第一章 真夏の夜に
陰陽師とは、古くから呪術を操り邪を祓う者のことを指す。平安の世にあった天文、占い、時、暦を編纂する陰陽寮に属する者を表の陰陽師とすれば、差し詰め彼らは『裏の陰陽師』といったところか。
邪を祓い、魔を封じ、悪鬼を退ける。彼らはこの世の理を正すものであり、世の理から外れた存在を元に戻すために彼らは存在していた。歴史の表舞台にはただ一度として立つことはなく、何百年もの間世界の裏側で暗躍し、存在し続けてきた。
故に彼らはこう呼ばれていた――――――――
――――――――裏側、と。
* * *
「はぁはぁはぁ…………!」
胸が苦しくなってきて、段々と走る脚にも力が入らなくなってきた。酸素が不足しているせいで意識がしっかりしない。出来ることなら一度立ち止まって大きく深呼吸でもして、息を整えたかった。だけど、今の状況でそれはできない。あれから逃げきるまでは立ち止まるわけにはいかなかった。立ち止まったら、その瞬間にあれは自分を殺すだろう。
だから、逃げなければならない。走らなければならない。意識が朦朧としていようとも、脚がふらつこうとも、息が切れようとも、自分は立ち止まれないのだ。
深夜の路地。人通りは疎らを通り越して、無人だった。足元を照らすのは頼りない月明かりだけ。ほかには何もない真っ暗な通りだ。そこを男は疾走していた。よぼよぼのスーツ姿に、しわだらけのネクタイという如何にも貧乏臭そうな出で立ちの男だ。
「『ねぇ……まだ逃げるの……?』」
「ひぃいいいっ!?」
走っている男の耳にあれの声が聞こえてきた。女の声だが、それは酷く冷たい。まるで氷を首筋に押し当てられたかのように、体中に悪寒めいたものが走った。
それは目の前にいた。手入れしていないぼさぼさの黒髪は異常に長く、地面をはう蛇のごとく彼女の後ろに垂れている。前髪で顔は隠れて表情はおろか、顔の輪郭すらよく分からない。一糸纏わぬその身体は所々肌が変色しているように、黒ずんでいた。
また女が声を発した。「『ねぇ……まだ逃げるの……?』」
「お、おれがわ、悪かった! ゆ、許してくれ! お、お願い、お願いだよ!」
恐怖からか脚よりも先に口が動いた。男の口から紡がれたのは助けを乞う言葉。「『許す……? 何を?』」あどけない少女のようにそれは首を傾げた。「『そんなことより早く遊びの続きをしようよ』」それはそう言うと小さく前へと足を踏み出した。それと同時に男が一歩後ずさる。もう恐怖で口すらも開けなかった。
「『ほら、早く逃げないと私の勝ちになっちゃうよ?』」
女はそう言う間にも着実に一歩一歩男に近づいていた。対して男は金縛りにでもあったかのように、動けなかった。恐怖で足がすくんでいた。「『ほら早く』」自分を指さし、それは楽しそうに不気味な声であはははっと笑った。そして、自分を指していた指を徐にこちらに向けて、
「『私があなたに触れたら、貴方の負けだから』」
無邪気で、不気味で、恐ろしく冷たい声である。男の奥歯ががたがたと音を立て始める。もう息が上がっていることなどとうに忘れていた。また逃げなければならない。そのことで男の思考は埋め尽くされていた。
見えないはずの彼女の口元が、にぃっ、と歪んだ笑いを浮かべていた。
* * *
「幽霊通り魔事件……?」
机に突っ伏していた淡海夜鷹は不意に聞こえてきたその言葉に重たい顔をのろのろと上げた。「なんだ、それ」
「ここ最近、この辺りで起こっている事件のことだよ!」
寝ぼけ眼をこする夜鷹の問いに答えを返したのは、彼の隣の席に座ってい
た鐘ヶ江春奈だった。春奈は随時気怠そうな夜鷹とは対照的にいつも元気に溢れ、活発な性格をしている女子生徒だ。いつも楽しげな笑みを浮かべているのが特徴的で、同性異性関わらず人気があるクラスの人気者である。
「眠い」
「寝るな!」
眠気に勝てず再び夢の世界へと旅立とうとしていた夜鷹の頭に、春奈の鋭いチョップが炸裂する。「い、いてぇ……!」夜鷹は思わず涙目になる。強烈な一撃だった。
「ふふん。お爺ちゃん直伝の眠気覚ましなんだよ~。効くでしょ?」
得意満面といった面持ちで春奈は言った。被害を受けた側としては大いに反論をしたいところだが、逆鱗に触れてまたあのチョップを貰っては元も子もない。夜鷹は痛々しそうに頭部をさすりながら、「で、話は?」と切り出した。
「話?」
「通り魔事件」
「ああ、それそれ!」
どうやら閑話のほうに気を取られ過ぎて、本題を忘れてしまっていたらしい。気を取り直して、夜鷹は春奈に訊いた。
彼女の話をざっくばらんにまとめるとこういうことだった。
まず、一か月前ほどにこの町で奇妙な男性の遺体が発見されたのが始まりだったそうだ。男性はいたって普通のサラリーマンで、その日は遅くまで飲み会だったらしく酔いつぶれた状態で帰路についていたという。彼の遺体が発見されたのは、人通りの少ない住宅街の裏路地で心臓発作のような症状で亡くなっていたらしい。
だが、これがまた奇妙であったさ男は死亡推定時刻のちょうど数分前、家にいる妻へ電話をかけていたのだ。内容はただひたすらに「助けてくれ」と叫び散らしていただけだったとのこと。心臓発作を起こして死亡したはずの人間が、死ぬ数分前に誰かに追いかけられていたというのは何かきな臭いものがある。警察もそう感じたらしく、この一件を単なる心臓発作による病死と判断するわけではなく、事件の線もあるとして捜査を始めている――――――春奈が意気揚々として語ったのはここまでだった。なぜ彼女がこの事件に興味を持っているのかは不明だが、いくらなんでも詳しすぎるのではないか。
そんな疑問をよそに、春奈はここからが本題と話を続けていた。
「私はね。この事件の犯人は人じゃないと思うんだよ」
唐突な春奈の物言いに夜鷹は思わず、訝しむような表情で彼女を睨んでいた。犯人が人じゃないとなると、一体なんだというのだ。
「じゃあ、幽霊がその人を呪い殺したとでも言う気か?」
「あたり!」
ビシッ、という音がどこからか聞こえてきそうなほど華麗な指の指し方だった。
どうやら彼女は人ならざるもの、即ち幽霊がその事件の黒幕なのではないかと思っているらしい。だから、こうやって夜鷹に話しかけてきたのだろう。
夜鷹は内心、嫌な予感を敏感に察していた。彼女がどうして自分にこの話題を振ってきたのか、薄々ながら感づいてしまったからだ。
「じゃあ、その事件はもう警察の手には負えないな。どうせ今頃、どこかの
『陰陽師』にでも掛け合ってるよ」
投げやり気味にそう言った。
陰陽師。それは古来から存在するこの世の理を守護すると言われている、呪術者集団の事だ。数百年前まではその存在を知るものはごくわずかであった「陰陽師」だったが、百年ほど前からその存在が着々と明るみに出初めて以来、その認知度は日に日に高まっており、今や国家がその存在を公に認めている。
陰陽師は主に「霊的存在」と呼ばれるものに対して、呪術を行使しそれを祓うことを仕事としており、今回春奈が興味津々である事件も彼女の言う通り幽霊の仕業であったならば、それは警察の管轄ではなく陰陽師の管轄ということになる。この場合だと、陰陽師は警察から正式な依頼を受けてから、その対象の調査を行いそのうえで対象を修祓する、というのが陰陽師が「霊的存在」を祓うまでの一連の流れとなるのだ。
「で、でもそれを言うなら君だって『陰陽師』でしょ?」
「見習い、な。修行中だって言ってんだろ」
頬杖をつき、さんさんと輝く太陽が照らす町並みに視線を移す。それを見て、隣の春奈が小さくため息をついた。
夜鷹は春奈のいう通り陰陽師である。正確には、陰陽師になるための修行中の身だ。淡海一族は古くから陰陽師の家系であり、今もなお一流の陰陽師を排出する名門である。祖はあの阿部清明の血筋である土御門から派生したと言われており、現当主であり夜鷹の実の祖父である淡海吉将は現代陰陽師の中でも最強の一角と称されるほどの腕前を有しているなど、現代の陰陽師界の中では有名な家柄なのであった。夜鷹はそんな家の次男坊だった。
幼き頃から呪術を叩き込まれてきた。だが、不運にも自分には才能がなかった。兄にあった才能は自分にはなく、何をやってもうまくいかない。そうしているうちに夜鷹は落ちこぼれという烙印を押され、一族の面汚しと蔑まれ、疎まれ、肩身の狭い思いをして育ってきた。
そんな経験からか、夜鷹はあまり「陰陽師」というものにいい印象は持ていなかった。むしろ悪いイメージしか頭にない。それでも「陰陽師」になろうと思ったのは、やはり自分には何が出来るのかというのを思い直してみた時に、真っ先に浮かんできたのは「呪術」を扱う術を知っているという点だった。幼少時代は周りは皆、「呪術」をつかえた。それが当たり前だったのだ。だが、学校に通うになってから「呪術」を使うのはこの世界でほんの一握りの人間だけだということを知った。それは夜鷹にとって、少なからず自身のアイデンティティを得た瞬間でもあったのだ。
陰陽師になるにはまず「呪術」を学ばなければならない。そう思い至ってから、はや一年近くが経つ。自分の実家には頼らず、自身で師事できる人間を見つけ出し、その人間のもとへ半ば強引に弟子入りした。今の夜鷹は一人前の陰陽師には程遠い実力しか持ち合わせていないが、そのうち一族の誰しもがあっと驚く「陰陽師」になってやる。そう心に決めていた。
だけど。
「見習ないでも、お祓いぐらいはできるしょ」
「半人前が勝手に出を出していい領域じゃねえよ。下手したら死ぬ」
そうなのだ。「霊的存在」の修祓にはある程度のリスクが伴うのである。下手に半人前の「陰陽師」が行えば、命を落とし生き残れたとしても重度の霊障を患ってしまう。それが陰陽師の世界では常識だった。それが一般人ともなればなおさらその危険度は増す。故にこの事件になぜかしら首を突っ込みたがっているこの少女を、このまま放っておくわけにはいかないのだ。
「先に言っとくが、その幽霊とかを探しに行くとか、会いに行こうなんてこと考えるんじゃねえぞ?」そう言って一応釘を刺しておくが、恐らく効果は薄いだろう。
夜鷹のその言葉を聞くと春奈は途端、にこにことした笑みを浮かべた。それは夜鷹の経験上、彼女がろくなことを考えていないときの顔だった。