5.minestra di lacrima
「実に、美しい音色だ」
どれほどの時間、私は笛を吹いていたのだろうか。背後から愛しい人の声が聞こえて、振り返る。高くはないけれど、鈴を転がす風のように軽やかで、心地よく耳の奥に届く声。
「サンドロ!」
明け放たれた格子の窓、秋の風がふわりと舞上げた薄いレースのカーテンが翻る。その向こう側に、陽光を背に受けたサンドロが微笑みながら佇んでいた。脚のことなんて忘れて、サンドロに駆け寄る。窓の手前で膝ががくりと崩れ落ちたと同時にサンドロの首に腕をまわして淡く口づける。首筋から微かに汗と青い草の香り、かぎ慣れない花の香りが香る。きっと、馬術の稽古を終えてすぐに飛んできてくれたのだ。痺れて力が入らない自分の脚のことも忘れて、幸福感に頬が緩まりそうになる。
「…………え?」
―――――サンドロの、服を見るまでは。
「シンツィア? ……ああ」
太陽のように私の全てを包み込むような慈しみの眼差しを注いでくれていた彼も、私の視線の先にあるものに気がついて苦笑いする。……引き攣って、上手く笑うことができない顔で。
身だしなみに気を使う彼の服は、いつもその美しい金髪を引き立てるようなコバルトブルーや若草色、赤など鮮やかで澄んだ色だった。それに加えて、ボタンに合わせた小物やマントの裏地にも気を使っている人だ。それなのに、今日の彼の服は、上質だけれど質素なシルクのシャツと、すっきりしたスラックスだ。しかも、夜空から零れた涙で染め上げたような漆黒。彼が黒を着ているのなんて――――短い期間だけれど、今まで見たことがない。それに、彼の身につけているもので輝くものは、その金糸の様な髪と宝石のような二つの濃い青の瞳しかない。いつも薔薇色の頬は、今日は冷えて青白い。
「王が……父が、亡くなったんだ」
「―――――っ」
北国の王はもう長くないという噂は、周辺の国をはじめ私の国にも届いていた。父はもう長くない、と彼の口からも直接聞いた。彼から微かに香った花の香りは王に手向けた別れの花の香だったのだ。サンドロはどこか乾いた表情で、でも心では必死に涙を堪えている。さっきの、上手く笑えていない顔は彼の心を写した鏡なのだ。
「サンドロ……っ」
震えて殆ど力の入らない手で彼の腕を引いて、部屋の中に引き入れる。私と同じで床に座り込んだ彼の頭をぎゅう、と音が出そうなくらい強く抱きしめる。柔らかな金の髪を手で梳いて、頭に頬を寄せる。人が死んだとき、言葉での慰めなんて無意味だ。それは、お母様が亡くなった時に私が感じたことだった。どんなに言葉を並べたところで、当人同士の関係の内ではないと分からない感情なのだ。それなのに、そんな、一時の薄っぺらな言葉なんかで人の死を飾らないでほしかった。どうせ、知らないくせに。辛くて辛くて、独りで泣けずにもいたときに、隣にいた弟が私のことを慰めてくれた。唖者だった弟は小さな手で、ぎゅっと私を抱きしめるだけだった。それでも、その温もりこそが優しさだと思った。その温もりを与えてくれた弟も、お母様と同じ病気で今は雲の上で微笑む天使となってしまったけれど。
「……うっ、ひく……う、う、えぐっ……う」
「……」
サンドロの嗚咽が漏れる。ブラウスの胸元にじんわりと温かい涙が染み込む。ずっと、我慢していたに違いない。国を統る、強く誇り高い王が日に日に弱っていく姿を見ているだけで、辛かったはずだ。臥せって以前のように威厳がなくなった痩せた身体を見るのは、辛かったはずだ。誰も口には出さないけれど、死期が近付いているのを感じた王宮内の雰囲気は、辛かったはずだ。
「……っ」
私も、声を殺して泣いた。肌に触れた涙から、耳から入ってくる泣き声から、サンドロの悲しみが私の中でもいっぱいになる。このまま、互いの涙が交じって溶け合ってしまいたい。
――――どれぐらい、泣いただろうか。ふらりとサンドロの頭が揺れる。少し乱れた金色の髪の下、真っ赤に染まった目は、どこか焦点があっていない。さっきよりかは色の戻った頬には、幾筋も薄く涙の流れた跡が残っている。
「今日……あったんだ」
「?」
「今日、ひとつだけ……いいことがあったんだ」
「いい……こと?」
こくり、と頷くと少し幼い笑顔を浮かべる。はにかんだような、でもちょっぴり拗ねたようにも見える笑顔。
「兄様が、明日正式に王位を継がれるんだ」
本当は、父様が兄様に戴冠するところをみたかったなぁ。なんて、呟く。
嗚呼、彼がどうしてあんな異名をとるのかがわかった気がする。優しくて、気高くて、決して枯れずに人に希望を与えるのだ。容姿だけじゃない。あなたの、そんなところが人を惹き付けてやまないのだ。