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秘書室に書類をめくる音だけが響いている。
私は井上主任のデスクの前に神妙な面持ちで立っていた。
書類を読み終わった主任は細い銀色のフレームの眼鏡をはずし、眉間を軽く揉みながら「これでいいでしょう」と言った。
私は深々と頭を下げる。
「本当に申し訳ありませんでした」
只今の時刻 Pm8:47
私が作成した書類に不備が見つかり、大幅な作り直しを余儀なくされた。私一人で作業していたら、多分日付が変わっていただろう。
井上主任、本当にすみません。巻き込んでしまって…
井上主任は眼鏡を掛け直し私に視線を移す。
「こんな時間だからあまり言いたくはないが、最近の吉野さんの仕事ぶりは評価できない。いつも何かに気を取られているようで仕事に集中していない。だからこんなミスを犯す」
はい、ごもっともです。心当たりが一杯あります。
「たとえプライベートで色々あったとしても、それを仕事場にまで持ち込まれては困る。私たちが任されている仕事は些細なミスでも命取りになる__ 」
反論の余地はありません。
日頃こんな説教めいた事を言わない人だもの、最近の私の行動はよっぽど目に余ったのだろう。
私はもうただひたすらに頭を下げるのみだ。
確か主任、今日は定時で上がって久々の家族サービスをするのだと言っていた。
今から即行で帰っても、幼い娘さんが起きている時間には戻れないですよね。
残業が決まった時、奥さんに連絡を入れているのを聞いてしまいました。ずいぶん責められてるみたいで、何度も謝りの言葉を口にして…
私のせいで本当に申し訳ないです。
もし、このせいで井上主任の夫婦仲が拗れてしまったらどうしよう…
「 …するように。それじゃ今日はこれで帰りなさい」
「ですが! 」
「いいから、帰りなさい。女性を遅くまで残すわけにはいきません」
「はい… 主任、今日はご迷惑をかけてすみませんでした。以後気をつけます。では、お先に失礼します」
私はもう一度軽く頭を下げ、自分のデスクを片付けて秘書室を後にした。
主任はこの後書類を役員分プリントアウトして、纏めて、後片付けして帰るんですね。帰宅するのはいったい何時になるのでしょう。
ああ、どうか神様お願いします。井上主任の家庭を壊さないでください。今度ちゃんと参拝に行ってお賽銭奮発しますから!
廊下をとぼとぼ歩いていたら「おーい」と声を上げながら、駆け寄ってくる人がいた。
「お疲れ、亜也子。今、帰り?」
「マリエ、お疲れ様。うん、仕事、今終わって… 」
「そう。私も今やっと終わったとこ。事務員が連絡ミスしたせいで得意先怒らせちゃってさ、クレーム処理で大変だったのよ」
ミスって言葉にドキッとする。やっぱりミスすると周りに多大な迷惑をかけるよね。ごめんなさい主任。明日から気を引き締めて頑張りますから。
「__って、どうしたの亜也子。元気ないじゃない」
「うーん、色々あってね気持ちが落ち着かないの。そのせいでミスしちゃって、今日帰りが遅くなったの」
「いろいろか。人生いろいろあるわよ。逆に何も無かったら味気ないじゃない」
結構強い力でマリエが私の背中をドンと叩いた。
「いった。ちょ、マリエ痛い」
「気合よ。気合を入れたげたの。そんな腑抜けた顔してちゃ幸せも逃げてくわよ」
マリエも薫もどうしてこう前向きでいられるんだろう。私もポジティブな方だと思っていたけど、この数ヶ月の出来事ですっかり悩み癖がついてしまった。
私があまりに情けない顔をしていたのだろう「いいわ、私の元気を分けてあげる!」と、マリエの部屋へ強制連行、そしてそのままお泊りすることになった。
「いいなマリエは。会社から一駅だもの。おまけに駅から徒歩10分!」
「そのかわりボロイけどね」
そう言ってマリエは笑う。
確かに五階建て鉄筋コンクリートのマンションは『築何年経っているんだろう?』とつい思ってしまう外観である。
だけど部屋の中は、きれいに片付いていて、フリル付きのカーテンや薄いピンク色のラグ、ハート柄のクッションなどで可愛くまとめてある。そこにこれまたラブリーな小物やぬいぐるみが飾ってあって、なんだか女子高生の部屋みたいだ。
「相変わらずの可愛い部屋だね。なんか、ぬいぐるみが増えてない?」
「この前、大きい契約が取れたからそのご褒美にね、これ買っちゃった」
ニコニコ笑いながらマリエはデカイ熊のぬいぐるみを抱きしめる。
マリエはいわゆる出来る女だ。
ともすれば女性に不利といわれる営業部で、何の遜色も無く男性に交じって仕事をしているし、家事全般も難なくこなす。今だって、私と会話しながらパパッと料理を作ってる。料理がまったく出来ない私からみると、まるで魔法でも使っているみたいに手際がよい。
マリエの唯一の欠点はこの少女趣味かもしれない…
「今なんか失礼なこと考えたでしょ」
「いえ、そんな滅相も無い。わあ!これ美味しそう。いただきます」
とても10分弱で作ったとは思えない料理をご馳走になる。
「美味しい、美味しいよこれ。すごいなぁマリエは… これなら何時でもお嫁に行けるね」
「そう? ありがとう。でも私はお嫁には行かないけどね」
「あっ、婿養子をとるの? マリエ、一人っ子だもんね」
「そうじゃなくて、結婚するつもりがないってことよ」
ええっ… 初耳ですけど。マリエとはもうカレコレ5年近く付き合ってるのに初めて聞いたよ。
「結婚しないって、どうして?」
「私、どういうわけか駄目な男ばかり好きになるの」
「ダメなオトコ?」
「そう。平気で嘘をつく奴とか女にだらしない奴… 風俗好きに酒乱にあとギャンブル狂いってのもいたな」
「なんだかダメ男の見本市みたいね」
よくもまあそれだけバリエーションに富んだ人達と…
もしかして、マリエも私と同じように疫病神に取り付かれているのでは?
今度、霊験あらたかな神社の厄払いに行くとき誘ってみようかな。
「それもね、駄目さ加減が段々グレードアップしていくのよ」
「なにそれ、恐い」
「でしょう。次に付き合う男がもっと駄目な奴かも、と思ったらもう恋愛する気が何処かに飛んでいってしまったのよ」
確かに世の中には恐い人がいるしね。
ヤンデレ、DV、ストーカー。そんなのに当たったら…
いやいやちょっと待って。そんな危ない人ほんの僅かでしょう。そんな滅多に遭遇しないでしょう。
「けれど、いい出会いがこれからあるかもよ。結婚しないって決めるのは早いんじゃない?」
「まあね。だけど今、仕事が面白くて仕方ないの。男と恋愛するより企画書を書いてる方が楽しいのよ」
「そりゃあ営業はやりがいのある仕事だろうし、仕事が楽しいのは良い事だろうけど… でもやっぱり結婚して赤ちゃんを産んで、それが幸せに_ 」
「あら、案外古いことを言うのね亜也子。今の時代、結婚・出産だけが女の幸せじゃないと思うわ。私は自分の仕事が正当に評価されたときとか、月末に成績優秀者として課長に名前を呼ばれたときに幸せを実感するな。ねえ、幸せなんて人それぞれでしょう」
マリエの言うことはもっともだと思う。だから私は素直に頷いた。
「恋愛や結婚を否定するつもりは無いし、大事なことだとは思うけどそれに囚われちゃいけないと思うの。それこそ面白いことや楽しいことが他にも沢山あるんだし」
なんだか今、目から鱗が落ちていった。
私、今まで結婚に固執していた。
30歳までに結婚して、子供を産んで育てて。それが当たり前。それが幸せになる方法だと思い込んでいた。
でも、それだけじゃない。
結婚してない人は、皆、不幸せ… そんなはずない。
結婚している人は、皆、幸せ… それもそうじゃない。
私は今、不幸せなの?
ううん、そんなことない。
そりゃあ、悲しい事、嫌な事、我慢しなければならない事もあるけど、でも、決して不幸ではない。
「ありがとうマリエ。今のマリエの話で、私、なんだか迷いが吹っ切れそうな気がする」
「そう? 良かったじゃない。乾杯したいとこだけど、明日も早いからお茶で我慢してね」
笑いながらマリエは席を立つと、急須にお湯を注ぎ始めた。




