第一章 真夏の夜に 3
陣内というのが彼の名だった。ひょろりと細い体格に、手入れの行き届いていないぼさぼさの髪、常に皺くちゃになった作務衣を着ている一見すると頼りなさそうな男だ。寺の住職をしているというが、夜鷹が下宿してからきちんと仕事をしているところを見たことがない。暇さえあれば縁側で昼寝している。それでも呪術の腕に関しては相当なものなのだから、人は見た目によらないと言わざる得ない。
「ほんま、君とおると退屈せんなぁ。臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前――――――!」
場にそぐわぬ笑みを浮かべ、そんなことを漏らす陣内がその切れ長の目をうっすらと開け、敵を見た。第二段階に移行した「霊的存在」いわゆる『霊獣』となった、幼き女子が背にある野太い腕をこちらに突き出しながら走ってきている。
陣内が目にもとまらぬ速さで九字を切った。夜鷹のそれとは似て非なる、速さも精確さも段違いの術の展開だった。
大木のように巨大な腕が陣内が展開した術と激突する。瞬間、陣内の何倍もありそうな巨木の幹が何かによって吹き飛ばされるように後方へと吹き飛んだ。負けじともう片方の腕も振ってくるものの、結果は同じ。巨木と術がぶつかる度に、びりっ、という放電にも似た現象が起こり腕を跳ね返してしまう。
「無駄や無駄や。君にこれは破られへん。僕の弟子の作った、形だけの術とは違うさかい」
何度も何度も黒く野太い腕を叩きつけてくる童女を見て、陣内は困った子供を見るような表情を浮かべた。眉をひそめ、明らかに面倒くさそうな面持ちで大きなため息をついた。
「なんや……僕の未熟な弟子とその友達がえらいお世話になったようやな……」
あたりを見回し、付近に倒れている春奈を視界にとらえる。視たところ、霊障にかかっているようだが発症してからさほど時間が経っていないからかその進行度合いはまだまだだった。これならば後で治療を施せば後遺症が残ることもないだろう、と陣内は春奈を診断し次に自分の後ろで虫の息となっている未熟者の弟子を見る。
「ま、大丈夫やろ。これも一つの勉強や。たっぷりと自分の情けなさを身に感じてればええ」
後ろを振り返ることなく、陣内は辛辣な評価を夜鷹に下した。陰陽師の存在意義とすらいえる、「霊的存在」の修祓すら出来なかったのだからその評価が低くなるのは当然のことだ。しかし、果たして夜鷹がその言葉を聞いているかどうか。
「傷の方は後で僕が治療すればええし、問題は君なんやけど」
後頭部を掻きながら陣内は言った。そして、いまだに陣内の展開した術と壮絶な張り合いを見せてる童女は、一向にその行動をやめる気配を見せない。むしろ嬉々として攻撃を繰り出しているようにすら見える。
末恐ろしい娘や、と陣内が呟いた。
「やけど、僕も陰陽師の端くれ。この程度にビビッてもうたら二度と陰陽師名乗れんようなるで、ほんまに……なぁ、『八咫』」
陣内が顔に微笑を張り付けたまま、己が使役する式神の名を呼んだ。名を呼んでからそれが現れるまでタイムラグはなかった。まるで初めからそこにいたかのような佇まいで、式神『八咫』は顕現した。神話にある八咫烏と同じ三本足が、陣内の肩に食い込むように乗せられている。
ぱん、と陣内が柏手を打った。霊気を伴った波が彼を中心として全体的に広がっていき、実体を持たぬ霊力の風が髪をなびかせ、空気を振動させる。
「五行の理を以て、命ずる。清浄なる炎を以て、邪なる悪鬼を討ち祓いたまえ。急急如律令」
呪術とは、詠唱し対価たる霊力を世界に捧げることにより発動する、一種の「霊的存在」である。霊力と呪文を贄として、一時的に理から外れた力を授かる、それが呪術だ。使用する術により詠唱しなければならない呪文も違ってくるのだが、夜鷹の使った「略符」のようにこういった術を発動するためのプロセスを省き術の発動を簡略化したものも中には存在するため、必ずしも呪術に呪文詠唱が必要というわけではない。だが、「略符」」のように本来必要であるものを省けば、当然それによって得られる効果も少しばかりは薄くなるというもの。やはり、術本来の力を発揮するためには陣内のように詠唱する方が好ましいといえる。
つまりだ。陣内の発動した呪術は、夜鷹の発動した省略した呪術よりも圧倒的に強力であるということである。
『花……火……ジャナナイ』
「花火? ああ、さっきの夜鷹君の術のことか。そうやなぁ、確かにあれは小さかったように思えるな。彼の素質的にはもうちょい威力あってもよかったし、これは要修行やで」
悠々と夜鷹の修行計画について思案する陣内を前にして、初めて童女が振りかぶるその腕を止めた。その視線の先にあるのは陣内の頭上にさんさんと輝く直径十メートル近くの火の玉だ。先の夜鷹の呪術を小さな太陽と評したが、いやはやこれと比べると彼のそれはいささか小さすぎる。
『怖イ……怖イィィイイイ、ナンダソレ?』
彼女が恐れているのは何もその大きさだけではない。霊気の密度が違いすぎるのだ。一つの呪術に込めた霊力の差ではない、単純な技量の差。まるで違う。これでは別の呪術ではないか。
「あはは、そこまで言ってくれるとは陰陽師明利につきるというものや」
軽快に笑い飛ばす陣内であるが、今もその頭上には巨大な火球があたりを焼き尽くさんばかりに照り付けている。
「まぁ、夜鷹君は式神も持っとらんしな。僕より術の精度、威力、その種類。すべてにおいて劣るのは当然や。略符は便利やけど、単純な呪術しか使えんし」
まるで誰かに説明するような仕草と口調で陣内が言った。ちらりと横目で後ろを確認するが、相変わらず反応が返ってくることはなかった。
ため息をつき、陣内がその瞳に敵を映した。
「さぁて、そろそろ春奈君と僕の出来の悪い弟子が死にそうにしとるので終わらせようかと思うとるんやけど…………準備はええか?」
『オ前面白クナイ。オ兄イチャン出せ、オ前ジャナイ!』
「あらら、えらい好かれたもんやな。夜鷹君、案外女子にモテるタイプなんかな?」
童女が喚き叫ぶのと同じくして彼女のもつ「瘴気」があたり一面に吐き出されていく。感情の高ぶりは、即ち霊体の高ぶりである。『霊獣』はそのものが「瘴気」に犯されているのだとすれば、霊体が高ぶり霊気が放出されると霊体を犯す「瘴気」が外に押し出され、そうやって押し出された「瘴気」は徐々に現実を侵食していく。
しかし、
「ほんまは力技なんて僕は得意やないんやけどもな。不器用な弟子は、ひとつ見本を見せてやらんと術の一つもできんからな…………というわけや、勘忍な」
片手をあげ、謝るような仕草の後、ぱちんという音が陣内の指から鳴らされた。それはいわば引き金だ。それを合図として、彼の頭上で生成されていた術がようやくその役目を果たそうと動き出す。
高密度に圧縮された霊力の塊、とでもいうべき太陽が童女に迫る。その威力たるや、彼女が咄嗟に突き出した腕を一瞬にして消し炭に変えてしまうほどであった。
砂で出来た城が崩れ去るように、童女が背から生えた巨大な両腕が消滅していく。それは肉体における消滅とはわけが違う。霊体が、それを構成する霊気があの一撃ですべて燃え尽きた。それは意識の一部が無理やり身体から剥がされたようなもので、痛みは感じず、ただ魂の根底から虚無の感情が全身を駆け巡っていく。静かに自分が「無くなっていく」感覚が、そこはかとなく広がるだけ。
『霊獣』は恐怖を感じないわけではない。人として感じる恐怖という感情が希薄になっただけで、動物が生命体そのものが持っている本能からくる恐怖というものがなくなったわけではないのだ。それ故、『霊獣』となった彼女も陣内という圧倒的な存在の前に本能的な恐怖を抱いてしまった。生物が持つ、肉体だけではなく霊体にすら刷り込まれた「強者」への畏怖。
腕が燃やし尽くされたのを彼女が認識したときはすでに、彼女の身体そのものも炎の中で焦がされていた。熱くはない、ただなんとも言えない虚無感だけが全身を覆い尽くしている。消える感覚というのはなかった。
『…………タス……イ……シ……タク……イ』
彼女の最後の呟きは、粛々と燃え盛る炎にかき消され灰の如く風に流されていく。
「あれをもろに喰らって、まだ生きとるんか……ほんまにすごいで、君。生きてたら、立派な陰陽師になれたかもしれんなー。少なくともうちの弟子よりはまだ見どころあるで」
けたけた、と笑う。
しかしながら、本当にしぶとい娘だ。夜鷹の捨て身の一撃を持ちこたえのも、案外彼の技量不足のせいだけではなかったのかもしれない。だが、これ以上彼女に時間を取られるのは陣内の都合上よろしくはなかった。
面倒くさそうにため息をつき、頭を掻く。
「終いや。ナウマク サマンダボダナン インダラヤ ソワカ――――――!」
陣内が唱え、身体から霊気を迸らせる。詠唱したのは帝釈天の真言。帝釈天とは元はバラモン教やヒンドゥー教における武神、インドラのことであり、雷を操る雷霆神である。その真言を唱えることによって得られる力は、即ち雷撃。全てを破壊する、神の一撃。落雷は音よりも早く、目標へと到達し周囲一帯に高圧の電流を撒き散らしながら、目標を瞬時に焦がしつくす。
そんな絶対的な一撃が、いまだ火中で抵抗を見せる童女を完膚なきまでに破壊、消滅させた。
「うん、これでお勤め完了や」
跡形もなく消え去った童女の影を見て、陣内は満足そうに相好を崩した。
* * *
その後のことについては言うまでもなく、陣内による二人へのきついお説教が待っていた。陰陽師でもない一般人と、まだ半人前の陰陽師がお遊び感覚であのような場所に行き、危うく死にかけたのだから当然である。春奈は陣内に「瘴気」を祓ってもらった後、大事を取って早目に説教を切り上げてもらい帰路についていたのでよかったが、残った夜鷹が地獄を見る羽目になってしまったのは言うまでもなかった。
霊体の損傷と「瘴気」の感染、肉体的な怪我も含めると夜鷹は人生でもそう滅多に経験しない重傷であった。無茶が祟った結果である。
霊体が常に片方の霊気で構成されていることはすでに述べた。霊体と世界の構造の矛盾についてもすでに述べているのだが、世界にはまだ矛盾している点があった。呪術である。
呪術を発動する上で必要なのは霊気、つまりはそれを練り上げ生み出される霊力と呪文の詠唱だ。しかし、世界を作る際に神が何を間違ったのか呪術を発動するためにはここにもう一つ大事なプロセスを組み込まなくてはならなかった。自身霊気と術ごとの呪文、そして自分に欠けているもう一方の霊気。この三つが呪術発動に際して必要な、材料とでもいうべきものである。
ようは、呪術は片方の霊気のみでは行使することができないのだ。考えてみれば、呪術は一時的に世界の理を外れた力なのであって、術者は違えどその力自体は「霊的存在」と何ら変わりないものなのである。双方に理から外れているという共通点がある以上、括りとしては間違ってはいない。
そして、「霊的存在」はその存在自体が不安定で常に欠けている霊気を補おうとしている。そうでなければ、自然の摂理によって世界から抹消されてしまう。呪術もまた、二つの霊気なくして、その安定は得られない。
では、どうやって陰陽師はその欠けたもう一方の霊気を補っているのであろうか。
答えは、『式神』である。ついでに言うと、今回夜鷹の無茶とはこれと関係がある。
「陰陽師ちゅうのはな、自分の使役する『式神』を持ってようやく一人前になれるわけや。理由は……そやな、いくら略符ちゅう便利なもんが普及したとはいえ、やっぱ先人の知恵は立派やいうことや」
『式神』というのは言ってしまえば、それこそ「霊的存在」と同義であり、またそのものだった。「明日の敵は今日の友や」とは陣内の言であるが、まとめてしまうとそういうことだ。とある呪法により「瘴気」だけを祓った「霊的存在」を術者と霊的回路で繋げ式神の契りという謎の儀式を経ると、「霊的存在」は人為的にこの世に『式神』として形を成すのである。
この『式神』の主な役割は主が術を発動する際に、欠けたもう一方の霊気を霊的回路を通じて術者へ送ることであり、この一連の流れがあって初めて呪術というものは成り立つ。
そして、夜鷹の無茶とは、数少ない略符だけを手に『式神』もない陰陽師が第二段階に移行した「霊的存在」を相手取ろうとしたことだった。陰陽師としての常識に照らし合わせれば、愚行を通り越して自殺行為にも等しく、「僕は死にましぇん!」と某有名ドラマのようにトラックの前に飛び出して何のドラマチックな展開も起こせないまま無残に撥ねられてしまうような、馬鹿で無謀で夢見がちのフィクションと現実の境を曖昧にしてそうなちょっと痛い中学生の行動と同じなのである。
今回の一件で春奈は懲りたようで、陣内の不思議な施しによって回復した夜鷹の見舞いに訪れた時には「幽霊なんて二度見たくないよ!」と泣きべそをかきながら言っていた。それが演技か、はたまた本物なのかは定かではないが、少なくとも自分の無謀な行動によってどれほどの人が迷惑を被ったのかぐらいは理解したようだった。夜鷹の怪我も自分のせいだと思っているらしく、夜鷹の貧困の語彙ではフォローするのにも一苦労であった。
そんなこんなで時間は過ぎていき、夜鷹は約二週間と少しの期間を入院という形で過ごす羽目になった。
本来ならば数か月の入院をしなければいけないほどの重傷だったのだが、その殆どは陣内の呪術によって完治とまではいかないもののそれに近い状態にまで回復している。むしろ、肉体的によりも霊体そのもの損傷のほうが酷かった。「瘴気」による霊体浸食が肉体における病気、ウィルスに感染したような状態であるとするならば、霊体の損傷とは肉体的にいう怪我だ。霊体が損傷するとどうなるのか、簡単な話目に見えない怪我を負ってしまうのである。腕がやられれば、腕が動かしにくくなったり、動かなくなったりする。もっとひどい場合には、死んでしまうこともあるらしい。魂に怪我するのだから、当然と言えば当然か。
そして、こればかりは陰陽師の呪術でも治すことは出来ない。霊体を治すというのは、つまり魂を修復するということ。それは陰陽師にとって禁忌だ。魂に関する呪術は、陰陽師にとって忌むべきものと言っても過言ではない。
陰陽師とは即ち、世界の理を守護し、正す者。一度死んだ者は生き返らないし、生き返らせていけない。死んだら、魂は浄化され消えていく、それが定めである。それを守るのが陰陽師の役目であり、存在意義とされている。
だから、魂の呪術というものは陰陽師界において禁忌の一つとされるのだ。
魂というものは理で決められた通りの道筋で、生まれ、死んで、消滅しなければならない。そうでなければ、陰陽師がそれを滅する。仕組みとはそういうものだ。魂の呪術はそれに真っ向から対峙するような思想であるがために、いつまで経っても理という檻の中に閉じ込められたままなのであろう。
以上の理由によって、夜鷹は損傷した霊体が自然修復するまでの間、入院ということに相成ったわけである。
学校はもうすぐ終業式らしい。羨ましいな、と自分もその学校の生徒であるということを棚に上げ夜鷹はぽつりと呟いた。すぐそばにある窓が、さんさんと照る太陽の光を容赦なく夜鷹のもとへと送り届けてくる。
今日もまた暑い。