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リバースサイド  作者: 曾良
第二幕
13/13

第五章 霊槍と鬼 3

「大丈夫か、将人?」


 夜鷹が対面する男を警戒するように睨みつけながら、後方に倒れている将人に声をかけた。


「大丈夫ばい。かすり傷たいね」


 かすれ声で痛みに顔を歪めながら、将人は答えた。声だけでも大丈夫じゃないことは一目瞭然だった。

 だが、そんな返答を聞いた夜鷹は安心したように胸をなでおろした。「心配かけさせやがって。あぶねえんだから、いきなり飛び出していくなよ。まだ病み上がりなんだしさ」


「あはは、次から気を付けるけん」


 それに将人も笑って答える。


『さて、陣内から頼まれておったことも済んだことじゃ。主様よ、ここは一つ面白い遊びをしてゆかぬかのう?』


「嫌だ」


 夜鷹の背後に陽炎のように影を揺らめかす菊音は、堪え切れない笑みを着物の袖で隠しながら夜鷹に提案した。そして、鮮やかなまでに即答で却下された。


『なぜじゃ? 目の前にこうも面白そうな素材が転がっておるというのに……。あれは鬼じゃぞ。本物の、正真正銘の鬼じゃぞ!? 何百年と生きた妾でもそう簡単には拝められないような連中じゃぞ!? それが何の因果か、こうやって夜鷹、おぬしの前に立ちはだかっておるのじゃぞ! そして、そこの小僧を傷つけた憎き小悪党じゃろうて! ならば、夜鷹よ! 男ならば、鬼とて立ち向かうのが筋というものじゃろうに!』


「てめえ、それただ単純にお前が戦いだけじゃねえか! 正真正銘の鬼なんて相手にしたら、俺が死ぬって! 正直、鬼気視ただけで体の震えが止まんねえんだよ! つうか、今すぐ逃げたいんですけど!」


 密度の濃い鬼気を見て気が昂ぶったのか、菊音はえらく饒舌に熱く「鬼と戦う貴重さ、そしてそこから得られる意味合い」を夜鷹に向かって説きだした。しかし、説かれている夜鷹といえば「嫌だ」と一点張り。先程から聞いている将人と男が虚しくなるような言葉を連発している。その顔つきからは想像もつかない発言ばかりが目立っていた。かなりみっともない。


「てか、さっさと将人連れて、ずらかるぞ。この男を放っておくのは気が引けるが、俺じゃあどうやっても勝てそうにないからな。負け戦とわかっていて、わざわざそこに突っ込むような命知らずな人間じゃないんだ、俺は」


「おいおい、それ本人がいる目の前で言うなよ……。つか、逃げられると思ってんのか、お前さん」


「…………死ぬ気で逃げる」


『要は、考えてなかったのじゃな』


 菊音に図星を突かれ、夜鷹は黙り込んだ。男に指摘されるまで気付かなかったが、そもそもどうやって逃げようか。将人は恐らく、動けない。夜鷹が肩を貸すか、背負っていくしかないだろう。だが、そんな状態であの鬼から逃げきれるのかといわれたら答えたは「ノー」だ。無茶すぎる。万に一つ、あの男が夜鷹を見逃してくれるというのなら逃げ切れる可能性もあるというものだが、「まぁ、そこの男が思ってたよりもあっさりと駄目になっちまったからなぁ、ちょうどいい」そんな都合のよい現実など、訪れるはずもない。


 男の霊気が再び、荒れ狂うように空間を覆い尽くした。「見鬼」で感じ取ったそれは、夜鷹にとっては想像を絶する濃度だった。鬼気を視たのは初めてだった。黒く濁り、まるで瘴気のような歪な霊気が彼を中心に波を立てている。


 これが鬼気。これが日本で語り継がれる、伝説の存在。鬼なのだ。


 そこに立っているだけで、身体が押し潰されていると錯覚するほどの存在感。世界の理に縛られぬ、故にその異様さは留まる事を知らない。鬼というのは日本古来からその存在が確認されている、いわば最古の「霊的存在」である。どういった過程で霊的存在が鬼になるのかはわからない。そもそも第二段階から第三段階に至るまで、その魂が起こす変化は予測不能なのだ。過程を飛ばして、結果を予測し得ることは出来ない。つまり、すべての霊的存在は鬼になる可能性を秘めてもいるし、ならない可能性も秘めているということだ。


 かつて鬼は日本において、最強の霊的存在であった。人間離れした身体能力に加え、鬼気の発現。後者は最上位の鬼ともなれば、何もしなくともそこにいるだけで人の意識を刈り取ることもできるという。まさに最強の霊的存在だ。そして、陰陽師の天敵であり、かつ最も死闘を繰り広げてきた種でもある。


 そんな鬼の一人が今、夜鷹の目の前で獲物を前にした肉食獣のような笑みを浮かべている。無理だとわかっていても、逃げるという選択肢以外夜鷹の取れる行動はなかった。


 夜鷹が腰のポーチから素早く略符を二枚取り出した。口早に命令句を唱え、符を男に向かって二枚同時に投げつける。


 直後。辺り一面に水蒸気が立ち込めた。「あちっ」と男の驚いたような声があがった。その隙に夜鷹は一目散に踵を返し、将人を肩に担ぐと最大出力の翔歩で地面を蹴った。人の域を超えた速度で加速していく夜鷹は、数秒も経たないうちに男の視界の外にその姿をくらました。


 後方に注意を向け、「見鬼」で男の霊気が追ってきていないかを確認する。生憎、夜鷹の「見鬼」の才は陣内程優秀なものではない。索敵範囲も狭く、霊気を視る力も雲泥の差がある。そんなか弱い「見鬼」で視た限りで、追って来ていないと判断するにはいささか心許ないが、肩の力を抜くぐらいには安心しても良いだろう。


「どうだ、名付けて「蒸気で目つぶし作戦」!」


 安心からか、はたまた純粋に喋りたかっただけか。夜鷹が声高らかに(ついでにドヤ顔で)叫んだのは、先に起こした事象のことだった。


『阿呆か……あれは単純に水気と火気をぶつけただけじゃろうて。お世辞にもうまい手とはいえぬぞ』


 菊音が嘆息し、半眼で夜鷹を見る。いまだに自慢げな笑みを浮かべる夜鷹の瞳には、菊音の言葉など耳に入っていないような煌めきがあった。興奮と嬉しさが混じったような表情だ。嬉しいのだろう。何せ、彼の不器用さは何百年と生きている菊音が知っている者の中でも随一であり、霊気のコントロールもまた然り。略符なしではまともに呪術を発動させることもできず、日々楓に無言と毒舌という相反する暴力を受けている始末だ。そんな有様な夜鷹だが、努力を怠っているというわけではない。きちんと弱者なりに理解しようと思考を巡らし、実践している。その結果が、先の水蒸気目つぶしだった。


 小手先の技術と術の豊富さで勝てないのなら、自分に何が出来るのか。先日の菊音との一連の出来事で己の惨めさを思い知った夜鷹は、そんなことを考えていた。技術はこれから努力してあげるとしても、術の豊富さもだが、時間がかかりすぎる。恐らく、自分の資質では一年間血反吐吐くまで頑張ったところで精々二流止まりがいいところだろう。陰陽師の世界とは、裏側リバースサイドの世界とはいうなれば『才能が全て』なのだ。才能一つで、その先に待っている未来は天国と地獄ほどに違う。その中でも夜鷹は飛び切りの落ちこぼれであり、かつ忌み嫌われる力を宿す者でもある。他者よりも才がない上に、課されるはずの修行もなかった。そのため、夜鷹の陰陽師としての現在の実力は三流、それも三流の底辺近かった。


 そんな御身分で、何が出来るのか。考えた末にたどり着いたのは、悪知恵だった。所謂、悪戯である。


「でも、考えてみると呪術って奥が深いよな。単純に五行相生してもいいけど、それらを組み合わせていろんなことが出来る。呪術だけじゃねえ、戦闘術だって使い方次第でもっといろいろ……」


 五行相生。五行相剋。それら以外にも五行についての性質はあるが、基本的に陰陽師が扱うのはこの二つが多い。勿論、五行とはこの世の理を司る原理を説いたものであり、理に干渉するための術なのでそれら五行のうちどれかを単体で行使しても、それなりの効果は期待できる。だが、夜鷹が活路を見出したのは、それらを組み合わせ応用することだった。先の水蒸気のように、組み合わせ次第では攻撃系統の呪術も目くらまし代わりになったりする。要は使い方の問題だ。普通に使ったところで、どうせ夜鷹は一般的な術者が繰り出す術の下位互換しか生み出せない。ならば、誰も思いつかないような奇抜な術で、相手を翻弄して倒す方がよっぽど実戦的で、役に立つ。


 そして、実験と思考を重ね作り上げた夜鷹の奇妙な術の数々。水蒸気目つぶし、はそのうちの一端だったのだ。さらに今回が初の実戦投入でもあった。それが華麗に(とはいい難かったが)決まったのだから、夜鷹が有頂天になるのも致し方ないというものだ。


『それよりも、大丈夫なのか? そやつは』


 菊音が眉をしかめ、訝しむよう将人を一瞥する。


「とりあえず、視たところ霊障が酷いな。総量としてはさほど深く浸食されているわけじゃねえが、全体的に侵されているぶん肉体の方に甚大な影響が出てる。早く治療しないと、手遅れになるぞ」


 夜鷹が冷静な口調で将人の容態を語った。


「つっても、俺は治療できる術を知らないからどうにもできないんだが……どうするかな」


『来るなと言われている以上、行くわけにもいかぬが、放っておけばそやつは死に絶える。選択肢は二つに一つじゃな』


 菊音がにやりと意地悪な笑みを浮かべた。その顔はもはや見慣れていた。彼女が夜鷹をいたぶるときにする愉悦の表情だ。どちらか一方を選ばなければいけない状況の中で、必然的に答えが決まっているというのはよくある話である。彼女は夜鷹がそういう場面に出くわし、悩み、その結果不運に襲われるのが好物だった。たまらなく面白かった。彼が困り果てている顔がたまらなく愛しかった。


 夜鷹は思案顔で数秒間黙考し、おもむろに口を開いた。「将人を見殺しにするわけにもいかねえし。師匠のところに行こう。それにどうも、あちらは逃がしてくれないみたいだしな」そう言って、夜鷹は前方を注視した。後方ではない。追っ手の心配はないのだ。何しろ、敵は既に前にいるのだから。


 鬼気の奔流が頬を激しく殴打した。暴風となった黒い霊気の激流が、夜鷹の全身を飲み込んでいく。


「ちっ……!」


 寒気を感じ、反射的に夜鷹は宙に九字を描いた。悪鬼を退け、魔からその身を守る護身呪文。いにしえより伝わる、魔除けの呪術である。陰陽師ならば誰しもが扱える基礎中の基礎ともいえる術だが、夜鷹のそれは一般的な九字と比べるとやや弱い。無駄に出力が多く、そのくせ霊気の制御がままなってないから、出力された霊気が霧散する。結果、出来の悪い術が出来上がってしまう。前回もその失敗で童女と菊音に、九字をあっさりと破られてしまっている。大味な霊気コントロールが、ここでも彼の実力を低下させている要因となっていた。


 故に圧倒的な実力の差がある相手と相対した時。彼の護身呪文はあってないようなものである。


『跳ぶのじゃ!』


 菊音の声に導かれるように、夜鷹が術の維持を放棄し、そのまま足へと収束させた霊気を爆発させる。宙を蹴るようにして、横へと飛退けた。危うくバランスを崩しかけたが、最後の意地で何とか地表に着地する。しかし、その衝撃で肩に乗せていた将人の身が大きく投げ出され、夜鷹の着地と同時にその頭部を思い切りアスファルトへと打ち付けた。たらりと鮮血が滴った。


「あ、すまん」


「…………死にそう」


『おぬしは本当に悪い意味で期待を裏切ってくれないのう』


 敵を前にして、味方を殺しかける。淡海夜鷹とはある意味で規格外、予想外な男だった。勿論、悪い意味でだが。


 改めて、夜鷹は顔を上げた。


 鬼がいた。孟孟しくその身を震わす、古来の遺物にして最恐の怪物。その一端が今、夜鷹の目の前に立っていた。


「逃げるたぁ、どういう了見だ。面白くねえだろ、ガキが。てめえも陰陽師なら、怖気づかずにかかってこい」


 あからさまな挑発行為。彼の瞳に浮かぶのは純粋な闘争本能の炎のみ。戦いを楽しみ、その中でしか生甲斐を得られない者の色をしていた。


 それはつい数週間前までの菊音と同じだった。彼女は戦いに面白味を感じ、そこに生きる意味を見出していた。何百年と胸に居座り続ける孤独を塗りつぶすように、彼女は闘争を求めていた。

 男の瞳に宿る色は、そんな菊音とまったく同じものだった。だが、違うとも夜鷹は思った。確かに色は同じだ。だが、形が違う。それを求める訳が、本質が菊音と異なっている。そんな風に感じられた。この男は危険だ。そんなわかりきった事実が、頭の中で何度も繰り返し流れた。


 瞬く余裕すらない。瞬いた瞬間、肉薄されて殺されてしまうのではないかという恐怖が夜鷹の全身を駆け巡って、異様なまでな集中力を生み出していた。対峙しただけで感じるこの圧倒的な圧力に、夜鷹は気合だけで対抗していた。潰されかけている心を、強制的に奮い立たせる。


 腰に巻かれたホルスターに収まっている白連装のグリップに、手をかけた。いつでも抜けるように準備しておく。こちらは肩に将人を担いでいる状態だ。幾分、動きが制限されている。下手を討てば、自分だけではなく将人までもがただでは済まない。


 心臓の音がうるさい。小刻みに脈動するそれが、鬱陶しくてたまらなかった。男の一動一動に目を凝らす。どんな小さな動きでも、見逃さず、対処できるように神経を尖らせる。


 どれくらいの時間が過ぎたのか。悠久の時が流れたようにも思えるし、刹那の時にも感じられた。


 火蓋を切ったのは、夜鷹だ。先手必勝と言わんばかりに、早撃ちの要領で引き抜いた白連装の引き金を絞る。霊気が吸い上げられ、その銃口から霊気の弾丸が白銀の帯を曳いて放たれた。マズルフラッシュにも似た光が爆ぜ、白銀の弾丸が男めがけて一直線に空を穿いていく。


「オラァッ!」


 男の咆哮が、空気を揺らし衝撃波として夜鷹のもとへとやってくる。直後、男はその野太い腕を大きく後ろに引いた。自らを撃ち抜かんとする霊気の弾丸。それを男はあろうことかその岩のような拳で迎撃した。拳と霊気がぶつかり、一瞬にして弾丸がその姿を消した。


「なに!?」


『あの一撃を、拳の一振りで受け止めたというのか、あの男!』


 夜鷹と菊音が同時に驚愕の声をあげた。白連装は陣内の知り合いが拵えたという呪具で、その性能は一級品だ。霊気の総量だけは人並み以上にある夜鷹の霊気を吸い取り、引き金を引くだけで自動的に組み込まれてある術式が発動し、霊気の弾丸を形成して撃ちだす。シンプルそうであって、その構造は複雑だ。何重にも組まれた術式の上に、膨大な量の霊気があって成り立つ極めて攻撃に特化された呪具。そして、その術式の組み合わせもさることながら、術式そのものの洗練さもまた見事だった。一切の無駄がなく完璧なまでに調整されたそれは、まるで美しき絵画にも彫刻のようにも感じられた。まさに至極の逸品である。


 特に白連装はその威力が突出していた。菊音の術を一撃で屠り、変化した彼女に手傷を負わせたそれはまさしく必殺の一撃といえよう。菊音の場合、その威力をその身で体験している。驚きは夜鷹よりも格段に大きかった。


「いてぇ……! 痛いぞ、ガキィ!」


 獣じみた笑い声に混じり、男が叫ぶ。血走った眼がぎろりと夜鷹を射竦める。それだけで夜鷹の足が鉛のように重たくなって、硬直してしまう。

 滲み出る殺気を浴びるだけで意識が飛びそうだ。出来ることなら、担ぐ将人を見捨てでも逃げ出したかった。だが、胸を満たす恐怖心の中で微かに残っている良心がそれを許してくれない。逃げるという選択肢は今この状況に陥っている時点で無くなっている。戦うという選択肢も、先の一瞬の攻防を見た後では愚行にも等しかった。打てる手立てがないわけではない。『魂の憑依』がある。だが、それは奥の手であり、禁じ手でもある。使えば形成逆転できる可能性を秘めているが、それは飽くまでも可能性であり必ずしも状況を打破できるとは限らない。それに、リスクもある。ここは市街地だ。前回のように後先考えず大技を放てば、周りに被害が及ぶ。術の制御が大味な分、両極端な出力しか出せない夜鷹の欠点がここでも足を引っ張っていた。そして、『魂の憑依』は発動限界が五分という点に加えて、使用後には著しい体力の低下と気怠さに襲われる副作用があった。限界時間を超えて使い続ければ、憑依した魂と自らの魂が混ざり合って憑依化が解けなくなってしまう恐れもある。リスクに対して、あまりにもリターンが心許ない。勝負に出るには危険すぎる。


 それに相手は鬼だ。使えば勝てるという見込みはどこにもない。たとえ『魂の憑依』を発動させ全力で戦ったとしても、勝機があるかどうか。正直、確率的にはかなり低いだろう。それほどまでに古の鬼とは、数いる「霊的存在」の中でも別格の存在なのだ。

 そんな怪物相手に、夜鷹が取れる手段は限りなくゼロに近い。いや、ほぼゼロだ。何もない。唯一出来るとしたら、心に巣食う恐怖を気合いで押し殺し、眼前でほくそ笑む敵を睨みつけることだけだ。恐怖に負けないように自らを鼓舞し、表面的には強気な姿勢を崩さず、鬼と対峙する。それだけが今の夜鷹に取れる、最善の策だった。


 心が負けたら、駄目だ。ここで相手の殺気と気迫に呑まれて臆してしまったら、二度と生きて朝日を浴びることはないと直感が告げている。飽くまでも強気に行け。自分の中だけでも相手に対する優位性を保て。それが虚構の優位性だとしても、諦めて何もせずに嬲り殺されるよりはよっぽどマシだ。


 それがちっぽけな抵抗だとしても。


 男には譲れないものがある。


 退けないときがある。


 それがどんなに些細なことだったとしても。大事な時であったとしても。恐怖にだけは臆してはならない。



「くっそたれがぁ!」



 縫い付けられたように地面から離れない足を無理やり動かし、夜鷹は後方に跳んだ。跳び際に白連装の照準を男に固定し、引き金を何度も引いた。白銀の尾を曳いて、弾は幾度も空間を一直線に男めがけ裂いていく。その度に男が狂った笑い声をあげて、その巌のような拳を振り被った。白銀の光と巨漢の腕が何度もぶつかり合い、その残滓が眩く周囲を照らし出していた。凄絶な暴力の雨が双方から降り注ぎ、衝突するたびに爆音を伴って空気を打つ。


「どうしたぁ! そんなもんかぁっ!」


「チィ……ッ!」


 ダメだ。


 攻撃が通らない。引き金を何度引いても、もたらされるはずの結果が返ってこない。男の精悍な肉体を貫きその迸る鬼気を霧散させるために放った必殺の一撃が、いともたやすく男に砕かれていく。先の戦いの時はあれほど心強かったこの一撃が。これほどまでに簡単に、紙切れを破るように、防がれるのか。


 夜鷹の中で、何かがぐらついた。


 今、夜鷹がこの状態で打てる最大の攻撃力を持っているのは間違いなく白連装だ。片手で撃てるし、発動までのロスもない。呪術や略符のような五行の性質、術の豊富さを犠牲にしてまで手に入れた速度と威力なのである。それがまったく効かないのだ。夜鷹の不安は、徐々に恐怖心へと変わりつつある。どうにかして押し殺していた恐怖心が、どうしようもなく溢れだして心を支配していく。



 ――――――――怖い。逃げ出したい。



『しっかりせい!』


 塗りつぶされかけた心を、なんとか繋ぎ止めたのは背後からの叱咤だった。


『おぬしは前だけを見ていればいいのじゃ。自分を、妾を信じるのじゃ!』


 一人ではない。彼女がいる。そう思うだけで、夜鷹はもうひと踏ん張り気張ることができた。

 先ほど決意したばかりではないか。恐怖に臆したら、負けだと。その時点で自分の死は避けられないようになると。それだけは決して選択してはならないと、決めたではないか。


 優柔不断な自分が嫌になる。有言実行が出来ない自分に腹が立つ。


 鬼がなんだ。攻撃が効かないからなんだ。


 なら、考えればいい。どうすればいいか、どうしたら状況は好転するのかを。


 思考し、実行しろ。将人を担いだまま、圧倒的な実力を持つ古の鬼に打ち勝つ策を――――――――


「……いや、別に勝たなくてもいいよな?」


 不意に夜鷹が閃いたように目を見開いた。なんでこんな単純なことに気付かなかった、とでも言いたげな表情をした。


「振り切ればいい。振り切って、師匠の所まで逃げさえできれば……」


 先程のような中途半端な一手ではない。ただひたすらに逃げるためだけの、一手を打てさえすれば。全身全霊で逃げることだけに意識を、術を注ぎ込めば。あるいは、可能かもしれない。この鬼に追いつかれず、逃げ切ることが。


『でも、策はあるのか? 先のような手はもう二度と通人だろうに』


 心配そうな口ぶりでそう言う菊音に、夜鷹は徐々にその距離を詰めてくる鬼を睨みつけながら、再びその顔に笑みを張り付けた。


「一か八かだが、やるしかねえだろ」

  

     *     *    *


「ご苦労様。もう大丈夫だから、戻っていいよ」


 夜風に揺られて乱れたフードを直しながら、少女が目の前で膝をつく影に労いの言葉をかけた。人間から輪郭だけを抽出したような風貌のそれは、まるでシルエットのように黒色だけで全身が構成されている。一言でいえば、不気味だった。人でも、生物でもない『何か』だった。

 そして、影は少女の言葉に頷くと、こうべを垂れたまま、やがてすっと音もなくその姿を消した。瞬きのような、刹那の出来事だった。夜の暗闇に溶け込むような、違和感のない消失。最初からそんなものなど存在していなかったかのような錯覚すら受ける。あるのは風が吹き抜ける屋上と、月明かりに照らされる少女の薄い笑みだけだった。


「さぁーて。どうしようかなー」


 目深く被りなおしたフードの奥で少女は楽しげな声をあげる。手に持つそれをぐるりと指で弄びながら、陽気に鼻歌を唄いだした。夜の校舎は陽のあった頃と比べて、驚くほど静まり返っている。人っ子一人もおらず、呼吸音すらも壁に木霊して響いてしまう。そんな場所の屋上で、少女は嬉しそうに鼻歌を唄う。最近覚えたばかりの、JPOPだった。今頃の曲は昔と違い、アップテンポなものが多い。彼女が知っている音楽とは、大抵がゆったりとしたものだ。というものを大事にし、曲の合間にひたすら長い空白を作る。そういった類の音楽ばかりを、少女は過去に聞いていた。一昔前は偏見で聞く気はさらさら起きなかったが、いざ聞いてみれば中々良曲ばかりで、今ではすっかりはまってしまっている。じめじめとした熱気を吹き飛ばすように涼しい風がフードを揺らした。少女はそれに満足げに目を細めてから、「ふぅ」とため息をこぼす。近年地球温暖化とやらで夏の平均気温が昔と比べて格段に上がって、少女は参っていた。少女の知っている夏といえば、暑くはあるがどことなく涼しい風があちらこちらから吹いており、なかなか過ごしやすい気候だった記憶がある。それこそ、夏場に汗だくで服を濡らすというのはあまりなかった。だから、最近の夏はあまり好きではない。早く終わればいいと思っていた。だから、夏の終わりの気配が近づいてきて、純粋に嬉しかったのだ。嬉しさのあまりため息をついたのも、気苦労というものがこれで少しは減るかなと思ってのことである。


 しかし、そんなささやかな幸せに浸る時間はすぐに散ることになった。


「もう、来ちゃったの?」


 少女が残念そうに肩を落とす。彼女が来るであろうということはあらかた予想していたが、到着するのがいささか早すぎるのではないか。これではゆっくりと星空を眺めることもできない。本当にこういうのはやめてほしいものだ。少女が再度ため息をついた。今度は恨みがましい感情を込めて、深々とついてやった。それが気に障ったのか、少女の目の前に立っている楓は少しだけその頬をひくつかせる。よかった、どうやら苛立ってくれたようだ。


「どうしたんですか? こんな夜遅くに」


「それはこちらの台詞なんですが? よりもよって夕飯時に騒ぎを起こすなど……何より、何故今頃になって貴方なのですか。貴方はとっくの昔に、いなくなったはずです」


「いなくなったわけではないでしょうに。酷いですよ、楓さん?」


 楓の問いに少女が無邪気な声音で答えた。フードのせいで表情は読めないが、楓には呆れているように聞こえた。


「貴方などに名前で呼ばれる筋合いはありません。虫唾が走る」


「相変わらずの、毒々しさ……あの時から何も変わってませんね。いやぁ、懐かしいです。楓さん……いや、久しぶりに楓ちゃんって呼んであげようかな?」


「……ッ!」


 少女が楓の名を呼んだ瞬間、無意識のうちに楓は九字を切っていた。殆ど条件反射だった。彼女が口調を変えたほんの一瞬に、楓は恐怖を覚えてしまった。体ではない、生物としての本能でもない。楓の中に宿る人だった魂が、無意識のうちに絡繰りの身体を動かし、九字を切らせたのだ。自らの身を守るために、本来絡繰りに備わっていないはずの『恐怖』という感情が楓に反射的な行動をとらせた。


 そんな彼女の反応を見て、少女は「あれれ……」と驚いたような声を漏らした。


「そんなにびくっりする? おまけに九字まで切っちゃって……驚かせるつもりなかったんだけどなー。今の私は昔と違って、声が少し幼いし、鬼気も出してないし」


 だからなんだ、と楓は言ってやりたかった。だが、うまく舌が回らなかった。少女が少し口調を変えただけで、楓の中で何かが決壊した。覚悟してきたものが、脆く崩れ去ろうとしている。呆気なく、対峙しただけで忘れかけていた『死の恐怖』が蘇ってきた。


「さすがにそうなっても、覚えてるもんだねー。自分を殺した相手っていうのは。魂が覚えているのかな? さっきのも私があの時と同じような喋りだしたからだよね? 魂も揺れに揺れてるねぇ。さっきまで平常心を地で行っていたのに、急に恐怖と不安で押し潰されそうになってるし」


「やはり、貴方は最低最悪な女です。心の中を覗くとは、あの不肖の弟子並の最低具合ですね」


「あらら。彼と同列扱い受けちゃった……なんだか、ショックだ」


 楓の一言に少女はあからさまに頭を抱え込むような仕草をした。どうやら本気で落ち込んでいるらしい。


「でもまぁ……それはつまりあの人と同じ場所にいるということだから、喜ばしいことでもあるんだけどね」


「あの人……ああ、例の彼ですか」


 少女の言葉に楓が記憶を巡らせ、該当する単語を埋もれた過去の記憶から掘り出す。


「酒呑童子。貴方は昔からそうでした。一人の男を追いかけ続け……挙句の果てには禁術にまで手を出し、主の大切なものさえもその手にかけた。陰陽師としてだけではなく、人としても私は貴方を軽蔑しています」


 楓の精一杯の強がりの言葉に、少女は「はっ」と鼻を鳴らした。


「やっぱり変わってないよ、楓ちゃんは。昔からのあの小僧のことばかり。あの小僧を何よりも優先する。わかるよ? その気持ち。恋しいんだよね、愛おしんだよね。どんなことがあっても離れたくないし、どんなことがあっても守りたいんだよね。わかるよ。私も同じだから。私も恋しい人が、愛おしい人がいるんだ。でも、その人ずっと昔に死んじゃったんだ。私を残して、死んじゃったんだ。だから、生き返らせたいの。また、一緒にいられるようにしたいの。ねえ、楓ちゃんだったらわかるよね? この気持ち、わかるよね?」


 狂気にも似た感情が、少女の中で燻っていた。それは紛れもなく、愛、という感情だろう。行き過ぎた愛は時に、人を狂わせる。狂人となった人は、もはやその愛を得るためだけに生きているようなものだ。そのためにどんな犠牲も、犯罪も、手間も惜しまないし厭わない。彼に会いたい、彼女を抱きしめたい。ただそれだけのために、狂人は生きている。少女はまさにそうだ。彼女こそ、楓が知る中で最も愛に狂った人間であり、同時に幾年の時を生きる最強の鬼だった。


「貴方が何をしでかそうとしているのかは、わかりかねます。ですが、その意図は読めます」


「私と楓ちゃんは同じ穴の狢だし、当然といえば当然だよね。帰結する思考の果てが、同じなんだから」


 少女の言葉を楓は無表情のまま聞いていた。頷くことも、かぶりを振ることもしない。彼女の言っていることは少なからず真実で、正鵠を得ているからだ。楓という存在の性格をよく理解し、そのうえで同種の思考回路を持っていることを少しの疑いも持っていない。少女は同じ穴の狢だと、楓に言った。愛おしい人を生き返らせたい、と言った。その狂ったような結論への思考の帰結こそ、彼女と楓が似た者同士であることを如実に示す証拠だった。


 もしも、楓が今の少女と同じような立場になったとする。愛する人を、主と慕う人を失ったとする。そうなった場合、楓はどうするのだろうか。泣き叫ぶのか、絡繰りにはないはずの感情を迸らせるのだろうか。それとも生きる意味を失い、自殺するのだろうか。もしくは――――――――死んだ彼を生き返らせようとするのだろうか。


 自嘲するような笑みが浮かんできた。楓にとって、答えなど決まっているのだ。もしも、自分がそのような立場に立たされたとき、何をやろうとするのかなど考えるまでもない。


「そうですね。確かに、私が貴方と同じ立場だったら、同じ行動をしていたでしょう。もしそれが主を裏切るような行為であっても、もう一度主と会えるのであるのならば喜んで、禁術に手を染めるでしょう」


「だよね。うんうん、やっぱり」


 楓の答えに少女が満足そうに笑う。だが、楓の言葉はそれだけではなかった。「ですが」と続き、楓は言う。


「生き返った主は私を怒るでしょう。怒って、もう一度死んでしまうかもしれません。そんな人です。自分はいいのに、他人は駄目というとんでもない理論の持ち主ですから。ですから」


 霊気が迸る。楓の中で燻り、昂ぶっていた霊気の脈動が破裂した水道管のように全身から溢れだしていく。


「そうならないためにも、貴方にはここで改めて祓われてもらいます。土御門つちみかどいばら。いや――――――茨木童子!」


 気迫が、鬼気迫った彼女の霊気が少女の、茨木童子の身体を打った。凄まじい量の霊気をみなぎらせ、楓が呪文を唱える。


「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」


 毘沙門天に捧げられる真言。その呪文が持つ効果は、肉体強化。身体能力の一時的な向上だ。


 続けざまに、楓はもう一度九字を切った。一度だけではない。二重三重と、九字を重ねていく。連切九字と呼ばれる現代陰陽師が生み出した、比較的新しい呪術。九字を何度も上書きし、守護呪文としての効果を倍々していくのだ。


「やっぱり、目障りだね。君は」


 楓の連切九字が完成する直前、茨木童子は過去とは違う幼い声でそう言った。そして、楓の描く術式が完成した直後、凄まじい鬼気が風となって周囲の空間をなぎ倒した。何重にも重ねて唱えた九字が、みしみしと鬼気に耐えかねて悲鳴を上げた。驚愕する暇もなく、楓は後方に跳びすぐさま持っていた略符を投げつけた。命令句を唱え、術式を展開させる。


 発動したのは木気の呪術。蔓草により、対象の動きを絡め取る捕縛用の呪術だった。


 生み出された蔓草は一直線に茨木童子のもとへと向かい、その華奢な体に巻きつこうとする。が、その身体に触れた瞬間、蔓草は突如として燃えだし、瞬く間に灰へと変わってしまう。


「駄目だよ? こんなちんけなものじゃ、私は殺せないし、傷も負わせられない。本気で来ないと、私は今日やってきた理由を完遂させちゃうぞ?」


「させません。全身全霊を以て、貴方を止めます。二十年前や十年前と同じように、止めて見せます」


 無邪気で、それでいて凄みのある声音を放つ茨木童子に楓はたじろぎもせず、睨み返しそう言った。


「止めた? あは、調子の乗らないでね、楓ちゃん。二十年前はともかく、十年前は私をただこの女に封じただけでしょ? しかも、その封印も私は簡単にこじ開けることが出来た。現に私はここにいるしね」


「そのようですね。ですから、貴方を今度こそ祓うのですよ。二度と、その憎たらしい言葉を聞かないで済むように」


「あれ? その言い方だとこの女が・・・・どうなってもいいって言っているような気がするんだけど? まさか知らないわけはないでしょ? 憑依された人間から憑依した魂を切り離す・・・・・・と、どうなるのか」


「ええ。承知の上で、私はやると言っているのです。たとえ憑依された魂が消滅してまうとしても、貴方だけはこの世に存在していてはいけませんから」


 確かな決意を込めて、楓が言い切る。例え依代になっている者の魂が滅んでしまうとしても、茨木童子が存在し続けることと比べたら安い犠牲だ。茨木童子はかつて酒呑童子と並び、最強の鬼と呼ばれた者である。その実力は歴史という厄介なものの折り紙付きだ。かつての武者、渡辺綱と死闘を繰り広げた隻腕の鬼。あらゆる鬼をまとめ上げた、鬼の棟梁。


 それが茨木童子という女だった。


「久しぶりだけど、やるしかないみたいだね。行っておいで、『かげ』」


 茨木童子が自身の足元に伸びる影に語りかけると、その影から徐々に人の形をした黒い『何か』が這い出てきた。影が立ち上がり、顔と思わしき部位を楓に向けた。双眸と呼べるものではない。だが、明らかにそこには敵意と殺意が込められているような気がした。人ではない、それでいて霊的存在とも違う『何か』まるで先の戦いの折に出現した瘴気の化け物のようだった。その存在自体が歪で、異質。理から外れているのでもなければ、その内側にいるのでもない。だが、現実で目の前に立ち塞がっている。ただそれでけの存在。


 そんな『何か』が楓を見ている。そう思っただけで、背筋が凍るようだった。




「さぁ、今日は気分がいいからお祭り前の〝前夜祭〟と行こう。存分に楽しもうね、楓ちゃん?」




 茨木童子は薄ら笑いを浮かべて、再びフードを目深に被った。その表情を悟られたくないように、深く深く、被る。

 


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