第三章 孤独/その名は 2
もう幾年も昔のこと。とっくに忘れ去ってしまっていたはずなのに、どうして今頃になって思い出すのだろう。そうだ。あの男が私が寂しがっているなどと嘯くから、触発されてしまったのだ。
私が生まれたのは現代から遠く離れた昔のこと。世がまだ血に飢えた戦乱期だった頃だ。今となっては少なくなった野良猫もその当時は野生動物として当然のように存在しており、毎日山を駆けては餌である虫や鳥を見つけてきたものだった。家族はいた。兄妹も、母も父もいた。だが、皆人間が起こした戦に巻き込まれて死んでいった。気づけば、私は一人だった。淋しくはなかった。猫ながら、よく時勢というものを理解していたものだとも思う。これが現実なのだ、と。
「……あ、猫じゃ!」
その日は散歩がてらにいつもは通らない道を猫の気まぐれで歩いていた。彼女に声をかけられたのはそんな時だ。まだ幼かった彼女は、私をしばらく眺めていると、ふと何かを決意したかのように私を抱き上げた。そして、こちらの否応関係なく、彼女の住む屋敷に連れ去ってしまったのだ。どうやら私はいつの間にか人間の住む屋敷の敷地内に迷い込んでいたらしい。
それから色々と時間も経ち、気づけば私はその家で飼われることになった。もう随分昔のことで、どういった経緯でそうなったのかはもう記憶にない。ただ、彼女が必死になって人間たちに訴えかけていることだけはいまだに根強く頭の奥底に残っている。きっと、頼み込んでいたのだろう。思い返せば、微笑ましい一場面だった。
何十年だったか。数えるのも億劫になるほどの年月をその屋敷で、彼女とともに過ごした。会った時はまだ幼き小娘で、言葉遣いもまだまだだった彼女もいつしか立派な女性となり、見違えるほどに美しくなった。
「のう……『 』よ、この戦乱の時代は何時になったら、終わるのだろうな」
縁側、いつものように日向ぼっこをしていた私の隣で彼女はそんなことを言った。そんなこと、猫の私に言われても困る。歯牙にもかけず、私はそのまま心地よい春の陽光に身を晒す。だが、最初から彼女は応えを求めていなかったようで、独り言のように語り始めた。
「妾は哀しく思う。どうして同じ人同士が傷つけあい、憎しみ合い、殺し合わなければならぬのか。わからぬのじゃ」
それは別におかしいことではない。この世界は弱肉強食。弱い者が強い者に食われ、死んでいくのは当たり前のことだ。それがたとえ同じ種であっても、それは変わらない。人間が人間を殺してならぬ、というのは人間が勝手に作り出した虚言であり、虚偽の理想だ。だが、彼女はそれが悲しいという。立派だ立派だ、と私は猫としては妙に人間臭く鼻で笑った。
「いつか……きっと、いつか人と人が傷つけあわず、互いに手を取り合って過ごせる日が来ることを、妾は願いたい」
何かを決意したようなその横顔が、私の見た彼女の最後の姿となった。
次の日を境に彼女は屋敷から姿を消した。私の主観では、忽然と、いう表現がいい。よく考えれば、嫁いだのだろう。思えば、あの日私の横に来て語りをきかせたのは彼女なりの別れの挨拶だったのかもしれない。だから、なんだと思うのだが、それでも当時の私は猫だ。当然、飼い主が嫁いだ、という事実もその言葉が示す意味も知らなかった。
だから、結果的には私は彼女を待ち続けた。夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎて、また春が来た。それでも彼女は帰ってこなかった。それからまた一年、二年、三年と過ぎて私は誰にも看取られることもなく、ひっそりと死んだ。
どうして「霊的存在」になったのかは、今でも謎だ。特筆すべき悔いも未練もないこの世界に、なぜ私は留まったのだろうか。幾重にも年が過ぎようとも、その答えは出てこない。試しに人を襲ったり、「霊的存在」を襲ったりもした。その時に感じたぞくりとするあの感覚が、なんともいえぬ昂揚感と生きた心地がして気持ちがよかった。そうしていくうちに、私はそれが先の疑問の答えだと思い込むようになっていた。
何百年もそうしている間に、私は人の言葉を覚えた。
「妾が存在する意味、とな」
彼女の言葉遣いを、声を、口調をなぞってく。
「妾は寂しかったのか? 寂しくて、彼女に帰ってきてほしゅうて妾は今まで存在し続けてきておったのか?」
自問するその言葉に、返ってくる答えはない。
あの娘も、毎日母を求めて泣いていた。母の名前を呼びながら必死に泣いていた。だが、死んだ者に手を差し伸べてやる者などこの世にはいない。死んだ者がいてはいけない世界なのだ。だから、私はその子に手を差し伸べた。理由はわからぬ。ただ、気が付いたら幼女の手を握り「大丈夫だ」と諭すように言葉をかけていた。それからというもの、あの娘といる時間が多くなった。私も面白がって、同じ姿をとって二人して遊び倒した。人を襲っては、霊気を食った。この世界は弱肉強食。弱い者は無残にその命を強者の生きる糧とするしかないのだ。そうやって私たちは、世界から外されてしまった者達は生きていた。
だけども。娘は自らが作り出した「瘴気」に侵され、あの陰陽師に殺された。当然の摂理だとは思う。今までがそうで、あの光景だってもう何百回とも見てきた。だが、その時に私の胸に飛来した感情はいつもと違うものだった。ぽっかりと心のどこかに穴をあけられたようだった。
――――――――お前は寂しかったんだよ。
そうなのか? 私は寂しかったのか?
――――――――俺は知らない。それはお前が決めることだ。
私はずっと一人だった。いまさら寂しいなどと思うこともない。長い年月で一人でいることには慣れた。
――――――――俺には寂しそうに見えた。魂じゃない、お前の眼が、顔がそう物語ってた。
そんなはずはない。私はただあの小娘とは、ただあの子が面白い素材をしていたからつるんでいただけに過ぎなかった。それ以上でも、それ以下でもない。
「『 』はお母さんかお父さんはいないの?」
「とっくの昔に死んじゃった」
小娘の問いに私は淡白に答えた。なんとも面白くない回答だ。あっさりしすぎていて、聞いたほうも肩透かしを食らったかもしれない。
「あ、でも飼い主はいた」
「飼い主……おじさん、おばさんのこと?」
「そういうとこ」
「どういう人だったの?」
「えーとね……ううん?」
思いのほか答えに窮した。彼女の事は長らく思い出していなかったから、記憶が曖昧になっている。ましてや、それも何百年と昔のこと。なんと伝えればいいのか、私はしばらく黙考しなければならなかった。「綺麗な人」
「うんうん」
「あとは……面白い人」
自分の語彙と発想の貧困さに呆れる。もっと表現のしようはたくさんあるだろうに、よりにもよってそんなことしか出てこないのか。私は頭を抱えるようにして、悩む。
「あ……あとは、暇なときはいつも一緒にいてくれた」
思い出したのは縁側でごろごろと日向ぼっこしていたあの日々だ。あのころは餌に困ることもなく、毎日がのんびりとしていたように感じていた。今でも覚えている。思えば、私が一番暇でゆっくりとした時間を過ごせていたのはあの時だけかもしれない。
そして、私の言葉を聞いた小娘はなにを思ったのか、その小さな瞳を目一杯見開いてこう言ったのだ。
「大切な人だったんだね!」
「そう……だったのかな」
私が曖昧に返事をすると、力強く「そうだよ!」と頷いていた。それもまだ、彼女と出会って間もないころの話。彼女がまだ、自分を化け物の予備軍だと知らずにいた他愛もない頃だった話だ。
だが、やはり、考えれば考えるほど私は彼女のことを大切な人だと思っていたような感じがしてきた。名も忘れ、顔も思い出せぬが、彼女との数々の思い出は私の記憶の中で一層とさんさんたる輝きを放っている。口調も真似て、姿も似せたのも彼女と少しでも共にいたかったからなのだろうか。
矛盾している。忘れたのに、大切だ、と。
――――――――矛盾してねえ奴なんか、世界のどこにもいねえよ。むしろ、それが当たり前だ。
私はこの世界の理から外れた存在だ。世界のどこにもないのなら、その外側にはあるのかもしれない。ならば、当たり前かどうかなど、証明は出来ないはずだ。
――――――――そもそも、お前らの存在自体この世界の理と矛盾してんだ。お前自身が矛盾した考えを持ってるのは、当たり前だろうが。
「……そうかもしれぬな。妾は矛盾した存在で、本来いてはならぬのだ。元の姿も、声も、大切な人も、すべて忘れてしまった妾は存在する価値はなかろうて」
――――――――いや、あるね。お前には価値がある。
「また、面白いことをいうガキじゃ。申してみい」
私の魂は恐らく、もうすぐ消える。あの楓とかいう絡繰りに修祓され、長かった生涯の終焉を迎えることになるだろう。
だが、それでいい。私はそれでいいのだ。もう、私は生きていかなくてもよい。十分生きた。
私は待っていた。あの人がいつか帰ってくるのではないかと、心の底でずっと思い続けてきた。死ぬ前も、死んだ後も、ずっとずっと…………待って、そしていつのことか私は彼女が死んだことを知った。嫁いだ先で戦があって、それに巻き込まれ死んでしまったそうだ。私が死に、十年以上も経ったある日のことだった。
寂しかったのだ。また、頭を撫でてほしかったのだ。また遊んでほしくて、名前を呼んでほしくて、縁側でごろりと寝転がって、一緒にいたかった。
だが、それももう叶わぬ夢だ。死んだ者は生き返らない。生き返ってはいけない。それが決まりで、ルール。私はそれを破って、彼女を待ち続け、こうなった。報いは受けなければならない、私が殺していった者たちのためにも、私は……妾は!
「そんなこと知るか、馬鹿」
「俺は自己満足のために、戦ってるって言っただろ。お前の事情とか、お前の殺した奴の事情とか知ったこっちゃねえ。お前が強いから式神にするんだよ」
「ごちゃごちゃ言ってねえで、さっさとお前の名前を教えろ」
無茶苦茶で強引で、馬鹿で、阿呆で、そのくせ弱くて脆くて、危なっかしい癖に粋がって。格好悪いにもほどがある。見た目は悪いが、その分ギャップを感じて世話を焼きたくなってしまう。あの鐘ヶ江とかいう女子が甲斐甲斐しくしている意味が、こうして対峙して話してみるとよくわかる。
「俺にはお前が必要だ」
そうでしょうね。彼は自分一人では何もできない。弱いからだ。面白いけど、強くはない。だから、私が必要なのだ。強くて、美しくて、経験がある私が。
にやりと笑う。必要だ、とは面白いなぁ。まるでプロポーズみたいな台詞だ。猫に、しかも死んで生霊になっている猫にプロポーズとはこれまた斬新な。やはり私が目を付けたことだけはある。
「『菊音』じゃ、馬鹿小僧。妾の名は、菊音」
懐かしい響きが、私の口から聞こえてくる。もうあの人が死んで、呼ぶこともないと思っていたのに。なぜ口にしてしまったのだろう。なぜ私はこの男に名を教えたのか。
「じゃあ、菊音。お前を俺の式神にする」
「好きにせい」
先まで殺し合っていた敵同士だというのに、真名を呼ばれてしまった。しかし、不思議と悪い気はしなかった。
はてはて、この先どんな面白いことが待っているのやら。楽しみだ。
意識が途切れてゆく中、私は……妾の顔はどういうわけか綻びを見せておった。