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身の回りの世界で

 突然だった。

 職場で仕事中に電話がかかってきたのだ。

「潤ちゃん、大変だよ」

 少し焦っているようだった。もしそれが演技だとしても、ニコにしては随分珍しい。

「どうしたの」と聞いてみる。

「お母さんが心臓発作で倒れたって」

 お母さん。

 ニコのお母さんって一体どんな人なんだろう。

「潤ちゃんのお母さんだよ」

 まるで傍で私の様子を観察していたみたいに、ニコが言う。

「さっき家に電話がかかってきて、一時間前に◯×病院に運ばれたって。◯×病院って分かる?」

「うん」

 ◯×病院は実家の最も近くにある病院だ。評判はとくに良くもなく悪くもなく。私がかつて小学生のとき自転車で転んで骨折した際も、その病院で治療を受けた記憶がある。手術前の全身麻酔注射が恐ろしく怖くて……

「いま治療中なんだけど意識が戻らないらしくて……今すぐその◯×病院に来て欲しいって」

「◯×病院だと、すぐには行けないね」

「……そうなの?」

 いつもの調子に戻ったようにニコが言う。

「だって◯×病院って地元だから。ここから電車で二時間以上かかる」

「そうなんだ……だけど、行ったほうがいいよ」

 ニコに促されて、うん、と私は言った。

 それから途中の駅で待ち合わせすることを約束して、私たちは会話を終えた。

 そうか、意識が戻らないのか。

 電話を切った瞬間、ようやくそのことについて実感が湧いてきたような気がした。

「長谷川さん、どうしたんですか? 病院とか言ってたけど……」

 後輩が声をかけてくる。

「母が、倒れたって」

「ええっ」

 後輩がまるで自分のことのように驚いた。

 ちょうどタバコ休憩から戻ってきた上司も慌てたように近寄ってきて、

「それ、大丈夫なの?」

「なんか意識戻らないみたいで」

「まじか」

「早く行ったほうがいいですよ!」

 叫ぶように後輩が言う。

「うん、だから悪いけど今日はこれで上がらせてもらおうと思って」

「そんなの当たり前じゃないですか」

 私は書き掛けのメールがあったのだけど、後輩に促されるままにパソコンをシャットダウンしてしまって。

「じゃあごめん、後はよろしく」

「お疲れ様です」

 まるで職場から弾き出されるように私は会社を出た。


「何両目に乗ってる?」

 十七時ちょうどに待ち合わせの駅に着くことをメールで伝えると、ニコはそのとおりに返信してきた。

「五両目」

「わかった。じゃあそのあたりで待っておくね」

 待ち合わせの駅では、大量に人が乗り降りする。私もその集団に紛れるように降りたのだけど、ベンチ付近に立つニコをすぐ見つけられた。

 ニコはまだ学生服を着ていた。

「お待たせ」

「じゃあ行こう」

 エスカレーターを上がり、乗り換えのホームに向かう。

「潤ちゃんの携帯にはさ、電話かかってなかった?」

「かかってたよ。気がつかなかったみたい」

 会社を出た後にスマホを見てみると、ニコから電話がかかってくる前に、母名義の不在着信が二件かかっていた。バイブで震えていたはずなのに気がつかなかったらしい。

「だよね、潤ちゃんのお母さんの携帯から電話をかけているって言ってたから」

 ニコはエスカレーターの二ステップ上から私に話しかけている。

「折り返し電話はした?」

「してないよ。用件は分かっているから」

「そうじゃなくてね。行くのに時間がかかるっていう件」

 ニコはエスカレーターを降りると私の隣に立って、

「私も調べてみたけど、やっぱりここから一時間半はかかっちゃうんだ。電話をかけてきた人はすぐ来て欲しいって言ってたから……たぶん電話かけておいたほうがいいと思うの」

 ニコ曰く、電話をかけてきたのは雑誌の編集者とのことだった。母は最近、雑誌で毎月小説を連載していたはずから。読んだことはないけれど、噂によると結構評判は良いらしい。

「そうかもしれないけど……それよりも早く行ったほうがいいんじゃない?」

「快速電車が来るまではまだ少し時間があるよ」

 どうやらニコは私よりも状況を把握できているようで、仕方なく私はスマートフォンを取り出し電話をかけることにした。

 本当は電話したくなかった。

 だっていくら緊急事態だっていっても、人の携帯から電話をかけてくるって何だか……

 意を決して電話をかけてみると、二回コール音が鳴るだけで相手に繋がった。

「はい」

「あの……娘の潤なんですけど」

 電話口の向こうはひどく静かで、まるで暗黒に声をかけているようだった。

「はい」と男の人は言う。

「ニコから聞いて……あの、ニコっていうのはさっきあなたが自宅に掛けたときに出た女の子なんですけど……それで……◯×病院に早く来てほしいってことだったんですけど、場所が遠くてあと一時間半ぐらいかかりそうなんです。すみません」

 仕事の言い訳をしているみたいで、私はなぜ謝っているのか分からなかった。

 男の人があまりにも何も喋らず、断罪されているような気分になる。親が大変なときに、一体何やってるんだって。

「そうですか……」

 意気消沈しているように男の人が言った。

「あの、本当にすみません」

「いえ……」

 男の人はそこで一旦言葉を止めた。姿が見えないのに、一度大きく息を吸い込んだのが分かった。

「頼子さんは、逝ってしまわれました」

「えっ」

 思わず絶句する。

「申し訳ありません……私がいつもどおり家に向かっていたら……」

 言ったそばから足元が砂みたいに崩れて、そのままどこかへ吹き飛ばされてしまいそうな……

 張り詰めていた心が無音で弾ける音を私は聞いた。私よりも男の人のほうが、よっぽど母の死を感じているようだ。

 とりあえず病院には行くということを伝え、私は電話を切った。

 ニコが話しかけてくる。

「どうしたの?」

「お母さん、もう死んじゃったって」

「えっ」

 ニコが絶句する。

 さっきの私の再生を見ているかのようだった。

 しばらく無言で立ち尽くしていたけどニコは自分で立ち直って、

「とにかく病院に行こう。電車がもう少しで来るから」

「うん」

 空中通路を渡り、エスカレーターを下って乗り換え先のホームに向かうと、ほどなくして電車が来た。

 孤独になった。

 電車がスピードを緩めてホームに侵入してくるのを見つめながら、私は不意にそんなことを思った。

 天涯孤独だ。これで私は本当に天涯孤独になったのだ。


――*――*――


 夜眠っていると、ニコと出会ったときのことを急に思い出すことがある。

 あの頃は毎日午後十時近くまで仕事して、毎日が疲労感でいっぱいだった。休日だってふとしたときに仕事のことが頭を過ぎったし、何より自分はずっとこのままで死んでしまうのだろうかって、不安でいっぱいで。

 もう夜も遅いのに、歩いて帰るのが好きだった。

 もちろん、会社までかかる三十分以上の道のりを全部じゃない。途中で電車を乗り換えて一駅行くから、その一駅分を歩くのだ。

 電車で五分だから、歩けば三十分ぐらい。ただでさえ遅いのに帰るのがさらに遅くなってしまうけれど、それでも何もしないまま一日を終えるよりはましだった。外を歩いているときだけ私は私でいられる気がした。

 夜は昼よりも街が澄んでいる気がする。とても静かで、自分の足音まで気になってしまうような。乗り換えの駅が一番中心地で、家までの道のりはその中心地からどんどん離れていくようになっていたから、歩みを進めていくたびに人がいなくなる。時折走る自動車の音が、いつまでも耳に残るように響いて。

 自分ひとりのために街が用意されているようだった。もしずっと起きてこの街にいられたら、永遠に朝を迎えない気がする。

 橋を渡り、欄干の外に見えるまるで液状のコンクリートを流したような川と、そこにゆらゆらと光を投げかける月。たしかそのときは満月だったはずだ。今までいろんな人がこのような景色に幻想を抱き、その生涯を終えていったのだろうと思う。

 橋を渡り終えて、その先にあるもはや意味をなさない信号を無視して歩いて。

 活動を終えた街中を行くのも、もう終わりだ。

 私は最後に、誰もいない公園をいつも通り横切って行くことにした。

 いつも誰もいない。そのはずだった。

 みすぼらしい女の子がひとり、ベンチにちょこんと座っていた。

 きっと小学生か、中学一年生になったくらいだろう。体育座りでずっと空を――月を見上げている。

 照明から離れていて暗かったけれど、その女の子が毎日お風呂に入ったり、服を着替えたりしていないことはなんとなく分かった。

 彼女はなぜ、月を見ているのだろう。

 気がつくと、女の子は私のことを見ていた。ずっと同じ体育座りをしていたから、気がつかなかった。

「ごめんなさい」

 私は足早にそこを立ち去ったのだけど。

 家に帰っても、ずっとその光景が頭を離れなかった。

 彼女は一体、どんな子なんだろう。いつまでああしているつもりなんだろう。

 冷蔵庫に残っていた余り物をレンジでチンして食べて、お風呂に入って、電気を消して寝て。

 薄く紫の灯りを残す蛍光灯に、満月の姿を見た。そこに否応無く彼女の姿も思い浮かべる。

 私はもう一度公園に行くことにした。

 公園の外からベンチを眺めると、もう一時間は経っているのに、彼女はまだ同じ姿勢で月を見上げていた。

 しばらく見つめていると、彼女はまたいつの間にか私のことを眺めていた。ひどく目ざとかった。

 私は意を決して近づく。

「どうして月を見ているの?」

「とくに意味はありません」と彼女が言う。そのときニコはまだ敬語だった。

「ただ綺麗だなあと思って見上げているだけです」

「そうなんだ……」

 今だから言えることだけど、あの時の私は取り繕っていた。

 ひとりで齷齪していて、ニコに話しかけたのだって、単に話し相手が欲しかったというよりは単に……

「同情で話しかけているだけなら止めてくれませんか」

 はっきりと彼女は言った。

「同情されるくらいなら死んだほうがましです」

 カチンと来た。これ以上ないくらい腹が立つ言い方だった。私は彼女の望み通り、家に帰って寝てやった。

 結局、私がニコを自宅に引き入れるにはそれから二日かかったのだ。


――*――*――


 疲れた。

 葬儀はとっくの昔に終えて、一番大変な時期は過ぎていたはずなのに。納骨を終えた瞬間、どっと疲れが出たのだ。

 母は、父と同じ墓に埋めた。

 山の上の、街が見下ろせる広い場所だ。耳がおかしくなったのかと思うぐらい静かなところで。

 綿を千切ったような雲が、走るように空を流れていた。

 完璧な青空よりも、こちらのほうが晴れ晴れとしている気がする。

「あの、ありがとうございました」

 私は清田さんにお礼を言った。

 母が倒れたことを知らせてくれた編集者の人だ。

  定期テストだからニコはいつもどおり学校に行かせて、今日はひとりでここに来る予定だったのだけど。

 前日になんとなく、清田さんに連絡した。

 そのほうが相応しい気がしたからだ。

「あなたがいなければどうなっていたことか……」

 清田さんは葬儀のあいだ、右も左もわからない私をニコとともにずっとサポートしてくれていたのだ。

 母の携帯を使い連絡してきたことで不信感を抱いていた私だけど、病院に着いて彼に出会ったとき、その不信感は一遍に拭い去られた。明らかに私よりも、彼のほうが母の死に打ちのめされていたからだ。そして彼は私を一目見たとき、携帯を勝手に使ったことをまず最初に謝ってきた。

 頼子さんの携帯を勝手にお借りしてしまい、申し訳ありません……

 あれほど消え去りそうな声を、私は他に聞いたことがない。そして『頼子さん』という言葉も。私の中では、母は『お母さん』か『先生』だった。それだけでふたりの間に、もしくは一方的かもしれないけれど、とても部外者には立ち入られない領域があるように思えた。

「いえ、私こそ勝手に出しゃばった真似をしてすみませんでした」

 清田さんがかしこまって頭を下げる。

 まだ若い、たぶん私と数えるぐらいしか歳が離れていない人だった。

 父と母の墓を離れて、静かな住宅地をふたりで歩く。

 こうしていると、お金持ちの人が山の上に住みたくなるのが分かる気がする。ここは街の喧騒と切り離されて、少し現実離れした世界を歩いているような感覚がある。

「母の作品は好きでしたか?」

 本当は別のことを聞きたかったのだけど。

 直接聞くのは不躾な気がしたから、少しオブラートに包んで聞いてみたのだ。

「はい、そうですね……」

 少し口を噤んでから、

「とても繊細な文章を書かれる方でした」

 かつての出来事を思い出すかのように視線を上げて、

「同じ景色を見ていても全然捉え方が違います。普段は黙して語らず、何事にも興味をお持ちでないように見えるのに……出来上がった文章を読んでみると、ある日私と話していたときの内容がそこに書かれていたりするのです。そして、それに対する自分の考えも。独自の理論で細かく分析されていて、正直怖いと思うところもありました」

 私は話を聞いていて、少し驚いた。

 清田さんが思っていたことは、私が母に抱いていた感想とほとんど同じだったのだ。

 小学生のとき、私は母が書いた小説を読んだことがあった。そこに出ていた登場人物は、名前こそ違えど紛れもなく私だった。

 学校で友達と話していて、父親がおらず、母親が子供にあまり話しかけないという状況が普通でないことが分かって。実は母はかなり変わった、人の親としては駄目な人物なんじゃないかって悩んでいたことがあったのだけど、その悩みがそっくりそのまま小説に書かれていたのだ。

 しかもただ思考をなぞるんじゃない。私がその悩みを抱えていることで、母や周りの人との接し方がどう変わっていくか。どういうことで怒ったり、傷ついたり――

 私は怖くなって、それから母の小説を全く読まなくなった。

「しかし最近は、以前とは変わった文章を書かれていたのですよ」

「え?」

 思わず声を出してしまった。

「以前の文章はいわゆる『毒』があったのですが、それが抜けてしまったように……しかし、それもまた素敵な文章でした」

 清田さんは少しだけ微笑んで、

「できればお読みになってください。きっとあなたも気に入ると思います」

 私は清田さんと別れた後、さっそく最近の母が書いた小説を購入し、読んでみることにした。

 たしかに毒が抜けていた。

 心を綺麗にする冒険。

 あっけらかんとした一人の男の子が主人公で、思い悩む人々の心をすっきりと解決していく。ファンタジー調で、その点からも以前とは内容が異なっている。

 なんだよ、こんな文章も書けるんじゃん。

 それとも書けるようになったの? お母さん。

 こんな内容なら、もっともっと書いて見せてくれても良かったのに。


――*――*――


 物心がついたときから父はすでに他界していて、母は口数が少ない人だった。

 どれだけ少ないかって、私は小さな頃母と話していた記憶が全くない。母はずっと本を書くか読むかしていて、私は大して楽しくもない積み木遊びをしていた。一日一回はお手伝いさんがきて食事を用意してくれたり、掃除をしてくれたり、編集者の人がときどき原稿を取りにきたり。食事で面と顔を合わせるとき以外、私たちは常に別のことをしていて。あまりにも会話がないものだから私は五歳になっても話すことができず、言語発達が遅れ将来が危ぶまれた。

 誰かの入れ知恵で、私は保育所に通うことになった。

 送り迎えをしてくれるのは母ではなく、編集者の人だった。当時母は売れっ子で、お抱えのマネージャーみたいなのが一人や二人いても大丈夫だったのだろう。その編集者の人は、必ずいつも同じ時間に家に迎えにきて、必ずいつも同じ時間に保育所に迎えに来た。自動車が毎日同じ角度から同じ速度で侵入してきて、運転席から降りて後部座席のドアを開けるに至るまで、一度撮ったテレビドラマのワンシーンを再生しているかのように同じだったのを覚えている。

 私はその彼に、保育所で起きた出来事を毎日話した。別に特別懐いていたわけじゃなく、淡々とだ。

 もしかしたら寂しかったのかもしれないけど、当時の思いはもう分からない。だけど私はそのおかげで、小学校に上がる頃までには他の子たちと同じくらい喋ることができるようになったのだ。

 私が小学校に上がると、そのお抱えの編集者はいつの間にか消えた。

 小学校二年生のとき、お手伝いさんの人が病気にかかり、何週間か来られなくなることがあった。お手伝いさんはそれまで毎日欠かさず来てくれていて、毎朝身の回りを世話してくれる、私たちにとって生命線のような存在だった。その生命線がなくなったのだから、生活は大変だった。まず、母は全く家事をしない。誰かと過去にそういう取り決めでもしたかのように――家事、掃除、炊事、洗濯。さすがに食べないわけにはいかないから出前を頼んでいたのだが、あのときの母の苦痛の表情は今でも忘れられない。お風呂の湯がヌルヌルしてきて、ついに私は一週間で根を上げた。自分で家事をすることにしたのだ。

 これまでなんだかんだ甘やかされて生きてきた子供が家事を一手に引き受けるなんて、無茶もいいところだった。あのときの私は恐ろしく奮闘していたと思う。結局私は最初から全てをこなすことは諦めて、まずはお風呂掃除と部屋に掃除機をあてることから始めることにした。洗濯は週に一回、ご飯は最初は出前だけど、目玉焼きから作るようになって……

 お手伝いさんが復帰して家事を教えてもらえるようになり、私は少しずつ上達していった。だけどお手伝いさんはもう歳で、一回病気で休んだことを契機に徐々に休みがちになり、小学四年生に上がる頃には完全に辞めてしまった。

 私が何かをこなせばこなすほど、お母さんはどんどん世間から切り離されていった。

 こんな駄目な人と結婚するなんて、お父さんは一体どんな人だったんだろうと思う。

 これは聞いておかなきゃいけなかったなと、今頃になって気づく。


――*――*――


 母の小説を読み終えた日の夜、私はなんだか眠れなくなって外に出かけた。

 公園に向かってみる。

 誰もいないベンチに座った。空を見上げてみれば、いつかのように青白い月。満月だ。

 月並みだけど、魂を吸い込んで光っているようだった。

 私はその月を眺める。あの日ベンチに座り、何時間もずっと月を眺め続けていたニコのように。

 それで何かが起きるわけでもないのに。

「月が綺麗ですね」

 とつぜん声がしたので、そちらの方を向く。

 パジャマ姿のニコがこちらに向かって歩いてきていた。

「……起きたの?」

「うん。だって、潤ちゃんいないんだもん」

 ニコが理由にならないことを言って、よいしょっ、とベンチの上で体育座りになる。

「こうしていると、昔のことを思い出すね」

「そうだね」

 私とニコの間で、その話はタブーだったはず。なんとなくだけど。

「ニコが敬語じゃなくなったのって、いつからだっけ」

 ニコはこちらを振り向き、

「何で今更そんなことを蒸し返すの?」

「だって今、そういう流れだったでしょう」

 私がそう言うと、ニコは呆れるように溜息をついて。

「潤ちゃんが駄目駄目だと分かったからね」

「え?」

「覚えてない? 私が潤ちゃんの家に転がり込んでから二週間ぐらいかな。潤ちゃんがひどく酔っ払って帰ってきたの」

 はっとする。

「ぐでんぐでんだったじゃない。家に帰るなりとつぜん私に抱きついてきてさ。『私は駄目駄目なんだー、ずっとひとりなんだー』って。細かなニュアンスは覚えていないけど、そんなことを延々と言い続けるの。服は脱いだ先から散らかし放り投げるし、酔い覚ましの水が入ったコップは倒すしさあ。あのときは本当大変だったんだから」

「いくら何でもそこまで酷くないでしょう」

「けれどその次の日、二日酔いで全然動けなかったのは覚えているでしょ?」

 うっ、と思わず唸る。

「とにかくさ。この人普段は口数少なくて、ひとりで何でもできそうな素振りを見せているけど、ひとりじゃ全然駄目駄目だと思ったんだよ。私が傍にいてあげなきゃ」

 複雑な気分だった。

 私は普段できそうな素振りなんて見せているつもりはなかったし、かといってひとりで生きられないっていうのも何だか違う。

 どちらでもないんだよ。

「……やっぱり潤ちゃんさ、ひとりで置いていくの何だか不安になってきちゃったよ」

 無表情でニコが言って、

「本当に、私がいなくなっても大丈夫?」

「大丈夫だよ。だってその前はずっとひとりだったんだから」

 たった半年ぐらいだけど。

 ニコは高校を卒業すると、東京に行くことになっている。そしてそのことを彼女に勧めたのも私だった。

 芸術の才能があるのだ。

 ニコは世の中で得られたいろいろな感情を、形にして表すことができた。それは時として絵だったり、彫刻だったり、具体的な形として残るもの。家では全くそんな素振りを見せないのに、学校で見るニコの作品は、たしかに他人とは一線を画しているように見えた。

「じゃあ、これからはふたりでいっぱい楽しもうね」

 ニコがそう言って、上から私の手を握ってくる。

「ふたりでショッピングしたり、スイーツ食べ歩きしたり、映画を見に行ったり。女の子っぽいことをしよう? そして遠く離れても、ちゃんと連絡を取り合うの。いつかまた一緒に暮らせますようにって」

 私はニコの顔を見ず、無言でこくりと頷いたけど――

 夢物語だった。

 私たちは傍にいるから何か特別なものを感じているだけで、他の人が傍にいれば、今度はその人に対して特別な思いを抱くことを知っている。きっとニコはこの先の人生で大切なひとを見つけられるだろうし、私は……

 じっと、じっと月を見上げる。

 お母さんとの思い出が、頭の中に蘇ってくる。

「私、小説家になるよ」

「え?」

 同じように月を見上げていたニコが、私のほうを向いた。

「小説なんて今まで一度も書いたことないけれど」

 何故か気持ちが昂ってくる。

「考えてみたら、本だってろくに読んだことがない! 私はそういうものから意図的に距離を離して生きてきたんだ。けど……仕事中にメール書いてるから。昔より文章うまくなったと思うし、他の人たちより全然書けていると思う」

 一度大きく息を吸い込んで、

「もちろん会社を今すぐ辞めるつもりはないけれど……休みとか、空いている時間に書く! それで一体何が書けるのか、分からないけれど」

 書けたところで、その先に輝かしい未来が待っているわけでもない。お母さんを見ていて、それはよく分かった。けれど――

「書きたいんだ、文章が。今感じている思いを残したい。それで何が変わるかなんて……わからないよ! けど、けど……」

 書くんだ、と言った。

 ぶわっと内側から感情が膨れ上がって、涙が溢れた。

 止まらない、どうして流れているかもわからない、不思議な涙だった。

 私がむせび泣く横で、「うん」とニコが言った。

「私、応援するよ。潤ちゃんの本がお店に並ぶ日を。それを手に取る日を、待ってる」

                        (完)

「【BNSK】月末品評会 in てきすとぽい season 3」にてお題「one」で書いた作品です。

感想をいただいた瞬間「うわああああっ」となって後悔し、ラストシーンを修正して衝動的にこちらに投稿しました。


やっぱり自分以外の人に見てもらわないと何もわかんねぇや……

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