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不本意だが常務との交際は順調に続いている。
恋愛経験が豊富な常務は実に女心をよく理解していらっしゃる。そして女性の喜ばせ方もよくご存知だ。
誰かさんとは大違い…
いけないとは思いつつ、つい比べてしまう。未だに会うことのできないカズ君と。
あれ、もしかしてこれは二股をかけている事になるのだろうか。
喧嘩してから会ってはいないけど私には彼氏がいる。それなのに半ば強制とはいえ、常務と週一のデートをしているのだ。
そしてそのデートを楽しんじゃったりしてる…
私が二股なんて、信じられない… でもこの状況はそれ以外のなにものでもない。
浮気、不倫、略奪愛… 当事者にはそれなりの事情があるのだろうけど、それらは周囲の人達を苦しめるもの。だから私はそんな恋愛はしないでおこうと心に決めていた。それなのに…
こんな状態を続けていたら私の精神衛生上よろしくない。
今すぐにでもスッキリとした関係にしないと自己嫌悪に陥ってしまう。
今までいろいろ考えてきたけど、やっぱり私はカズ君のことが好きで、カズ君以外の人と結婚する気にはなれない。
二ヶ月近くもの間悩み抜いて出した結論だ。だから、もう迷わない!!
まずは常務との中途半端な関係を終わらせよう。
この不健全な状態は常務とのお見合いから始まっている。
騙されるかたちでお見合いの席に引っ張り出され、すぐにお断りしたのに有耶無耶にされ、社長の巧みな話術に乗せられてこんな事になってしまった。
うん、諸悪の根源はあの古狸だ。
何故そこまでして私と常務を結婚させたいのか理解に苦しむが、それを知ったところで『そういうわけなら結婚します』とはならないのだから、そこはスルーする。
ただはっきり断った場合会社に居づらくなるかもしれない。それでもいい。その覚悟はできた。
そして全てを終わらせたらカズ君に会いに行こう。
無視されても怒られても諦めない。カズ君が許してくれるまで、何度でも誠心誠意謝ろう。
そうと決まればあとは実行あるのみ。
ということで、会社からの帰り道、駅の改札口の前で思い立った私は、人込みを避けて常務に連絡をとろうとスマホを手にした。
『大事な話しをしたいので次のデートは静かな場所でお願いします』そんな感じでいいかな… と思いながら通話を選ぶ。
コール1回… 2回…
「あれ、亜也さん」
声をかけられ振り向くとそこにはカズ君が立っていた。
私はビックリ驚いて、おもわず電話を切ってしまった。
“しまった電話切っちゃた。いやしかしそれよりなんでここにカズ君が?”
普段カズ君は、この駅を利用しない。今までここで偶然に会うことなんてなかった。
何故このタイミングで会う? 確かに許してもらうまで何度でも会いに行こうと思っていたけど、まだ心の準備が出来てないよ。
ゆえに私は思いっきり挙動不審者になった。
「あのカズ君、これは偶然だから。決してカズ君の後をつけたりとかそんなんじゃないから…」
「ふふ… 何言ってるの亜也さん。それより久し振りだね」
カズ君はいつものように柔らかい笑みをこぼす。
あれ? どうして? 『もう会いたくない!』的なコトを言って帰ってしまったはずなのに。偶然でも必然でも、次に会うときは険悪な雰囲気になるだろうと思っていたのに。なんで?
なんで、いつものように超癒しオーラ全開で接してくれるの?
私は恐る恐る口を開いた。
「あのカズ君。怒ってないの?」
「怒るって何に?」
「…私がカズ君に酷いことを言って怒らせちゃったじゃない」
「…何かあったっけ?」
「…… 」
まさか、まさかとは思うが覚えてないの?
私はあの日以来、何であんな事を言ってしまったのかと何度も後悔し、そしてカズ君に指摘されたように、心のどこかでカズ君のこと軽視していたのかもしれないと、深く反省していたのに。
すぐにでも会って謝りたいのをグッと堪えて、執筆の邪魔にならないようにとメールも一日一回にして…
メール… 今日は返信が来るかも。今日こそは何か連絡が来るかも… ここ最近はそんな期待を持って待っていた。
なのに、カズ君は怒っている訳でもないのに私のメールを無視していたの?
ずうっと、毎日欠かさずしていたのに。
「カズ君。私のメール読んでくれてた?」
「えっ、あっ、うん。毎日してくれてたみたいだね。実はこの二ヶ月目が回りそうなくらい忙しくてね、まだ全部読んでないんだ。大変だったんだよ、研究室で飼育しているトラフグに寄生虫が発生してね、あっという間に全滅寸前になってしまって… 」
カズ君はトラフグの病気の話をえんえんと続けた。
私はそんなカズ君を呆然として見てた。
きっとトラフグの騒動で、私と言い合いしたことなんてすっかり忘れていたに違いない。それどころか、私の存在すら忘れてたかもね。
いつもそう。カズ君はこの世で一番魚が大事。
カズ君は魚以外のことはさして興味を持たない。
私はいつまでたってもカズ君の一番にはなれないんだね。
「ごめんカズ君。私、もう無理かもしれない」
「無理って何が?」
「私、カズ君が准教授になって私との結婚を考えてくれるのを待つつもりでいたけど、それは無理みたい…」
「亜也さん、突然どうしたの?」
カズ君にとっては突然の話しだよね。
でも私はずっと悩んでいて、会社を辞めることになってもいい、いくつになってもカズ君を待ち続けるって、やっとの思い出決断したんだよ。
だけど…
「カズ君、今までありがとう。とても楽しかったよ。さようなら」
どうにかそれだけ口にして、私はカズ君の前から走り去った。
聞いたことがある。好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だと。
分かっていた。分かっていたけど、辛いよ。苦しいよ。悲しいよ。
カズ君の一番は魚で、私はその他大勢のなかのひとつ。決して特別にはなれない。
私から行動を起こさなければ、もう二人の時間が交わることもないだろう。
走っていた足を止め、後ろを振り返り溜息を吐く。
やっぱり追いかけてきてはくれないか。
スマホも沈黙したままだ。
それでもまだ、心の何処かで期待している自分の滑稽さに笑えてきた。
けれど目には涙が滲む。
涙をぬぐい、唇を嚙み締めて私はあてもなく歩き出した。
そうしないと大声で泣き叫んでしまいそうなのだ。
それからどのくらい歩いただろうか、突然スマホが震えた。“もしかしてカズ君から?” 私は慌てて電話に出た。
「もしもし、カズ君!」
『…成瀬です。先程電話をくれたみたいだが何か用か?』
違った…
その時物凄い絶望感が全身を走って、私は言葉を返すことが出来なかった。
『どうした亜也子。何か用事があったんだろう?』
何も言わない私を不審に思ったのか、常務が優しい声で尋ねてくる。何度か名前を呼ばれてようやく我に戻った。
『大丈夫か亜也子。何があった!』
「あっ、すみません成瀬さん。大丈夫です、なんでもないです」
『そうか? なんだか何時もと様子が違うような気がするが』
泣いてるのバレちゃったかな…
「何時もこんな感じですよ」
『それに心なしか声が上擦っているようだし』
「そんなことありません。気のせいですよ」
『本当に? 何かトラブルに巻き込まれたとかじゃなく?』
…なんでトラブル? まあある意味トラブルかな。凄い常務。あなたは千里眼か!
「いつもどおり平穏無事です。なんでそんなこと言うんですか?」
『…なら、なんでこんな所にいる?』
「えっ?」
言われて辺りを見回すと、ここは駅裏にある歓楽街。男性のパラダイス。女一人でウロウロする様な場所ではない。
私ってばいくら涙を堪えるため闇雲に歩いていたとはいえ、こんな危険地帯に足を踏み入れてたとは… 迂闊すぎる。
というか、何故私がこんな場所にいるって分かったんだ? 常務、あなたは本当に千里眼か!
その時、スマホを片手にキョロキョロする私の肩を掴む人があった。
「きゃあ! 何すん…のって常務?」
振り向いたら少し息を切らせた常務がそこにいた。
「やっと追いついた。意外と足が速いんだな、亜也子」
派手なネオン。客引きの怪しげな外人女性。そして酔っ払いの男、男、男。
その中に仕立てのいいスーツをきっちり着こなした極上の美男子。
あきらかに場違い。物凄く浮いてます、ここだけ…
「えっ、と成瀬さん。なんでここに? まさかここに贔屓のお店があるんですか?」
「何を馬鹿なことを言っている。駅前で亜也子に声を掛けたのに無視しただろう。それどころか、まるで逃げるように行ってしまったから、気になって追いかけて来たんだ」
「えっ、全然気付かなかった」
「亜也子こそ何故こんな所へ? ここでアルバイトでもしているのか?」
…まさかと思うけど、常務って天然?
「違いますよ、み、道を間違えて迷い込んだんです」
「本当に?」
「本当です!」
常務が不意に私の頬に手を伸ばした。
「涙のあとがある。やはり何かあったのだろう」
見上げると、心配そうな常務の顔が目に入った。頬からは常務の手の温もりが伝わってくる。その温かさに堪えていた全てが弾けとんだ。
そして私は常務の胸の中で、まるで子供のように泣きじゃっくっていた。