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リバースサイド  作者: 曾良
第一幕
2/13

第一章 真夏の夜に 2

 見上げると曇天の夜空がある。生憎の空模様だった。


 真夏の夜は蒸し暑い。陽が昇っていなくともじめじめとした熱気があたりを支配しており、数十分もいると額から汗が溢れだしてくるほどだ。せめてもの救いは時折吹き抜ける風ぐらいだが、それでも暑さが和らぐのは一瞬だけだ。このうだるような蒸し暑さがなくなることはなかった。


「……来ないね」


 手近なコンビニで買ってきたアイスを頬張りながら、春奈がぽつりと零す。彼女の視線の先にあるのは何の変哲もないただの路地だ。いや、変哲があるといったら、ここはつい最近人が亡くなった場所だった。春奈がつい数時間前にいきいきと話していた、通り魔事件の被害者が亡くなっていたのがここである。つい数週間前までは警察が現場を保存するために、立ち入りを禁止していたのだが今では解禁となっていた。


 水を打ったように静かな路地を点滅を繰り返す電灯が頼りなく照らし出している。さながら雰囲気だけは幽霊が出るには打ってつけな場所だった。


「来るわけないだろ」


 物陰に隠れ、様子をうかがう春奈の隣で気怠そうに胡坐をかいて座っている夜鷹が断定口調でそう言い切った。


「犯人は現場に戻ってくるとかよく言うじゃない」

「それは人間の場合だろ」

「幽霊だって元は人間だよ!」


 それはそうだろうけど、と夜鷹は困ったように眉をひそめた。

 通り魔の幽霊を退治しよう。そう春奈が言い出したのは放課後、下校中の事だった。言われた直後は夜鷹も相手にせず、そのまま無視して帰ろうとしたのだが春奈はどういっても引き下がろうとはしなかった。どうしてそこまで拘るのかと訊くと「興味があるから」と命知らずな答えが返ってきた。これには夜鷹も呆れるしかなかった。霊的存在に接触する場合、下手すると命の危険があると知ってのことなのだろうか。そう思い問うてみると、春奈は頭を横ではなく縦に振った。どうやら危険だということを承知でのことらしい。

 しかし、半人前とはいえ夜鷹も陰陽師の端くれだ。何の対抗手段も持たない一般人が霊的存在と接触を図ろうとしているのを、黙って見過ごすことはできなかった。

 そういった事情から二人はこの場に来ていた。春奈は若干遊び気分でいるようだが、夜鷹は本当に霊的存在が出てこないか心配でそれどころではなかった。もしそれが現れた時どう対処すればいいのか。脳内でのシミュレートを幾度も繰り返している。


 腰にある下宿先から拝借してきた呪符が入っているポーチに片手を置いたまま、じっとあたりに気を配っていた。汗が額から頬を伝い、地へと落ちていく。とにかく、蒸し暑い。気を張っているからか、余計に暑く感じる。おかげで掌が汗でぬれて、べとべとだ。


 もう何時間こうしているのだろうか。いや、まだ一時間も経っていないかもしれない、ひょっとすると十分も経っていないのではないか。緊張のせいか時間の感覚が徐々に狂ってくる。くそ、と悪態をつきたくなる衝動を堪えながら夜鷹は額から流れ出る汗を手の甲で拭った。

 霊的存在が一番現れやすいのは、言わずもがな陽が落ちてからである。特に陽が落ちる直前の黄昏時と丑三つの刻に目撃されることが多い。今の時刻は前者の黄昏時を過ぎているとはいえ、まだ日が暮れてあまり時間は経っていないはずだ。もしも、その通り魔事件を起こした霊とやらが本当に現れるのだとすれば、これからが本番となる。

 緊張の糸をほつれさせないように、夜鷹は気を張りつづけた。隣ではいまだアイスに齧りついていた春奈が「あ、子供だ」となどと言っているが気には留めなかった。


「こんなところで一人でうろつくなんて、危ないよね。ちょっと、私話しかけてくる!」

「行って来い。そして、そのまま家に帰れ」


 彼女が大の子供好きだということを知っている夜鷹は別段疑問にも思わず彼女を見送った。出来ればその足で帰路についてほしいところだが、生憎彼女は生来稀に見る頑固者だ。やると決めたら、どう説得しようが動こうとしない。風林火山の動かざること山のごとくを地で体現している少女なのである。


「ねえねえ、君一人? こんなところに一人でいると危ないよ~?」


 背後から聞こえてくる声に少しばかり耳を傾けながら、夜鷹は一度大きく欠伸をした。神経をすり減らしながら辺りを警戒しているせいか今日は妙に頭が冴えていた。が、時間が経つにつれ今日は何も起きないのではないかとも思うようになってきた。これからが本番だと頭では分かっていても、内心いつもと何一つ変わらない光景に飽き飽きしてきている自分がいる。早く帰って飯を食べ、風呂に入って、布団に入りたい。張りつめていた夜鷹の緊張の糸は、段々と緩み始めていた。

 夜鷹の「見鬼」としての才が場にそぐわぬ、異常な霊気を感知したのはそんな時だった。「見鬼」とは霊気を感じ、視ることが出来る才能の事をそう呼ぶ。いわゆる、霊視能力のことだ。「見鬼」は先天的な才能によって大きく左右される。陰陽師の潜在的能力は「見鬼」の程によって判るとすら言われているほどだった。

 夜鷹も微弱ながらその「見鬼」の才を持っていた。そんな夜鷹の「見鬼」としての才が霊気の異常を感知したのは、夜鷹のすぐ後ろ――――――春奈のいる場所。


「まさかっ!?」 


 腰のポーチにある呪符を一枚取り出し、振り返った。やはり、と夜鷹は苦虫を噛み潰したような表情を顔に張り付ける。

 そこにいたのは髪の長い、幼い童女。異様に伸びた髪が顔を隠しており、不気味な様相を醸し出している。

 春奈は必死になって子供に「お家はどこ? お母さんかお父さんはいるの?」と話しかけているが、子供の方はまるで彼女の言葉が耳に入っていないように無反応。いや、髪の隙間からちらりと覗かせる口元には微かな微笑が浮かんでいる。注視しないと分からないほどの微かな表情の変化。だが、それでもそれを見た夜鷹の背筋には氷よりも冷たい悪寒が走っていた。


「おい、逃げ」


 危険を知らせるために夜鷹がカラカラの喉から声を振りしぼろうとしたときに、二度目の異常が「見鬼」を通し夜鷹に伝わった。


 童女を中心に異様なまでに霊気が荒れ始めた。


 ――――――――間に合えっ!


 呪符を眼前に構え、集中する。霊気とは自身の肉体ではなく霊体、即ち魂から発せられるもの。己が魂から湧き出るエネルギーこそが霊気であり、その霊気を練り上げ霊力に昇華させることが呪術における基本だ。練り上げた霊気を「略符」と呼ばれる呪符へと流し込む。「略符」とは呪術発動までのプロセスを数段階省略し、今まである程度の時間が必要とされてきた呪術を簡略化と高速化を実現させた画期的な代物だ。

 夜鷹はまだ陰陽師としての修業を始めて間もない。扱える呪術は数えるほどしかなかった。だからこその、この「略符」だ。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう !」


 急ぎ律令の如く行えという意が込められた呪術発動のための最後のプロセスが、夜鷹の口から発せられる。

 現れるのは、火の玉。それが夜鷹の周りに十あまり浮かび上がり、それとほぼ同時に振り下ろされた夜鷹の腕を合図とし猛然と童女に降りかかった。そして、夜鷹もまたそれを合図にし、次の瞬間には地を蹴り宙を滑走していた。

 先に周囲の変化に気付いたのは童女だ。自分めがけ放たれた火球群を視認するや否や身体に見合わない脚力によって跳躍し、寸前のところでそれをかわした。

 逆に春奈は完全に出遅れていた、もしかすると何が起こったのかもわかっていないのかもしれない。童女の跳躍から間髪おかずに飛来する火の玉に目をこれでもかと見開き驚いている表情が、遠目からでも確認できた。それから間もなくして少し離れた場所にいたはずの夜鷹が空中を普通ではあり得ない速度で駆けてくるのを見て、ようやく彼女の表情がパニックと焦燥感が入り混じったものから状況を理解したものへと変わった。


「大丈夫か!?」

「うん、一応……でも」


 当初の目的通りとはいえ、予想外過ぎる会敵だ。春奈は勿論のこと夜鷹の表情にも少なからず焦燥の色が見えていた。夜鷹も陰陽師の端くれとはいえ、まだ一人前と呼ぶにはいささか知識も経験も不足している。実戦というのもまだ片手で数えきれるほどしかない中で、緊張するなというほうが無理があるだろう。


「俺が奴の注意をひく。お前はその隙にどこでもいい、ここからとにかく離れろ」


 吐き捨てるような夜鷹の言葉に春奈は一瞬、何かを言い掛けたがすぐに思い留めた。彼の手が震えているのに気付いたからだ。怖いのだ、彼も。陰陽師になると粋がっておきながらも、その胸中は不安でいっぱいなのだろう。それを必死に堪えて、抑えて今この場に立ってそう発言をしている。それに春奈は一般人、呪術を扱えるわけでもなければ「見鬼」の才があるわけでもなかった。ここにいてもただ邪魔なだけになるだけだ。

 出かかった言葉を呑み込み、春奈が踵を返した。「ごめん」と一言残し、走り去ろうとして春奈はその動きを止めざる得ない光景を目撃した。


『ねぇ……お兄さんたちも遊んでくれるの?』

「っ!?」


 雷に打たれたように夜鷹の身体が翻る。咄嗟に春奈の身体を押しのけ、自身の背後へと回らせる。

 春奈の行こうとした先、道の先にいたのは先ほどの童女だった。いつの間に回り込んでいたのだろうか。考える間もなく夜鷹はポーチから数枚の呪符を取り出し、練り上げた霊気を呪符に込めた。あとは命令句である急急如律令きゅうきゅうにょりつりょうの呪文を述べれば、術が完成する。


『この前のおじさんとの遊びも楽しかったけど、お兄さんたちの方がもっともっと面白いことしてくれそう』


 そう言って童女が怪しく微笑む。表情が伺い知れぬ分、余計にその不気味さが際立っている。肩を震わせ楽しそうな童女の笑い声が住宅街に響き渡り、二人は全身が粟立つような感覚に襲われた。

 この世の理から外れた者の霊気は常軌を逸している。「見鬼」ではない春奈ですら、その言葉の意味がひしひしと伝わってくるような迫力があった。

 霊気には二種類がある、陽の霊気と陰の霊気だ。霊気はどんな者でも必ず二種類の内片方のみを帯びており、陽の霊気は男性、陰の霊気は女性といった具合である。しかしながら、霊気というものはどういうわけか陰と陽そのどちらかでも欠けてしまうと途端安定しなくなるという矛盾した性質を持っていた。霊体が発する霊気は常に一つであり、霊気が不安定な霊体はその存在自体が不確定的なものとなり、この世に存在できなくなる。つまり消滅してしまうのだ。肉体というのはいわば霊体の安定装置のような役割を果たしているのである。片方の霊気を欠く魂を、この世に結び付けるための依代なのだ。

 そのため、肉体が死亡してしまうと霊体というのはその安定を失う。それが俗にいう死である。

 通常であれば霊体はそのまま消滅する――――正確には霊体を為していた霊気が散り、自然の霊気と同一化する――――それが自然の摂理である、世の理だ。しかし、時には事故として、人為的としてその理から外れる存在がある。それが「霊的存在」であり、今夜鷹達の目の前にいる童女であった。


 目に見えぬ圧力に身体が押し潰されてしまいそうだ。圧倒的な威圧感は、彼女がすでにこの世のものではないということを如実に表しているようにも思えた。

 恐怖が心の奥底から湧き出てくる。感情という名の泉は、徐々に夜鷹の身体に充満していきその肉体を鉛のように重くしていた。


『遊ぼう?』


 童女が可愛らしい仕草で首を傾げそのか弱そうな足を一歩前に踏み出した。それが引き金となった。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 己の精神に根付こうとしていた感情を振り払うかのように、夜鷹が叫ぶ。ありったけの練り上げた霊気、霊力を呪符に込めた。命令句が発せられたことにより、呪符に施されていた術が発動していく。

 とにかく今、夜鷹に求められているものは時間を稼ぐための攻撃だ。春奈が逃げ切ることが出来る時間と、そのための退路を確保することを最優先としてこれからの戦闘を進めていかなければならない。ならば、その初撃に求められるものは何か。


「流されろっ」


 夜鷹の持つ呪符から発生したのは、大量の水気。五行説における、水行の呪術だ。霊気を帯びた流水は夜鷹の込めたありったけの霊力によって爆発的に増加していき、彼の号令を機として童女のいる路地へ一斉に流れ込んでいく。

 迸る霊気の奔流が童女を呑み込みながら、夜鷹達の眼前を暴れ馬の如く暴れまわる。


「すごい……」


 夜鷹が呪術を放ち、術が発動するその光景を見て春奈は一言そう口にした。魅せられるというのはこういう感覚なのだろうかと、春奈は一人思う。恐怖と緊張感が入り混じったこの空間の中で、春奈は妙な感覚に襲われていた。


 ――――――身体が、眼が熱いっ……!


 心臓が激しく鼓動し、めまいがするような感覚に襲われる。なんだ、これは。身体に力が入らず、脚が生まれたての小鹿のように震える。立っていられない。


「鐘ヶ江っ!?」


 夜鷹の上擦った悲鳴のような声が聞こえる。突然、その場にしゃがみ込んだ春奈にいささか動揺しているのだろう。

 まさか、と夜鷹には思いつくものがあった。

 霊障。一般的に「霊的存在」との接触があった人間に現れる、霊的外傷および霊的障害のことを指す言葉だ。霊的存在が持つ霊気は元来人が持つ霊気とは異なり、「瘴気」と呼ばれる歪なものである。なんの対処法も施していない人間が長時間「瘴気」に当たりつづけると、今の春奈のような霊障を引き起こしてしまうことがあった。

 霊障とはつまり、霊体が歪な霊気である「瘴気」に侵されることによって起こる一種の霊的外傷である。ほっておけば霊体に深刻なダメージを与え、肉体そのものにも影響が出かねない。本来ならば霊体を侵食する「瘴気」を祓う呪術を行使することによって治すのだが、生憎というか不運というか夜鷹はその呪術をまだ知らなかった。


「どうする……っ!」


 いまだ暴れ狂う激流を背に、夜鷹が呻く。こんな時に何もできない自分が憎かった。なんでもっと早くこいつを連れて帰らなかった。なんでもっと頑固に説得を続けなかった。後悔ばかりが脳裏に浮かび、消えていく。


 だが、夜鷹達にとって不運はそれだけではなかった。


 爆発。夜鷹のものとは違う、また別物の霊気の奔流が彼の背後で出現した。


『お水お水! すごいすごい!』


 愉快そうな声が聞こえたすぐ後、路地を埋め尽くしていた水の激流が中央から爆ぜる。自身の霊気を以て相手の術を吹き飛ばす、それは強引にも程がある力技だった。

 童女を飲み込んでいた水流が再び指向性を失い、そのまま消滅していく。


『やっぱり、お兄ちゃんは面白いねっ!』


 童女がにたりと口角を釣り上げる。先ほどまでとは桁違いに膨れ上がった歪なる霊気、「瘴気」が彼女を中心として暴発的に迸り始めた。


 来る。そう直感的に感じた時には既に、九字を切っていた。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前 」


 陰陽師に伝わる破邪の法、手刀で空に四縦五横を描くことにより発動する一切の災厄と魔物から身を守る護身呪文の一つだ。

 夜鷹が九字を切り終えるのと、童女がその顔に笑みを張り付けたまま突撃してくるのは殆ど同時に起きたことだった。

 激突するのは、夜鷹の呪術と童女のか細い腕。勝者はかろうじて前者だった。宙を蹴るようにして童女は後ろへ跳び、再び距離を取った。


『なにそれぇ……また面白そうなものだねぇ、お兄ちゃん!』

「お褒めに預かり光栄です、ねっ!」


 再び突撃してくる童女に夜鷹は必死で耐えた。少しでも気を抜けば術が破られそうな勢いだ。歯を食いしばりながら、夜鷹は身体の奥底から霊気を振り絞った。

 だが、押される。童女の「瘴気」は時間が経つごとに増していき、その圧倒的な力はうねりとなって夜鷹を押し潰さんと迫ってきていた。

 このままじゃ、突破されるのは時間の問題だ。

 どうする。そう考えたときにはもう夜鷹の腕は腰にあるポーチから呪符を数枚取り出していた。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 複数の呪符に霊気を注ぎ、呪術を発動させる。いくつもの火球群が夜鷹を中心とした周囲に展開され、次第にその大きさを巨大な球体状のものへと変化させていく。


 五行説にはそれぞれ木行、火行、金行、土行、水行があり、それらは「相性」「相剋」「比和」「相乗」「相侮」の関係にある。このうち今、夜鷹が使ったのは「比和」である。

 同じ気が重なると、その気は盛んになる。これが「比和」であり、いわば同じ性質の呪術を同時に行使するとその術は威力が倍々になるというわけだ。

 「比和」の性質により、その大きさ威力共に巨大化した火気の呪術はもはや火の玉というより、小さな太陽と表現したほうがいいのではなかろうか。そう思えるほどにこれは大きかった。


「これでも、喰らってろ!」

『花火花火!』


 嬉しいそうに笑い声をあげる童女だったが、一方で夜鷹は苦しそうに顔をしかめた。九字によって展開された呪術が限界に近いのだ。

 夜鷹が声にならない叫び声をあげながら、自身の頭上にある真っ赤な極小の太陽を童女めがけ放った。

 直後、先の火球とは比べものにならないほどの熱風が夜鷹と春奈の素肌を焼いた。その衝撃で夜鷹の身体が後ろへ引っ張られるように吹き飛ばされる。無防備のまま飛ばされたためか受け身を取ることが出来ず、二回三回地面を転げ、地面にうつ伏せの状態で叩きつけられた。


 肺から空気が押し出され、息苦しさが夜鷹を支配する。顔を上げながらゆっくりと息を吸い込み、肺底に酸素を送り込む。


「かはぁっ……はぁはぁ。鐘ヶ江?」

『熱い熱い……痛い、痛いよぉ』


 夜鷹と童女の声が重なる。先まで童女がいた位置よりもさらに奥にその姿を確認した。どうやら彼女も夜鷹同様、熱風によって吹き飛ばされていたようだ。まさかあの一撃で倒せるとは思っていなかったが想像していたよりも頑丈な娘である。だが、さすがの娘も夜鷹の捨て身の攻撃にはダメージを受けたと見え、彼女を構成する霊気が不安定に揺れている。あともうひと押しさえあれば、修祓することももしかすると可能かもしれない。


 夜鷹がそう思った、その時だった。


 不安定に揺れていた霊気が突如として、童女を中心とする周囲一帯に集まりだしたのだ。


 ぞくり、と悪寒が再び背筋を凍らせた。童女の発する「瘴気」の密度が先ほどよりも格段に濃くなっている。先までのものとは比べ物にならない高密度の「瘴気」が、夜鷹達のいる空間を覆いつくさんばかりに広がっていく。


「やべっ」


 小さく舌打ちをしてから、夜鷹は練り上げた霊気を足の裏へと集中させた。地面を蹴る瞬間に足の裏に集中させてあった霊気が爆発し、夜鷹の身体が凄まじい速度で加速した。


 陰陽式戦闘術『翔歩』


 陰陽師は何も呪術だけで「霊的存在」と渡り合うわけではない。「霊的存在」は世の理から外れている存在であるせいか、その多くは人並み外れた身体能力を有している。目の前にいる童女のも然り。車と大差ない速度で地を駆け、機械すらも凌駕する怪力であらゆるものを破壊する。そんな化け物と陰陽師たちは一千年以上前から戦ってきた先人たちの知恵、それが陰陽式戦闘術であった。


 徐々に減速していきながら夜鷹は春奈の近くに降り立つ。ちらりと尻目で童女を見る。『熱いよぉ、暑いよぉ……でも楽しいよぉ、楽しい。お兄ちゃん』狂ったように叫び続ける彼女の瞳は虚ろで、それを見ると夜鷹は改めて彼女が命なき霊体であると思い知る。彼女も生きていたら、今頃両親と楽しく健やかな毎日を過ごしていたであろうに。そう思うと、途端胸が締め付けられるような感じがした。

 くそっ、と苛立ちを吐き捨て夜鷹は地面に力なく倒れこんでいる春奈の身体を起こした。夜鷹が捨て身の一撃を放った時に、咄嗟に夜鷹が彼女を庇ったから大した怪我してなさそうだった。強いて言うならば、軽い火傷が皮膚の表面にあるぐらいである。


 そんな彼女にホッと安堵するも束の間、夜鷹はすぐに彼女の身体を抱き上げもう一度『翔歩』により童女から距離を取った。


「こんな時に師匠がいたら……」


 思わず弱音がこぼれて、夜鷹は勢いよくぶんぶんとかぶりを振った。この場にいない者に頼ってどうする。希望的観測は駄目だ。そう自分に言い聞かせ、身を翻す。


「『霊獣』にでもなるってのかよ。勘弁してくれ」


 『霊獣』とは初期段階の「霊的存在」の霊気がこの世に安定し始めた頃に見せる、段階的変異の二段階目……いわゆるレベル2と呼ばれる「霊的存在」の通称である。レベル2になった「霊的存在」の多くはその姿形を獣のような風貌に変化させる。理由はよくわかっていないが、変化する風貌もバラバラで狼や虎のような見るからに危険そうなものに変化する者もいれば、狐や雀といった一見無害そうなものに変化する者までいる。大きさもばらばらで一貫性はない。

 だが、どんな風体をしている『霊獣』でもその力は第一段階の時とは比べ物にならないほど大きくなっていることが多かった。第二段階でその前よりも危険度が低くなったという事例は稀であり、陰陽師の世界では「霊的存在」は『霊獣』になる前、つまり初期段階の状態で修祓する方が望ましいとされている。レベル2になった「霊的存在」はレベル1と比べて格段に濃い「瘴気」を纏っている。下手をすれば『霊獣』が街中で暴れて、「瘴気」による霊体汚染が広まり、霊障患者が大量に発生するという一種のバイオハザードのようなものが起こる可能性だってあるのだ。早めに退治するに越したことはない。


 びりびりと空気が振動し、夜鷹の頬を打った。「見鬼」の才が捉えるのは異常な霊気の波動。まるで心臓が波打つように、どくん、と空気が振動する。

 夜鷹がもう一度ポーチから呪符を取り出した。残りの呪符の数は少ない。何せ本当にこのような戦闘になるとは思っていなかったので、下宿先からくすねてきた呪符はほんの数枚だったのである。こんなことならもうちょっと拝借しておけばよかった、と夜鷹は後悔じみた言葉を漏らすが、今となっては後の祭りだ。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう


 残りの呪符すべてにありったけの霊力を込め、命令句を述べる。使うのは、水の呪術。だが、先ほどのものとは少し異なった呪術だった。

 呪符を童女に投げつける。すると、投擲した呪符から突如として一矢のような水が迸った。矢のように先端が鋭く尖り、高圧で放たれた水は流麗な刃のように美しい飛沫を撒き散らしながら童女の胸元を音もなく穿つ。童女は避けなかった。『あ……』という声が聞こえる。穿たれた胸元から溢れるのは真っ赤に染まった鮮血ではなく、真っ黒に染まった彼女の霊気だ。


 さらに続けざまに同じ術を放つ。一度目と同じ軌道を描く水の矢が、少女の身体を射抜いていく。またしても彼女はよけなかった。恐らく避けることが出来ないのだろう。「霊的存在」は段階が上がる際に、その霊気が酷く不安定なものになるというのを前に聞いたことがある。元から不安定だったものがさらに不安定になるのだから、動きに精彩を欠くのは当然だ、むしろその隙を突いて修祓に持っていける陰陽師は優秀である――――――前に師匠から言われた言葉が、何度も何度も夜鷹の脳内で流れていた。


 ここが最後のチャンスだと。


「終わりだ。急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう


 もう一度略符に霊力を込める。何度もかの投擲、呪術が発動し高圧流水の一矢がまたしても童女の胸に大きな風穴を開ける、ことはなかった。

 胸を穿たれる寸前、童女は今まで半開きになっていた瞳をカッと見開き、霊気の矢をその小さな腕で掴んだのだ。握り潰し、呪を破壊する。


「こうなったら、一気に畳みかけるしか……って、そううまくはいかないよな」


 童女の霊気が徐々に安定を得てきている。夜鷹の「見鬼」としての才がそれを感じ取っていた。これは駄目だ、と夜鷹は内心愚痴った。これは、移行の兆候だ。『霊獣』になる。

 そう結論付け、咄嗟に腰のポーチに手を置いた。そこで愕然とした。

 なかったのだ。すでに持ってきていた呪符が底をついていた。


「万事休すってか? どうするんだよ、これ」


 誰もいるわけでもないのに夜鷹はそんなことを呟いた。

 だが、事態は夜鷹を嘲笑うかのごとく悪化していく。「瘴気」が爆発した。音もなければ、派手な火柱も煙も立たない、霊的な影響力を持った爆発であった。

 童女の身体の中にある「瘴気」が急速に膨れ上がっていき、彼女の身体ははち切れんばかりに「瘴気」でぱんぱんになる。それはまるで限界ギリギリにまで空気を入れた風船のようだった。

 そして、空気が抜けた風船のようにその「瘴気」がしぼんでいく。中心に吸い寄せられるかのように、圧縮されながら「瘴気」が集まっている。


「とりあえず、師匠のところにまで全力で走ればどうにか」

『オイカケッコ?』


 低くしわがれた声が夜鷹の鼓膜を震わせた。反射的に首を上げた夜鷹の視界に広がったのは、黒だった。

 黒が迫り、夜鷹の腹部を殴りつける。何が起こったのか理解するよりも早く、夜鷹の身体が宙を舞い、何十メートルも離れた民家の塀にたたきつけられた。骨の軋んだ音、骨が折れ粉砕された音、身体の中の何かがつぶれる音が脳に響き渡る。視界がぼやけ、口から血の塊が溢れた。


「ああ、ううぅ……」


 声を上げようとすると、自分のものとは思えないほど弱々しいうめき声が喉から漏れた。

 立ち上がろうと四肢に力を込めたが、返ってくるのは痛みだけで腕も足も腰も動かなかった。どうやら骨やら筋肉やらが御釈迦になってしまったようだ。

 それに酷く気分が悪い。もしかすると、先の一撃で霊障にかかったのかもしれない、春奈もそうだがこうなったら早急に治療が必要だ。出なければ死ぬかもしれない。

 脳から分泌されている大量のアドレナリンのおかげか、痛みを感じなくなった。痛いという感覚があまりにも強すぎてもはや感覚という物自体が麻痺してきているようだった。


『オイカケッコ? オイカケッコ?』


 ぶれる視界に映る童女はすでに人としての面影はなくなっていた。

 背部から生えた黒ずんだ巨大な二本の腕に、片方が頬の先まで裂けた口、そこから覗く四本の上下に伸びる鋭い牙。黒一色で塗りつぶされた瞳からは、真っ黒に染まった涙がとめどなく流れ出ている。しまいには横一文字に裂けた額から真っ赤に充血した三つめの眼まであった。

 そんな形相をした化け物が、血まみれで動けなくなった夜鷹を見て「瘴気」を震わせている。それはどこか新しい玩具を与えられた幼子を彷彿とさせるものだった。


『オ姉チャンモ、面白ヰケド。オ兄チャンハモット、面白ソウ』


 しゃがれた、それでいていまだ童女だったころと似ている声音で化け物は言葉を吐く。もうそこには思考なんてプロセスは存在しない。ただ本能の赴くままに、貪りつくし壊し穢すだけだ。


 彼女の、化け物に成り下がった童女の脳はもう夜鷹の事しか考えていないだろう。彼をどうやって殺すか、いたぶるか、どんなふうにすれば楽しいだろうか。それだけが、今のあれを動かす欲求なのだ。『霊獣』とはそういうものだった。「霊的存在」が人を襲うのは欠けているもう片方の霊気を補充するためだと言われている。不安定な体をこの世に留まらせるために、人の霊気を食うのだという。

 だが、魂が持っているのはもともと片方の霊気だけだ。人とというのはそういう風にできている。だから、一つの魂に二つの霊気が混在するとその魂は自らの霊気に耐え切れなくなって暴走してしまうのだ。その果てに自ら霊気を犯す毒、『瘴気』を作りだし自身の魂に混じる異物を殺そうとするのである。


 魂は己からそれを求め、それを手に入れたが故に暴走し破滅していく。


 この童女も同じだ。心の奥底から湧いてくる欲望に従い行動し、その結果その欲望を満たすためだけの化け物に成り果ててしまった。

 夜鷹が陰陽師になろうと思ったのは、ひとえにそれを可哀想だと感じたからだった。自分にある力がもしも誰かを救える力であるならば、自分は彼らを彼女らを、そんな運命の中に放り込まれた者たちを存在を、救ってやりたい。そう考えたから、夜鷹は陰陽師になろうと決意した。


 だが、現実はどうだ。


 いざ対峙してみれば、救済するどころか手も足も出ずに殺されかけ、一緒にいる大切な友までも危険にさらしている。


 つくづく実感した。自分には才能がないのだと。


 そして才能がないそんな自分が憎い。


 自分が掲げた目標すら達成できず、何も誰も守れず、意味もなく死のうとしている自分が憎かった。


『ネエネエ、モットアソンデヨ! オ兄チャン!』

 振り下ろされる二本の腕が眼前へと迫ってくる。だが、何もできない。動くことも、逃げることも、戦うことも、声を出して助けを呼ぶことすらできない。


 ただここで無様な死に方を晒すことしか自分には、


「まったく、えらい手間のかかる弟子やな君は」


 闇に沈みかけた意識がかろうじてその声を認識する。ほんの数時間前に会ったばかりだというのに、妙に懐かしく感じる声だった。

 


「し、師匠……!」



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