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ううう… 恥ずかしい、恥ずかしい… 恥ずかしすぎる。
人通りの多い街中で常務にしがみついて号泣するなんて…
駅前やオフィス街じゃなかったのが、せめてもの救いだけど。多分あの場所に知り合いはいないと思うけど、でも、でも、でも!
穴があったら入りたい。ううん、自分で掘ってでも埋まりたいくらい。いっそのこと海の深くに沈んでしまおうか。
あああ… 出来ることなら常務の記憶を消去してしまいたい。
無理だけど、分かっているけど、どうにかならないかな。
そうだ、後頭部を強く打ったら記憶喪失になるって聞いたことがある。
後ろから殴ってみようか。
ダメだ。下手したら殺人犯だ。
今、私はホテルのソファーに座って、さっき自分がしでかしたコトのあまりの恥ずかしさに、身悶えしている最中です。
失恋の痛手により、公衆の面前で常務に抱きついて泣いてしまった私…
結構長い時間、泣いていたと思う。
それでもなんとか泣き止んで、とりあえずこの場から移動しようと歩き出したら、間の悪いことにゲリラ豪雨に見舞われて、風俗店で雨宿りするわけにもいかず、ずぶ濡れになってしまったのだ。
なので、常務が懇意にしている駅前のシティホテルに無理を言って、一部屋用立ててもらい、濡れた服は(下着もだったりする)クリーニングへ、冷えた体はお風呂へと直行したのだ。
私が先に入り、今は常務がお風呂に入っている。
今のうちに逃亡したい気分だが、バスローブの下はまっぱだしな。
はっ! これってもしかしてすごくマズイ状況なのでは。
若い男女が裸同然でホテルの一室に、しかも相手は女に手の早い常務だし。
私ってば貞操の危機!?
でも、この部屋だって無理にお願いして用意してもらったのに、もう一部屋なんて言えない。
クリーニングが仕上がるまでの時間、それだけ持ちこたえればいい。
頑張れ私。大丈夫、乗り切ってみせる。
視線を移すとスマホが目に入った。手にとってひとつ溜息を吐く。
やはりカズ君から何の連絡も入っていない。
カズ君は、このまま『さよなら』で構わないってことなんだね。
自分から『さよなら』と言っておきながら、私はもう既に後悔でいっぱいだ。
あの時は『もう無理、もう待てない』と思ったけれど、カズ君のいない生活に私は耐えていけるのだろうか。
だけどカズ君は私を必要としていないってことだよね。
涙がまたポロリとこぼれる。
情緒不安定だな…
それに今日一日で私の決断が二転三転してるし…
これから暫らくの間、ポジティブとネガティブを繰り返していくことになるんだろう。
物思いに耽っていると、突然目の前にコップが現れた。
驚いて見上げると、風呂上りで色気が120%アップした常務が立っていた。
「えーと、これは?」
「ウィスキーだ。体が温まる」
確かにお風呂に入ったとはいえ、雨に濡れて凍えきった体は、まだどこか冷たい気がする。
だけどウィスキーのストレートって…
まっ、まさか私を酔わせて襲う気じゃ…
私が訝しげな視線を送っていると、常務は不思議そうな顔をした。しかし、すぐに私が何を考えているのか思い当たったようだ。
人の悪い笑みを口元に乗せると、
「安心しろ。酔わせて口説くつもりはない。それともそれを期待しているのか?」
「ま、まさか…」
常務は笑い声を上げながら私の隣に座る。
「お望みなら今から始めようか。もう二人の間に障害はないのだろう? 何の気兼ねなく私に口説かれればいい」
「えっ?」
もしかして別れたこと知っているの? さっきの見られていた?
いや近くにこんなキラキラオーラを持つ常務がいたら、いやでも気付くだろう。それとも気付かないほどテンッパっていたんだろうか。
「な、なんで… 」
「なぜ分かったか不思議か?」
こくこくと私は頷いた。
「亜也子が泣く理由はそれぐらいしか思い浮かばない」
私のことよく御存知で…
前に『人の心を察しろ!』って思ったけど、実はすごいスキルを持ってたんですね。
優雅な仕草で常務はウィスキーを口に運んでいる。
悔しいぐらい格好いい。
私も常務を真似て一口含んでみた。
ウィスキーの香りと独特の苦味が口いっぱいに広がる。
「おいしい… 」
更にもう一口、そしてもう一口とウィスキーを味わう。
今までウィスキーをストレートで飲んだことはなかったけれど、すごく美味しく感じた。
暫らくすると体がポカポカと温まってきて、気分も落ち着いてきた。そして私はある考えが浮かんできた。
常務に私の気持ちを話そう。
バスローブ一枚しか身に着けていない、なんとも締まらない格好だけど、この際気にしないでおこう。だって、きちんと話せる絶好のチャンスだもの。
私は居住まいを正して常務に話しかけた。
「成瀬さん。私、やっぱりあなたとの結婚は考えられません。だから二人で会うのも、これで最後にしてほしいんです」
「…… 」
「成瀬さんとのデートとても楽しかったです。それに落ち込んでいる私を勇気付けてくださったり、今だって… 成瀬さんには感謝しています。でも、好きとか結婚したいとかそんな風に思えないんです。ですからこのまま交際を続けていても意味がありません。社長には私から説明します。ちゃんとけじめをつけますから」
「けじめ、ね。会社を辞めるつもりか?」
「それも視野に入れています」
「なるほど。そこまで考えているとなると、決心は固いのだな。私は亜也子をその気に出来なかったわけか。亜也子は私には魅力を感じない?」
なんでそっち方向に話しがいくんでしょうか。
常務にとって大事なのはそこなんですね。
「成瀬さんはとても魅力的ですよ。忘れかけていたときめきを思い出させてくれましたもの。だけど好きという感情が持てないんです」
「そうだろうか? 今まで二宮とのことがあったから、持たないようにしていただけじゃないのか」
「いえ、そんなことは… 」
「ないと言える?」
誤魔化しや嘘は許さないぞといわんばかりの真剣な眼差しで、常務は私を見つめる。
だから私も、ふと考えてしまった。
常務の言うとおり、カズ君という彼氏がいることがストッパーになっていて、常務に対する思いに蓋をしていたのかもしれないと。
確かに常務といると、初めて恋をした時のようにドキドキときめいたし、一緒にいると楽しかった。
これは、恋?
私、常務のことを好きになっているのかな?
「二宮とは終わったのだろう? それなら私とのことをもっとよく考えてほしい」
「ですが… 」
「私達は付き合いだして日が浅い。お互いのことを、まだほとんど知らない。私は亜也子のことをもっと知りたい。そして亜也子に私のことを知ってもらいたい」
「成瀬さん… 」
常務の手が私の手にそっと重なった。
大きくて温かい手。
触れられた所から熱が全身に駆け巡っていくみたいに感じる。
「私は君に惹かれている。亜也子となら真剣な恋が出来そうな気がするんだ」
常務のもう片方の手が、今度は私の頬を包み込む。
熱の籠もった視線で見つめられ、常務から目を離すことが出来ない。
心臓の音が身体中に響いている。
あきらかに私の体温は2~3度上昇した。
ダメだ。常務の色気に当てられて、もう何も考えられない。
「二人の間を遮るものはもう何もないはず。だから亜也子は誰に遠慮することなく私を好きになれる」
それはまるで呪文のように私の心に入り込んできた。
「好きだよ、亜也子」
常務はそう耳元で囁くと、優しく私を抱きしめた。
常務の温もりに全身包まれて、私は心が安らいでいくのを感じた。
これは新しい恋の始まりなのかもしれない。
そして私は深い眠りに落ちていった。