ちょびひげ
オレの右頬のあたりには、縦長の目が張り付いていて、それに誰も気がついていなくて、オレも実はそんなものなんてないんじゃないかと思うのだけれど、でも触るとある、鏡に映してもない。代わりに鏡に映るのは、大きな眼球で、オレの姿は全然映らないから鏡の意味をなしていないじゃないか、高校でいつも馬鹿にされるから、身だしなみを細心の注意で整えないとまた上履きにノリを仕込まれるから嫌なのだけれど、さっきも言ったように鏡にはオレの姿は映らないから、整えよう、がないんだ、馬鹿にしやがって。
オレは駅のトイレから出ると、ぶよぶよした寒天みたいな影法師が入れ違いに入ってきてぶつかって、ぐしゃりと飛び散って、辺りが真っ赤になったので、オレはそれを踏みつけながら、満員電車を待つ長蛇の列の最後尾に着けたのだけれど、太ったこんにゃくみたいな、買い物袋を下げた主婦があそこに殺人鬼がいますと指差してきたので、オレはいるのかいないのか分からない人々をかき分けて鉄道に乗るのだけれど、それは汽車だったから窓から煙が入ってきて咳き込む、頼むから窓を閉めてくれと叫ぶのだけれど、煙には無数の瞳がついていて、それで鉄道の隙間を探して入ってくるから、目張りでもしない限り煙は消えないので、鞄からセロハンテープを取り出して、人々を押しのけて貼付けようと思うのだけれど、スーツを着たザリガニの顔にそれは張り付いてしまう。ザリガニは、何しやがると叫び、手に持った鞄でオレを殴りつけて、鼻から大量に血が飛び散ったので、オレはそれを片付けようと地面にかがみ込むと、そこに女子高生の足があって触ってしまい、オレの生殖器は勃起して、その先端からどろどろと粘液が滴り落ちた。
「気色悪い」何度言われたか分からないそのセリフが人々の口々からほとぼり走ったから、オレはズボンをおろして勃起したそれを誇示しようとしたのだけれど、情けないほどよれよれに縮んでいたので人々はますますオレに嫌悪感を感じ始めて、オレはそれを感じて、なんだか気持ちよくなってしまった。
オレは、右頬の目玉をかっと見開いたから、少しだけ世界の輪郭がはっきりした。
惨めな高校生。
「えー、次は百歩蛇、百歩蛇でございます、お降りの際は、お忘れ物がないよう、今一度お手周りを確認されますよう、お願い申し上げます」
まるで潮が満ちてくるように世界がオレの中に満ちる。右頬のまぶたの中に手を突っ込んで、眼球をえぐり出し、電車の中に捨てると、どこからともなくアリが集まってきて、美味しそうに食べ始めたのが気持ち悪くて、オレは電車を降りると、ホームには百歩蛇であふれかえっていて、人々はそれに絡み付かれたり、毒液を注入されて苦しんでいるので、救急車を呼ぼうかとも思うのだけれど、その後起こる諸々の手続きがめんどくさそうなので、オレはため息をついて学校へと続く坂を上り始める。
道の途中で、ちょびひげを生やした一人の男が演説をしていた。「弱者よ、今こそ立ち上がるときだ!」
同級生たちは皆、キラキラと輝いて、談笑しながら登っていくのにオレだけは一人で、当たり前だ、オレはどうやって自分のチンポを慰めるかしか頭にないチンケな男で、勉学やスポーツに励むさわやかな青少年から見たら、ただの牛乳に一年間つけ込んだ臭い雑巾にしか見えないのだろう。
女子たちが、後ろ指指して、ヒソヒソと話している。
何を話しているのだゴラァと叫ぶのだけれど、誰もそんなことは聞いていなくて、オレが歩いた軌線は、汚物まみれのカタツムリのそれのようにはっきりと残っているから、皆それを避けて歩いているので、煙たがられるのは当然だろうと思った。
突然、オレの胃から何かがこみ上げてきて、それは食道を灼き尽くして、口から炎となって溢れ出し、オレ自身の身体を発火させるのだけれど、体感温度はますます下がっていって、凍りつきそうだ。
あなた大丈夫と、顔中が無数の気泡で膨らんだブスが声をかけてきて、それの連れのさらにブスが止めなよそんなヤツに話しかけると病気がうつるよ、それもそうねと言って軽蔑のまなざしをいつまでも残してオレの視野からいなくなったから、オレはポケットからナイフを取り出して空中を振り回した。殺してやる、何もかも殺してやる。ナイフは鞭のように長く伸びしなり、同級生たちを打ち据えているはずなのに、誰も痛みすら感じずに坂を上っていくから、オレは悔しくなった。いつの間にか、右頬の眼球が再生していたので、そのナイフを差し込んでえぐり出そうとしたが、沼にはまり込んだようにナイフは動かなくなり、そのまま頬に出っ張りとして残ってしまった。
オレの上履きには、いつものようにノリでも入れられているのかと思ったら、何か手紙がおいてあった。「あなたのことが好きです」それはラブレターだったから、オレの生殖器は再びその存在を主張し始めたけれど、だめだ、頬に目玉のついているヤツに恋愛する資格なんかないと自分の心を必死で抑える。
上履きを履いてみると激痛が走ったので、何かと思うと、内側に画鋲が、ご丁寧に貼付けてあって、足からだらだらと血が流れ出し、オレはついに涙を流したのだけれど、同時に鼻水もたれてしまったから、誰も同情なんかせずにオレの側を避けて通り過ぎていった。
教室に入っても誰もオレの存在を気にも留めず談笑していたが、オレの方は、クラスの輪の中心にいるイケメンについ目が行ってしまう、オレ以外の誰とでも打ち解けて、勉強も運動もでき女子には凄い人気のあいつに、殺意を覚え、キスしてやろうと歩いていくのだけれど、誰かがオレの足を引っかけたからつんのめって顔面が床と激突してしまい、オレはしばらくの間横たわっていたから、クラスメイトはその上を何の気無しに踏みにじって歩く。踏まれるたびにオレの身体に快感が走るのはどうしてだろう、それはあなたがマゾだからよと、机が喋るのをオレは必死で否定したが、ことによると本当にマゾなのかも知れない。
オレは、起き上がって、ポケットの中のラブレターをまさぐると、それは熱を帯びて粘液にぐしょぐしょになっていたので、オレはトイレに向かった。オレはあのイケメンにはないものを得ることができたのだと、鍵をしっかり閉め、便器の上に座ってからラブレターを開くと、昼休みに校舎の裏側で会いたいと書いてあった、クラス一の美少女の名前が書いてあったからオレは舞い上がってしまい、午前中をずっとトイレの中で過ごしたのだけれど、誰も探しにくるものはいなかった。
昼休み、オレは忍者のように壁に張り付き、抜き足差し足で校舎の裏側まで向かったから見とがめるものはいなかったと思うのだけれど、そこにいたのは今風のファッションに御をくるんだ不良たちで、なぜこいつらは俺がここに来るのを待ち構えていたかのようにここにいるのだろうと、思案していると、奴らは頬を往復ビンタしたから、その拍子に刺さったナイフがぬけて激痛が走るのを禁じ得なかった。
馬鹿じゃないのこいつ、あのラブレター本気にしてやんの、あの子がお前みたいなウジ虫を好きになるわけないじゃん。オレはサンドバッグになった。
帰り道、まだ、ちょびひげの男は街頭で演説をしていた。誰も聞くものはいない。
朝と同じ、今こそ立ち上がるときだ、と言っている。
オレは、そいつに近づいていき、当て身を食らわせた。そいつは後頭部を打ち付けて死んだ。
オレは右手に持ったナイフで、ちょびひげを切り取ると、自分の鼻の下にはりつけ、彼の振りをして演説を始めた。
「殺せ、殺せ、殺せ……! 弱者は徹底的に排除されねばならない! 今こそ、真の強者の時代、真の貴族の時代が構築されるのだ!」
人々は、オレの周りに集まってきた。