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それでも朝はやってくる。
私はいつものように出勤し、いつも以上に働いた。
仕事をしている時は余計なことを考えない。だからいつもは後輩に任せている3時のお茶出しも、自分から進んで始めた。
給湯室で準備をしていたら、薫がひょいとやって来た。
「ねえ亜也子、なにかあったの?」
普段通りにしているつもりでも、目敏い彼女は気付いているようだ。
「へへ… 分かる? 昨日ちょっとやっちゃった」
「ふーん、結構落ち込んでるみたいね」
「薫には隠せないな…」
努めて明るく振舞う。大丈夫たいしたことないって素振りをする。だけど薫は誤魔化されないだろうな。
「よし、今晩飲みに行こう。話しくらい聞いてあげるわよ」
「いいよ、旦那さんに悪いし」
「大丈夫、大丈夫。時には私も外で飲みたいしね。…あっ、これ手伝うよ」
そう言って、薫は湯飲みを半分お盆に乗せて、給湯室を出て行った。
美味しい料理とお酒、そして和やかな雰囲気を持つ和食の店。
いつもは楽しく食べて飲んではしゃぐのだけど、今日はそんな気分にはなれない。
私の話しを聞いている薫も神妙な顔をしている。
「…ごめん亜也子。私が煽ったからこんなことに」
「違うよ薫。カズ君を怒らせたのは、私の言い方が悪かったからだもの」
「あー、まあ確かに、そこは一緒に頑張ろうって言うべきだったね」
「だよね…」
いつもなら次から次へと話は尽きないのに、今日は二人とも言葉少なだ。
「けどさ、あの彼氏のことだもの、三日も経てばすっかり忘れてるんじゃない。論文が出来上がったら謝りに行くんでしょ」
「いくつも論文を抱えてるんだもの、終わりなんてないよ。たとえ出来上がったとしても、すでに次の準備に取り掛かってるし」
「つまり、もう会わないって言われちゃったってこと?」
認めたくはないけど、それに近い。それどころか電話やメールも今までどおり出来ない。それも無期限で…
それから暫らく沈黙が続いた。間が持たなくてお酒を口にする回数だけが増えていく。でも酔いが回ってこない。辛いお酒って酔えないんだね。
「あのさ、亜也子、怒らないで聞いてくれる? これは彼氏と決着をつけるいい機会じゃないかな」
「決着?」
「そうだよ。このまま付き合ってても結婚は望めないってことなんでしょ」
「そんなこと…!」
ないと言おうとして言えなかった。カズ君から結婚する気はないと、はっきり言われたばかりだ。
「准教授になったら考えるって、いつ准教授になるの? 5年後、10年後、それとももっと? 亜也子それずっと待ち続けるの?」
「それは… 」
「そりゃ最近では女性の適齢期をとやかく言わなくなったけど、子供を産むつもりなら、やっぱり年齢を考えなくちゃダメよ」
薫が私のことを心配して、苦言を呈してくれているのは分かる。でも、出来れば聞きたくないことばかりだ。
「彼と今まで通り続けるつもりなら、結婚も子供も諦める。それくらいの覚悟を持たなきゃいけないってコトよ。その覚悟、亜也子にはあるの?」
それは私も心のどこかで思っていたこと。でも改めて言葉にされるととても傷つく。
「きついこと言ってゴメン。でも… 」
「ううん、ありがとう薫。私のことこんなに心配してくれて、嬉しいよ。 うん、薫の言いたいことは分かった。これからよく考えるよ。自分はこの先どうしたいのか、どうなりたいのか、じっくり考えるから… 」
それでやっと私と薫に笑顔が戻った。
「じゃ辛気臭いのはもうヤメね。酒は楽しく飲まなきゃ!」
そう言って薫が料理とお酒を追加した。
いつものペースに戻って、お互い言いたい事を言い合って、少しお酒が回ってきた頃、薫が突拍子もないことを言い出した。
「私としては、亜也子と常務がくっついたらいいと思ってるんだけどね」
「何言ってんの薫。もう酔っ払ってんのぉ」
「酔ってるよ。だから思ってること言っちゃう。お買い得だと思うよ常務は。男前だし、仕事はできるし」
「だけど性格あわないもん。それに女性関係派手だし」
「うーん、そこがネックだよね」
それから二人して常務をさんざんこき下ろした後、上司の悪口や会社の愚痴に花を咲かせた。
気分よく飲んだ帰り道、私は電車に揺られながら考えを整理していた。
私、吉野亜也子は27才の独身女性。仕事にやりがいは感じているけど、そろそろ結婚して子供を産み幸せな家庭を作りたいと思ってる。
だからって相手は誰でもいいわけじゃない。やっぱり好きな人とじゃなきゃ嫌だ。
私が一番好きな人は二宮和臣さん。だけど彼は生活が不安定だという理由で、結婚は考えられないと言う。
だから私は今、選択しなければならない。彼が結婚を考えてくれるまで待つか、彼と別れて新しい恋を見つけるか、どちらかだ。
そんなの簡単に決められるわけないじゃない。
それから時間が空くたびに、考え事をするようになった。
カズ君以外の人とは考えられないと思っていても、このまま待ち続けて年を重ねていいのかとも考えてしまう。考えれば考えるほど、自分がどうしたらいいのか分からなくなっていく。
喫茶コーナーで缶コーヒーを飲みながら悩んでいると、薫がやって来た。
「あっ、いたいた亜也子。井上主任が捜してたよ」
「りょーかい」
空缶をゴミ箱にほり込んで秘書室に戻ると、慌てた様子で井上主任が説明し始めた。
「先程、後藤物産からクレームがあがった。先方は大層ご立腹で、社長自ら出向いて謝罪することになったのでその準備を手伝ってくれ」
「はい」
「それからこの後のスケジュールのうちの一件、社長の代わりに吉野さんに行ってもらうことになったから」
「はっ?」
社長の代理で行くってどこに? というか、無理でしょ私に代役なんて。
「主任、それは私ではなく副社長か専務にお願いした方が…」
「もちろん仕事の方はそちらに振った。吉野さんはプライベートの方。今日クラシックのコンサートに奥様と同伴される予定だったのだが、これでは間に合いそうにない。それで奥様と一緒にコンサートへ行ってほしいんだ」
クラシックコンサート? ああ、あのプレゼントのチケット、今日だったんだ… なんて悠長に考えてる場合じゃない。
「無理です、主任。私クラシックのことほとんど知りません。コンサートなんて3分で眠る自信があります」
「寝ないよう頑張ってくれ。突然のことで奥様は機嫌を損ねている可能性がある。そこのところ踏まえたうえで宜しく頼むよ」
それから社長と主任は慌ただしく用意して、後藤物産へと向かった。
奥様のご機嫌伺いか… 仕方ないこれも仕事、給料の内。嫌味の一つや二つ笑顔で耐えてみせる。
私は気合を入れて2時間に及ぶコンサートを乗り切った。
奥様をお迎えに行ってから帰宅するまでの間、奥様は親しく私に接してくださった。
ふう、やれやれ助かった。どうやら奥様の機嫌を損ねることなく終わりそうだ。私は玄関先でようやく安堵しかけたそのとき。
「主人が来れないと聞いて残念に思っていたけど、若いお嬢さんと御一緒というのも楽しくていいわね。これからもお誘いしてよろしいかしら吉野さん」
私が返答に困っていると、肯定ととらえたのか「また今度ね。おやすみなさい」と微笑んで奥様は家に入って行ってしまった。
えっ、ちょっと待ってください奥様。私Yesとは言ってませんよ。どうして御自分に都合のいい解釈を… まさか、これもまたあの狸親父に仕組まれた? もしかして着々と外堀を埋められているのか?
あの奥様、優しそうでいて結構押しの強いタイプとみた。これはまずい。このままだと押し切られてしまう。
ここはやはり常務と私、二人して社長にはっきり断りを入れるしかない。正直気が進まないが、常務と私がタッグを組んで事に当たらないと、社長に強引に持っていかれそうな気がする。
私は薫に頼んで、常務と話しをする場を作ってもらった。
立派な革張りの椅子にゆったりくつろぐ常務に、私は礼儀正しくお願いをした。
「私もその意見に賛成だ」
「ではよろs 「だが少し遅かった。父に先手を打たれた」…え?」
常務は軽く溜息を吐くと苦笑いを浮かべた。
「私のために選んだ見合い相手にどんな不満があるのか。よく付き合いもせずに簡単に断るな。嫌だと言うならそれだけの理由をあげてみろ… とまあ言われてね」
嫌な予感がする。
「交渉術は父のほうが何枚も上手だ、敵わない」
物凄く嫌な予感が…
常務は天井を見上げて盛大な溜息を吐くと、視線を私に戻した。
「父を納得させられるだけの理由がみつかるまで、君と結婚を前提とした交際をすることを約束させられた」
「そんな、無理です出来ません」
「即答だね」
「もっ、申し訳ございません。ですが常務と結婚を前提とした交際をするなんて…」
「そうだね、私も君とそんな交際はしたくない。だから… 」
「だから?」
「断る理由を見つけるために、暫らくの間結婚を前提としない交際をすることにした」
「はあっ!?」
私は上役に対して相応しくない返答をしてしまった。けど、今はそんなの構ってられない。
「なんですかそれ、そんなことしなくても、納得させる理由なんて沢山あるでしょう」
「納得させられなかったと言っているだろう。という訳で初デートだ。6時に地下駐車場、私の車の前で待っていろ」
「嫌です、行きません」
すると常務は意地の悪い笑みを浮かべた。
「…そうか、では秘書室まで迎えに行ってやろう」
「それは絶対止めてください」
そんなことされたら、いったいどんな噂が広まるやら。それでなくても常務と私がお見合いしたことが、社内に洩れてるのに。
「なら駐車場で待ち合わせだ」
「これから社長にはっきり断ってきます。だから必要ありません!」
「ほお、そうか。健闘を祈る」
私は常務の部屋を出ると、急いで社長室を目指した。
常務はやっぱり疫病神だ。なんでこんな面倒なことに… けれどここで手を打っておかないと本当にまずい。
私は頭の中で断りの文句を組み立てていった。