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スマホが着信を知らせる。
私は名前を確認してそのまま放置する。
しばらくすると着信音がプツリと途絶える。そして私は着信拒否の操作をした。
カズ君から電話してくるなんて珍しい。さよならを言ってから約半月、今まで何も言ってこなかったのに今更どうしたんだろう?
私は気持ちの折り合いをようやく付けて、カズ君のことを過去の事にしようと努力している最中。今、うっかり電話を取ったりしたら、また逆戻りしてしまいそうなのだ。
本当なら番号を削除すべきなんだろうけど… でも、そこまで出来ない私は、やっぱり意思が弱いのだろう。
カズ君はあの『さよなら』の意味を理解していないのかもしれない。
だけど、このまま会うことも連絡を取ることもしないでいれば、いずれ疎遠になっていくと思う。それでなくても、私の存在をよく忘れていたものね。
そして今、カズ君の傍にはあの村岡さんがいるはず。
清楚で可憐な感じの女の子だった。私にあんな事を言いにくるくらいだもの、真面目で正義感の強い子なのだろう。
きっとカズ君とお似合いだよ。彼女とうまくいくといいね。そうすればカズ君の未来は明るいものになるよね。
私は私の未来を探す。
その為には今を精一杯生きていかなきゃね。
そして私は日常を懸命に過ごす。会社に行ってクタクタになるまで働いて、薫相手に愚痴ったり、マリエに活を入れてもらったりする。
仕事が生き甲斐とまではいかないけど、でも楽しい。
なんだ、私、大丈夫じゃん!
ちゃんと心の底から笑っているよ。
今が楽しいって、思えるようになってる。
「なんだか最近、生き生きしているよね」
「えっ、そう?」
薫はニヤニヤしながら私の耳元で囁いた。
「さては、常務といちゃいちゃラブラブモードに入ったんでしょ。プライベートが充実すると仕事に張りがでるよね」
それはちょっと違うけど。
常務とは相変わらずの距離感だ。
常務は思ったよりいい人で、趣味や好みも合う。
今はお互いを知り合おうってことで、大事に大事に付き合ってる感じ。まっ、時々俺様が発動して口げんかをやらかすけどね。
でも、マイナスだった好感度がぐんぐん上昇している。常務のことをより深く理解したら、好きになるかも… というところかな。
「薫はなんでもそこに結び付けたがるよね。生憎だけど今の関係は“友達以上恋人未満”ってところよ」
「えー、まだそこ!? なんで、どうして… 女に手の早い常務はいったい何処に行った?」
それは確かに私も不思議に思う。
私の言葉を尊重してくれているのか、最近火遊びはしてないようだし、私に強引にせまることもない。
私のことを大切にしてくれている?
本気の恋になりそうだという言葉、信じていいの?
私、自惚れちゃってもいいかな…
今日、社長と井上主任は出張。なので私は溜まった書類の整理や、他の人の手伝いをして過ごす。
もうすぐ終業時間。もちろん私は定時に上がれる。久々だな。
パソコンの電源を落とし、机の上を整え『さあ、帰ろうか』と立ち上がったところで呼び止められた。
「吉野さん。一番、二宮さんから電話」
えっ、なんで?
着信拒否にして二日目。まさか会社に電話してくるとは思わなかった。
「ほら、早く。待たせない!」
取り次いでくれた同僚に急かされ、私は居留守を使う間もなく受話器を持たされた。仕方なく通話ボタンを押す。
「はい、お電話代わりました。吉野です」
『あっ、亜也さん。忙しいのにゴメン』
ああ、カズ君の声だ。なんだか水が染み込むように私の心の中に入ってくる… いかんいかん。
「ご用件は?」
『ふふ、なんだか別人みたいだね』
「特にお急ぎでないようなら切らせて… 」
『ああ、待って待って。あのね亜也さん、あの論文が認められてね、来年度から講師になることが内定したんだ』
本当に嬉しそうなカズ君の声がした。
話しの内容を理解した瞬間、私のテンションは上がってしまった。
「えっ、本当! 決まったの?」
思ったより声が大きかったようで、周囲の視線を集めてしまった。私は少し恥ずかしい思いをしながら声を潜めた。
「ごめん、カズ君。すぐに折り返すから一旦切るね」
私は秘書室を出ると、人気の無い非常階段へと向かった。
大きく深呼吸し、心の中をもう一度確認して私はカズ君のナンバーを呼び出した。
『あっ、亜也さん』
「カズ君。講師昇格おめでとう。本当によかったね」
『ありがとう、亜也さん。早く亜也さんに知らせたくて… でも、なかなか電話が繋がらなくてさ、だから会社に掛けたんだけど大丈夫だった?』
「うん、平気。仕事終わって帰るところだったし」
『そう。それじゃあさ、これから会えない? 美味しいもの食べて、お祝いしようよ』
カズ君の弾んだ楽しそうな声に、私の心が温かくなっていく。カズ君の笑う顔まで浮かんできて、私も思わず笑顔になる。
けれど一呼吸置いて、わざと素っ気なく返事をする。
「ごめんなさい。それは出来ない」
『じゃあ、明日は?』
「だめ… 私、もうカズ君と会わないことに決めたから」
『えっ、どうして?』
ああ、やっぱり分かってなかったんだ。それとも本気にしていなかったのかな。今までこういう事が何度もあったもの“またか”と思われてたのかもね。
「このあいだ駅で会った時、私言ったよね。“もうカズ君のこと待ってられない、さようなら”って。あれは別れようって意味なの。私達、別れたの。もう、恋人同士じゃないの」
『…恋人じゃなくても、友達として祝ってくれたらいいじゃない』
「お祝いの言葉なら今言ったでしょ。それじゃ、もう電話も掛けてこないでね」
『待って、亜也さん。電話も駄目、もう会わないって、それじゃまるで絶交だ!』
私は唇を嚙み締め、自分を叱咤する。
頑張れ亜也子! ここで情に絆されたらまた同じことの繰り返し。カズ君に振り回されて、悩んで傷つくのはもう嫌だ。
「そうよ。別れたら連絡を取り合わないのが普通でしょ」
『そうなの? でも僕はそこまでしなくてもいいと思うけど』
「それじゃ、私が困るのよ」
私は、電話越しのカズ君にも分かるように、盛大な溜息を吐いてみせた。
「いいわ、はっきり言う。私ね、今、付き合ってる人がいるの。カズ君と違って経済力も包容力もある人よ。私、彼となら結婚してもいいかなって思ってる。だから、元カレと二人きりで会ったりして変に誤解されたくないの。分かってくれた?」
『……』
「カズ君、私のことなんか早く忘れてさ、研究頑張って。講師の次は准教授。それから教授を目指すんでしょ。夢が叶うといいね」
『……』
「前も言ったけど、もう一度言うね。カズ君、今までありがとう。この7年間色々あったけど今は楽しいことしか覚えてないよ。でも、もうみんな思い出なんだ。私はカズ君とは別の道を歩いていくことにしたの。それが、私の幸せに繋がると思ったから。だから、さようなら。元気でね」
そして私は一方的に通話を切った。
さよなら。さよなら、カズ君。
これでいい。これでいいんだ。
カズ君は大好きな魚の研究に集中できるし、もしかしたら村岡教授の後押しで教授になれるかもしれない。
私は… 私にとって何が幸せなのかこれから見つける。絶対見つけてみせる!
だけど、涙が出てくるの。なんでかな… 止まらないよ。
もう大丈夫だと思ってたのに。
弱いね、わたし。
「亜也子」
振り向くと、何故かそこに常務がいた。
なんでここにいるの? ここ非常階段…
私が泣いてると現れるんですね。センサーでも働いてるんですか?
私は慌てて涙をぬぐうと笑顔をつくってみせた。
「何故こんな所にいるんです? 今日、避難訓練でもありましたっけ」
そんな軽口をまるきりスルーして、常務はふわっと私を抱き寄せた。
「一人で泣くな、亜也子」
常務の広い胸に、優しい腕に包まれる。なんて温かいんだろう。
「ずっとこうしていてやる。だから思う存分泣くといい」
なんでそんなに優しいんですか。
俺様で、意地悪で、タラシのくせに。
心が弱ってる時にそんな風にされたら、恋心が芽生えちゃいますよ。
あ、分かった。これはきっと作戦ですね。
そんなことを考えて誤魔化そうと思ったけれどダメだった。
私は常務の言葉に甘えて、しばらくの間涙を流し続けた。
「落ち着いたか?」
「はい。もう大丈夫です」
常務から離れてすぐ目に付いたのは、私の涙と化粧でぐちゃぐちゃになったシャツだ。
「ああ、すみません。シャツを汚してしまって… クリーニングで落ちるかな? とりあえず染み抜きしなきゃ」
クスリと常務の笑う声が聞こえた。
「いい、気にするな。それより今日はもう終わったのか?」
「はい」
「なら送っていこう。用意をして来い。10分後に駐車場で」
私の返事を待たずに、常務はスタスタと行ってしまった。
相変わらず強引だな… でも優しいね。
それから慌ててロッカーに行き、化粧ポーチを掴んで化粧室に入り、涙ですごい事になってしまった顔を超スピードで直した。けれど、やはり10分では間に合わず、小走りでエレベーターホールに向かう。すると、ちょうどエレベーターの扉が開いた。
『あ、ラッキー』そう心の中で思いながら廊下を走ると、中から男性が一人降りてきた。
私はその姿を見て、本日二度目のビックリ体験をする。
なんで? なんで、カズ君がここにいるの?!




