#05
「兄貴、彼女できたの?」
夕食の席で篤士が言った。
俺は味噌汁を吹き出しかけた。また気管に入り激しくむせる。
「あっ、篤士、おまえなに言って、」
「うそ! そうなの、盾?」
さっそく母親が嬉々として食いつく。やめろ。この手を話を母親とだけは断じてしたくない。
「……黙秘する」
「って、そんなわけないわよねー。この子に彼女なんて、宝くじを当てるより無理ね。やぁ~っとひきこもってゲームするのをやめてくれたけど、まだ彼女なんて、ハッ」
ちゃんちゃらおかしい、みたいな顔で母親が俺を嘲笑する。
あなた、実の親ですよね?
「でも詩歩見たんでしょ? すごい綺麗な人だったって」
「ちが、あれは、」
「そうなの詩歩?」
詩歩は良い姿勢で茶碗を持ちながら、
「ええ。今日のお昼頃、兄さんが連れ込むのを見たわ。二人。ひとりは黒髪のロングヘアーの美人で、もうひとりは金髪の子。モデルみたいだった」
「連れ込むっておま、」
「金髪って、まあ、不良?」
「外人? ハーフとかなんじゃないの?」
「うわっ、インターナショナールゥ♪」
きゃっきゃわいわい。
口を挟む間もない。三人は俺を差し置いて勝手に盛り上がっている。父親が帰ってきていれば、これが四人に増えるだけだ。
まったくもってステキな家族だ。くそっ。
「いやぁ、兄貴にも彼女できたらぜひ会いたいなー。オレなんかこの前リコちゃんと別れちゃったしさー」
「……なに?」
「ん? だからリコちゃんと喧嘩別れしちゃってさぁ。いやー短かったなぁ。まだ三ヶ月だよ?」
「あら、そうなの? いい子だったのに」
母親と弟ののほほんとした会話は、俺にはまったく穏健ではない。
愕然と俺は弟の顔を眺める。
「つうか、え、なに。おまえ彼女いたの……?」
「べつにいたっておかしくないっしょ? オレだってもう中二だよ」
世界は狂ってる。
無性に、無性に腹が立ってきた。
「滅びろ……」
俺は震える手で箸を握りしめた。
学校はいつもと変わらなかった。
教室は騒がしい。高校といっても、中学とたいした差はない。
相変わらず、俺の席は孤島のままだった。一番前は好きではない。早く席替えしたかった。いや、しかしそうすると、伊予森さんと離れてしまうかもしれない。それは嫌だ。
「遠野くん」
伊予森さんの声に振り返る。
伊予森さんもまた、いつもと同じく、親しげな微笑を浮かべている。
「昨日は、ありがとね」
「あ、ああ、うん……」
――付き合ってるって、誤解されちゃうかもね。
周りに会話が聞かれないか、一丁前に気になってしまった。
誤解する人間は、まずいないだろうが。
「クリスちゃん、すごい喜んでたよ。あと、かっこいいって褒めてた」
「そ、そう……」
素直に喜んでいいのか微妙だった。「パソコンの大先生」と同じ匂いがする褒められ方のような気がする。
いや。
ここは文面通りに受け取ろう。
どのみち自分が人のためになにかできるとしたら、本当にそれくらいなのだから。
「わたしも、その、思ったよ」
俺の脳は、またしても思考を停止した。
なにか口にしかけたときには、遅かった。
伊予森さんはすでに背を向け、自分の席へと戻っていく。すぐに周りにクラスメイトたちが集まってくる。
それを呆けたように眺めながら、俺は立ち尽くす。
もしも。
万が一にも、これが彼女と仲良くなれるきっかけになってくれたのだとしたら。ドブに捨てた中学生活も、悪くなかったのかもしれない。
その日、俺は初めてこれからの高校生活に希望を持てるような、そんな気がしていた。
*
学校からの帰り道。
住宅地ど真ん中のこの通りでは、小学生の姿もよく見かけた。どうやら近くに小学校があるようだった。
自転車をこいでいたとき、通りの先を歩く人影に、視線が吸い寄せられた。
キャップの下の鮮やかなブロンドヘアー。
無意識のうちにスピードを落としていた。
やがて向こうもこちらに気づき、立ち止まる。
やはり、あの真下クリスだった。
この前とはちがいスカート姿だ。すらりとした立ち姿は、やはり中学生とは思えないスタイルだ。そして彼女は、なぜか赤いランドセルを肩にかけていた。
「あ、やあ。こんちは」
とりあえず声をかけてみたものの、クリスの反応は芳しくなかった。
というより、なぜか目を丸く見開き、口をあわあわさせている。
「……い」
「え?」
「ご、ごめんなさい。……その、お礼を、なにも。なにか、しないとって、思っ……」
最後は消え入る。
「あ、気にしないで。俺は、たいしたことしてないし、べつに」
「そんなことない!!」
大音声が、静閑な住宅街に響き渡った。
クリスははっとを口をおさえる。
見る見るうちに、顔が赤くなっていく。
「ほんとに、あの、あたし、感動して……。あんな風に、助けてもらえて、友達とも、また一緒に遊べて、すごく」
クリスはたどたどしく語る。
俺はただ、あっけにとられていた。俺から目をそらし、頬を染めるクリスに、なぜかこちらまで恥ずかしくなってくる。
気まずい沈黙が横たわる。
なんだ? こういうとき、なにを言えばいい?
とにかくなにか話題を――
ふと、彼女が左肩にかけたランドセルに目がいった。
「えっと、それは、妹さんのとか?」
「?」
手で指す俺に、クリスはきょとんとしている。
「あ、だから、なんでランドセルなんか持ってるのかなって。妹さんとか、だれかのか……」
「妹なんか、いませんけど」
「そ、そうなんだ。じゃあ、だれの?」
なんだこのへたくそな会話は。俺だってそのランドセルが誰のものかなんてどうでもいい。ただ話題が他に思いつかないだけだ。
「だれの……って、わたしのです」
クリスが困惑しながら答えた。
「あ、なるほど」
なにを当たり前のことを。そうに決まってる。ランドセルを背負っていれば、それは当然の、
彼女の顔を見た。
そのとき、俺はどんな間抜けな顔をしていたのか。
意味がわからない。
わたしの?
混乱した頭がひとつの答えを導き出す。
「……きみって、何年生?」
「小6、ですけど」
まばたきする。
彼女の歩いてきた方向に、大きな小学校の校舎が見えた。
つまりは、そういうことだ。
金髪碧眼でスタイル抜群の少女が、もじもじと身体を揺らしている。
「あ、あのぅ。シルトさんって……」
「俺は遠野なんだけど……」
俺の使い捨てアバターの名前を口にしながら、クリスはどこかぼうっとした表情で、こちらを見ている。
俺はすっかり動揺し、混乱していた。次はなんだ。実は男なんです、とかか。やだ。こわい。もうやめてくれ。
「付き合っている人とか……いますか……?」
「い、いない、けど」
クリスがぱっと顔を明るくする。
その表情は実に子供らしく、純粋なものだった。たぶん彼女本来の元気の良さを取り戻したクリスは、瞳をきらきらと輝かせながら、言った。
「じゃああたしと、つ、付き合ってくれませんか!」
その日、そのとき。
生まれてはじめての告白というものを、俺はされたのだった。
――小学生から。
伊予森楓。
真下クリス。
そして、俺、遠野盾。
このときの俺は、まだなにも知らなかった。
彼女が俺に頼んできた、本当の理由も。
彼女が抱える、もっとずっと大きな事情も。
自分がまた、あの鉄と熱砂の戦場に舞い戻るということを。




