第三章 孤独/その名は
魂を視た。今度こそあの化け猫は本物だった。魂が、黒く浸食された魂が化け猫の身体のちょうど中央あたりにあった。どくり、と心臓が鼓動するようにそれが霊気の波を打っている。明らかに先ほどまでの魂とは違っていた。澄み切って高貴な霊気を発していた霊体が、今となっては禍々しく不気味なものに変わっていた。
猫又は何もじっとこちらを見ていた。その背後には校舎があり、たくさんの人々が今もなお楓の術によって眠らされているのだが彼女の眼はすでに夜鷹しかとらえていなかった。獲物を見極める猛獣のような視線が、夜鷹に突き刺さり、夜鷹は無意識に後退っていた。人型だったときは違う、純真で混じりけのない殺意。それが体に沁みていくように、夜鷹の身体を熱くする。心臓が早鐘を打って、血の巡りが速くなっていた。偏頭痛のような痛みと、中心から熱がじんわりと広がっていく。
逃げるな。そう心の中で自分に叱咤し、深呼吸をする。焦るな、よく観察しろ。
「急急如律令!」
後ろからの声だった。楓が呪術を発動したのだ。水気を帯びた霊気の塊が次々と猫又へと放たれる。一つ一つが洗練された術だった。略符では決して真似できない、本来呪術。それが四肢の炎を相剋し、霊気を散らせていく。しかし、いくら炎を消し霊気を散らそうとも猫又の四肢を構成する霊気は無くなりはしなかった。無限に続く地面を掘りつづけるかのように、何度穴をあけようがすぐに塞がってしまった。
反応が遅れた夜鷹も、これに加勢しようと銃口をもう一度猫又へと照準した。その時だった。獣の咆哮が空気を叩き、夜鷹らの鼓膜を伝って脳を打った。直接頭を殴られたような感覚がして、めまいがした。「こ、言霊? まさか」と楓の表情がさらに険しくなる。どうも事態が芳しくない方向へと進んでいるようだった。
咆哮がやみ、その獰猛な瞳が再び夜鷹を射抜く。身がすくむような思いだった。
直感で動けと言われたような気がして、その場から跳び退った。紙一重のタイミングでそこに突き刺さったのは、猫又の爪だ。牙ほどではないが、これもまた鋭く、一度でも触れたらひとたまりもない。冷や汗が額からどっと溢れてきた。内は熱が広がり、外は冷や汗で寒気を感じた。もう身体からしてちぐはぐだった。
二週間ばかり前に感じたあの恐怖が霊的恐怖というのならば、さしずめこれは本能に基づく生物的恐怖といえる。要は夜鷹の生物としての、生存本能が警告を鳴らしているのだ。弱肉強食において、自分よりも食物連鎖の上に立つ存在を前にして、縮み上がろうとしている。
同じだ。あの時と同じだ。また、恐怖に負けて動けなくなっている。陰陽師になると豪語して家を飛び出したくせに、いざ実戦となるとこの様か。無様すぎる、格好悪すぎる。夜鷹は弱虫が巣食う自分に向かって、怒鳴り散らした。
「俺は……! 俺は……強くなる! 強くなってあのクソジジイ共に目に物を見せてやるんだ……だから、こんな相手なんかにビビってる場合じゃねえんだよ!」
奮い立たせろ。奮い立て。奮い立ってみせろ。弱さを恐怖を、ねじ伏せろ。そして、信じろ、自分を楓を仲間を。打ち勝ってみせろ、己の弱さに。夜の如く冷たく静かに、鷹の如く孟しく強くあれ――――――それが夜鷹だ、自分だ。
言葉にならない絶叫が喉から絞り出され、夜鷹は銃身をまっすぐ猫又へと向ける。二挺のマズルフラッシュにも似た光を視認、ものの数秒も経たずに撃ちだされた霊力弾は猫又の前足部分を吹き飛ばした。続けて発砲、穿たれては塞ぎ、穿ちは塞がれという流れを幾度となく繰り返す。「らちがあかねえ……」夜鷹が呻くように言った。確かにこのまま攻撃をし続けていても、いつかはこちらの霊気が尽きて終わりだった。打開策を考え、ちらりと後方を尻目で見た。猫又の能力が単純な攻撃だけではなく、言霊と呼ばれるものの一種だと判断したらしい楓は、すぐさま新しい術式を構築しようとしていた。先もなかったが、彼女の支援は期待できそうにはなかった。
ならば、「一気に叩く」ケースから呪符を数枚取り出し、無造作に投げた。
「もう逃げの一手は打たねえ。正々堂々、俺はお前を式神にしてやるからな」
強がって、見栄を張って、夜鷹はろくに思案もせずに言葉を吐いていた。驚いた。自分はまだ彼女を式神にすることを諦めてはいなかったのか。ここまで実力の差があって、暴走した相手にまだ自分は可能性を見ていたのか。つくづく呆れる。自分でそう思った。だけど、そう考えると自然と笑みがこぼれてきた。心の奥がたぎるような気がした。ふつふつと煮えたぎるような感情がもう一度湧き上がってくる。ああ、これだ。この感覚だった。恐怖に塗りつぶされかけた感情が戻ってきた。陣内と最初に会ったときや、『白連装』を初めて持った時と同じ、魂が奮える感覚。
――――――――恐怖が塗りつぶされていく。
不思議ともう恐怖に竦むことはなかった。
「急急如律令」
夜鷹が早口に呟き、落ちていた呪符がはじけた。二枚からは水気が、もう二枚からは火気が、最後の一つからは土気がそれぞれ生み出される。そうやって生み出されたいくつもの霊気が、流れとなって猫又に襲い掛かった。火の玉が飛び交い、水の鋭き一矢が空を切り、土流がすべてを流し尽さんと濁流のように押し寄せる。一斉に吐き出された霊力の急流は、すべて一匹の標的に向かっていく。だが、一匹も大概だった。夜鷹が放ったすべての呪術をその軽い身のこなしでかわしていく。掠らせるのが精一杯だった。
猫又が跳躍し、濁流から身を遠ざけた。「こっちだ」と猫又の頭上にあったのは、夜鷹の構える『白連装』の銃口。有無を言わずに、引き金を引いた。銀色に輝く白き弾丸が、無防備な相手の上空へと降り注ぎ、その巨体を地面にたたきつけた。
再び命令句を唱える。行使するのは金行の呪術。金気は金属を司る五行、その性質は金属の生成だ。そしてその呪術によって生み出されるのは、猫又の四肢すらも超える巨大な一本の釘だった。空中で生み出されたその釘を夜鷹は躊躇なく、起き上がろうとしている猫又の巨体に突き立てた。ぐさり、という音と共に鋭利な釘の先端が猫又の胴を貫いた。
「まだ、だっ!」
猫又が帯びる火気の霊気は金行とは相剋の関係にある。つまり火剋金だ。だから、今の一撃は効いているようで恐らく大したダメージは与えられていなかった。だが、それでいい。狙いは端からそこではないのだから。
略符を投げ、再び水気を宙に迸らせる。息つく暇も与えない。怒涛の呪術の雨で敵に反撃の隙すら見せず、夜鷹は全身から霊気をみなぎらせた。
終わりは突然だった。次々と術を発動させていく中で唐突に夜鷹の霊気が底を尽きたのである。
「しまっ……!」
霊気が底をついたということは、いわば霊体による霊気の供給が霊気の消費に追いついていない状態――――――霊気のインフレに陥ってしまったということだ。この状態になってしまうと、霊気の供給が消費に追いつくまでの数分間、霊気の放出が制限されてしまう。無理すれば果汁の残りかすを絞り出すにように霊体から霊気を放出させることが出来るかもしれないが、そうすれば待っているのは霊気の完全な損失による霊的な死だ。どちらにしろ、万事休すだった。
さらに運の悪いことに夜鷹がいるのはいまだ空中であり、霊気の支えを不意に失った夜鷹はバランスを崩した。そのまま重力に引きずられ、地面に激突した。受け身を取らなかったせいで、横っ腹と左腕から落ちてしまい、全体重が圧し掛かった左腕から強烈な痛みが脳に響いた。失った酸素を取り戻そうと必死に呼吸を繰り返すが、なぜだかうまく出来ない。脳がパニックを起こしたかのようだった。
立ち上がろうとして、再び激痛に顔を歪めた。どうやら左腕は完全に逝ったらしい。力が入らず、だらりと垂れさがっていた。
「あぁあ、うぐぅううっっ!」
奥歯が欠けるのではないかと思うほどに奥歯を噛みしめて、立ち上がった。痛みで呻き声も不格好なものへと変わる。動くたびに全身に痛みが駆け巡って、奥歯にかかる圧力が増していった。もはや夜鷹を支えているのは「式神にする」という目的意識だけだった。たった一つのことを成し遂げたいがために、夜鷹は耐え難い苦痛に耐え、立っている。敗北の味はとても不味く、苦い。だからこそ、二度目を味わわないように努力するのだ。才能がないものが人並みに努力をしたところで、才能があるものには勝てない。ならば、どうするか。人並み以上に、努力して時には無理をするしかないのだ。そうしなければ、夜鷹のような者はこの世界で生き残れない。そんな意識だけが夜鷹の足にまだ踏ん張りをきかせてくれた。
負けるのものか、と。
『…………滑稽じゃのう』
息も絶え絶えで抗戦の構えを示す夜鷹に、猫又のぎょろりとした大きな瞳が妙なものを見るように細められた。
『どうして……おぬしはそこまでする……妾と遊んでくれるのはよいが、おぬしにとってこれはあまりにも大きすぎるリスクが伴うものではないのか?』
あの女の声が、空気ではなく霊気を伝って夜鷹の耳へと脳へと届く。酷く濁っていて、ノイズのような雑音が混じってはいるがその声には紛れもない戸惑いがあった。自分で仕掛けておきながら、なんて言い草だ。そう夜鷹は思ったが、やがてにぃと片方の口角を吊り上げた。「俺は魂が見える」
「魂ってのはよ、人によっていろいろだ。常にハイテンションにたぎってるものもあれば、冷たく静かなものだってある。感情と同じだ。魂の状態、波動を視たらそいつが今どんなことを思っているのかってことはだいたい察しがつくんだよ。十数年間見て感じてきたからな。鐘ヶ江は子供みたいにはつらつとしてるし、師匠はいつも面倒臭そうにしてる、楓さんは静かそうで実はその真ん中は火のように燃えててさ、時折怖くなるほどにそれが広がるんだ。おもしれえだろ?」
ははっ乾いた笑いがこぼれた。もう左腕の痛みも感じなくなってきた。アドレナリンが多量に分泌されて、意識すら朦朧としてきた。
「でもさ、決まっていつも酷く悲しそうで、嘆き苦しんでる魂がある。お前たちだ。お前らみたいな魂は、見るたびに悲しそうで、楽しそうで、辛そうで、苦しそうだった。それが見ていられなくなって、陰陽師になろうとした。俺が少しでもお前らを苦痛から救ってやろうと、そんな思いでいた。でも、無理だった。二週間前、俺はなにもできずに「瘴気」に侵されるあの子を、見ていた。師匠に祓われる瞬間、助けてって声が聞こえたのに何も出来なかった。ああなる前に俺が祓ってやれてれば、もう少しは楽になれかもしれないのに」
『矛盾しておる』
「ああ、そうだよ。祓うことは、イコールとして殺すとういことだ。殺すことで相手を救えるなんて、滅多にねえ。でも、今の俺に出来ることっていえばそのぐらいしか思いつかねえのも事実なんだ。じゃあ、やるしかねえじゃねえか。そうした中でそうしなくてもいい方法を見つけ出すしか、ねえじゃねえか」
言葉を噛みしめながら一つ一つ吐き出していく。漠然と感じていた想いを自分に言い聞かせるようにゆっくりゆっくり、言葉に変えていく。落とした白連装の片割れをかろうじて動く右手で拾い上げる。グリップを握る力が強くなった。
「そんな中でな、俺は魂が酷く寂しがっている奴を見つけたんだ。寂しくて、淋しくて、だから人にちょっかいを出して面白がってその隙間を埋めようとしている、とんだ大馬鹿野郎だ。でもな、そいつやたらと強くてさ、上から目線で偉そうで、そのくせに魂だけは独りを嫌ってるんだ、笑えるだろ? だから決めた。俺はそいつを式神にしてこき使ってやろう、てな。そうすれば、そいつが淋しさを感じることもないだろうし、俺も強くなれる。一石二鳥だ」
握っている白連装の銃口を上げる。霊気は相変わらず枯渇していて、もう呪術一つも使える状態ではなかった。当然、白連装も霊気がなければただの鉄の塊同然だ。それは向こうも承知のはずで、夜鷹の行動を訝しむように大きな口を一文字に結んでいる。
「まぁ、要するに俺ががんばってるのは自己満足ためだ。その上でもう一度言うぞ――――――お前は俺の式神だ」
アドレナリンとその場のノリというものが手伝って、えらく饒舌だった。普段は無口で仏頂面に徹しているのに、こういうときに限って夜鷹は調子に乗る。調子に乗って、挙句の果てには「式神にしてやる」から「式神だ」にランクアップさせてしまった。
夜鷹の言動にない眉をひそめる猫又。『妾が寂しいとな? なんとも面白みに欠ける冗談じゃ』猫のままで喋る彼女は、どことなく異質だった。
「そういう間も魂が揺れ動いているぞ。動揺してる証拠だ」
そう指摘すると、またしても彼女の魂の打つ波が強くなった。
『…………にゃは、にゃはにゃはにゃはにゃは。なるほど、これはこれは誠に遺憾だのう』
笑い、そして声を潜めるように言う。『おぬしが言うことは嘘か真か。はたまたどちらでもないのか。それは妾にはわからぬ。だからこそ、妾は言うぞ。妾は楽しみを、面白みを求めて、今ここにいる。断じて、淋しさなどを紛らわすためではない』振りまく「瘴気」がさらに濃くなり、彼女の魂をさらに深く浸食していく。もう夜鷹の「見鬼」ですら彼女の魂を感じ取ることが出来なくなっていた。
「なんとでも言え」
彼女の言い分は夜鷹としてはどうでもいい。必要なのは彼女を式神にするという一点のみ。あとの残りは付随してもしなくても、どちらでもよかった。
とはいえ、今の夜鷹にはこの後も戦えるような気力はない。霊気も底を尽きていた。正直なところ、立っているのですらやっとで次に攻撃がきても避けれる自信はなかった。そういえばまだ退院して一日しか経っていない。不幸だな、と自嘲した。最後の命綱として心までは折れていないが、それがどこまで持つのかもわからない。胸の内を暴露して、萎えさせないように強気で頑張ってみたのだが、それも効果があったのか是とすることもできないし、否めもしなかった。
彼女が咆哮した。霊気を声に乗せて目に見えない呪術的ダメージを与える言霊ではない、単なる感情の発露。心の中に立ち込める霧を払拭するための、吹き飛ばすための鼓舞的な意味合いを持つものだ。彼女が何を感じているのか、それが滲み出す霊気からほんの少しだが読み取れる。動揺、慟哭、嬉しさ、否定、哀しみ、肯定、否定。ぐちゃぐちゃに混ざり合って、彼女自身ですらどれが本来の自分の想いなのか分かっていない。混乱して、錯乱して、余計に「瘴気」をあたりに散らしていく。
見てられないが、どうすることもできなかった。
だけど、やはり夜鷹は不運だが運に見放されているわけではなかった。不運がある分、また幸運も彼のもとへと巡ってくる。
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」
不動明王の真言、不動一字呪。目に見えない呪で相手を縛り、その動きを絡め取る金縛りの呪術が猫又の四肢を地に縫い付けた。その瞳が自らの失態に気付き、驚愕に染まった。
「遅かったですね」
「思ったよりも準備に手間取りました。どこかの不肖の弟子の願いを叶えるため、孤軍奮闘しました」
「どっちかといえば俺が孤軍奮闘したような……」
呟くも、首を後ろに向けた楓の鋭き視線で押し黙らされた。こういう時こそ師弟関係というものが恨めしく思った。
しかし、楓はそんな夜鷹の内心など気にも留めていないように、再び視線を前へと移した。
「左腕は大丈夫ですか?」
「折れてるんで」
「なら、右腕だけでどうにかしてください」
それはそれでスパルタすぎる。
「そんなことはさておき、不肖の弟子。準備はできてますか」
「準備って、何のことでしょうか?」
あえて敬語で素っ頓狂に答えてみる。他意はない。ただ意地悪、というより些細な反抗心が芽生えただけだ。「彼女を式神にする準備」と楓は言ってから、さも当然のように計画を打ち明ける。
「まず、私が先ほど作ったオリジナルの呪術で彼女の瘴気を魂から一時的に引き剥がします。不肖の弟子、貴方はその間に彼女を自分の物にしてください。出来なかったら、一週間夕飯抜きで修行させますから」
彼女の中で決められたシナリオでは、ここから本番、一番盛り上がる場面に差し掛かろうとしている。例えるなら主役がついに敵の根城に到達し、囚われのヒロインを救出するといったシーンだろう。勿論、その主役は夜鷹で、ヒロインはあの女だろう。ヒロインが化け猫になっているのは、この際なかったことにするのが適切である。「とはいえ、貴方の霊気も残っているのは、絞り粕のようなものです。「翔歩」が一度使えればいい方でしょう。それでも大した出力ではないでしょうが」と冷静に楓は夜鷹の状態を分析する。しかし、そのあと彼女はそれについて何も言及せずアドバイスも与えずに、口を閉ざした。彼女のシナリオ上、夜鷹は彼女に一瞬でも触れさえすればいいのだから、「翔歩」は一度でも使えればいい。そう考えたのだろう。
さて、舞台は整った。
「あれだけ大見得切って、さらには私に重労働を強いたのですから、失敗した場合、呪い殺されると思ってください」
「……了承」
最後の最後まで毒を吐くことを忘れない。毒舌家の鏡だった。それでも彼女の魂からは不安や懸念が感じ取れる。「大丈夫ですよ。俺は失敗しません。絶対に」と彼女の心の内に先回りして夜鷹が言った。それに楓が眉をひそめる。誰しも心の中を覗き見されたら、いい思いはしないだろう。至極当然の反応だった。「破廉恥な」とだけ楓は返したが、それ以上は何も言わなかった。
楓が睫毛の長い瞼を薄く閉じる。
「オン シュリ マリ ママリ マリシュシュリ ソワカ」
烈火の炎で不浄を清浄と化すと言われる烏枢沙摩明王の真言。楓の周囲に発生した轟然たる音を響かせる業火が、猛然とした勢いで天高くそびえる柱を生み出す。だが、彼女の術はそこで終わりではなかった。真言を唱え終えると、次に再び別の呪文を唱え出した。次は真言でも、五行の呪術でもない。夜鷹の見知らぬ、陰陽術だった。
「木気は火気を生じ、火気は土気を生じ、土気は金気を生じ、金気は水気を生じ、水気は木気を生ずる」
彼女が口にするは、陰陽術の基礎とされる五行思想の基本理念だった。五行相生。すべては五つの気から成り立っているとする、いわばこの世の理。
「我、楓の名のもとに命ず。世の理から外れし魂よ、不浄なる穢れを祓い、その身に清浄をもたらし汝の罪を贖いたまえ――――――!」
その言葉が術の発動を促すキーとなった。次の瞬間、彼女の術式が猫又を中心として発露した。さして広くもないグラウンドに突如として五芒星が浮き上がる。
五芒星は陰陽五行説において五行の性質を表す。表の陰陽師と呼ばれる人物の中で唯一、裏と表を兼任したといわれる阿部清明から名を借り、清明紋とも呼ばれている。陰陽道において、最もポピュラーな呪印の一つだった。
五芒星が煌めき、霊気の業火が星の中で迸った。
「急急如律令!」
命令句。それは術を完成させるための最後のピースであり、起動コマンド。それを唱えることにより、術式が完成し呪術が起動する。
――――――轟々たる灼熱が、「瘴気」を燃え上がり不浄を祓っていく。だが、それでも即興で創り上げた術式であるがめに不浄を祓うためにはいささか火力不足だった。
「充分すぎるね」
楓の呪術が完成したのを見届けて、夜鷹は地を蹴った。残り少なかった霊気を消費し、「翔歩」で空を駆ける。霊気が空になったせいで貧血にも似た症状が現れていたが、この際構わない。どのみち、自分はあの燃え盛る火の中に飛び込まなくてはならないのだ。貧血を一々気にする余裕も、度胸もなかった。
目を閉じ、全神経を集中させる。「見鬼」に備わった魂を視る才は、別段突然変異として生じたものではない。夜鷹の持つ〝ある能力〟によって生まれた副産物的な意味合いのところが大きかった。
陰陽師にとって魂の呪術が禁忌とされているのは、二つの理由がある。
一つはそれが世界の理に真っ向から喧嘩を売っているようなものだから。理から外れた者の魂、世界のバグを修正するのが陰陽師の役割であるというのに、その陰陽師自らバグを生んでしまっては本末転倒というものだ。
二つ目に、魂の呪術は究めれば世界すらも滅ぼせる力を有しているからだった。
過去にも魂の呪術を極めた者はいたそうだ。その者どもは決まってやたらと強く、逞しく、勇ましかったという。だが、魂の呪術を使えば使うほどその者どもは術の魅力に取りつかれ、必ずといっていいほどその最後は醜いものだったという。ある者は鬼となり、ある者は心の臓が脈動を止めるまでその身を切り刻み、ある者は「瘴気」を発しその「瘴気」に蝕まれ同業者によって修祓された。それが魂の呪術を陰陽師が禁忌とする所以であり、その力を持って生まれ落ちた夜鷹が『異端児』と呼ばれ蔑まれてきた謂れでもある。
その力が操るのは霊気ではない。霊体、魂そのものだ。本来干渉しえないはずの魂に干渉し、自らの魂に憑依させる禁忌の術。その名はこう伝えられている。
「『魂の憑依』」
霊気ではない、故に霊力でもない何かが身体を包んでいくのを夜鷹は感じた。
いや、違う。これは包まれているのではない、抜け出ているのだ。それまでいた世界の理の中から、その外へ飛び出してゆく感覚なのだろう。ここからは完全な未知との戦い。自分でも制御できるかどうかはわからない領域だった。でも、自然と恐れはなかった。






