Ⅰ・raison de^tre
大人は汚い。
嘘。
作り笑い。
セックス。
歯噛みすればするほどに、その度に、私は大人に近付いている。
それがたまらなくて、私は私が嫌いだ。
☪☪☪
頬を撫でるひんやりとした風に、目が覚める。
夜。
見慣れない部屋。
ただ月明かりだけが晧々(こうこう)としていて、開いた窓の隙間から差し込んでくる。
優良はその窓の桟に座り込んで、煙草を吸っている。ジーパンだけ身につけて、その筋肉質な肉体を惜しげもなく夜風にさらしていた。
彼はふっと私を振り返った。
「あ、悪い。起こしちまったか。」
月明かりが目にまぶしくて、彼の表情は見えない。いいよ、とだけ私は呟いて、ベッドから体を起こした。素肌を滑り落ちてゆく、ポリエステルのシーツの感覚。わずかだがまだ肉感の残った心地よさに、自己嫌悪を感じる。振り払った感情を置き去りにして、私はベッドを出てローブを身に着け、優良の膝元にそっと座る。
「吸うか?」
優良の言葉に首を振る。
煙草は嫌い。
やにのにおいは好きなのに。
「月が綺麗ね。」
窓から覗き込むように見上げた夜空に、私は溜息をついた。優良が私の髪をそっと撫でる。
私の髪を好きだという優良。優良の煙草のにおいが好きな私。
じゃあ、私に髪がなかったなら。
優良が煙草を吸わなかったら。
ふっと優良を見ると、優良は一瞬首をかしげ、困ったように微笑む。
「どうかした?」
胸に走る、わずかな感情のゆがみ。たった一筋であっても、私を苦しめてしまう。
憎しみ。あるいはいとおしさ。
それを解き放つために、私は彼の唇にキスをする。彼も私に答えてくれる。口の中に広がる煙草の香りが、媚薬のように私を駆り立てていく。
分かっている。全て、私は分かっている。
彼の腕に身をゆだねながら、私は自らを呪う。誰かの温もりを求めていたくて、だからこそ、優良の隣にいる自分を呪う。そんな事を考えてしまう、自分の愚かさを呪う。
また今日も。きっと明日も。
☪☪☪
「マナ。」
茜の呼ぶ声に、私は文庫本から顔を上げる。茜は前の席から身を乗り出して、私に話し掛けてくる。
「昨日のあれ、考えてくれた?」茜は朗らかな声で言った。
「あれって?」
「もー。すぐ忘れるんだから。」くすくす笑ってそれから彼女は続けた。「ほら、舘高との合コンの話!」
「ああ、あれ?」私は文庫本にしおりをはさみながら返す。「うん、いいよ別に。」
「また今日は妙にあっさりしてるわね・・・」茜はやや呆れたように言った。
「まあ、気分ってものがあるから。」
「茜!マナ!」
教室の入り口から声がした。振り返ると、赤毛のショートボブが揺れる。特徴的な、赤いフレームの眼鏡。
「典子!」
茜が嬉しそうに呼んだ。リコはとことこと歩いてくると、私の隣の席、今は空いているところに座る。
「マナ、今日も優良君来てないんだけど。知らない?」
典子は座るなり私に尋ねる。私は首をかしげた。
「・・・いや、今日は何も言ってなかったけど・・・バイトとも言ってなかったし。」
「酒井くん、最近よく休むわね。」茜が眉をしかめて呟いた。「なんかヤバイこととかに巻き込まれてないといいけど。」
私は笑って見せた。
「あいつにそんな度胸はないって。昨日も一緒だったけど、そんな空気なかったし。心配しなくていいと思うよ?」
典子も茜も不安そうな顔をしたが、何も言わなかった。
作り笑い。
嘘。
やっぱり繰り返す。
私は文庫本をカバンにしまうと、そっと立ち上がった。
「帰るの?部活は?」
「行かない。有紗にごめんって、言っといてくれない?」
典子の問いに首を振ると、私は教室を出て校舎を渡り、昇降口へと向かう。
昇降口の下駄箱の並び、私はひとつ隣のクラスを覗き込んだ。14番、酒井優良。中に入ったスリッパは、ぽつねんと一人寂しく、座っている。
駐輪場でバイクに荷物を詰め、ヘルメットをかぶってエンジンを動かす。飛び乗って、学校の敷地を西側へまわってから、裏通りに続く脇道を走る。
優良の家は、「千々石ヒルズ」と呼ばれる高級住宅街の中にある。この辺りでは金持ちの住む町として知られ、舗装されたレンガ道が高級感を演出する住宅街。
「千々石ヒルズ」に入り込み、3軒目の白い家。そこが、優良の家だ。
バイクを駐車場に停めて、玄関にかけていき、チャイムを押す。パタパタと玄関ホールをかけてくる音がして、ドアが開いた。
「・・・何やってんだ?お前は。」
ドアを開けた優良は、開口一番そう言った。髪はぼさぼさで、服はダルダルのTシャツにジーンズ。優良の仕事着だ。
「それはこっちのセリフ。」私は優良の開けた隙間をすり抜けて玄関に入りながら言い返す。「何で今日学校来なかったの?仕事?」
「そ。終わんなかったんだ。」優良はぼりぼりと頭をかいた。「明日〆切だからさ。ちっとまずいんだよな。」
「手伝う?」
「いや、いいよ。もう出来上がったし。」優良は微笑んだ。「見る?」
「うん。」
私は頷いて、ホールへと上がる。
優良のアトリエは、この家の北側、一番日当たりの悪い部屋にある。最高のための窓を塞ぎ、明るい蛍光灯を付けた。北側のガラス張りの大窓以外には、外の光をとる術はない。
部屋の中心に、そして、その造形物はあった。
「・・・わぁ・・・」思わず溜息が出る。
「『天に楯突いた男の最後』。」優良は微笑んだ。
上半身を槍で貫かれた男。地に仰向けに突き立てられ、しかしその手は、天に差し向けられている。
何かを求めているのか。
あるいは、手離しているのか。
「これが目玉になるのね?」
3メートル弱もある塑像を見上げて、私は優良に尋ねる。優良は頷いた。
「今度の個展は、俺の作品を初お披露目するって感じだから。そうなると、中心に持ってくるものはキッチリ仕上げたくてさ。」
私は、その気持ちは分かる、と頷いた。
完成。すなわち実体。
そこにあるのは、それが真実と呼ばれるもの。
偶像崇拝に近いけれど、けれどそれとはどこか違う。優良の作る塑像はいつもシンプルで、その主人公は何かに苦悶している。今回の塑像の主人公である青年も、下界の女性への愛を貫くために天の意思に逆らい、神々の矢に撃ちぬかれた天使がモチーフだ。
何も食べていないと言った優良のために、私は2階のキッチンへ上がり、食事を作った。
優良に、両親はいない。私とよく似ている。だからこそ私は、優良に惹かれるのかもしれない。
存在理由。優良といる意味。
食事が終わると、私たちは寝室に行って、一度だけセックスをした。
欲望のままに私を求める優良は、私の愛する優良ではない。そのとき、優良はただの雄になる。そしてそれに答えるように、私は自らの雌性を解き放ち、ただただ肉体に溺れる。
セックス。
私の憎むもの。そして、私の愛するもの。
悲しみ。あるいはそれに準ずるもの。
寂しさ。あるいはそれを補完するもの。
溺れれば溺れるほどに、私は自らをそこに縛り付けていく。
例えば優良と肌を合わせていても、私の存在理由を証明することは出来る。呼吸を合わせ、体を馴染ませれば、それでいい。
たとえ心が乾いて、そこになかったとしても。
存在理由。
あるいはそれすらも、嘘。
☪☪☪
「マナ、調子悪いの?」
隣に座る茜が心配そうな表情で顔を覗き込む。別に、どうもないよ、大丈夫。そう呟いて、私は小さく微笑んでみせる。
「大丈夫?マナちゃん。」運転席の男が、バックミラーを覗き込みながら言う。「水か何か飲む?コンビニ寄ろうか?」
「いえ。大丈夫です。」私はもう一度首を振った。大したことはない。2週に一度は顔を出す痛み。生理とは違って、上腹部を圧迫するような痛みは、これから15分ほど続く。
いつものことだ。
「ならいいけど。」彼はそう言って、信号で車をとめた。「しんどくなったらすぐに言えよ?手遅れにならないうちに。」
「ありがと、恭介。」茜が微笑む。嘘。あるいは作り笑い。あまりにも馴れ合いで、私は吐きそうになる。
大川恭介は、高校生ではない。舘高との合コンに、唯一先輩格としてやってきた大学生だ。ただ、合コン目的というよりは食料目的といった方が近い、ラフな恰好をしていた。
街の明かりが糸を引くように通り過ぎてゆく。あの光は果たしてまやかしか、それとも現実か。
嘘という現実。虚空という実体。
それは矛盾しあっているようで、互いを支えあっている。
車がマンションに着くと、私と茜は車を降りた。
「じゃあ、おやすみ。」助手席の窓を下ろして大川は言うと、それから私を見た。「大丈夫?」
「はい。」私は笑顔で頷いた。「大丈夫です。ありがと、心配してくださって。」
「急に病院とか行かなくちゃってなったりしたら、茜に言えばすぐ飛んでくるから。」
それじゃ、と、彼は朗らかに笑って、窓の向こう側に消える。車は走り出して、あっという間に、国道の向こう側へと消えていった。
「いい人じゃん。」茜に言うと、けれど茜は眉をしかめた。
「あれがぁ?」
「何?茜、大川さん嫌いなの?」
「嫌いって言うかなんていうか・・・」茜はオートロックを解きながら、ぶつぶつと呟いた。「ちっちゃいころからずっと一緒だからさ、何かイヤなのよね。あいつの空気とか、思考回路とか。」
その姿がなんだかおかしくて、私はくすくすと笑った。
「何言ってんだか。」
「うるさいわよ。」茜は仏頂面で答えながら、エレベーターに乗り込んで6階のボタンを押した。
扉が閉まり、エレベーターは上昇する。わずかな時間が、少し長く感じる。閉塞感。扉が開き、そして私たちはエレベーターを降りる。
彼女の家は突き当たりから3つ目、私の家の2つ手前だ。そのドアの前までくると、茜は私を振り返り、言った。
「じゃあ、おやすみマナ。」
「うん、おやすみ。」
私はそのドアを通り過ぎると、私は突き当たりのドアの鍵を開け、部屋へと入る。
閉塞感。
玄関のパンプスがもう消えている。母さんは今日から仕事のようだ。
玄関の電気を点けてリビングに入る。ハンドバッグを適当に投げて、ソファに飛び乗る。スプリングが私の体を跳ね上げて、私はバランスを崩して、ソファに倒れこんだ。
穏やかにきしむスプリング。ソファ。虚ろな視界。
無機質な天井には、母さんお気に入りの魔方陣が張ってある。
閉塞感。
疎外感。
虚無感。
ふいに喉の渇きを覚えて、私は体を起こす。刹那、上腹部に痛みを感じるが、波は和らいでいる。
シンクに行き、流しに備え付けてある浄水器から、一杯水を汲む。グラスを満たした水を一気に飲み干すと、渇いた喉は、それによって滑らかな潤いを取り戻している。
再生。
あるいは補完。
暗いリビングの隅、箪笥の上の、伏せられた写真立て。ふっと気がつき、私はそれを手にとって、中の写真を確かめた。
幸せそうに微笑む、父と母。その2人の真ん中で、この上なく無邪気な笑顔をしている、幼いころの自分。
穢れる前の私。
憎しみ。それがどこへ向かったものなのか、私は知らない。胸の奥から、頭のてっぺん、あるいは指先まで通うほどの、どす黒い感情。
ピシッ、という乾いた音にはっと我に帰る。指先にしびれるような痛みが広がって、私は慌てて写真立てを見た。
写真の真ん中下辺り、ちょうど私の腹のあたりに、親指大のひびが広がっていた。写真立てを持ち替えて手をそっと翻すと、親指の先は切れ、手のひらは、おそらくガラスが飛んだのだろう、鋭く深く、手のひらを縦断するように切り傷が入っていた。少しずつ、血が流れていく。
わずかずつ膨らむ赤い雫を、私は舌で掬い上げる。
湿った痛み。
血の香り。
そうか、と、私は思った。これが、私の味なのか。
キッチンに立って、シンクの上に手をかざす。滴り落ちる血。銀のシンクに広がる、紅の液体。
澱が抜けていく。
私が清められていく。
もっと、もっと、もっと。
私の中で、何かが音を立てて動き始めた。
銀の光。左手のナイフの反射。
次の瞬間、頭の中で黄色の閃光が走り、右手を鋭い痛みが駆け抜ける。
迸る、大量の紅い液体。
点々と紅くなっていくシンク。
深く切れた、手首。
染められた絹糸のように糸を引いて落ちていく血の美しさに、ただ私は恍惚と魅入った。
☪☪☪
「リスカはもうしないって、約束したろ?」
優良は厳しい口調で、私の手首のガーゼを取り替え、包帯を手に取った。
「・・・ごめん。」
「4針だぞ?4針。」優良は包帯を私の手首に巻きつける。痛くないよう、そっと。「下手すると神経までイッてたかもしんねーんだぞ?右手だからよかったけど・・・包丁持ってたのが右手だったら、完全にアウトだった。」
少し、むっとする。
なにもしらないくせにあんたにわたしのことなんかなんにもわからないくせにほっといてよもういいよそばにこないで。
口に出しかけた言葉を、けれど私は押し込める。
非反抗。
違う。私は諍いが怖いだけ。
いさかいが、こわいだけ。
存在理由。
つまりそれが、優良の隣にいる理由。
「・・・ごめん。」
小さく呟くと、優良は溜息をついて、包帯の端を引き裂き、二つになったそれで腕を縛って、包帯を留めた。
「ともかく、これから気をつけろよ。これ以上深く切ったら、もう腕を切断するしかないらしいから。ところで・・・」優良は私の隣に座って、ふうっと天井を仰いだ。「どうする?正直、上の部屋に泊まってくれたほうが俺としては都合がいいんだけど。お前にとっても、そうだと思うし。」
「・・・どういう意味?」
私が尋ねると、優良は肩をすくめた。
「家に帰るにしろ、ここに泊まるにしろ、今のお前には介助が要る。・・・介助っつーか、家政婦?つまり、」優良は私の右手を指差した。「その手じゃメシ作れねーだろ?コンビニ弁当とかそんなんばっかじゃ偏るし、おばさんもまだ戻ってこないし。それなら、うちに泊まってくれた方が、俺は楽。」
いやだ。私は心の中で泣き叫んだ。泊まるのはいやだ、帰るのもいやだ、怪我した右腕がいやだ。
感情が渦巻く。抑えが効かない。昔抱えていた怒りの奔流は、確かこの感覚によく似ていた。私とは違う、私の中の別の誰かが、大声で叫んでいる。
どうしてほっといてくれないのわたしにかまわないでひとりにさせてなにもいらないからただわたしをほっといて。
けれど言葉は喉もとから上に上ることはなく、唇を割ってでてきたのは、「泊まる。」と呟く声だった。
「OK。じゃあ俺の部屋掃除してくるから。」優良はほっとしたように言って、それから真剣な表情で眉根に皺を寄せた。「俺、命令してるみたいだな、なんか。ごめん。」
私が首を振ると、けれどそれでも優良はしばらく躊躇って、それからリビングを出て行った。
一人残されたリビング。
改めて見回すと、優良の生活感があふれているようで、少し心地よく感じる。
体が、馴染む感じ。
それは、懐かしさといってもいいかもしれない。
パソコンテーブルに目をやった時、私はふと気が着いて立ち上がった。
パソコンデスクに近付く。脇のサイドテーブルに、写真立てが2つ。ひとつは、私のうちにあった写真のように、ぱたりと伏せられていた。
起きているほうの写真立てを見る。思わず、クスッと笑ってしまった。私と優良の初デートの時に撮ったプリクラ。わざわざ写真にして、しかも写真立てに入れておくなんて。バッチリ決めた私の表情に対して、 優良はどんな表情をしていいのか分からずに、中途半端なところで笑いを止めてしまっている。
ひとしきり笑った後で、私は伏せてあるほうの写真立てを手にとる。裏を向けたまま一瞬だけ逡巡し、けれど私は、それをひっくり返した。
どこかのスタジオで撮られた、一枚の家族写真。優良によく似た男性が、眼鏡をかけた顔で微笑んでいる。女性の方は微笑みというよりも満面の笑みを浮かべていて、幸せそうな空気がこちらまで伝わってきた。その手に抱かれている、白い毛布に包まった、赤ん坊。何かを握るように、その手をぎゅっと握りしめて眠っていた
その写真のどこにも、穢れなどなかった。
あるのは、美。
かなり昔に撮ったらしく、円形の額に入れられたそれは、ひどく色褪せ、セピア色になっていた。
考えなくても、分かる。
その写真と、私の写真が、並んでおいてある。
胸が、ぎゅっと締め付けられるような気がした。
泣きそうに。嬉しそうに。
ゆうら。
ただ心の中だけでつぶやいたはずの声が、唇の隙間からこぼれ落ちる。それを聞きつけたらしく、優良は奥の部屋からひょっこりと顔を出し、私に首を傾げてみせる。
愛しい人の顔。
私は駆け出し、彼に飛びついた。彼は驚きながらも、力強い腕で私を抱きとめ、思い切り抱きしめてくれた。
優良の腕の中で、私はただただ泣きつづける。
手に持ったセピア色の写真のなかで、愛しい人を産んでくれた、2人の大人が笑っている。
私の唇が、意識もしないで何度も動いた。優良に伝えたい。ただそれだけで、唇から声が洩れつづけた。
ありがとう。ごめんね。
優良は何も言わなかったけれど、一言言うたびに、少しづつ、私を抱きしめる力が強くなっていった。
☪☪☪
大人は、美しい。
嘘。
作り笑い。
セックス。
それは未来のための共通言語。
それは微笑む前の小さな儀式。
それは命のしなやかさ。
進むことを拒んでいた私の中の小さな痛みは、わずかな輪郭だけを残して、消えていった。
存在理由。
それは、あるいはわたしそのもの。
私がここにいる理由。
それは、優良といっしょにいる理由。
☪☪☪
ベッドの上で、優良の指先に嬌声を上げながら、私は感情の変化を確かめる。
存在理由。
呼吸を合わせ、湿った体を馴染ませるためのものではない。
心が在って、初めてそこに、理由ができる。
彼の雄性。私の雌性。
窓から覗き込む月は、互いを解放しあった私たちを、夜から醒めた表情で見つめていた。