
暗くなった部屋、ぼんやりとベランダを見つめる。叩きつける雨はけれど、窓を濡らすことはなくて、だから世界は妙にクリアだ。
突然携帯が震えだし、僕はテーブルからそれを取って開く。メールボックスを開くと、郁からのメールが一通届いていた。
『夕飯食べに来ない?今日親がいないから、一緒に食べる人いなくて・・・』
僕は驚くよりも先に困惑した。あの日から、僕らはほとんど話をしていない。その後初めてのお誘いが、家だ。美咲さんは、今日はパートで、十時ごろにならないと帰ってこない。それよりも遅くなるなら、メールを入れておけばいいだけだ。
『OK、今から出るよ。』
そう返信すると、僕は服を着替え、携帯と財布をポケットに入れてから玄関に向かった。傘をもって家を出ると、鍵を閉める。一階まで降りると、エントランスにある郵便受けに鍵を入れた。マンションを出て、空を見上げる。雨は思っていたよりも弱く、僕はひとつ頷いてから、傘を差して歩き始めた。
足もと、傘をかわした雨粒がコンクリートに跳ねて、ジーンズをわずかに濡らす。ぐっしょりと濡れることもないが、それでもわずかに裾はハリを失っていく。バス停の待合所に駆け込んだときには、その部分は徐々に色を濃くし始めていた。椅子に座って脚をばたばたやっていると、バスがすっと停留所前に現れた。
彼女の家は、この地域でもっとも大きなバスターミナルの裏側にある、マンション乱立地帯の真っ只中にあった。
十五分ほどバスに揺られると、駅ビルとドッキングしたバスターミナルに着く。西口から裏通りの方へと抜けると、ビルが立ち並ぶオフィス街に出ることになる。僕はその中へ入っていき、ビルとビルのわずかな道路の中へと入ってゆく。そこに、彼女のすむ一軒家があった。彼女の父親の経営する会社がその真後ろにあり、そのためここに家を建てたらしい。
チャイムを鳴らすと、インターホンから声がする。
「ちょっと待ってて、今あけるから。」
すぐにブツン、とそれが途切れ、やがてドアが開き、郁が姿を現した。
「いらっしゃい。」郁はニコッと笑う。「入ってよ。まだ夕飯には早いけど。」
「お邪魔します。」
僕は小さく呟いて、用意されたスリッパに履き替えてから歩き出した。
リビングに入る瞬間、僕はやっぱりいつも通り、一瞬だけ逡巡する。
高級感の漂うソファ、絨毯、テーブル。天井から吊り下がったランプはあちこちの出っ張った奇妙なデザインのもので、中で乱反射した光が広がり、そのおかげで部屋は変に温かいオレンジ色に包まれている。
「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
キッチンから郁の声がする。僕は少しだけ考えてから、紅茶を選んだ。
テレビでは白黒の画面が細々と動いていた。見覚えのある、ヒゲの印象的な俳優が、機械工場で働く男をコミカルな動きで演じている。イギリスだったか、ドイツだったか。それは怒りの象徴。あるいは、悲哀の叫び。
「『モダン=タイムス』よ。」
声に振り返ると、郁はティーカップを二つ載せた銀盆をテーブルにおき、カップを下ろしていた。さらに乗った大きなクッキーのようなものは、確かスコーンとか言ったっけ。カップから湯気が上がっている。アールグレイ特有の、ベルガモットの香りがした。
「チャップリンかぁ・・・」僕はソファに座ると、カップを持ち上げる。「見たことなかった。郁って、こんなのも見るの?」
「親の影響もあるんだけどね。」郁はキッチンから戻ると、僕の隣に座る。「チャップリンって、この時代に生きてた貧民階級の人たちの気持ちを代弁してるところがあってさ。それを直截的な批判じゃなくて、こういう形で婉曲的に表現するって、すごいことだと思う。」
「チャップリンって、そんな作品だったのか・・・」僕は思わず溜息をついていた。「全然知らなかったな、俺。ただのヒゲの映画監督だと思ってた。」
「何?その形容。」郁はくすくすとおかしそうに笑って見せた。「どうせだし、最後まで見ようよ。」
そして僕たちは二人並んで座ったまま、『モダン=タイムス』を見た。
コミカルでユーモラスなストーリー。主役は、貧民層の少しだけおかしな男。何度も警察につかまっては出所し、その中で親を失ったホームレスの少女と出会い、恋をし、そしてまた捕まり、全てを失い、それでも最後には、彼女と共に笑顔で未来へ向かって歩いていく。セリフというセリフがほとんどないのに、とても笑える映画だった。
けれどその物語には、当時の暗い時代背景が浮き彫りになっている。機械文明の出現によって急増した失業者たち。彼らの起こすストライキや警官隊の横暴。さりげないほどに、当然のように描き出される世界観。けれどそれは確かに、婉曲的で、それでいてどこか直截的なメタ・メッセージ。
ぼんやり、夕暮れのような部屋の中、僕らは並んだまま、白黒の画面を見つめていた。
☪☪☪
「へぇ・・・」僕は思わず目を丸くした。「美味いな・・・意外だ。」
「何よ、それ。」郁はぷっと膨れて見せながら、けれど嬉しそうに頬を紅く染めた。
夕食は唐揚げだった。唐揚げというのは、一見揚げるだけの簡単な料理に見えて、実はとても難しい。そう、僕は知っている。このさっくりとした衣を揚げる、その難しさを。
「これすげぇよ。この衣が、変に油っぽくないのがすげぇ。俺こんな揚げ方出来ないんだよなぁ・・・」僕はそう言いながら味噌汁を口にする。「うおっ!こっちも美味ぇ!」
「もう、ちょっと褒めすぎ・・・」郁はテーブルの向こう側、茶碗を持ったまま紅くなっている。その姿が妙に可愛らしくて、僕はドキッとしてしまった。
食事を終え、僕は食卓に肘をついて、洗い物をする郁の背中をぼんやりと眺める。洗剤のついた皿を実に手際よく流し、食器洗浄機にてきぱきと立てていく。まるで手品のようだ。
「つーか俺、お前が家事得意なんて知らなかったぜ?」
「いや、別にあんまりひけらかすことでもないのかなーって。」水音にかき消されない程度の声で、郁は言った。「だって皿洗いよ?結構誰でも出来るでしょ?」
「お前、今、家事の出来ない女の子達全員にケンカを売ったな?」
僕は苦笑して立ち上がり、リビングのソファに座った。テレビは、先ほどから賑やかなお笑いバラエティ番組を放映している。
「はい、浩二。」
声に振り返ると、郁がニッコリと微笑んでビールを差し出していた。
「マジで?いいの?」
「うん。ホントは父さんのなんだけど、どうせ今日職員旅行で、父さんも母さんも帰ってこないから。」
ビールを開けようと仕立てが、一瞬空中で止まった。
「・・・あれ?仕事で帰りが遅くなるとかじゃないんだ?」
「そ。鬼怒川温泉行ってるの。」
「渋っ。」
そう呟きながらも、体の奥の方、あのスイッチの音の手前に感じる、奇妙な感覚が上ってくるのを感じる。
僕はテーブルに缶を置くと、ソファから立ち上がった。
「俺・・・帰るわ。」
「え?」郁が驚いて僕の袖を掴む。「どうしたの?何で突然・・・?」
僕は少しだけためらって、それから言った。
「・・・このままだと、俺多分ヤバい。今日は俺、薬も持ってきてないんだよ。」
胸が息苦しくなってくる。少しだけ胸をさするが、それくらいでは、その焼きつくような感覚は消えてくれない。
「知ってる。泊まるつもりもなかったってことも、だから薬なんて持ってきてないことも。」
そう囁いた郁はけれど、袖を離してはくれなかった。怯えるように、声が震える。
「ねえ、浩二。私・・・」
その瞳は、わずかに潤んでいた。
カチン。
あの音が聞こえ、そして気がつくと、僕は彼女の上から覆い被さるようにして、彼女をソファに押し倒していた。最初は怯えるように肩をすくめた郁も、けれどすぐにすっと力を抜き、ゆっくり目を閉じる。唇を押し当てるだけのキスから、徐々にそれは熱を帯びてゆく。もはや僕は、完全にもうひとつの人格を発現させていた。
どちらかが、本当の僕。
けれど、どちらも、本当の僕。
普段それを抑えている化学物質の力が弱まって、その行動の制御を完全に不可能としていた。もはや僕は、戻れないことを自覚して、突き進み始めていた。
唇を離すと、下から彼女が僕の目を見つめている。
「思ってるほど、生易しいもんじゃないぜ。」僕が小さな声で囁く。知ってる、と、彼女は頷いた。
「私は、浩二のそういうところも好きなのよ。」
☪☪☪
脂汗が出ている。マンションのドアを開けると、這うようにキッチンへ入り、薬棚を開けた。中に並んだ袋のうち、唯一色が青いものを取り出して、中から錠剤を取り出す。二錠をシートから押し出すと口に投げ入れて、水道水で喉に流し込む。しばらくじっと伏せていると、徐々に脂汗が引いていき、濡れたシャツがべっとりと背中に張り付いてきた。気持ち悪いと感じる余裕すらなかったのか。愕然とすると同時に、なんだか少しおかしかった。
服を洗濯機に投げ込んでからリビングに入っていくと、ソファに身を投げ出すようにして座り込む。疲労感と共に上ってくる、奇妙な達成感。ぼんやりとした頭でテーブルを見て、思わず顔をしかめた。
おそらく、美咲さんが食べてから家を出たのだろう、インスタントスパゲティの空が無造作に置きっぱなしになっていた。それを持って立ち上がると、もう一度キッチンに行って、ゴミ箱にそれを捨てた。
ソファに座りなおし、窓を見上げる。
外は今日も雨だった。時計を見ると、もうすぐ5時だ。それなのに、雨はその勢いを落とす気配すら見せない。ヴェールのように濃く白い雨が、ただ降りしきる。
梅雨の雨はあまりに長い。過ごしている時間が余りに無作為に思える。そこに思考の入り込む余地はない。この連休をこうしてぼんやりと過ごすのが、妙に贅沢に感じられる。
郁は、今日はバイトだと言っていた。ドラッグストアのレジ係。うちの高校の厳しい校則をくぐりぬけ、けれど郁は楽しんで仕事をしていた。だからこそ、僕は逃れるようにして彼女の家を後にしたのだ。
ふいに玄関でガチャガチャと音がして、僕ははっと我に帰る。ドアが開き閉じる音を聞きながら、僕は玄関へ出る。
「お帰り、美咲さん。」
僕の声に、濡れた髪をそっと撫でていた美咲さんははっと振り返って微笑んだ。
「ただいま。」
「スパゲッティの空、片付けといたよ。」彼女の荷物を受け取りながら僕は言った。「それとも、何かに使う予定だった?」
「え?ううん。」美咲さんは首を振り、それから微笑んだ。「ごめんね、ありがと。」
美咲さんはバッグを置くと、そのままシャワーに入っていく。僕はキッチンに入って、いつものようにボイラーのスイッチを押した。
リビングに戻ると、バッグの中から『モダン=タイムス』のDVDを取り出し、テレビの前に座り込む。郁が貸してくれたのだ。DVDデッキにそれを差し込むと、テレビ画面の設定を変えて、ソファに戻る。
シャワーの音が聞こえる。それが僕の、小さな決意を揺さぶる。
☪☪☪
僕らはその夜、セックスをした。
僕らはいつもよりも静かに、いつもよりも激しく、けれど、いつもよりもどこか他人行儀にそれを行った。彼女にも、僕にも、なんとなく分かっていた。僕らの周りを囲っていた奇妙な、けれど厚い壁は、この瞬間にはもう取り壊されているように思えた。
それを壊したのが自分であることも、僕は分かっていた。
そして、僕がそれを壊した理由も、美咲さんには分かっているようだった。
行為が終わると、美咲さんは欠片も休むことなく、ベッドを降りて、備え付けの小型冷蔵庫の方へと歩き出した。
「ねえ、美咲さん・・・」
ためらうように僕が呼びかけると、けれど美咲さんは何も言わずに、冷蔵庫から取ったミネラルウォーターを僕に投げた。それを受け取ると、彼女はただ首を振った。
「分かってる。」美咲さんは呟いた。「言わなくてもいい。ちゃんと分かってる。」
僕が何も言えずにいると、彼女はまたベッドに登り、背にもたれるように座った。ミネラルウォーターを半分ほど一気に飲み干すと、でもね、と、けだるそうに言った。
「私はもうだめ。もう戻れないの。深い海の底に来ちゃって、周りには何もない。浮きたいと思っても、どっちが上なのかわかんない。浩二君の隣にいると、それだけで居心地がよくて、このまま溺れたってかまわないって思えちゃう。」
また体のどこかで、カチッ、音がした。だから、と、彼女はそれに気付くそぶりもなく、サイドテーブルにペットボトルを置いて、それから僕の胸にそっと触れた。
「だから、今日だけは、私の隣にいて。明日からはもういらないから、だから今は、私を許して。私を、あなたで染め上げて。」
僕は彼女の唇を奪いながら、サイドテーブルにペットボトルを置いた。一瞬だけ硬くなった身体、けれど彼女はすぐに僕に身を任せ、その舌に応える。
僕は彼女を信じて。彼女は僕を信じて。
深く落ちた底から見る海面は遠く、けれどそれでも確実に見えている。
ちらりと窓の外を見ると、雨はいつのまにか消え、満月が晧々と光っていた。 僕らは、明日の夜には、きっともう義理の親子の関係に戻っているだろう。父と交えて3人で、食卓を囲み、父の土産話に笑い声を漏らすだろう。
だからきっと、今夜は眠らない。
月は輝く。今夜、僕らが時を忘れて、互いを求め合っていても。
月は輝く。晧々と。ただ、晧々と。